閉鎖する前に考えてほしいこと

平成15年4月24日

朝、ちょっとバタバタしそうなので早めに更新してしまいます。

あんまりにもひどい意見なので、いちいち反論させていただく。

リンクする自由、アンリンクする自由と同じように開局する自由、閉鎖する自由は無いのでしょうか。ネットって、いつからこんなに自由が無くなったのでしょう。

閉鎖するのは管理人の自由だ。けれども、他人がサイトの閉鎖を悲しむのも、閉鎖してくれるなというのも自由である。もなQさんは、管理人は閲覧者の悲しみも批判も無視できるという事実を、卑怯にも無視している。閉鎖に対する批判を自由の喪失に結びつけ、禁止しようとするのは暴論だ。

もなみの家は、かなり貧乏です。もな兄が朝早くから、夜遅くまで働いて、借金を返しながらなんとか運営費を捻出しています。もな兄は、大丈夫大丈夫なんて笑顔で言っていますケド、いつ倒れるかわかりません。もし、もな兄が倒れたりしたら、お金が払えなくて、閉鎖しなければならないかもしれません。それでも、公開した文章は全て、なんらかの方法で残さなければならないのでしょうか。新たに借金をしてでも続けなければならないのでしょうか。

それでも消すなというのは私の自由。消すなといわれても消すのはあなたの自由。ただ、ここに消さないでほしいと思っている人がいることを知ってほしい。

ところで、私が消えたサイト、価値あるサイトを積極的に転載しているのは、サーバの維持費用くらいなら喜んで出すということでもある。単に資金の問題でサイトを閉鎖するならば、私を頼ってほしい。私にとって価値あるサイトなら、可能な限りいくらでも受け入れる。そこまでお世話になれないと思う方も多いだろうが、私にとってはサイトが消えてしまうことの方がずっとずっとつらいことであって、悲しいことであって、私を頼らずに消えてしまったサイトの管理人を私は恨む。たかが資金難が、その理由だったというならば。

情報って、古くなると価値を失うことがあります。今は正しくても、数ヵ月後には間違っていることになるかも知れません。何らかの理由で更新できなくなって、間違っていることがわかっている情報を修正できなくて、それを読んで間違った情報を得てしまった人に対する責任は存在しないのでしょうか。訂正する自由を失う前に、削除しちゃいけないんでしょうか。

いちいち訂正しないでいいように、記事には日付けを入れておけばいい。ただそれだけのことだ。記事を訂正できなくなることは、サイトを閉鎖しなければならない理由とはならない。

そもそもネットって、欲しい情報を得るという価値しか存在しないのでしょうか。それって、凄く寂しいことだと思いませんか?

そうかもしれませんね。けれども、私はこう反論させていただく。コミュニケーションだけがサイトの存在価値ですか、と。情報にも価値がある。コミュニケーションが死んだとしても、価値のある情報を巻き添えにして殺す必要がどこにあるのだろう?

ネットは悲しいくらいにコミュニケーションだもん。運営者が居て、閲覧者が居て、そこにコミュニケーションが存在し、それがそのサイトの価値を生むと考えているんだもん。

サイト閉鎖への批判は多くの場合、管理人がよく考えもせずに記事の価値を少なく見積もり、手前勝手にサイトを閉鎖することへの批判である。もなQさんがコミュニケーションだけがサイトの存在価値だと思うのはいい。だが、他の誰にとってもそうだ、などと考えてくれるなといいたいわけだ。あなたがどう思おうと、私はコミュニケーションが死んだ後であってもあなたのサイトの記事を読みにいく。

繰り返すが、管理人がサイトを閉鎖するのは自由だ。自由だが、私がそのことを恨みに思うのも自由であり、管理人を批判するのも自由だ。管理人にとって無価値となったコンテンツも、願わくば、私のために残しておいてほしい。わざわざ消してしまわずに、そのまま放っておいてほしい。とくに消さねばならない理由もないのなら、ぜひ。

