障害者はいかにしてオナニー可能か (2003-10-01)
障害者はいかにしてオナニー可能か
障害者も人間である以上、性欲がある。障害者であるがゆえに、性に対する苦悩も多い。
障害者のセクシャリティ
昨日から、伏見憲明の『性の倫理学』(朝日新聞社 2000)を読んでいる。売買春や同性愛やエイズなど、性についての対談集である。障害者の小山内美智子との対談、「障害者の性を語ろう」が特に興味深かった。
(小山内)いつか誰かが「障害者の性」について語らないとおかしいと思ったんです。障害者の方に「何が夢ですか?」と聞いたら、やっぱり恋愛とか結婚、出産って答える人が多いんです。そういうことができないで死んでいく障害者がいっぱいいるわけで、その問題を訴えないといけないなと思ったわけです。
(「障害者の性を語ろう」 p.175 )
「性」の話題が、公の場で語られることが少ない。「障害者」ともなればなおさらである。「障害者がハンデを乗り越えて目標を達成する」というドラマやドキュメンタリー番組は存在するが、「障害者の性」については黙殺される。
ウォシュレットでオナニー
性欲解消手段として、オナニーがある。しかし、障害者の中には手が使えず、これができない人がいる。どのようにして性欲を解消すればよいのか。
小山内は、『車椅子で夜明けのコーヒー』(文藝春秋)で、ウォシュレットでオナニーをしていた経験を告白している。
ウォシュレットの話は恥ずかしかったんだけど、そういうやり方があるんだということを手が使えない障害者の人に教えてあげようと思ったんです。
俗説だが、人間には
- 食欲
- 睡眠欲
- 性欲
という3つの欲が本能として存在すると言われている。性欲は解消されなくても生命活動は維持される。しかし、苦しいのではないのだろうか。
男性の障害者の場合、「セックスしたいのでソープランドに連れて行って欲しい」と訴える人も少なくないらしい。涙ながらに訴えられたら、「ガマンしなさい」とは言えないだろう。私だったら連れて行く。(ただし、病気にかかりそうな激安店はダメである。)
しかし、女性にはその場所がない。ホストクラブは金がかかりすぎるし、基本的にセックス目的ではないと思う。女性の性欲のはけ口がないのだ。
専用の道具は開発されるか?
ウォシュレットでオナニーするのが手っ取り早い性欲の解消法だと私も思う。もちろん、誰か相手がいればそちらの方が良いと思う。しかし出会いのきっかけも少なく、なかなか恋愛できない。また恋愛できたとしても、障害者同士である場合が多い。そのため、二人だけではセックスができないカップルもいるのである。なんらかのかたちでフォローしてあげたいと思うのが人情だろう。
(伏見)ウォシュレットじゃないですが、テクノロジーの進歩でさまざまなツールが開発されてくると、障害者の人の性もずいぶん助けられることになるんでしょうね。
(中略)
障害者の性的快楽を可能にするツールは開発されていないのでしょうか。
( p.182 )
障害者用の道具も今では少なくない。そこで、障害者向けの大人のおもちゃを、ネットで検索して探してみた。
ひとつだけ、手がなくてもオナニーができる機械を発見した。基本的に男性向けだが、男性用と女性用があるらしい。その名も「メンズソム」(特許出願中)。リアルな機械の手の上下運動で、自分の手を使わずにオナニーが出来る(特許出願中)。値段は39800円。高い。それ以前に、機械のセットアップに手が必要だ。障害者が使うには難しい。
おそらく日本の技術力をもってすれば、障害者用の機械を作ることができるだろう。しかし社会の目や性を語ることのタブーが、それをはばんでいる。
障害者も「性」の悩みを持つ。しかしそれをうまく解消できる方法が、今の日本には存在しない。
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あなたのメールは盗聴されている (2003-10-02)
あなたのメールは盗聴されている
会社や学校のPCから普通に送信するメールは、基本的にすべて盗聴可能である。
セキュリティ
テクニカルエンジニア(ネットワーク)試験の受験票が届いた。残り約2週間である。問題集を30ページぐらいしか進めていない。興味のある分野だと勉強する気にもなるのだが。
面白い分野の一つが、セキュリティ分野である。クラッキングや盗聴を防ぐための技術は、奥が深い。『クラッキング防衛大全』という本を読んだことがあるのだが、これはクラッキング(コンピュータへの進入や秘密の情報の入手など)のやり方を解説した本である。防御するためには、まず敵がどんな攻撃をしかけてくるのかを知る必要がある。優秀なセキュリティエンジニアは、同時に優秀なクラッカーでもある。異なるのはモラルとポリシーなのだ。
メールを盗聴する方法
私は今の仕事のプロジェクトメンバだけで使用するメールサーバの管理をしているが、別にメールサーバの管理者じゃなくても、他人のメールを勝手に読むことは可能である。特別な知識は必要ない。ネットワーク管理用のソフトをインストールするだけだ。フリーソフトで優れたものもある。
ほとんどの人は、メールを暗号化せずに送る。一般企業で働く人の中には、暗号化という技術すら知らない人もいる。
メールを暗号化せずに送信するということは、ハガキの裏に文章を書いて郵便に出すことと同じである。途中で誰に読まれるのかわからない。管理者ならもちろん、隣の席に座っている人に読まれる可能性もある。ネットワークの構成にもよるが、隣の席のPCから送受信されるメールを、そのPCに一切触れることなく盗聴できる。(スイッチングハブでも、無理矢理データを取ることは可能)
読まれてもよいメールを送信すること
大事なことは、読まれてもよいメールを送信することである。家族にメールするなんてのは論外である。家族のプライバシーまでさらけだしてしまう。連絡をとりたければ、携帯電話のメールを利用した方が安全である。
多くの企業では、外部に送信されるメールをチェックしている。
- 機密情報漏洩
- 私的利用
の2つを監視し、防ぐためである。
メールの私的利用はつつしむべきだろう。送信記録は保存され、リストラ時の材料になりえるのだ。
他人のメールを読むことは意外に簡単である。
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ゲーム機は売れても赤字 (2003-10-03)
ゲーム機は売れても赤字
ゲーム機は、売れても赤字である。ソフトを売らなくては儲からない。
苦戦する任天堂ゲームキューブ
ゲームキューブが値下げされるようだ。
任天堂<7974.OS><7974.OS>は、家庭用ゲーム機「ニンテンドーゲームキューブ」(GC)の販売価格を1万9800円から1万4000円に10月17日付で引き下げると発表した。GCは現在、GCと携帯型ゲーム機「ゲームボーイアドバンス」(GBA)をつなぐ「ゲームボーイプレーヤー」をセットにした「エンジョイプラスパック」として販売されている。
(Yahoo! news 任天堂、ゲームキューブ販売価格を1万4000円に引き下げ
ゲームキューブは、悲しいほど売れていない。ソニーのプレステ2に大きく水を開けられている。プレステ2の10分の1も売れていないのだ。また、日本だけでなく、海外でも不振が続いている。
売り上げ不振を打開するため、今回の値下げに踏み切ったのだろう。
ハードは赤字でかまわない
ハードメーカは、ハードそのものは赤字で売ってかまわない。実際、赤字でハードを売っている。そのかわり、ソフトウェアで売り上げを出している。
しかも、これがゲームビジネスのおいしいところなのだが、他のソフトウェア会社が作ったソフトの売り上げ数%が、ロイヤリティとしてハードウェアメーカの利益になる。
たとえば、かつてエニックスという会社が『ドラクエ』を売って大ヒットさせた。そのソフトの売り上げは、任天堂にも入るのである。すべてのファミコンソフトの売り上げの一部が、任天堂のものになった。任天堂が儲かるはずである。他の会社のソフトが売れば売れるほど、任天堂は儲かる。ファミコンも売れ、ソフトもさらに売れるようになる。
任天堂は20年前に、ファミコンを14800円で発売した。当時は激安の値段だった。他のメーカは、「あんな値段は絶対無理」と思っていた。たしかに無理な値段なのである。売っても赤字になる値段なのだから。まずは赤字でもいいから、とにかくゲーム機を普及させることを優先させたのである。
ハードウェアメーカーは、まずハードを普及させ、ソフトで利益をあげるのである。
おいしいビジネス
ゲームビジネスは、頂点に立つものは大きな利益を上げることができる。今のソニーが良い例だ。多くのユーザは、いくつものハードを買うことはしない。一つのメーカーが市場をほぼ独占できる。
頂点に立てば、おいしいビジネスになる。しかし、ユーザーにそっぽを向かれたメーカーには、悲惨な末路が待っている。
任天堂に未来はあるのか?
