話のネタ006-010

話のネタ

信用とお金

株をやっている友達がいます。仕事時間の合間を見ては、携帯電話やインターネットで株の情報を見る生活をしていたわけなんですが……当然、お金がかかります。インターネットの接続だけでも結構なお金になりますので、

「そうだ。今、流行のADSLを引こう」

そう思い立ったのが今月初めのことだったそうです。

「さて……プロバイダーは、どれが良いかなぁ……」

彼はインターネットを使っていますから、自宅にいながらにして、各プロバイダーの利用料金、利用規約などを繰り返し、読み比べていたそうです。

9月7日金曜日ののことだったそうです。そのことに気がついたのは。

知っておられる方は、知っておられるでしょう。9月6日、YAHOO・BBの利用規約に「9月6日以降契約された方は一年分の利用料金は返金しないものとします」の一文を何の前置きも無しに載せてしまったのです。とんでもないことになるのは、見えきってます。で、彼が思ったことは、

「これが公に広まったら、上場したばかりのYAHOOの株は大幅に得下がりするはず」

早速、彼はなじみの証券会社にYAHOOの「信用売り」を依頼します。

「信用売り」とは、証券会社から株を借りて、それを売り、値下がったら、買い戻して、その差額が利益になるという投資方法です。(まぁ、当然、値上がっても、その額で買い戻さないといけないのですが)

で、ここで問題が発生しました。9月7日は金曜日でした。彼がそれを依頼した時、東京証券取引所はもう閉まる時間だったのです。で、日本では、土曜、日曜日は証券取引所は開いていません。開いてませんから、証券取引は出来ません。

やむを得ず、彼は9月10日月曜日の朝から信用売りをしてくれるように証券会社に依頼します。

ここで、問題が発生します。ある巨大掲示板で、このYAHOO・BBの利用規約改定の知らせが大きく取り上げられたのです。9月7日、9月8日とYAHOOには、膨大は抗議メールが殺到し、9月9日にYAHOOは、「すいません。あれは間違いでした」と、平謝りするという誰もがを驚愕させる行動に出ます。しかも、8日、9日と、あまりにこと態が大きくなってしまい、9月10日当日、東京証券取引所は、朝一番から、YAHOO株が次々と「売り」に出されます。つまり……

YAHOO株、下がり始めます。

繰り返しますが、信用売りというのは、「信用売りした時」から株価が下がらないと利益になりません。「信用売りした時」が下がっていると、当然に利益が減ります。下手すると損害すら出ます。

「さて……キャンセルするとなぁ……」

彼は悩みました。

信用売りは「信用」取引です。契約を反故にすると、どっちかというと信用がなくなります。彼は悩んだ末、約束通り、「信用売り」のオプションをかけます。そのとき、彼が思ったことは、

「あーあ、やっちゃった……」

と、いうものだったそうです。が……。

翌日の9月11日、世界を震撼させる事件が発生します。アメリカ・ニューヨークの世界貿易センタービルに民間飛行機が突っ込んだのです。テロ事件発生です。

株価は即座に反応し、ニューヨーク証券取引所、閉鎖。ドイツ・フランクフルト証券取引所も閉鎖。予定より30分遅れでしたが、主要国で唯一開いた東京証券取引所は開始早々から暴落。17年ぶりの平均10,000円台を割り込むという大暴落を記録します。

で、彼のYAHOO株も例外ではありませんでした。

しかし、彼がやっていたのは「信用売り」です。下がったら、利益が出るんです。こうして、彼はこの2週間で膨大な利益を上げたようです。

で、なにやら、儲かったらしいことを聞きつけて、私もふらふらと彼のところに行ってみました。

「今回は、いろいろ学んだなぁ……」

ポツリと、彼はそんなことをいっていました。

「今までずっと、お金が信用を生むんだと思っていた。違ったよ。信用がお金を生むんだなぁ……」

異様に含蓄のある言葉です。

「それで、そのお金はどうしたんです?」

彼は即答しました。

「やっぱり、人間、信用が大事だよ。そう思ってね……あの世界貿易センター事件の被害者の基金に……全部、寄付した」

「……!」

なんてことを……そうは、思ったのですが、今22日現在、彼は広島の証券界の間であのテロで膨大な利益を上げたが、全部寄付した人と、して有名になっているらしく……。そりゃ、そんなことすりゃ、有名にもなりますが……。

人間、身近にもすごい人がいるもんだなぁ……そう思った今日この頃です。[2001/09/24(Mon) 7:54:06]