ネットからコミュニケーションという要素を全て排除し、ただ単に情報の集まりに過ぎないというのは、インターネットが学術的な目的で使用されていた時代に回帰する思想です。それはそれで正しいのかも知れませんケド、本当にそれだけ、それだけの価値しか存在しないのでしょうか。

もし、あなたに好きなサイトがあるなら、そのサイトに、本当に情報としての価値しかないかどうか、考えてみてください。情報としての価値だけのために、そのサイトが好きなのか、考えてみてください。そこにコミュニケーションは存在しないのか、考えてみてください。

それがもなQからのお願いです。

もなQさんの説は、ムチャクチャである。コミュニケーションが喪失したからといって閉鎖する必要はまったくない。つまり、あなたのサイトからコミュニケーションを除外したら、後には何も残らないのか、と。本当に何も残らないケースもあるかもしれない。しかし、ほとんどの場合、コミュニケーションが死んでも情報価値が残る。価値が残っているのに、コミュニケーションが死んだことだけを理由に閉鎖されてはたまらない。

というわけで、もなQさんの意見はひどい。こういう身勝手な管理人が多いから、私はしょっちゅう悲しい思いをさせられるのである。

非常に勘違いする人が多いので、これだけ補足しておく。単なる身辺雑記であっても、それを楽しく読んでいたものにとってはたいへんな価値がある。学術的な意義がある論文、実際に何かの役に立つ知識、そういったものだけが情報としての価値を持っているわけではない。他愛もない掲示板のやり取りにも情報としての価値がある。つまり、コミュニケーションを当面の目的としていた文章にも、結果として情報価値が生じてくる。簡単に、この記事には価値がないなどと決め付けないでほしい。

管理人はしばしば、あれもこれも無価値なものと思い込みたがる。そして文書を消す。何の悪気もなく消す。そして私は悲しむ。ときに、そんな管理人を恨む。しかしどうともしようのない私は、歯軋りして悔しがる。

平成15年4月24日

最初は「サイトの雰囲気を壊さない」という制約だけを持って、リアルでは言えないような些細なことも書ける、そんなスペースが欲しいと思って始めたことでした。でもいつの間にか、自分で作ってしまったイメージや制約で、全然正直な気持ちが書けない窮屈な場所に成り下がってしまいました。

というわけで、コンテンツを減らすのだという。ここで私が面白いと思うのは、どうやら「古いコンテンツを消せば自由が増大する」らしい、ということ。これは一体どういうロジックなのでしょうか?

一貫性を重んじるのはよいとしても、もう少し融通が利かないものかと思います。過去の発言は過去の発言として、そのまま放っておけばいいのではないか。「昔はこんなことをいっていたのに、最近はこういっているね。矛盾じゃないのか」と問われたら、「考えが変わったということです」と答えたらいい。「紛らわしいから古い記事を消せ」という物言いには、「昔からいまと同じような考えでした、と装う方がよほど紛らわしいし、不誠実なことでしょう」と切り返せばよいのではないか。

自分の中では過去は消えないわけだから、本質的には過去ログを消したところで内面の問題は解決しません。外形を整えて何か自由になった気がするのは、錯覚に過ぎないわけです。もちろん、錯覚には価値があります。それで心が軽くなるなら、たいへん結構なことです。とはいうものの、「なぜ過去ログを消すと気が楽になるのだろう」という問題について、一度は考えてみてほしいのです。その答え次第では、過去ログを消さずとも問題を解決できるかもしれないからです。逆に問題を解決する方法を見失って、致し方なく閉鎖するという方向へ進んでしまうと(私にとって)まずいのですが……。

平成15年4月24日

今朝とりあげた閉鎖するということについて2は、閉鎖するということに対する否定的意見として提出されたものです。私はこの否定的意見をもう一度ひっくり返すことを試みたわけです。以下、もう少し詳しく解説しましょう。