ゲーム機は売れても赤字。しかしソフトが大きな利益を産む。
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童貞差別社会を生きのびる2つの方法 (2003-10-04)
童貞差別社会を生きのびる2の方法
童貞差別を生きのびるには、「セックス」と「非童貞」を特権化しないことが大切である。
超人気ニュースサイトからリンクを張られた
日記過去ログの「日本の童貞」(9月28日)にアクセスが殺到した。一日で1000を超えるアクセスがあった。驚いてリンク元を調べてみた。なんと、1700万アクセスを超えている超人気ニュースサイト「カトゆー家断絶」からリンクが張られているではないか。アクセス数が多いサイトにリンクを張られたのは初めてだ。嬉しいような、恐ろしいような、複雑な気分だ。
「カトゆー家断絶」は、18禁のアダルトゲーム、通称エロゲーを中心にあつかったサイトのようだ。おそらく、童貞率は高い。そして童貞に関心がある。(童貞を非難・蔑視しているわけではない。)
童貞差別社会
現代は、童貞差別社会と言っていいだろう。童貞であると公言できる人は少ない。童貞には生きにくい社会だろう。
「日本の童貞」の著者、渋谷知美も、最後に次のように述べている。
童貞が問題化される社会とは、「正しい童貞喪失」の基準が設けられた社会である。
(中略)
基準から外れた童貞は、その「原因」が追及され、「病人」として扱われる。
(『日本の童貞』渋谷知美 文春新書 2003 p.222 )
もちろん、童貞=病気である根拠は、医学的にはない。しかし、それを「病人」「社会不適応者」と見なしてしまう社会が、我々の生きている社会なのだ。
「童貞ってカッコいいものだ」と主張することは、ガリレオ・ガリレイの時代に「それでも地球は回っている」と主張することに似ている。社会から抹殺されるだろう。
セックスと非童貞を特権化しないこと
あまりにも救いがないので、渋谷は「おまけ」として童貞差別社会に対抗する方法を2つ紹介している。それは、
- セックスを特権化しないこと
- 非童貞を特権化しないこと
の2つである。
簡単に説明すると、セックス以外にも価値のあることはたくさんあるし、非童貞だからといって偉いわけではないということ。「経験者にもモテない人間はいて、一回経験したからといって、特別エラいわけでもなんでもないことに気が付くこと」と彼女は述べている。
しかし、そうは思っても、なかなか感情をコントロールすることはできないし、周りからは「童貞」と言われてしまうのではないだろうか。
もっとも、非童貞を羨望しない童貞の態度が「負け犬の遠吠え」と解釈されてしまうのが現代社会の問題なのだが
(同 p.227)
童貞差別の根は深いのだ。
「セックス」や「非童貞」を特別なものだと思わないことが大切である。
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アダルトサイトからリンクを張られて -1時間で1000アクセス- (2003-10-05)
アダルトサイトからリンクを張られて
アダルトサイト利用者は、超人気ニュースサイト利用者の数よりもずっと多い。
1時間で1000アクセス超える
『カトゆー家断絶』が更新され、昨日の祭りのようなアクセス数増加が沈静化した。過去ログとはいえ、一日で1000アクセスを超えるなんて、弱小個人サイトにとっては大事件なのである。
しかし、今日の夕方にアクセス数を確認してみると、なんと1時間で1000アクセスを超えていた。約3秒に1アクセスのペースである。サーバへの攻撃か?と思ったほどだ。
リンク元は、動画情報をあつかったアダルト情報サイトだった。リンクしてあるのは、昨日と同じ、9月28日の日記。
「童貞」という言葉にこれだけ反応する社会そのものが面白いと思った。
グラフで比較するアクセス数
昨日と今日のアクセス数を比較したいと思う。一方はReadMe!でベスト10入りしているほどの人気ニュースサイトである『カトゆー家断絶』だ。そしてもう一方は、アダルト情報サイトである。(アダルト情報へのリンクは、諸般の事情により行いません)
まずは、10月4日のアクセス数である。主に『カトゆー家断絶』からの訪問者がグラフにあらわれている。(棒の上がアクセス数。赤がユニークアクセス。棒の下の数字は時刻。16時〜には129のアクセスがあった)
次は、10月5日のアクセス数である。主にアダルト情報サイトからの訪問者である。
ぱっと見ただけで、アダルト情報サイトからのアクセスが異常に多いことがわかるだろう。あの『カトゆー家断絶』からのアクセスが少なく感じられてしまう。繰り返しになるが、『カトゆー家断絶』は超人気サイトである。
アダルト情報がネットの中心か
ある調査によると、海外でネット上を流れるデータの半分は、アダルト関連のものだと言う。もっともこれは、エロ画像やエロ動画のデータサイズが大きいことが理由だと思われる。しかしそれを差し引いて考えたとしても、アダルトサイトの利用者は多い。
今回、アダルトサイトの巨大な影響力を、身をもって感じた。この「憂鬱なプログラマによる〜」も、アダルト情報サイトからリンクを張られたという十字架を背負って、これからも更新していきたい。
アダルトサイト利用者は、超人気ニュースサイト利用者の数よりもずっと多い。
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童貞の幸せ (2003-10-06)
童貞の幸せ
童貞の幸せはセックスに夢を持っていることであり、童貞の不幸はセックスに肥大化した幻想を抱いていることである。
童貞事件
ここ数日の過去ログへのアクセス急増が落ち着いたようだ。童貞という言葉に強い関心があるのだろう。特に童貞の男性には。
べつに告白するようなことではないが、私は非童貞である。つまり童貞ではない。童貞・非童貞のどちらに属するのか、あえて書かなかった。本来、童貞か非童貞かなんてどうでもいいことのはずだ。私はそう思っていたのだが、周りから「童貞か?」と質問されると、「いや違う」と否定したくなる。
童貞・非童貞は関係ないと理解しながらも、自分の心が強く否定する。自分は童貞ではないのだ、と言わずにはいられない。
童貞に戻りたい
「童貞のころに戻りたい」と言っている友人がいる。セックスに夢があった。希望があった。しかし結婚してやりたい放題になってしまったとたん、急にセックスが色あせてしまったそうだ。
この気持ちには共感できる。特に現代の若い男性は、メディアから過剰なまでのセックスに対する「煽り」を受けている。アダルトビデオから官能小説、アダルトゲームにいたるまで、セックスは気持ちが良いものだとしている。しかし、実際はそうでもないし、逆に意表をつくところで気持ちよかったりする。
童貞は京都旅行未体験者
童貞は、京都旅行に行ったことのない人に似ている。実際に京都を旅してみると、イメージしていた京都とのギャップに愕然とすることだろう。
かつて岡田斗司夫が、東大の講義で「儲かるテーマパークを企画せよ」という課題を東大生に出した。そうしたところ、東大生の一人が、「京都」というテーマパークを考え出した。コンセプトは、「JR東海のCMのような京都(京都に行ったことがない人がイメージする京都)」だ。本物の京都には欠点がある。駅の周囲にごく普通の地方都市風景が広がっていたり、夜は暴走族が出没したり、周りは修学旅行生ばかりだったり、著作権法違反の怪しげなおみやげばかりが売っていたりする。
私も一度だけ京都に旅行したことがある。その感想は、「こんなの京都じゃない!」だった。ひっそりとたたずむ寺。季節感あふれる風景。仏教的な空間。そんなイメージが、一瞬で崩されてしまった。
童貞喪失の瞬間も同じ。こんな感じではなかろうか。その後、京都の町を散策してみると、ガイドブックには載っていないけど、思い出になるようなスポットを見つけられることもある。
でも、一度くずれた京都のイメージは、二度と修復不可能である。京都なんて行かなきゃよかった。修学旅行だったから、仕方ないんだけど。
童貞の幸せはセックスに夢を持っていること。童貞の不幸はセックスに幻想を抱いていること。
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推理小説のパラドックス (2003-10-07)
推理小説のパラドックス
推理小説は、論理的ではない。
ミステリー小説のプレゼント
上司からミステリー小説をプレゼントされた。会社の予算があまったので、何か本でも買ってやれ、という上からの配慮らしい。ソフト開発会社なんだから、他にももっと良い本があると思う。私はミステリが好きなので嬉しいが、まったく興味のない人にはゴミ同然で、ブックオフ直行だろう。
プレゼントされたのは、古典的な名作と呼ばれる作品だった。探偵が登場し、事件を解決するタイプのもの。ミステリファンは、このタイプのミステリを「本格ミステリ」と呼ぶ。
名探偵は間違いに気がつかない
「ゲーデルの不完全性定理」という有名な定理がある。ゲーデルという数学者が、絶対と信じられていた数学理論が、不完全なものであるということを数学的に証明してしまったのだ。「哲学的な何か、あと科学とか」の「不完全性定理」が読みやすくまとまっているので、詳しくはそちらを参照して欲しい。簡単に引用する。
不完全性定理は述べる。
「どんな理論体系にも、証明不可能な命題が必ず存在する。それは、その理論体系に矛盾がないことをその理論体系の中で決して証明できないということであり、つまり、おのれ自身で完結する理論体系は構造的にありえない。」
我々が、理性により作り出した理論体系が真理に到達することは決してない。
そんな小説ごときで不完全性定理なんて・・と思う人がいるかもしれない。しかしこれは、推理小説の世界では真面目に議論される問題なのである。これは「ゲーデル問題」と呼ばれる。推理小説の中の探偵自身が、閉じた世界の中では決して真理にはたどりつけない。たどりついたと本人は思い込んでいても、その矛盾は、閉じた世界の中では気がつきようがない。
笠井潔などがさらに考察を進めているが、あまりにもマニアックすぎるので、一般の人には興味がないだろう。
ミステリは論理的ではない
推理作家でもあり名古屋大学の助教授でもある森博嗣のエッセイから引用したい。
本当の意味での論理性というのは、ミステリィの中にはほとんどないといって良いね。真の論理性は、今、警察が実際に行っている捜査方法がそうであって、地道な調査と検査とそして証拠に基づく実証が、つまり最も合理的かつ論理的な捜査といえる。
(『浮遊研究室』 Vol.95 )
べつにミステリが論理的でないからといって、作品が否定されるわけではない。娯楽を主な目的としている以上、楽しめることがまず第一である。ミステリの楽しさは「論理の飛躍」、驚きの論理性にあると思う。正しいかどうかではなく、アクロバティックな論理かどうか。
そしてまた、論理的であることが基本であるはずの推理小説が、論理的ではありえないというパラドックスも面白い。
推理小説は論理的ではない。探偵は自分のミスに気がつかない。
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出会いが多いほど結婚できない (2003-10-08)
出会いが多いほど結婚できない
出会いが多いから結婚できないわけではない。出会いが多すぎると逆に結婚できなくなる。
結婚相手紹介サービスは不要
日記過去ログ「結婚相談所はボッタクリ(03年9月6日)」に対して、業界関係者と思われる方からの反論があった。「日記に書かれているのは悪質な業者で、良心的な業者もある。結婚相談所に入会するなら、いくつかを比較検討した上で入会した方がよい」とのこと。日記に書いたのは大阪のボッタクリ結婚相談所の例なので、極端な例であったのは事実である。東京にはそれよりは信用のおける相談所もあるだろうし、同じような極悪な相談所もあると思う。