情報化社会

今の日本が目指している方向性というのが「情報化社会」らしいのです。で、情報化社会の最精鋭といって良いのは、やはりインターネットでしょう。現に、自宅のコンピュータの前から一歩も離れることなく、とんでもなく大量の情報が手に入るようになり、調べ物をするたびに図書館にいってた日々が逆に懐かしくすら思えるようになりました。

で、同時に一つの問題が起きるようになります。

「情報は集めるだけではなく、使わないと意味がない」

と、いうことです。

1815年、ロンドン証券取引所に一人のスターが現れます。あのロスチャイルド財閥の長男・ネイサンです。

この当時、ネイサンは帆船・馬車・飛脚に当時、最新の通信手段だった「伝書鳩」まで実用化し、ロンドンにいながらにして全ヨーロッパの情報をその手に収めていました。AP通信やテレックスなんて物は、この当時当然ありませんから、農作物の不作やストライキ・暴動などの情報は、一般投資家が手に入れる前にネイサンが手に入れるのですから、早々と先物取引を行うネイサンに誰も太刀打ちできるわけがなく、その情報量の多さは広く知れ渡っていました。

そんなネイサンが、ロスチャイルド財閥の粋を決して挑んだ戦いがあります。フランス・ロシア戦争におけるイギリス政府コンソル債の取引です。この当時、イギリスとフランスは激しく対立しており、もし、フランスがロシアに負ければコンソル債は急騰し、逆に勝てば急落するのは、目に見えていました。

そして、問題はただ一つ。

「どっちが勝つのか分からない」

と、いうことです。さまざまアナリストがさまざまな意見を戦わせていましたが、はっきりいって、いいかげん。

そんな中の1815年6月20日のことです。

その日の早朝、ロスチャイルド財閥の情報力をフル稼働させたネイサンは、遂にフランス・ロシア戦争の結果を手に入れるとそのままロンドン証券取引所に乗り込み、部下達にこう叫びます。

「直ちにコンソル債を売り払え!」

次々とロスチャイルド財閥のもつコンソル債が売りに出されるのを見た投資家達は、

「フランスが勝ったか!」

と、察し、すぐさま手持ちのコンソル債の売りに転じます。瞬く間に急落するコンソル債ですが、お昼過ぎになって問題が発生します。相場が成立しなくなりだしたのです。相場というのは、「買いたい」と、いう人と「売りたい」と、いう人がいないと成立しません。全員が「売りたい」なのですから、相場が成立しないのは当然です。

そんな中、奇妙な一団が現れます。急落を続けるコンソル債をひたすら買いまくっているのです。

「少しでも、金になるのなら、やむをえん」

投資家達は彼らに自分のコンソル債をただ同然の値段で売り渡していきます。やがて、日が暮れかけます。

ロンドン証券取引所も閉鎖の時間になったときのことです。

その奇妙の一団は、さらに奇妙な行動に出ます。大量に買い集めたコンソル債をある人物の目の前に積み上げ始めたのです。ネイサンの目の前にです。

「まさか!」

投資家達がそのことに気がついたときには既に手遅れでした。

その日の夜の間にイギリス政府の急報がロンドン中を駆け巡ります。

「フランス軍、ワーテルローにて敗れる!ナポレオン、捕縛される!」

翌日、ネイサンの持つコンソル債が暴騰したのはいうまでもありません。

さて、繰り返しますが、ネイサンは情報技術に長けていました。ロスチャイルド財閥が進んだ情報を持つことは知られていました。ネイサンは、自分自身を「情報源」として利用したのです。

情報は集めるだけでなくいかに使うか……。うーむ。なかなか、難しいですねぇ……。

間違った情報

一旦、間違った情報が出回ると、それを修正するのがいかに難しいかという例が見つかりましたので載せちゃいます。

中世、中国までやってきていたポルトガル人はさらにその東にもなにやら島国があるらしいことを聞きつけて、その国に向かいました。日本です。

しかし、当時は何て名前の国なのかポルトガルには、知られていません。中国人はそのまま中国語読みで「リーベン」と、発音していましたので「この国はリーベン国ですか?」

「日本」にそんな読み方はありません。当然、「そんな名前じゃありませんが……」と、答えますと、ポルトガル人たちは紙に「日本」と漢字で書き、「何て読むんです?」

そこで、困りました。

当時、国といえば、「薩摩の国」や「山城の国」を指していました。

また、当時は教育が普及してません。「日本」をなんと読むかが分からなかったのです。「本日っていうよなぁ……」日を「じつ」と、読んだのです。

そして、「それは、「じっぽん」と読みます」と、いってしまったらしいのです。

「なるほど、「じっぽん」ね」

ポルトガル人の彼らは当然、ポルトガル語でメモを取りました。

ZIPANG

そうして、この国は西洋においてジパングと呼ばれるようになり、今日現在も「NIPPON」ではなく、なぜか「JAPAN」と、呼ばれています。

規制緩和

1886年、ドイツにおいてゴットリープ・ダイムラーとカール・ベンツにより、自動車がはじめて、発明されると4年後の1890年、フランスでアルマン・プジョーによって、世界初の自動車メーカー「プジョー」が設立。会社化したプジョーは、飛躍的に業績を伸ばしていきます。