ともとも#Fake wizardさんの意見は、要旨、次の通りです。

  1. サイトを閉鎖する主な理由は、「更新不能」「精神的疲労」「攻撃された」のいずれかである。
  2. しかしこれらは、サイトを閉鎖しなければならない理由ではない。(サイト閉鎖以外の対処法がある)
  3. 閲覧者にとっては情報の価値が重要だ。管理人はサイトの閉鎖を避け、情報を保存すべきだ。

ともとも#Fake wizardさんの意見に対し、もなQさんは概要、以下のロジックで否定的意見を述べました。

  1. 管理人にはサイトを閉鎖する自由がある。WWWに公開された情報は共有資源という発想で管理人の自由を制限すべきではない。
  2. 古い情報を放置するのは危険なので、更新不能となる前に削除した方がよい。
  3. コミュニケーションこそがサイトの存在意義だ。「コミュニケーション不能」はサイト閉鎖の理由として十分である。

もなQさんの意見に対し、私は次のような反論を行いました。

  1. 現状、管理人は自由だ。もなQさんの第一の論点は、その前提が事実に反しているので不当。
  2. 日付の記入により古い情報の危険を解消できる。更新不能は情報削除の決定的理由とならない。
  3. コミュニケーションが消えても情報の価値が残る。よってサイトを閉鎖すべきでない。

私が批判しているのは、「更新不能」「精神的疲労」「攻撃された」「コミュニケーション不能」だから「閉鎖します」という物言いです。列挙された事由は、いずれもサイトの閉鎖を必然的に導くものではありません。私は、そうした理由にならない理由でサイトを閉鎖する管理人を恨むのです。なぜ、自分が丹精こめて積み上げてきた情報の価値を過小評価するのか、と。

しかし私は、ともとも#Fake wizardさんの意見に全面的に賛同するわけではありません。なぜなら、サイトが閉鎖される主な理由は「更新不能」「精神的疲労」「攻撃された」のいずれか、ではないからです。ともとも#Fake wizardさんの意見には、重大な見落とし(あるいは意図的に省略されたのかもしれませんけれども)があります。

「過去(の一部)を消したい」少なくとも、公開の場からは取り下げたい……この欲求から完全に逃れられる人は滅多にいないでしょう。ログを公開したくないと思うようになった管理人は厄介です。たとえ閲覧者が何といって悲しみ、喚こうとも、そもそも人に見せたくなくなったのですから、閲覧者の声も虚しく響くわけです。

もちろん、「なんとなく公開したくなくなった」という漠然とした公開意欲の喪失の場合は、閲覧者の願いも通じる可能性があります。いろいろな場合がありますから、必ずしも閲覧者の働きかけが無意味とは言い切れません。しかしやはり、以下のようなケースでは基本的に諦めた方がよいでしょう。

平成15年4月24日

「管理するのは面倒だが、データーは公開しておきたい」という場合に近いのが、当サイトで公開している宇治IN茶筒のミラーサイトです。海外へ長期間出張するので、サイトの管理ができなくなる。だから著作権を放棄しますよ、ということだったので、私がミラーサイトを立ち上げているわけです。毎日50~100人くらいの方がいらしています。ただいま実験中からリンクされているので、コンスタントに需要があるんですよ。

平成15年4月24日

考え方、感じ方は人それぞれだろうに。「自分にとっては閉鎖するに足る理由」と管理人が感じたならそれで別にいいじゃないか。自分と違う価値観を持った人が許せないらしいなコイツは。

ここしばらく、当サイトほどしつこく「世の中にはいろんな価値観がある」と説明してきた例もそう多くはないだろうと思うのだけれども、なおもしつこく読み誤る人がいるというこの現実。まあ最近の読者なのかもしれませんが。いずれにせよ、私はまだ飽きていないので、今回も反論します。