断言しておくが、いまのところ私は結婚相談所・結婚相手紹介サービス所などに入会するつもりはない。理由は、
- 費用が高い
- 信頼のおける会社でも、成功率は低い
- 今のところ結婚願望がない
の3つである。私には結婚相手紹介サービスは不要である。
もてない男でも結婚できる
ごく普通に街を歩いていると、「よく結婚できたな」と思う男性や女性を見かけることがある。たとえもてない男でも、結婚はできるのだ。
逆説的だが、もてる人ほど結婚ができず、もてない人ほど結婚しやすい(ただし、どうしようもなくもてない人は除外する)。もてる人は交際相手が多いため、選択肢が多い。そのためあれこれ相手を選んでしまう。もてない人は、交際できる相手が少ないため、選択肢がない。もてないので、このチャンスを逃したくないという心理が働く。そして、その交際相手と結婚せざるを得なくなる。
もてる人はいつでも結婚できると思っているから、なかなか結婚しない。逆にもてない人は、背水の陣で恋愛にのぞむ。もてないがゆえに結婚するのである。
出会いが多いほど結婚できない
社会学者、山田昌弘は、『近代家族のゆくえ』(新曜社 1994)で、「男女交際が増大すれば、結婚が遠のく」という命題が成り立つと述べている。
恋愛候補の異性が回りに多ければ多いほど、「本当の愛情」という幻想にはまってしまい、結婚の「決断」が出来にくくなる。見合いの変わりに結婚紹介業に行くと、たくさんの異性を紹介される。選択肢が多いほど結婚の決断ができなくなり、もっといい人がいるはずだという深みにはまっていく。
(『近代家族のゆくえ』山田昌弘 新曜社 1994)
もてるがゆえに結婚できない。もてない人も、十分に結婚できるチャンスはある。ただし、「結婚できる」だけである。もてない人の結婚相手は、たいてい相手ももてない人だと思われる。
もてないがゆえに結婚しやすい。
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凶悪犯罪ほど娯楽になる (2003-10-09)
凶悪犯罪ほど娯楽になる
犯罪が凶悪的であればあるほど、娯楽としての価値が高まる。
ニュースは娯楽番組
ネットサーフィンをしていて、面白いテキストサイトを見つけた。AZMA氏の「世捨て人の庵」というサイトだ。脱常識的・大衆批判なコラムが素晴らしいと思う。
大衆批判は、マスメディアの情報を補完する。マスコミにとって、
- スポンサー批判
- 大衆批判
の2つはタブーだからである。
「ニュースとは他人の不幸を楽しむ娯楽番組だと常々思っている」(2003年9月26日のささやきより)と断言するあたりは、私も見習わなくてはならない。
犯罪は有益
AZMA氏の言うとおり、ニュース番組は娯楽の性質を持つ。退屈なときにニュースを見たり、凶悪犯罪のニュースを好奇心で見たりする。まさか、凶悪犯罪の犯人は自分が娯楽として大衆に消費されるとは思っていなかっただろう。
社会学者のデュルケムは、『社会分業論』で、「犯罪は社会にとって有益な結果をもたらす」と述べた。
犯罪は、その被害者はもちろん、当の犯罪者も意図せず、あるいは認知すらしていないような、何らかの有用な結果を社会全体に対してもたらす。
(『命題コレクション 社会学』筑摩書房 p194 「犯罪の潜在的機能」E・デュルケム)
被害者や被害者の家族には悪いが、結果として社会に対して有益である事実に変わりはない。現に、凶悪犯罪であればあるほど、
- 退屈しのぎになる
- 話のネタになる
という事実がある。犯人はこれらを意図していないし、また認知していない場合も多いだろう。もちろん、娯楽を提供するために犯罪を犯したわけではない。
これは犯罪を肯定しているわけではない。ただ結果として社会がそのように動いてしまうという事実である。犯罪が発生し、そのニュースに注目し、非難し、制裁をくわえる。この機能は、正しく動作している。犯罪者は非難されるべきだし、道徳的にも問題はある。
大衆が娯楽として消費してしまうという事実があるだけである。
凶悪犯罪であればあるほど、娯楽になる。
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コミュニケーション能力という幻想 (2003-10-10)
コミュニケーション能力という幻想
真の意味でコミュニケーション能力の高い人間は、ほとんど存在しない。
コミュニケーションの大切さ
週末ということもあり、会社で飲み会があった。上司は部下に、「コミュニケーションってのは大事なんだ。飲み会に限らず、社員同士のコミュニケーションが必要だ」としきりに演説していた。その通りだと思う。
プログラマと聞くと、一日中考え事をしながらPCの前でキーボードを叩いている姿をイメージする人がいるらしい。実際の仕事は、会議や他の人との交渉、打ち合わせ、プレゼンなどが多い。私の場合、プログラムをする作業(実装作業)は、全体の2割ぐらいである。
コンピュータだけを相手にしない
岩脇一喜は、『勝ち組SE・負け組SE』(洋泉社新書y 2001 )で、「これからのSEは、コンピュータだけを相手にしているようでは生き残れない。経営センス、コミュニケーション能力、文章力が必要だ」と述べている。ちなみにSEとはシステムエンジニアのことである。
コミュニケーション能力に自信のないSEやプログラマは、こうした主張や煽りにおびえている。いままでコンピュータと対話をしていれば良かったし、それが出来る人間も限られていた。しかしこれからはコミュニケーション能力が重要になるし、現に今でも、コミュニケーション能力が欠如している人は、仕事にならない。
4つのコミュニケーション関係
ひとくちにコミュニケーション能力といっても、仕事の場合、コミュニケーションの関係によって、4つに分類できる。
- (a)自分と上司とのコミュニケーション能力
- (b)自分と部下とのコミュニケーション能力
- (c)自分と同僚とのコミュニケーション能力
- (d)自分と顧客とのコミュニケーション能力
以上4つである。
私の見る限り、(a)〜(d)の4つのコミュニケーション能力がすべて高い人は、ほとんどいない。(a)(b)を満たしているが、(c)の同僚とうまくつきあえない人や、逆に同僚とのコミュニケーションがうまくいっているのに、(d)の能力が低い場合も多い。
本当にコミュニケーション能力の高い人なんてのは、そこらじゅうに転がっているものではないのだ。
コミュニケーション能力に自信のない会社員、プログラマは、まずは(a)〜(d)のうちどれか1つを伸ばしてみてはどうだろうか。
すべての関係においてコミュニケーション能力の高い人間は、ほとんど存在しない。
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Flash「灯台守の夜」 (2003-10-11)
Flash「灯台守の夜」
今日は私が感動したFlashの話を。
灯台守の夜
「灯台守の夜」(4分/2MB/音有)というFlashアニメに感動した。アマチュアならではの芸術作品だと思う。ピアノを中心としたBGMも、透明感があって良い。宮崎アニメ風なキャラも、好き嫌いが別れるところだと思うが、私は好きだ。
不幸とか幸福とか
「灯台守の夜」を見ると、人生や幸福について考えたくなる。
人は、自分で思っているほど、幸せでも、不幸でもないのだ。
(ラ・ロシュフコー『運と気まぐれに支配される人たち』 角川文庫 p.26)
現代人の最大の不幸は、「自分が幸せかどうか」を気にせずにはいられないことではないだろうか。長い歴史の中では、ひとりひとりが幸せかどうかなんて、些末なことだった。
自分一人はとても小さくて、小さな仕事しかできない存在だろう。「灯台守の夜」に登場する犬のように。
Flashアニメ「灯台守の夜」は、名作だと思う。
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専業主婦はもっと税金を払え (2003-10-12)
専業主婦はもっと税金を払え
専業主婦は、家事をしているからこそ税金を支払うべきである。
専業主婦は保険料を納めていない
「専業主婦も年金を払え!(2003年9月27日)」への反論・意見メールが、今でも届く。たいてい専業主婦からのメールである。
読者様からのメールには必ず返信を出しているが、同じ事を何度も書くのももったいないので、ここにまとめて書くことにする。
家事労働の値段
よくある反論が、「家事や育児をしている。お金に換算すると年収数百万円もの労働になる」というもの。たしかに、97年に経済企画庁が発表したデータでは、専業主婦の無償労働の年間評価額は、276万に当たるそうだ。
これだけタダ働きしているんだから、保険料なんて納めなくてもよい。むしろ国から給料をもらいたいなんて言う専業主婦もいたりする。困ったものだ。
2つの問題
社会学者の落合恵美子は、『21世紀家族(新版)』(有斐閣選書 1997 p.280)で、これらの議論に対して、反論を2つあげている。
- (a) 家事は独身・共働きの人もしている。専業主婦優遇の根拠にならない。
- (b) 家事は自分の家計に経済的効果をもたらすので、むしろそのぶん課税すべき。
(a)は、私の日記でも書いたとおりである。
働いたら税金を納めよう
(b)については、長くなるが、以下に引用する。
家事・育児は広い意味では社会的労働であるとしても、その直接の効果は主に自分の家庭の生活水準を上げることにある。すなわち、専業主婦が家事をすることは、その世帯の所得を276万円増加させたのと同じだけの経済的効果を家計にもたらす。だから、むしろその分に課税すべきだという正反対の議論すらありうるであろう。
(落合恵美子『21世紀家族(新版)』有斐閣選書 1997 p.280)
わかりやすくかみくだいて言うと、たとえば、家事や育児をこなしてくれる家政婦がいるとする。彼女は年間276万円で雇うことができる。家政婦は276万円の収入を得るわけだから、それには当然のごとく税金がかかるのである。
べつに家政婦を雇わなくても、妻に、賃金を支払って家事をさせてもよい。妻は収入を得た分、税金を納める。当然である。それが今の日本社会での労働というものだ。もしも家事を労働として賃金に換算するのなら、その労働で得る収入には税金がかかってしかるべきだろう。
専業主婦は、税金を払わずに生活水準を上げている分、得をしているのである。(この場合、得をしているのは家計全体である)
家事をしているぶん賃金を支払えなんて主張する主婦がいる。彼女は自分のクビをしめていることに、気がついていない。
専業主婦は家事をしているからこそ、税金を納めるべきである。
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言論と人格は区別されるべき (2003-10-13)
言論と人格は区別されるべき
ある言論を批判したからといって、著者の人格を批判したこといはならない。言論と人格は区別されるべきである。
日記が批判された
10月5日の日記「アダルトサイトからリンクを張られて -1時間で1000アクセス-」が、批判された。批判しているのは「趣味のWebデザイン」というサイトだ。(備忘録:平成15年10月13日付け)
一読し、批判・反論のお手本になるな、と思った。私自身が弱いなと思っていた部分が指摘され、さらに具体的なデータで反論をしている。興味のある方は、私の10月5日の日記を読んだ後、「趣味のWebデザイン」の批判を読んで欲しい。
日記が批判されても、人格が批判されたわけではない。ごくまれに誹謗中傷メールが届くことがあるが、ごく普通の反論や批判は、言論を補完・訂正するのに役立つのである。
言論と人格の区別
欧米人は、事実と人格を厳格に区別するようだ。副島隆彦の『英文法の謎を解く』(ちくま新書 1995 p.41〜43)によると、英語国民に対し、
You are wrong.