「負けてなるものか!」

いきり立つドイツはゴットリープ・ダイムラーによって「ダイムラー社」を、そしてカール・ベンツ氏によって「ベンツ社」を設立。飛ぶ鳥落とす勢いのプジョーに猛追撃をかけます。

自動車が新しい産業になると、いうことは、誰が見ても明らかでした。

隣国が、そんなときのイギリスです。

「自動車がロンドンを走るようになると、馬車を営業している者達の仕事がなくなる」

当時、ロンドンにおいて、馬車は最も普及した交通機関でした。当然、馬車に携わる人の数も多く、彼らの仕事が無くなると、票が入らなくなる。そう考えた英国会議員達は、とんでもない規制案を可決します。

「ロンドン市内において、自動車を運行させる場合、必ず、旗を持った先導者を自動車の前に歩かせること」

これでは、ロンドン市内では、自動車が人が歩くより早く走らせることが出来ないのです。当然、イギリスにおいて、自動車産業は全く発展しなくなります。

その間にも「プジョー」「ダイムラー」「ベンツ」は互いに競争を続け、フランスにおいてはミシュラン兄弟によって初の空気入りタイヤが実用化されるなど、自動車は目覚しい進歩を遂げていきます。

「……こりゃ、いかん」

イギリスがようやく、規制を緩和した時、もはや、イギリスの自動車工業技術はフランス・ドイツに技術に追いつける術すら、無くなっていました。そして、今日現在に至っても、イギリスの自動車産業はドイツ、フランスに引けを取るのですが、それの大本が、あの規制だったと言われています。

一部の産業を守るために規制を続ける。

極東のある島国は、21世紀にもなったと、いうのに未だにそんなことをしているそうです。

大将

アメリカ南北戦争中、北軍にあってリンカーンを勝利に導き、「最強」の名をほしいままにした連隊長がいました。

名前は、アーサー・マッカーサー。

彼のその功績は高く評価され、次々と昇進。ついには、フィリピン攻略作戦の指揮権を握ると、征服したフィリピンにおいて軍政長の座を確保します。

そんなアメリカの作戦行動に興味を持ち続ける国家が存在していました。

極東の新興国家、日本です。

「何とか、コネを作っときたいよなぁ……」

そう考えた日本政府は、アーサー・マッカーサーを日本に招待することを思いつきます。まぁ、早い話が接待外交です。で、日本側が用意した接待役は、東郷平八郎提督、乃木希典大将、大山巌元帥、黒木為楨大将。日本の重鎮、勢ぞろいです。特にこの当時、日本という国は、日露戦争に勝った直後。アドミラル・トーゴーとゼネラル・ノギの名前は全世界的に知れ渡っています。

「さて……」

さすがのアーサー・マッカーサーもこんな有名人に会えると聞いてあることを思いつきます。

「自分が可愛がっている息子を一緒に連れて行って会わせてやったら、良い経験になるだろう」

と、いうわけで早速、士官学校を卒業したばかりの息子を呼び寄せます。

「なるほど、これがアーサー・マッカーサー軍政長の息子さんですか。いやぁ。利発そうなお子で何よりですなぁ・・」

東郷平八郎提督、乃木希典大将、大山巌元帥、黒木為楨大将は、父親が目の前にいますので、とりあえず息子を褒めます。(はっきりいって接待外交ですから)自分の息子が褒められて嫌がる親なんていないのは全世界共通なのは、分かりきっているからです。

アーサー・マッカーサー的には、「どうだ、あれが世界的に有名なアドミラル・トーゴーとゼネラル・ノギだ。お前も士官学校を出たことだし、あんな立派な大将ぐらいにはになれよ」と、いうつもりです。

「そうだね、父さん。僕も立派な軍人なるよ」

……

そして、月日は30年近く流れます。

息子は、再び、日本の地を踏みました。

大将どころか、彼は、アメリカ軍にはないはずの「元帥」にまで成っていました

アメリカ合衆国陸軍元帥、ダグラス・マッカーサーと、して。[2001/09/16(Sun) 01:15:20]