まず、考え方、感じ方は人それぞれなのは当然です。だからこそ、人は自分の意見を表明し、他人の考えを批判し、説得しようとするのではありませんか。意見表明も批判も説得も全部なしの世界を望むならともかく、あなた自身が私を批判(のつもりなんですよね?)しているわけですから、おかしな話です。批判や説得そのものをくさすのは筋が通りません。

次に、他人を説得しようとするからには当然、自分の考えの方が理に適っているという思いがあるわけで、言葉が適切かどうかはともかく許せないというのもあながち外れではないでしょう。しかしおかしいと思うのは、そういって私を批難する方が、まあ言葉を借りるなら私を許せないと思い、その感情をあらわにしているわけですから妙な話です。

平成15年4月24日

私は文章中にたくさんの留保をつけ、批判の対象を絞り込んでいます。それらをいちいち読み落として非難されてはたまりません。

管理人はしばしば、あれもこれも無価値なものと思い込みたがる。そして文書を消す。何の悪気もなく消す。そして私は悲しむ。ときに、そんな管理人を恨む。しかしどうともしようのない私は、歯軋りして悔しがる。

私の批判の対象は、もともとこの一点に絞られているわけです。はっきりと、公開を取りやめたい理由があってサイトを閉鎖するならわかります。けれども、世の中にはわけのわからん閉鎖が(割合としてはともかく数としては)たくさんたくさんあります。更新できないので閉鎖、掲示板を荒らされた(しかもその理由がサイトの内容と関係ない)ので閉鎖、リニューアルするので閉鎖、飽きたので閉鎖、疲れたので閉鎖……。

とにかく過去ログの公開を取りやめたいという筋の通った理由があるならいいのですが、「更新されないコンテンツを残しておいても意味がないので閉鎖します」などといって、むしろいいことをしたような顔をしている管理人が後を絶ちません。そういった、誤った思い込みにとらわれた方がなんと多いことでしょうか。そんな思い込みで「閲覧者のために」などといって閉鎖されてはたまりません。

基本的に、私のいいたいことの骨子は最初に紹介したサイトの死に述べられています。無知と勘違いによる閉鎖は勘弁してほしいということなのです。だから私は最初から、閉鎖するのは管理人の自由だと繰り返しています。故あって閉鎖するのは致し方ないことです。ただ、閉鎖に泣く閲覧者を踏み越えていけ、と注意を喚起しているのです。閉鎖して、自分はいいことをしたんだなどと開き直られてはたまりません。

安易な閉鎖は、どうかやめていただきたいのです。もちろん、ふと何の気なしに閉鎖するのも管理人の自由でしょう。しかしそれならば、安易な閉鎖を恨む閲覧者の自由も認めなければならないと申し上げているのです。

平成15年4月24日

もう一度書きましょう。批判を無視する自由がある限り、安易な(意味のない)閉鎖を批判することは、管理人がサイトを閉鎖する自由をいささかも侵害しません。

平成15年4月24日

ひとつの予想として。

閲覧者が100人以上いて、データ量が10MB以下のサイトという条件を設定する。この場合、もし管理人が「当サイトは以上を持って更新を終了します。今月末でサーバ業者との契約が切れますので、以降は有志の方がミラーサイトを構築していただければと思います」と表明すれば、まず間違いなく期待に応えてくれる人が現れるのではないか。

それなりに人気のあるサイトが消えてしまうときに、それをとても悲しく思う人は必ずいる。その人がそのまま何もしないのは、多くの場合、物理的な理由ではなく、「勝手にそんなことしていいんだろうか」という思いがあるからではないのか。少なくとも、私の場合はそうだ。だから、管理人が金銭的理由でサイトを閉鎖せざるをえなくなったとき、閲覧者に逆にミラーの構築を依頼すれば、誰かが手を挙げるに違いない、と信じる。1日平均100人が訪問していた宇治IN茶筒には、そうしてミラーサイトがふたつできたのだ。