と言ったとする。直訳してしまうと、「あなたは間違っている」の意味だ。そうすると、言われた方は、
Thank you for pointing that out, please correct me.
と答えるらしい。意訳すると、「どうもありがとう。それでは私の考えの間違っている点を指摘し、どうか訂正してください」という意味だ。
You are wrong.とは、「あなたの意見・考え・主張は間違っている」というのが、より正確な意味になるだろう。
だから、You arewrong.と言われた人は、「それは、かたじけない。わざわざ、私の考えの間違いや、学識の足りない点を、指摘していただいた。そこで、ついでに、私の思考の欠陥を、修正していただけるならば、そのことが、たとえどんなに小さな事であっても、私は、あなたに心から感謝すべきだろう」これが、Pleasecorrect me.「どうか、私の考えを、訂正してください」なのである。
実際にすべての人がこのように考えるわけではないし、論争になってケンカになることもあるだろう。スラム街の住人に You are wrong.なんて言ったら、生きて帰れないだろう。ある程度教育を受けた人たちだけに通じる英語である。
そこそこの階級の人たちには、前提として、人格と意見を別とする文化があることは、事実だと思われる。
欧米人は、事実についての正しい間違いの訂正と人格の善悪を厳格に区別する。ただし、You are wrong.と言った以上、本当に、相手の考えの誤りを訂正してあげなければならない。
批判されることは悪いことではない。相手にされないよりも、価値があると思う。そして、批判されたとしてもそれは言論に対してであって、人格への批判とは区別されるべきである。
理想論で、現実には難しいことだと思う。でも、せめてこうした理想が共有されて欲しいと思う。
言論と人格は区別されるべきである。
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NHKによるセックスの定義 (2003-10-14)
NHKによるセックスの定義
セックスの定義は、二人以上の人間によって可能となる、快感をともなう性器への物理的接触を含む行為の総体である。
日本人の性行動と性意識
『データブック NHK日本人の性行動・性意識』(NHK出版局 NHK「日本人の性」プロジェクト編 2002)を読んでいる。日本人のセックスについて全国的に調査した結果と分析が書かれている。面白い。
この社会調査は、学術的にも大きな意味のある調査である。セックスに関して、統計的に信用のある社会調査は、これまで行われなかった。週刊誌やエロ本などには、「初体験年齢」などのデータが載っている場合もあるが、統計的には価値はない。
- ある程度サンプル数が多いこと
- ランダムサンプリング(無作為抽出)が成されていること
この2つを満たしていなければ、統計データとしては、信用がない。週刊誌などの読者アンケートによるデータは、
- 読者層が限られている
- 興味のある人の方が積極的に回答する
などの点で問題がある。週刊誌の「初体験年齢」は、厳密な社会調査のデータよりも、低くなる傾向があると考えられるだろう。
ランダムサンプリングは特に重要である。テレビの視聴率を調査する機械は、首都圏の300世帯にしかないことは有名だが、これもランダムサンプリングが出来ているから、300世帯で十分なのである。誤差もあるが、計算可能な範囲である。
NHKが大々的に日本人のセックスについて全国調査を行ったことは、たいへん価値のあることなのである。
セックスの定義
調査するにあたってのひとつの難関が、「セックスの定義」だった。調査委員会でも激しい議論がくりひろげられたようだ。そして、実際に社会調査で使用されたセックスの定義は、次のとおりだった。
ここでいう『セックス』とは、必ずしも性器挿入(膣性交・肛門性交)にかぎりません。性器への接触があり、性的な快感があれば、『セックス』と考えてください。
ただし、『キスする』や『抱き合う』など性器への接触をともなわない行為や『マスターベーション(オナニー・自慰)』はふくめないでください。
(『データブック NHK日本人の性行動・性意識』p.9)
NHKにしては革新的だと思う。この定義には、女性や男性の同性愛者のセックスや、老人のセックスなどが含まれているからである。堂々と肛門性交と書いている点も素晴らしい。(ちなみに16歳の女子も、この調査に回答している。)
この定義によると、テレフォンセックスはセックスではないようだ。また、この定義では、童貞で早漏の男性が女性に性器を手で触られた瞬間に射精してしまった場合、その時点でセックスをして童貞を喪失したことになってしまうが、これで良いのだろうか。
『日本の童貞』(渋谷知美 文春新書 2003)では、童貞を定義づけることを放棄している。童貞の定義は様々であり、一つにしぼれない。厳密な定義はかえってとりこぼしを多くしてしまう(p.20)。
セックスの定義について異論はあると思うが、社会調査という都合上、厳密に定義しないとそこから得られるデータに価値はなくなってしまう。これはある程度仕方のないことだ。
定義のポイント
NHKのセックスの定義でポイントとなるのが、
- 性器への接触
- 一人で行う行為の除外
の2点だろう。一人で行う行為を除外することは、二人以上で、ということである。3人や4人ですることもあるし、輪姦もありえる。「二人以上で」と書かなかったのは、NHKの倫理観によるものかもしれない。
セックスの定義は、二人以上の人間によって可能となる、快感をともなう性器への物理的接触を含む行為の総体である。
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「明快であること」「当たり前でないこと」を目指したい (2003-10-15)
「明快であること」「当たり前でないこと」を目指したい
個人のニュースサイト・テキストサイトは、次の二つを目指すべきである。
- 明快であること
- 当たり前でないこと
つまらん!お前の話はつまらん!
「個人WEBサイト文化研究所2003年10月4日の日記」で、一般的な個人ニュースサイトが批判されている。主旨は、「コメントがありきたりでつまらない。もったいない」というもの。
せっかく個人がワラワラ寄り集まってそれぞれが「ニュース同人誌」みたいなのを毎日セッセと作ってるって言うのに、なんだかもったいないなぁ。と思った秋の午後。
おおむね同意する。しかし、鋭いコメントでニュースを批判的に読んでいるサイトもある。例えば「Irregular Expression」は、私の愛読しているサイトの一つだ。
当たり前でないことを
アメリカの社会学者、ランドル・コリンズは、『脱常識の社会学』(岩波書店 1992)の冒頭で、次のように述べている。
どんな学問も次の二つのことを目指さなければならない。
すなわち、明快であること、そして当たり前でないこと。
ニュースは学問ではないが、文章で読者に伝達・論説する点では共通するだろう。
とくに、「当たり前でないこと」は重要だと思う。他の誰かがやっていることは価値が低いし、他人や世間の常識と同じコメントでは、面白味に欠ける。
中国人集団買春のニュースに、「日本人のモラルが問われる」なんてコメントは、テレビでさんざん聞いている。「中国人じゃなくて日本人を買っていれば問題なかったのに」ぐらいの勢いあるコメントの方が面白い。(これはあくまでも例である)
また、斬新ではなくても、人目につかないような「当たり前でない」ニュースを掘り起こすのも価値があると思う。
個人のサイトは、
- マスコミに取り上げられないようなニュース
- 政治的に弾圧・抑圧されるような少数意見
を堂々と書くことが出来るのである。このメリットを、活かさない手はない。
テキストサイト・日記サイトも同じ
「明快であること」「当たり前でないこと」は、アクセスアップを目指すテキストサイトにとっても、大事なことだと思う。
もともと「当たり前でない職業」についている人なら、その仕事の日記を書くだけでも、人気を集められる。しかし、私のような平凡なサラリーマンは、「当たり前ではない」ことを書かないと、注目されない。
私は最近、「当たり前でないこと」を「明快」に書きたいと思っている。
個人のニュースサイト・テキストサイトは、次の二つを目指すべきである。
- 明快であること
- 当たり前でないこと
(「憂鬱な昨日に猫キック 不安な明日に猫パンチ(2003-10-15)」で、この日記が批判されている。「日記サイトにはただ個人の日常を綴りたいものもある。当たり前でないことを目指す必要はない」という主旨。これはまったく同感。何を書いても自由だと思う。
わかりにくかったが、文中には「アクセスアップを目指すテキストサイトにとっても」と書いてある。
『「明快であること」を目指せ』と主張する文章自体が明快じゃない。反省。もっと精進せねば。
追記:2003年10月16日)
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悩みを解決する方法 (2003-10-16)
悩みを解決する方法
人の悩みは3つに分類できる。「選択」と「統合」と「変化」である。
隣の悩み解決人
テレビをつけたら、日本テレビで『トナリの悩みの解決人』という新番組が放送されていた。
芸能人が一般庶民の家に上がり込んで、説教をする番組のようだ。小倉優子が出演していたので、つい見てしまった。
悩みを3つに分類する
人の悩みは、だいたい3つに分類できる。
- 選択
- 統合
- 変化
以上、3つである。
「選択」は、文字通り選ぶこと。人生に選択はつきもので、結婚や就職など、様々な選択がある。「統合」は、一貫した信念や、こうあるべきと思うこと。自分の価値観と世間との価値観のギャップに苦悩することも多いだろう。「変化」は、ああなりたいと思うこと。キレイになりたいとか頭が良くなりたいとか。誰でも思うし、思うように自分を変えることができないことが多い。
ひとつ例を出してみる。「どうしようもなく不細工で太っている女性(統合)がいて、必死になってダイエットに励んでいる(変化)。このままでは30までに結婚できない(統合と選択)と悩んでいる。」
悩みを解決する方法
この彼女の悩みを解決するには、3つの分類に応じて対処法を変えるとよい。
ダイエットという変化には、「そのダイエット方法じゃダメ。この方法がいいよ」とアドバイス・指導してあげる。
不細工で太っているという統合的な悩みには、「それほど太っているわけじゃないし、不細工でもない。私は太っている女性が好き。」と、嘘でもよいから言ってあげる。
30までに結婚できないという悩みは、統合と選択の両方がからみ合っている。選択的な解決法は、「高望みせずに、あなたにあった人を選ぶこと」と言ってあげる。もしくは、「結婚しない選択肢もあるよ」と新しい選択肢を提示してあげる。統合的な悩みには、「そもそも30までに結婚しなくても良い。結婚したいと思った時が適齢期」と、適当なことを言ってはげます。
これらを全部まとめて相手に言ってしまうと、相手は混乱してしまう。たいていの悩みは、3つが複雑にからみ合っている。冷めてしまったスパゲティのように、なかなかほぐれない。悩んでいる人は、冷めたスパゲティをフォークで無理矢理いじっている。まずは話を聞いて、どのタイプの悩みが根底にあるのかを見極めることが大切である。
統合的な悩みは、上で「嘘でも良いから」「適当なことを言って」と書いたが、ある面でこれは真実である。悩んでいる本人の認知の問題であることが多いので、世界の見方を変えることで、悩みは消える。(あまりやりすぎると、社会に適応できなくなるが。)
人の悩みは「選択」「統合」「変化」に分類できる。それぞれに応じた対処法が効果的である。
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歌詞解剖の自由 (2003-10-17)
歌詞解剖の自由
作者の考えていることを正確に読み解くことだけが、すぐれた作品鑑賞ではない。
歌詞解剖委員会
「ミスチル歌詞解剖委員会」というサイトが面白い。人によってずいぶんと歌詞の受け止め方が異なるようだ。
私は鬱状態のころのミスチルの歌が好きだ。アルバムでいえば『深海』にあたる。
やがて来る“死の存在”に目を背け過ごすけど
殘念ですが僕が生きている事に意味はない「マシンガンをぶっ放せ」
夢も希望もないが、それでも生きている。そんな歌詞が好きである。ボーカルの桜井の、ダークな部分をのぞき込むような感覚がある。
歌詞を解釈すること
どのように歌詞を解釈するのかは自由であり、作者の意図とは異なっていてもかまわない。
「作者の考えにもっとも近いものを、次の4つのうちから選べ」という国語のテストをやらされた経験が、誰にでもあると思う。アマノジャクな私には、苦手な問題だった。問題制作者が期待する解答を選ぶことが、国語の問題を解くポイントだが、ついついひねくれた解答をしたくなったものだ。
去来(俳人)の『去来抄』に
「岩鼻や ここにもひとり 月の客」
という句がある。去来は、歩いているのは去来自身だと言っている。ところが松尾芭蕉が、自分が月見をしていて、そこに他の客がやってきた方が風流だと評した。
俳句のように、情報量が少ない作品は、読み手の想像力によって、世界が変化するのである。作者の考えたことを言い当てられたからといって、すぐれた鑑賞者とは限らないのである。
歌詞も同様で、情報量が少なく、聴き手によって様々な解釈が成り立つ。ある聴き手の解釈が、作者の真意と違っていても、間違いではないのだ。
ミスチルの『終わりなき旅』という歌は、聴き手によって「人生の応援歌」とも「憂鬱な状態での悲痛な叫び」とも解釈可能である。どちらも間違いではないし、そもそも正解はない。(私の解釈は後者である。)
作者の考えていることを読み解くことだけが、作品の解釈ではない。
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男性もレイプされている (2003-10-18)
男性もレイプされている
男性も強姦の被害にあっている。それが問題視されないことが問題である。
ラーメン店店長レイプ事件
池袋の人気ラーメン店店長が女子大生を暴行したニュースをテレビで見た。同じような事件が連続して発生しており、警察は余罪があると見ている。レイプ犯を擁護するつもりはない。厳罰に処すべきである。
男性もレイプされる
女性がレイプされた事件は報道されるが、男性がレイプされた事件は聞いたことがない。
- 男性による男性へのレイプ
- 女性による男性へのレイプ
の2つがあることは事実なのだが。
女性でも男性をレイプすることは可能だ。ある枠組みの中ではむしろ女性が中心になって男性をレイプすることもある。オセアニアのトロブリアンド諸島では、女性による輪姦が行われている。
トロブリアンドでは、ヤウサとかカツヤウシとか呼ばれる女性による性的な攻撃がしばしば見受けられた。村の共同除草作業のとき、女たちによる男のレイプがおこなわれていたのである。見知らぬ男が通りがかると、女たちはよってたかって男の下腹部を露出させ、いろんないたずらをしてペニスを勃起させる。一人の女がその上にのって事をすますと、別の女性が代る代る輪姦し、さいごに男の身体のあちこちにおしっこをひっかけた。
(山内ひさし『タブーの謎を解く』ちくま新書 1996 p.204,205 )
文化や人によってセックスは大きく変わる。レイプ犯は男性とは限らない。
1%の30代男性が強姦被害者
現代の日本はどうだろうか。男性にも強姦された人が多いことが、NHKの調査によって明らかになっている。
調査によると、30代男性の1%が、膣性交や肛門性交を強制されたことがある、と答えている。データは、『データブック NHK日本人の性行動・性意識』(NHK「日本人の性」プロジェクト編 2002)のp.235による。質問内容は、
「あなたは、これまでに自分がまったく望まないのに次のような性的被害(ちかん、強姦など)を受けたことがありますか。(あてはまるものにいくつでも○を)」
である。「性器挿入(膣性交・肛門性交)を強制された」に、30代の男性の1%が○をつけた。
事件が報道されることがないので、私たちは男性の強姦被害については意識しない。「強姦」と聞けば、すぐに「男性から女性へのレイプ」を思い浮かべてしまわないだろうか。現実には、男性も強姦の被害にあっているのである。
男性から男性へのレイプも、女性から男性へのレイプも、重大な犯罪であることは間違いない。しかしそのことがまったく問題視されず、存在すらしないかのように私たちは思い込んでしまっている。そのことが問題ではないだろうか。
男性もレイプの被害にあっている。それが問題視されないことが問題だ。
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強姦と和姦の境界線 (2003-10-19)
大岡裁き!「強姦か?和姦か?」
強姦と和姦の境界線は、曖昧である。
勃起したから強姦じゃない?
昨日の日記「男もレイプされる(2003-10-18)」に対し、「男が勃起したんだから、拒絶はしていない。強姦ではない」という御意見を女性の方からいただいた。とんでもない誤解である。これは、「最初は嫌がっていたけど濡れてきて相手も感じていた。よって強姦ではない」と自分の都合の良いように解釈する男性と同じである。
性的に興奮しなくても、刺激を与えてやれば勃起するのだ。私が小さい頃、「ゴッドハンド遊び」という遊びが一部で流行った。眠っている相手の性器を勃起させるのである。実際やられると、精神的ダメージが大きい。
強姦か和姦か?
強姦なのか和姦なのか、線引きが難しい場合がある。たとえば私なら、モー娘。になら輪姦されてもかまわないと思う。いや、むしろ輪姦されたい。でもそのへんのおばさんに無理矢理暴行されたら、強姦として訴えるかもしれない。
医学博士の小倉千加子が書いた『セックス神話解体新書』(ちくま文庫 1995 p31,32)に、おもしろいエピソードがあるので、紹介しよう。セルバンテスの小説『ドン・キホーテ』の一説である。
「ある裁判所に一人の娘が強姦されたと訴え出た。裁判官は、被告の青年にむかって、その娘と結婚するか、さもなくばそうとう多額の慰藉料を支払うか、どちらかにせよと命じた。青年は慰謝料を支払う方を選び、金が娘に渡された。娘は帰っていった。すると裁判官は青年に、
『娘を追いかけていって、金を取り返してこい』
と命じた。いぶかしく思いながらも青年は、娘を追いかけていった。そして力ずくで娘から金を奪おうとしたが、娘は非情ながんばりをみせて、猛烈に抵抗したので、ついに青年はその金を取り返すことができなかった。裁判官は改めて二人を呼んだ。そして娘に件の慰藉料を青年に返してやれと命じて、こう言い聞かせた。
『もしお前が、その金を奪われては大変だと思って防いだようにお前の貞操を防いだならば、お前の純潔は奪われなかったはずであるぞ』」
人情味なしの大岡裁きだと思う。お見事である。彼女は抵抗はしたが、必死ではなかった。どこかでセックスを楽しんでいる部分もあった。
強姦と和姦に、はっきりとした境界線はないのだ。
強姦と和姦の境界線は、曖昧である。
Yas的日常
テクニカルエンジニア(ネットワーク)試験を受けてきた。出来はまあまあ。来年1月の合格発表を待つ。
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会社人間にはなりたくないものだ。 (2003-10-20)
会社人間にはなりたくないものだ。
会社と社員との関係は、お互いに「利用する者される者」である事が望ましい。
特命業務の命が下される
社長から私に対し、特命業務の命令が下った。実質的には左遷で、損な仕事を押しつけている可能性も高い。
仕事中に、突然プロジェクトリーダから呼び出しをくらった。新規の案件を取りたいから、必要な技術を調査・研究・習得せよ、とのこと。社長から特命業務の指令が出たそうだ。面白そうな仕事だが、残業が多くなりそうなので、やりたくない。残業は嫌いなのである。
未開の仕事を私に割り当てるということは、私は人柱なのだろうか。
会社人間にはなりたくない
仕事人間ならまだ良いが、会社人間にはなりたくないものだ。会社人間とは、
会社への帰属意識が強く、会社の仕事に没頭し、家庭を顧みず定年まで1つの会社に身をささげるというイメージの人々
(松野弘『サラリーマン社会小辞典』講談社現代新書 2001 p.242)
という高度経済成長期を支えた人種のような人のことである。
私は会社への帰属意識が弱い。オフの日は名刺を持ち歩いていない。中高年のサラリーマンに、「会社員としてなっていない」と叱られたことがあった。休みの日ぐらい、会社とは無関係でいたいではないか。