私が提案しているのは、私一人があらゆる閉鎖サイトを引き受けよう、という話ではない。各サイトの管理人は、いよいよ困ったら各サイトの閲覧者を頼ってみてはどうか、と提案しているのだ。サイトがすべて消えてなくなるより、自分がミラーサイトを引き受ける方がいいと考える閲覧者が、きっといるだろうから。しかしその閲覧者は、管理人に頼られるまでは何もできない。そしてひとり鬱々としているのである。

人を頼るのは申し訳ないと思う人の気持ちは私もよくわかる。だが、頼りにされずに悲しい思いをする人の気持ちも、よくわかるのだ。そして私は、後者により同情的なのである。

今晩の更新はここまで。明日の更新はありません。

平成15年4月24日

もなQさんより、私の反論は閉鎖するということに対する肯定的意見と同内容ではないか、とのご意見をいただきました。私は、同内容ではないと考えます。

もなQさんの肯定的意見は、もともとそのサイトを見ていた人の悲しみに焦点を当てています。私も心情的主題はそこにおいているわけですが、反論文の骨格をなしているのは、もなQさんの否定的意見が論として破綻している、という話です。だから、もなQさんの肯定的意見ではもなQさんの否定的意見を論破することはできませんが、私の反論を用いれば否定的意見を論破できるという決定的な違いがあります。(詳細は先述しておりますので、ご確認ください)

なお念のためにもう一度書きますと、私はあくまでも理由にならない理由による閉鎖を恨むといっているのであって、世の中にサイトを閉鎖せざるをえない事情が多くあることは認めています。ただ、もなQさんが否定的意見の中であげられた閉鎖の理由はいずれも、果たしてそれが閲覧者の願いを踏み越えてまで閉鎖しなければならない理由といえるのかどうか、私は疑問に感じたのでした。

ところで、いざというときにはぜひよろしくお願いします。

平成15年4月27日

みけさんがテキスト系コンテンツの削除を予告された件、その後の展開がまた興味深かったのでメモメモ。私の推測は間違っていたけれど、話の本筋は割といい線いっていたみたいです。

みけさんの問題意識はなまじ「日記」なんてあるから書きたいと思ってしまって、それが書けなかったらイライラするわけで、いっそ日記なんてやめてしまえと思ったという一文に端的に示されています。「日記を自サイト上で公開し続ければ、日記を書きたいけれども書けない自分の状態が意識されてしまい、つらく感じる。日記の存在を忘れられれば、楽になれるのに。だから、日記の公開を停止したい」というロジックには説得力があると思う。

とはいえ、みけさんが認めている通り、日記の公開を停止しても本質的な問題は解決されません。書けない自分を肯定できるようにならなければ、例えば楽しそうに日記を更新しているサイトを見るだけでも、つらく感じるようになってしまうかもしれません。とはいえ、本質的でない解決策は決して無意味なものではありません。苦痛の大半を回避できるのなら、日記の公開停止には十分な価値があるといっていいのではないでしょうか。(痛み止めの薬のようなものだと思うのです。病気を治す薬だけが価値あるものというわけではないはず)

当面、みけさんはテキスト系コンテンツの削除を見合わせることにされたそうで、私はたいへん嬉しく思います。ただ、自分が興味と関心を注いでいる現サイトでログを公開し続けること、日記というコンテンツを維持することが苦痛ならば、あまり我慢なさらないでください。本質的な問題解決などという夢のような話に引きずられて、無理をなさらないでください。私はみけさんの文章を読みたいけれども、そのためにみけさんがボロボロになるのはつらいことです。

ボクシングやプロレスの試合を見ていると、ひいきの選手がよれよれになりながらも立ち上がるという場面が時折あります。こんなとき私は、「どうか奇跡が起きて勝ってほしい」と願いつつ、「よく頑張った、だけどもういい、負けてくれ」と念じる、そんな矛盾したような気持ちになります。趣味のサイト運営に対しても、私の基本的な感じ方はこれに近いものがあります。私はみけさんのあれこれ悩んでいる姿が想像できるような文章が好きですけれども、どうかどうか無理はなさらないでほしいと願っています。

平成15年4月27日

日付けの件について補足します。たしかにふだんは文書に日付けを入れていない方が多いわけで、そうした方は最後にどうしたらいいのだろう、古い情報を放置する危険は日付けを入れれば解消できるといわれても、それがなかなか大変なのではないですか、という疑問におこたえします。

サイトを閉鎖する人は、その段階ではまだ物理的にはサイトを更新できる状態にあるわけですよね。だから閉鎖という最後の更新も可能なわけです。しかし閉鎖という更新ができるなら、日付けの付加という更新も不可能ではないのではないでしょうか。

Speeeeedなど、複数ファイルに対してテキストの一括置換をできるソフトはいくつかあります。それらを使えば、ごく小さな手間でサイト内の全文書に適当な日付けを付加できます。たとえば、</body>を<ul><li>最終更新:○月×日</li></ul></body>に置換するなどすればよいわけです。日付けは同一でよいでしょう。日付けの付加も小さな更新ですからね。

平成15年4月27日

サイト閉鎖の話題。なるほど、私の批判の対象は広すぎました。閲覧者のわがままを書いただけだ、と開き直ればそれでもいいのですが、やはりもう一段階、批判の対象を絞り込むことにします。

サイトの閉鎖が管理人にとって利益のあることならば、それがよほど瑣末なことでもない限り、閲覧者がなんといってもどうしようもないだろうと思います。しかしサイトの閉鎖がとくに管理人にとって利益のないことである場合、閲覧者のためを思って閉鎖されてしまうのはどうなのか、と感じます。それは多くの場合、実際には閲覧者の不利益となっていませんか、と指摘したいのです。

また、サイトの閉鎖が管理人にとって不本意なものである場合には、閲覧者の協力を求めることでサイトの閉鎖を回避できる場合があるかもしれません。そこまで閲覧者に迷惑をかけることはできない、と思う方が多いでしょうけれども、管理人がひとりで問題を抱えてサイトが閉鎖されていく状況に立ち会うほど、閲覧者にとってつらいこともないのです。ですから、管理人はいざというとき、もっと閲覧者を頼りにしてほしいと願います。

以下、余談をだらだらと。

「しばらく忙しくて更新できなくなるので、潔く閉鎖します」などというのが、閉鎖して胸を張るという具体例。あるいは、「更新されないサイトを放置するのもお客さんに申し訳ないので閉鎖します」というのもそう。どちらもけっこう見かけます。なぜ更新できないサイトを閉鎖することが潔いのか、サイトを閉鎖するよりもログを放置することの方が申し訳ないのか、私にはわかりません。これらは思い込みによる勘違いに過ぎないと私は思います。

更新できないこと自体は、サイト閉鎖の必要条件でも十分条件でもありません。更新できないことを理由に閉鎖することを潔いと思ったり、更新できないサイトを放置することを申し訳ないと思ったりする価値観が、サイトを閉鎖させていくことになります。したがって、「更新できないからといってサイトを閉鎖するのはひどいことだ」という価値観が世間の主流派となれば、サイトの閉鎖はある程度減ることになります。

ただ、私はここで「思い込みによる勘違い」と書いていますが、実際にはそうした価値観はけっこう広まっています。滅多に更新されない侍魂はいい加減に閉鎖すべきだ、みたいな意見もちょくちょく見かけますよね。だから結局は、管理人の判断次第です。更新されないサイトを放置しても、閉鎖しても、怒ったり悲しんだりする人がいます。誰もが納得する答えはありません。