また、会社の仕事に没頭していない。出来るだけ仕事が少なくなるよう努力している。また、定年まで働くとは考えていない。そもそも定年までに、私が勤めている会社は潰れると予想している。
30年後には、多くの企業が倒産し、そのぶん新しい企業が興されるだろう。今の会社に奉公する必要はない。私はボランティアが嫌いだ。ボランティア大好き人間がひとりでも少なくなって欲しいと常々思う。
利用する者される者
会社と社員は、お互いに利用し合うことが大事である。現実には会社が社員を搾取しているケースがまだまだ多い。会社とてボランティアで事業をしていない以上、個人もまた会社に奉公する必要はない。お互いに「利用する者される者」という関係を築き、その均衡を維持することが重要だ。
会社と社員との関係は、お互いに「利用する者される者」である事が望ましい。
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女性が採用されない本当の理由 (2003-10-21)
女性が採用されない本当の理由
労働基準法では、経営者が労働者を採用するにあたって、男女差別を禁止してはいない。
女性は早く帰宅する
資料をまとめるため、残業をしていた。女性社員は定時でとっとと帰ってしまっている。楽しそうに家に向かう姿を見ると、くやしい思いでいっぱいになる。よく残業する社員は、たいてい男性である。仕事の量も、男性の方が多い。
女性は結婚したら辞めちゃう事が多いので、重要な仕事を与えたくないのだ。それが使用者のホンネだろう。結婚しても働くことは可能だ。でも残業は出来ない。家でお腹を空かせて待っている子どもを放置して、残業は出来ないだろう。
男女は平等ではない
意外に知られていないことだが、労働基準法では、採用において男女を差別することを禁止してはいない。男女平等や採用における差別禁止は、第3条と第4条で規定されている。
第3条「使用者は、労働者の国籍、信条または社会的身分を理由として、賃金、労働時間その他の労働条件について、差別的取り扱いをしてはならない。」
第4条「使用者は、労働者が女子であることを理由として、賃金について、男子と差別的取扱をしてはならない。」
かんたんに説明すると
- 賃金だけは男女平等でなければならない
- 国籍や宗教によって差別はしてはならない。(男女差別はOK)
ということだ。第3条に、「男女」や「性別」の2文字が欠落していることに注目していただきたい。憲法や民法など、その他の法律では、「男女平等」がもちろん基本であるが、労働基準法では、男女の差別は禁止されていないのである。
男女雇用機会均等法という意味のない法律
男女雇用機会均等法が成立し、男女が平等になっていると主張する人がいるかもしれない。たしかに均等法では、採用において男女差別は禁止されている。たとえば、「フロアレディ募集」は違法で、「フロアスタッフ募集」は合法である。しかし、均等法では、経営者に対しほとんど制裁がないのである。
信号無視をして横断歩道を渡る人は多いが、車を運転していて信号無視をする人はあまりいない。なぜならば、車を運転している場合、道路交通法違反で本人が罰せられるという制裁があるからである。横断歩道を信号無視で渡っても、せいぜい叱られる程度である。
男女雇用機会均等法に違反しても、経営者に罰則はない。最近になって改正され、改善勧告にしたがわない企業の名前を公表する、という社会的制裁が発せられるようになった。それだけなのである。
世の中には、罰則の強い労働基準法にすら従わない企業が数多く存在する。残業代の不払いをはじめ、長時間の残業や休日出勤など、枚挙にいとまがない。罰則のある法律にすら従わないのに、どうして罰則の弱い法律に従うというのだ。経営者から見れば、男女雇用機会均等法なんてものは、ほとんど無視である。セクハラについては神経をはらうが、人材採用時には男女差別をする。
来年に就職を控えている女子大生は、差別されると思っていた方が良い。(この日記を女子大生が読んでいるとは思えないが)
労働における男女差別は、法律上でも現実的にも、厳然として存在する。
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他人に迷惑をかけなければ何をやってもよい (2003-10-22)
他人に迷惑をかけなければ何をやってもよい
判断力のある大人ならば、自分にとって不利益なことでも、他人に迷惑をかけなければ、何をやってもよい。
「喫煙で病気になった」と訴え
「喫煙で病気になった」として、肺がん患者ら6人(うち3人死亡)が日本たばこ産業(JT)や国などに6000万円の損害賠償を求めた訴訟のニュースをTVで見た。有害で中毒性があるものを売った方に、責任があると訴えていた。
JTは、「一定のリスクを承知で喫煙した以上、賠償責任はない」と主張している。私も同意する。タバコが身体に悪いことは、誰でも知っている常識である。
自由主義の原則
売った方が悪いと主張するなら、彼は自由を放棄し、管理社会の住人になるしかない。タバコを吸う自由がない社会に、私は住みたくない。(ちなみに私は、タバコは一切吸わない)
自由主義の話で必ず引用されるのが、J.S.ミルの『自由論』である。「他人に迷惑をかけなければ何をやってもよい」と彼は述べた。
自由主義の原則については、加藤尚武(京都大学文学部教授)が再定式化している。
- 判断能力のある大人なら、
- 自分の生命、身体、財産に関して、
- 他人に危害を及ぼさない限り、
- たとえその決定が当人にとって不利益なことでも、
- 自己決定の権限をもつ。
以上、『現代倫理学入門』(講談社学術文庫 1997)の p.167より引用。
話がそれるが、この自由主義の原則は、物事を考えるときの良い判断材料になると思うので、覚えておいて損はない。
愚かな行いをする権利
加藤は、自分にとって不利益な行為、愚かな行いをする権利を、「愚行権」としている。
タバコを吸う行為は、この「愚行権」の行使にあたる。タバコという有害で自分にとって不利益な行為を、迷惑のかけない範囲で行っている。20歳未満の人にタバコを吸う権利がないのは、身体に悪いからではない。判断力がない大人なので、自己決定権を持てないのである。「大人だってタバコを吸ってるじゃん。俺達がすって何が悪いの?」と主張する若者には、「若いから自由がない」と答えるしかない。愚かな行いであることは、程度の違いはあるが、大人も子どもも同じである。
タバコで肺ガンになって国を訴えた人は、自分が「愚行権」を行使していることを理解できていない。自らに不利益なことでも、リスクを理解した上で、自由に行動できるのである。
一番大きな問題は、判断力のない大人が自由を享受しすぎていることだろう。判断力は、自由主義の前提であるのだ。(そのため、ミルは教育の重要さを主張したのだが、はたして十分な教育がなされているか、疑問である)
判断力のある大人ならば、自分にとって不利益なことでも、他人に迷惑をかけなければ、何をやってもよい。
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結婚すると半人前の人間になる (2003-10-23)
結婚すると半人前の人間になる
結婚してはじめて一人前になると言うが、現実には結婚すると半人前の人間になる。
結婚してこそ一人前の人間
「結婚してこそ一人前の人間だ」という説教を、何度も聞かされている。あまり幸せそうに見えない人ほど、「結婚して一人前」と主張する人が多いように思える。気のせいかも知れないが。
ともかく、結婚するのがまともな人間であって、結婚していない人間は半人前だという考えは、一般に流布している。しかし、現実的には、結婚している人の方が、半人前なのである。
奴隷のパラドックス
古代ギリシアにも同じような言説があった。当時は奴隷制社会で、「奴隷を持ってこそ一人前」と言われていた。しかし、実際に奴隷を所有し、身の回りの一切の世話を奴隷にやらせるようになると、主人は何もすることがなくなってしまう。次第に、自分一人では何もできない半人前の人間になってしまうのであった。
ようやく一人前になったのに実は半人前になってしまっているという逆説が面白い。
結婚しても半人前になる
結婚も同様である。結婚することで、いままで一人で出来ていたことが出来なくなってしまう。
男性は洗濯の仕方や料理の仕方を忘れ、給料の運び屋に成り下がってしまう。
女性、とくに専業主婦の場合はもっとひどい。半人前にすら達しない。労働市場からドロップアウトすることで、働いて給料をもらう能力がなくなってしまう。その結果、一人では生きていけない人間になってしまうのだ。専業主婦は、ダンナにパラサイト(寄生)して生きていくしかない。
男性は女性に比べて、まだ一人前に近い。一人になっても、食事に困ることもないし、掃除・洗濯も掃除機や洗濯機がやってくれるのである。専業主婦は、寄生先である夫がいなくてはいきていけない、半人前の人間になってしまうのである。
世の中には、半人前のパラサイト主婦が多い。
結婚すると半人前の人間になる。
(2003/10/25補足:専業主婦は自律・自立していないからダメ。という主張ではない。ただ半人前だという事実であって、半人前に対する価値判断は考えていない。一人前であることを果たそうとした結果、半人前の人間になってしまうという逆説を述べたまでである。ただ、私情により感情的な文章になってしまったことは認める。反省。
「Hugo Strikes Back!(2003年10月24日付け雑記)」でこの日記が批判されているが、私は労働することが偉いという絶対的な信仰を持ってはいない。むしろなるべくなら働かないで暮らしたい。そしてまた、極端なジェンダー・フリーな社会が良いとは思ってはいない。性差が消えると、セックスが困難になる。詳細は割愛するが、「男も女も男性化するようなマッチョな世界は僕には肌が合わない」という著者の感覚には共感を持つ。
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労働力再生産の責任 (2003-10-25)
労働力再生産の責任
「結婚してこそ一人前」は、言いかえると「労働力を再生産してこそ一人前」ということである。
親になってはじめて一人前
昨日の日記、「結婚すると半人前の人間になる」に対し、批判の声があがっている。
- むしろ親になってはじめて一人前では?
- 女性の場合は、子どもを産んで一人前だと思う。
- 家庭を築いて一人前だ。
など、多数の意見をうかがった。その通りだと思う。認めざるをえない。昨日はツメが甘かった。
子どもを産むこと、つまり労働力を再生産してこそ、社会からは一人前と見なされるのであろう。
労働力再生産
社会学の定義では、子どもがいない家庭を「家族」と認めない場合がある。この定義に私は同意しない。だが、家族には「労働力を再生産し、市場に労働力を提供する」機能があり、これを果たしていない家族は家族と見なさない場合があるのだ。
子どもを産まない人は、社会から非難や圧力を受けることがある。結婚すると、「お子さんはまだ?」と聞かれる人は少なくない。独身の人も含めて、労働力再生産の責任を果たしていない人は、理想的な存在としては見なされない。
社会学者の山田昌弘は、『近代家族のゆくえ』(新曜社 1994)で、次のように述べている。
マルクス主義フェミニズムが出した結論の一つに、家族は、その外部の市場に労働力を供給する装置に他ならないというテーゼがある。子どもを産み育てる、(中略)など、市場に労働力を供給するためのさまざまな「責任」(これを「再生産の責任」と呼ぼう)が家族に負わされている。この再生産の責任を損なう現象が「家族問題」と見なされて、関心を集める。
(山田昌弘『近代家族のゆくえ』新曜社 1994 p.41)
責任をいかにして果たすか
家族には再生産の責任がある。そして人間は社会システムの維持のため、労働力を再生産しなければならない。それゆえ、「結婚してこそ一人前」と言われてしまうのである。
ただし、私は、直接的な労働力を再生産しなくても、一人前の人間に成りえると言いたい。
世の中がまだ単純だった農耕社会や工業社会ならば、「三年子なきは去れ」と言って、子どもを産まない人間に価値は認められていなかっただろう。しかし今は成熟した複雑な社会である。子どもを産んで、単純な労働力を再生産することの価値は、昔よりも低い。労働力再生産にエネルギーを注ぐよりも、他のことに力をいれたほうが、社会のためになることもある。マザー・テレサが子どもを産まなくても、誰も非難はしないだろう。
労働力再生産の責任を、私たちは背負っている。
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専業主婦というリスク (2003-10-25)
専業主婦というリスク
現代の専業主婦は、家族にとっても自分にとってもリスクが高い。
専業主婦批判ではないのだが
「結婚すると半人前になる(2003-10-23)」への反論が多い。専業主婦を批判したつもりではなかったが、専業主婦批判と受け止められたようだ。論点がずれてしまっているのだが、私の専業主婦に対する基本的な考えを簡単に書くことにする。
専業主婦成立条件
歴史的にみれば、専業主婦という存在は特殊である。専業主婦が一般化したのは戦後で、高度経済成長期の産物である。戦後、夫は会社で仕事をし、妻は家で育児・家事をするという役割分担が成立した。
しかし、オイルショック以降、専業主婦は徐々に減少している。専業主婦が専業ではいられなくなったのである。
落合恵美子は、一般的なサラリーマンの主婦が主婦としていられる条件として、次の3つをあげている。(『21世紀家族へ(新版)』 有斐閣選書 1997 p.248)
- 夫が死なないこと
- 夫が失業しないこと
- 離婚しないこと
社会学者の山田昌弘は、この3つに加えるかたちで、
- 結婚できること
- 夫の給料が上昇し続けること
の2つを追加条件としている。(山田昌弘『家族というリスク』勁草書房 2001 p.171-172)
夫の給料が上昇することは、外せないポイントである。年を重ねる事に、生活費は増大する。
- 子どもの教育費
- 住宅ローン
の費用が高く、40代、50代に負担が大きくなる。
なぜ専業主婦になりえたのか
専業主婦として存在できるためには、先ほど挙げた条件を満たさないといけない。なぜ、多くの主婦が専業主婦になりえたのか。
それは、
- (A)結婚と離婚への強い規範
- (B)終身雇用・年功制という日本的雇用慣行
の2つが戦後の社会に存在していたためである。戦後の日本はみんなが結婚し、そして離婚しなかった。離婚した人への風当たりは、今よりもずっと強く、離婚したくても出来なかった。また、終身雇用・年功制が一般的であり、会社に就職すれば一生の生活保障が得られた(得られる期待があった)のである。
この(A)と(B)の二つの条件があることで、先ほどの専業主婦成立条件のうち、「夫が失業しないこと」「離婚しないこと」「結婚できること」「夫の給料が上昇し続けること」を満たすことが出来たのである。
消えゆく専業主婦
さて、現代はどうだろう。(A)の規範は、ゆるくなっている。離婚件数は年々増加し、離婚に対するネガティブな意識も弱くなっている。結婚しない人への世間の目も、昔よりは冷たくない。
(B)の日本的雇用慣行は、崩壊や解体へと向かっている。サラリーマンの中で、定年まで同じ会社で働くことが出来て、給料も上がり続ける、と考えている人は少ないだろう。
以上のことより、(A)と(B)の条件がなくなれば、必然的に専業主婦ではいられないのである。現にアメリカでも、戦前は専業主婦が多かったが、雇用の流動化と離婚率の増大により、専業主婦の数は激減した。日本も同じような傾向にあると言えよう。
危険なのは、こうした現状を認識していない専業主婦である。専業主婦は今やハイリスクである。よっぽど自信のある人ならよいが、平凡なサラリーマン家庭では、きわめてリスクが高い。夫の会社が倒産しただけで、家庭が大きく揺らぎ、労働力再生産が不可能になってしまうのである。
現状と、これからの未来を考えると、専業主婦はハイリスクなのである。
専業主婦はハイリスクである。
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専業主婦は働かなくてもかまわない (2003-10-26)
専業主婦は働かなくてもかまわない
専業主婦はべつに働かなくても良い。また、働いているからといって自立しているとは限らない。
前提の誤解
今日も専業主婦の話題。テキストサイトやメールでの反論が多いので、再反論をする。
まず私は、「専業主婦は自立していない。自立するために働きに出るべき」と主張したことは一度もない。「自立」という言葉すら使ったこともないし、「専業主婦は自立していない」と述べたこともない。「働いて自立すべき」とも述べていない。(嘘だと思ったら、過去の日記を読み返してほしい)
反論の中で多かったのが、
- 働いたからといって自立しているとは限らない
- 自立することがそんなにいいことなのか
- お互い依存しあって生きていってもいいじゃないか
というもの。どうも話がずれている。専業主婦がダメだなんて言っていない。「専業主婦はリスクが高い」「労働力再生産の責任がある」「結婚すると半人前」と述べたことはあったが、それは事実認識であり、「一人前の人間として自立するために働くべきだ」と主張したわけではない。
「専業主婦はハイリスク」という事実に対して、どのような価値判断を下すか、どんなアクションを起こすのかは、個人の自由だろう。
- 働きに出る
- 夫の失業に備えて、無茶な住宅ローンは組まない
- ぜいたくな暮らしをしない
などの選択があるし、「ギャンブルが好きだから、ハイリスクな人生はむしろ歓迎」と考える人だっているだろう。本人の人生観や価値観で決めることである。ただ私は、「専業主婦はハイリスクだ」という私の事実認識を提示したにすぎない。
社会システムから個人の位置付けを考えれば労働力の供給源という視点が出てくるのは納得できるけれど、それを個人の自立や人間の価値観に結びつけるのはとても強引なことに思える。
と「Hugo Strikes Back!(2003-10-25)」が反論しているが、これはそのとおりというか、個人の自立や価値観に結びつけようだなんて考えるのは強引だし、私は結びつけていない。
「専業主婦は自立していないので働くべき」という言論が、読者の多くに共有化されていたため、誤解が生じてしまったのだと思う。私の意図しないところで、「自立」「働くべき」論に転じてしまった。
働かなくてもかまわない
専業主婦は働かなくてもかまわない。家庭内での役割分業がうまく機能していれば、それで十分だろう。ただし、今後、今までと同じやり方ではうまくいかないかもしれないし、専業主婦のリスクが高いことは事実である。その事実に対してどうアクションをとるのか、どんな価値判断を下すのかは、各個人が考えるべきではないか。
人生や家族を、ひとつの型に押し込めることはない。「家族とはかくあるべき」という押し付けは、好きではないし、うまく機能しないだろう。住んでいる場所、同居している人間、家計の収入、人生観によって、家族はさまざまなスタイルをとりうるのであり、自分の家族にとって最適な家族戦略を立てるべきなのである。
専業主婦は働かなくてもかまわない。自分の家族にとって最適な家族戦略を立てるべき。
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Flashと感謝と (2003-10-28)
Flashと感謝と
今日は雑記。良かったFlashと感謝のことば。
たのしいプーンミン一家
Flash「たのしいプーンミン一家」。ムーミンのオープニングのパロディ。2ちゃんねるFlashだから、万人にはお勧めできないけど、クオリティは高い。笑えるFlashではなく、しんみりとするFlashだと思う。ムーミンのオープニングって、こんなに悲しい曲だったのか。忘れていた。
ちなみにムーミンの中で私が一番好きなキャラは、スナフキン(無職)。
スナフキン(無職)のセリフが好きだ。
「あんまり誰かを崇拝するということは、自分の自由を失うことなんだ」
(「哲学的な何か、あと科学とか」の「哲学的名言集」より)
誰か一人を崇拝して生きるほうが、ずっと楽ではあるのだが、私は自由でいたい。
感謝
話は一転。先日から続いている専業主婦について。今日でひとまず終結する。
まず、丁寧な反論文と謝罪を書いてくださった「Hugo Strikes Back(2003年10月27日付け雑記)」には感謝したい。(どうもありがとうございます。m(__)m 誤解を招くような文章であったことも認めます。)
一人前・半人前という言葉の意味をまず定義し、そこから話を展開すべきだった。
ただ1点だけ、反論・補足したい。
結婚してそこまで依存するというのは一般的なのだろうか? そもそも、ご飯を食べる準備をするとか、掃除、洗濯とか、あるいは仕事をしてお金を稼ぐという行為は特殊な(やらなくなると失われてしまうような)能力なのか?という気がします。
労働市場にも原因があるが、いったん市場から離れてしまうと、価値は激減する。日本の社会は、一度ドロップアウトしてしまうと、復活が難しい。
国民生活白書では、「出産・子育てによる就業中断・再就職後の賃金格差による金銭的損失額は4,400万円」と試算されている。さらに、「出産・育児による就業中断中の賃金約1,900万円を加えると、出産・育児による就業中断・再就職後の損失額は合わせて約6,300万円」というデータがある。金銭的損失のグラフ
労働市場から離れて、数年間専業主婦をやっても、働けなくなるわけではない。でも、労働市場からは価値の低い人間と判断されてしまう。(本来なら、もっと給料をもらってもいいのに)
多くの専業主婦は、正社員として仕事に復帰できない。正社員として復帰しても、4400万円の生涯賃金格差がある。
4400万円という生涯賃金の差を、小さいと見るか大きいと見るかは人それぞれだが、私は大きい金額だと思う。
感謝その2
「柿柳助教授の加齢な世界」で、私のサイトが紹介された。
プログラマYasさんのサイトはなかなかおもしろい。この人、わたくしよりはるかに社会科学系の新書本を読んでいる。きちんと原典を引用するので、非常に判断がしやすい文章になる。わざと物議を醸すトピックを選んでいるようだが、常識的な日常に埋没している人からは多くの非難が来そうだ。