それでも私の書いているようなサイト閉鎖批判が全然無意味だとは思いません。というのは、「例え更新されなくてもサイトを閉鎖しないでほしいという閲覧者はいるよ」ということを知らない、思いつかない方ってけっこういるのです。私がこうしたサイト閉鎖批判をやるのは初めてじゃありません。かつてメールや掲示板で何人かの方にご意見差し上げてきましたが、「あ、そうなんですか、だったら閉鎖しなくてもいいかな」という答えがちょくちょく返ってきたものです。

「悩んだ上での閉鎖」であっても、その悩んでいる内容はしばしば「何とかして更新を続けられないものか」というものだったりします。「更新できなくなったら閉鎖するしかない」という考え方については、何の疑問も抱いていないというケースがままあるのです。だから、「悩んだけど閉鎖することにしました」という場合でも、一言、声をかけてみる価値はあります。「目から鱗が落ちました。なるほど、更新できないからといって、わざわざ閉鎖しなくてもいいんですね」という一発大逆転が起きることがあるんですよ。

ところで、私は「更新不能」「精神的疲労」「攻撃された」「コミュニケーション不能」などをサイトを閉鎖する必然性のない理由としてあげていますけれども、これもまあ乱暴な議論ではあります。

例えばこの備忘録は、私自身のために書かれている私的な文書です。私は自分のために日記を書きたいと昔から思っていたのですが、何度挑戦しても失敗してきました。自分のためだけに日記を書くというのは、つらくてつらくてたまらなかったからです。自分の日記を読み返すのは楽しいのですが、しかし自分さえその楽しみを我慢すれば日記を書かなくてすむわけですから、じゃあ頑張って書くこともないかと思ってしまうわけです。このあたりの悩みについては、備忘録を読む人の全然いなかった頃に何度か書いています。

私がはじめて備忘録を継続できたのは、閲覧者がついたからです。楽しみにしてくれる方がいるなら、という気持ちが備忘録を書く原動力となってきました。しかし相変わらず、この備忘録は究極的には私自身のために書かれています。したがって、私自身が備忘録を必要としなくなったとき、更新は止まります。と同時に、公開する理由もなくなります。閲覧者のために、というのは自分を騙すための動機に過ぎないからです。備忘録をこれ以上書く必要がなくなった私にとって、そのログを公開するメリットは何もありません。サーバの費用がかかるだけ損です。これまでお世話になったお礼として、というのがログ公開を継続する唯一の理由となるでしょう。しかしそれも、そのうちに感謝の念が薄れて放り出すに違いありません。

転載OKといっているのは、こうした危うさを踏まえてのものでもあるわけです。当サイトのログがWWWから消えて寂しく思う方、備忘録の中にあった情報を有用だと判断し、公開状態を維持するべきだと考える方は、どうぞご自分の責任でそうなさってください、と。その代わり、というわけではないけれど、私自身は無責任にログを隠すかもしれませんよ、と。じつは既に、過去の備忘録から密かに削除した記事があります。それがどれか、ということもここでは書きたくありませんので伏せますが。

整理すると、私の場合、備忘録を公開しているのは更新するためなので、更新する気がなくなったり、物理的に更新不可能な状況となったなら、備忘録を公開しつづける意味はありません。ついでに書くと、正直いってこんなダメ人間日記を公開しているのは恥ずかしいわけで、更新という目的を失ったなら、備忘録の公開は私にとってはほとんどデメリットしかないのです。

以上は極端な例ですけれども、更新されないサイトを公開し続けるのは嫌だ、という考え方はときに共感できます。管理人の気持ちの問題として。

その他の理由もそうです。「更新不能」「精神的疲労」「攻撃された」「コミュニケーション不能」これらはみんな、それだけ見ればサイト閉鎖の必然的な理由にはならないから、私のようなタイプの閲覧者は釈然としません。けれども、「コミュニケーション不能となったサイトを閉鎖せずに維持することが、いかにその管理人にとって苦痛であるか」という説明があれば、大半の閲覧者が納得するのではないでしょうか。

「更新不能」「精神的疲労」「攻撃された」「コミュニケーション不能」だから「サイトを閉鎖します」では言葉足らずなのです。閲覧者の一部は、それでは納得できません。実際に、「更新できないサイトは閉鎖するものだ」と何となく思い込んでいただけ、というケースが結構あるからです。誰かが一言声をかければ、そのサイトは閉鎖されずにすんだわけです。(閉鎖を残念がるだけでは価値観を揺さぶる「一言」となりえないことに注意)

もちろん、言葉足らずのまま、閲覧者の説得を放棄してもいいのです。けれどもそれなら、むしろ中途半端な説明は一部の閲覧者を怒らせる可能性があります。「そんな理由なら閉鎖しないでもいいじゃないか」と。

サイトを閉鎖するのが管理人の自由であるように、閲覧者がサイトの閉鎖を悲しみ、恨み、悔しがるのもまた自由です。管理人が閲覧者の説得を放棄したり、失敗したりすれば当然、うまく説得できた場合と比較して閉鎖への反発は大きくなるでしょう。必然性のない理由による閉鎖、あるいは理由の説明を放棄した閉鎖を選択されるならば、湧き上がる閲覧者の悲しみ、恨み、悔しさを踏み越えていってほしいのです。

単に私のような閲覧者の抱く悲しみを知らず「閲覧者のために」閉鎖したり、あるいは閲覧者の悲しみを過少に見積もって自分の問題だけを考えて閉鎖を決定される方には、どうにかして再考を促したい。それが私の願いです。再考したところで閉鎖という結論は変わらないことが多いだろうと思います。けれども、閉鎖の仕方、最後の説明は変わってくるかもしれません。少なくとも、気の持ちようは変わるのではないでしょうか。閉鎖は管理人の自由、でもその自由のために泣く人がいると知っているかどうかというのは、大切なことではないかと思うのです。

さて、ここ数日、サイトの閉鎖についてあれこれ書いてきましたが、近日中にサイト閉鎖関連の記事の大半を削除します、たぶん。公開を止めたくなったというのがその理由です。ログを保存したい方はお早めに。なお、このような予告を行うのは異例のことです。今後も、これまで通りいつの間にか記事が消えているということが続くでしょう。その理由は簡単です。読まれたくない記事を消すのですから、わざわざその記事が注目されるようなことはしたくないということです。

平成15年4月27日

閉鎖とログ削除を分けて考えるべき、か……。たしかにそうだなあ。閉鎖=ログ削除じゃないもんな。前項までの記事は、「サイトの閉鎖=サイトの閉鎖に伴なうログ削除」と適当に読み替えてください。

私はサイトの最後が閉鎖でなきゃいけないとは思いませんが、最後に閉鎖という形をつけたいという方は少なくないんだろうな。で、その形をつけるためには全削除が一番簡単である、という意見には説得力を感じます。管理人自身のけじめのために閉鎖という「形を作りたい」という場合に、ログの削除が一番簡単にすっきりとできますよね、たしかに。

でもまあ、宇佐教授や荒廃の歌のように、ログをディレクトリの下位階層へ移動し、表紙に閉鎖文を置けば、ログを残しつつ「閉鎖の形」を作るのもそれほどの手間じゃないという気はするんです。それでもやっぱり面倒くさいと思うなら、それは仕方ないですよね。あるいは、ログを残すこと自体が管理人にとって重荷であるという場合がありますよね。前項や、みけさんの話でも書いたように、管理人にとって不利益となるのなら、ログの削除も諦めるしかないと思います。

とりあえずの結論。ログの放置が管理人にとって不都合でない限りは、「閲覧者のためを思って削除」するのはよしていただきたいな、と。更新されないサイトが放置されることを怒る閲覧者もたしかにいますが、ログが削除されて泣く閲覧者もたくさんいます。後者の方が数も多いし、その気持ちも深いのではないか、と私は思っています。思っているだけで、とくに調査した結果でもないのですけれども。

参考

Information