正直、うれしい。社会科学の助教授から、部分的にでも評価してもらえたことが、とてもうれしい。
助教授が予測されたとおり、専業主婦からの非難メールが多かった。この紹介文を精神的な支えにし、今後も更新していきたい。
(正直、非難メールは精神的にツライ。読まなきゃいいんだけど、ちゃんと返事を書いてしまう。)
まとまりがない文章で申し訳ないが、今日はこのへんで。明日から正式復帰予定。
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医療用ソフトウェアには欠陥があるか-完全なソフトウェアは存在しない- (2003-10-28)
医療用ソフトには欠陥があるか
完全なソフトウェアは存在しない。医療用ソフトも例外ではない。
医療用ソフトウェア業界
先日、医療用のソフトウェアを開発している技術者と飲む機会があった。ここ最近は医療事故、医療ミスが相次いでる。私は以前から気になっていた質問をぶつけてみた。
「やっぱり医療用のソフトでもバグ(プログラムのミス、ソフトの欠陥のこと)はあるんでしょう?」
「もちろんあります。まだ命にかかわるようなバグはありませんけどね」
「まだ?」
「ええ。クリティカルな部分(命にかかわるような重要な部分)はしっかりテストしますからね。でもどうしてもテストに漏れはありますよ」
「まあ、バグのないプログラムなんてないですからね」
医療に関わるソフトウェアに、バグはあってほしくないものだ。でも現実にはバグは存在するのである。
完全なソフトウェアは存在しない
アンドリュー・ハントとデビッド・トーマスは、著書『達人プログラマー システム開発の職人から名匠への道』(ピアソン・エデュケーション2000)で、「完全なソフトウェアは存在しない。歴史上、完全なソフトウェアが作られたこともないし、これから作られることもないだろう。完全なソフトを作ろうとすることは、時間とエネルギーの無駄である」と述べている。
私の少ない経験から言えば、たしかに完全なソフトや、バグのないソフトは存在しない。市場に出回っている、私が開発に関係したソフトにも、バグは含まれている。欠陥を含んだまま、元気に稼動している。
ソフト開発もビジネスでやっている以上、ある程度の品質のソフトを、そこそこのコストで作らねばならない。ユーザーもそれを望んでいる。完璧なソフトだけど値段がべらぼうに高いソフトは売れないのである。
医療用であれば、多少コストはかかっても、しっかりテストすべきだろう。しかし完璧なソフト開発には時間と費用がかかりすぎる。できたとしても値段が跳ね上がり、患者の医療費も影響がでるだろう。
私たちは、欠陥がある程度の確率で発生するというリスクを負いながら、さまざまなソフトウェアと共存していくしかないのだ。
完全なソフトウェアは存在しない。
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珍走団は廃棄物以上 (2003-10-29)
珍走団は産業廃棄物以上
珍走団は、少なくとも産業廃棄物以上ではある。
裁判官が「暴走族は廃棄物以下」
話題のニュースを。
少年審判で裁判官が「暴走族は廃棄物以下」 公判で父親ら証言
茨城県三和町で6月、暴走族の少年が仲間を集団暴行し死亡させた事件に絡み、水戸家裁下妻支部の裁判官が7月に行われた少年審判で「犬のうんこは肥料になるが、暴走族は何にもならない産業廃棄物以下だ」などと発言していたことが27日、分かった。
2ちゃんねるでも、この話題は盛り上がりを見せている。大多数が珍走団を罵倒し、日ごろのストレスを解消しているようだ。珍走団とは暴走族の別名である。知らない人は、「珍走団をお呼び」を。
珍走団は迷惑行為をするが、存在理由がまったくないわけではない。あえて珍走団を弁護してみよう。
珍走団の良い影響
珍走団が社会に対して与える良い影響は2つある。
- 一般市民に優越感を与えてくれる
- 規範や道徳を明確にしてくれる
1は多くの人が感じることだろう。掲示板をのぞいてみれば、そこには珍走団への罵倒や悪態の数々がある。それを読めば、「ああ、私は珍走団のメンバーような激安人間にならなくて良かった。私はたしかに会社ではこき使われる平凡なサラリーマンだけど、彼らに比べればまだマシだ」と思える。
2は、簡単に言えば反面教師。ダメな人間の見本ということである。珍走行為をTVなどで見ることで、「ああいう人に迷惑をかける行為はやってはいけない」という規範や道徳を知ることができる。子供を持つ親ならば、テレビで珍走団の様子が放送されたとき、子供に「あんな風に他人に迷惑をかけちゃいけないよ」と教えるだろう。珍走団がいることで、何が規範から逸脱していているのかが明確になるのである。
この世にいてはいけないのか
珍走団の犯罪行為をふくめ、逸脱的行動は、社会にとってデメリットばかりとは限らない。珍走団の犯罪行為も、道徳や社会のルールを教えることに役立ったり、一般市民にストレス解消の機会を与えてくれるのである。
デュルケムの『社会学的方法の規準』(岩波書店 1978 宮島喬訳 p.157)から、引用しよう。
犯罪は必然的かつ必要なものである。すなわち、犯罪はいっさいの社会生活の根本的諸条件に結び付いており、しかもまさしくそのために有用なのである。なぜなら、犯罪が緊密に結び付いている右の諸条件は、それ自体、道徳および法の正常な進化にとって不可欠なものだからである。
少なくとも、珍走団のメンバーは、産業廃棄物以上ではある。
法廷で父親は発言に対し「(息子が)この世にいてはいけないのかなあと思った」と語った。
この社会で生きている以上、何をやっても、誰かにとっては、有益である。「この世にいてはいけない」なんてことはない。
珍走団のメンバーは、少なくとも産業廃棄物以上である。
追記:2003/11/4
『趣味のWebデザイン』の「備忘録平成15年11月4日」で、この日記が批判されている。主旨は、「産業廃棄物の価値を考慮せずに珍走団と比較をし、珍走団は産業廃棄物以上とするのは論理の飛躍である。産業廃棄物の方が存在意義があり、社会にとって価値がある」というもの。
この反論はもっともで、私も自覚していた。産業廃棄物の価値を定めずに比較はできない。この日記ではあくまでも裁判官の「何のやくにもたたない産業廃棄物以下」という発言に対して、「そんなことはない」という反論をしているにすぎない。裁判官も、産業廃棄物の社会的意義について考えたわけではなく、「役に立たないもの」を意味する比喩表現として使用した考えられる。少なくとも私はそう解釈したし、それを前提にして日記を書いた。
裁判官が、珍走団は無価値で産業廃棄物以下と発言したので、私はそれを否定しただけである。「珍走団は役に立たない産業廃棄物以下などではない」が適切な表現だったと思うが、面白みにかけるので、「産業廃棄物以上」とした。
言葉通りに、誠実な態度で「珍走団」と「産業廃棄物」の価値を比較するならば、「備忘録平成15年11月4日」で反論したような手順を踏まねばならないだろう。
追記ここまで:2003/11/4
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年収が低いほど結婚できない (2003-10-30)
年収が低いほど結婚できない
年収と未婚率には関係があり、年収が低いほど未婚率が高い。
結婚とお金は無関係か
飲み会での話題。ある男性(未婚)が、「結婚するのに年収なんて関係ないよ」と言い放った。私は反論し、「いや、関係ありますよ。年収が低ければ結婚できにくいはずです」と言い返したが、相手はさらに「あなたは結婚というものをわかってない。結婚ってそういうもんじゃないんだよ」と言ってきた。
さて。現実をわかっていないのはどちらだろうか。
年収が低いほど未婚率が高い
統計的なデータを見てみよう。国立社会保障・人口問題研究所の調査結果をグラフ化してみた。
30歳から34歳までの男性の未婚率を年収別にグラフ化したものである。ぱっと見ただけで、年収の低いほうが未婚率が高いことがわかるだろう。
未婚率は、「200-300万円未満」が54%、「300-400万円未満」が33%、「700-1000万円未満」12.5%となっている。年収が高くなるにつれて未婚率が低い、つまり結婚している人の割合が多いのである。
年収と結婚は関連する
「年収と結婚は関係ない」という主張は、本人の信念や願望であって、現実とは異なる。現実はもっとシビアだ。
結婚相談所の入会案内のハガキを見てみると、そこにはたいてい「自分の年収」を書き込むスペースがある。あれはただの飾りではない。結婚は年収によって変わるのである。
「収入が低くて結婚できない」と嘆いている人に、「収入と結婚できるかできないかは無関係」とアドバイスすることは、単なる気休めにしかならないのである。
年収が低いほど未婚率が高い。
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人間のタイプを4つに分けてもかまわない。-血液型性格判断批判への批判- (2003-10-31)
人間のタイプを4つに分けてもかまわない
血液型性格判断の批判は、批判になっていないことも多い。「人間を4つにわけてはいけない」という批判が典型的である。
飲み会で血液型の話題
飲み会があった。同じテーブルの人とは初対面で、適当な仕事の話題ばかりだった。酔いが回るにつれ、話題は血液型の話になった。私は血液型性格判断はまったく信仰していない。信仰者が主張するような血液型と性格との関連は、今のところは立証されていない。
だからといって、酒の席でそんな事は口にしない。いやむしろ積極的に血液型の話題に応答する。血液型についての会話の中で、相手がどんな人間かを知り、自分がどんな人間かを知ってもらえる。血液型性格判断も、人間関係の潤滑油として機能する場合があるのである。
人間を4つに分けちゃいけない?
会話ははずんでいたのだが、ある人(B型)が、「人間を4つに分けちゃいけないよ〜」と笑いながら反論してきた。会話が、「B型人間はダメ」という流れになったので、物言いをつけたのだろう。
同様の反論は多い。「人間の性格は多様で、ひとりひとりが違うもの。人間の性格を4つに分けることなんかできない」という、聞こえの良い反論である。(悪く言えば偽善的な反論)。
しかし、これは反論や批判としては適切ではない。人間を4つに分類することは、間違いではない。
分類・類型論
心理学で有名な分類は、クレッチマーの3類型だろう。クレッチマーは、人の気質を3つに分類した。
- 躁うつ気質
- 分裂気質
- 粘着気質
この分類にはもちろん批判はあるが、分類が妥当かどうかという批判であって、「人間を3つに分けてはいけない」という批判は聞いたことがない。
血液型で分類はできるか
心理学者の菊池聡のほとんど受け売りになってしまうが、「人間を4つに分けること」は問題ではない。
- その分類が妥当性を持つものか
- 血液型で分類することに根拠はあるのか
以上2点が問題なのであり、「人間を4つにわけちゃいけない」という批判は、批判になっていない。
最近は血液型性格判断を撲滅しようという意識ばかりが先走って、適切でない批判をする人も散見される。よく聞くのは、「多様な人の性格が4つなんか分けられるはずがない」という批判である。しかし、「何らかの基準によって4つに分ける発想」自体に本質的な問題があるとは言えない。もちろん分類する際の境界線が分かりにくい欠点はあるが、性格をタイプで分類するという発想自体は心理学でも類型論という考え方で受け入れられている。
(菊池聡『超常現象の心理学』平凡社新書 1999 p.133)
血液型性格判断を批判している人の中にも、正しく批判できていない人が多い。
人間のタイプを4つに分けてもかまわない。
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