必要なのは統計的事実 -血液型性格判断否定の否定- (2003-11-01)
血液型性格判断否定の否定
「A型なのに几帳面じゃない人もいる」からといって、血液型と性格との関連を否定できるものではない。必要なのは統計的事実である。
血液型でよくある反論・否定論
昨日の「人間のタイプを4つに分けてもかまわない。-血液型性格判断批判への批判- (2003-10-31)」の補足を。典型的な血液型性格判断否定論がもう1つあるので、その否定論そのものを否定しておきたい。
一般に、「A型は几帳面でまじめ」「O型はおおらか」という信仰が、血液型性格判断の信者にはある。うなずいている人も少なくないと思う。
これに対して、「A型でもおおらかな人はいるし、O型でも几帳面でまじめな人もいる。だから血液型と性格は無関係」という、これまた聞こえの良い否定論がある。
血液型-性格相関説は、「A型の人は必ず几帳面」と言い立てているわけではない。「血液型が性格に影響を与えるため、A型の人には几帳面な人が多い」ということを言っているにすぎない。よって、いくらA型でおおらかな人がいたからといって、血液型と性格を無関係とすることはできないのである。
女はおしゃべり?
ずいぶん前のことだが、ある教養娯楽番組で、「電話時間を調べると男性よりも女性のほうが長電話をしている。女性は男性よりもおしゃべりである。」という統計データと理屈が、放送されていた。
それを見た専業主婦が、「ウチのダンナは私よりもおしゃべりです。なので女性は男性よりもおしゃべりだというのは間違いです」と反論していたことがあった。笑ってしまうかもしれないが、こういう反論を放送局の掲示板に書き込む人がいるのだ。
もし仮に、女性の9割がおしゃべりで、男性の3割がおしゃべりだったとしよう(おしゃべりの定義はおいておく)。女性にもおしゃべりじゃない人もいるし、男性の中にもおしゃべりな人もいる。でも、統計的に見て、女性のほうが圧倒的に男性よりもおしゃべりであることは間違いない。
血液型も同様である。いくらA型の人に几帳面でない人がいるからといって、その1つの例で「血液型と性格は無関係」とすることはできないのである。
必要なのは統計的事実
統計的に見て相関関係が見られるかどうかが重要であり、たった数人だけ「A型で几帳面な人」を見つけたからといって、血液型と性格とには関係があるとは言えない。逆に「A型なのに几帳面じゃない人」を見つけたからといって、血液型と性格の関係を否定できるものではないのである。
血液型学に限らず、おおよそすべての性格理論は統計的なものであって、集団全体の傾向としてしかとらえられない。
(中略)
必要なのは個々の事例ではなく、統計的な事実なのである。
(菊池聡『超常現象の心理学』平凡社新書 1999 p.134)
「A型でもおおらかな人はいるし、O型でも几帳面でまじめな人もいる」。ここまでは正しい。でもそれを根拠にして、「だから血液型と性格は無関係」とは言えないのである。
重要なのは統計的事実である。
(念のため付け加えておくと、もし二つの変数に相関関係が見られたとしても、原因と結果の関係になっているとは限らない。統計的に血液型と性格に関連があっても、血液型が原因で性格に影響が出ているとは限らない。インターネット利用時間とひきこもりの人との間に相関関係があり、インターネット利用時間が長いほどひきこもりの人が多い、という関係があったとしよう。ここから、インターネットがひきこもりの原因だとは必ずしも言えない。原因と結果が逆で、ひきこもっているからこそインターネット利用時間が長いのだ、とも言えるのである。相関関係があったとしても安直な原因-結果の判断は危険である。)
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血液型と性格は相関する -血液型性格判断反論への反論- (2003-11-02)
血液型と性格は相関する -血液型性格判断反論への反論-
血液型と性格との間には非常に弱い相関が見られる場合もある。統計的に血液型と性格が無関係であるというわけではない。
統計的事実はないのか
さて、昨日に引き続いて血液型の話。「心理学者の研究によって、統計的に性格と血液型とに関連があるという事実は認められていない。よって血液型と性格とは無関係」という反論がある。反論の仕方は正しいが、前提が必ずしも正しいとはいえない。統計的にみて、性格と血液型との間に、弱い相関関係が見られる場合があるのである。
嘘から出たマコト
結論から言うと、血液型性格判断への信仰そのものが、自分の性格に変化を与えたり、性格検査の回答に影響を与えてしまうので、統計的に見た場合に、血液型と性格との間に関連が見られる場合があるのである。
血液型性格判断を信じている人で、血液型がA型ならば、性格検査で「几帳面」「まじめ」といった内容に「よくあてはまる」と回答しやすい。
また、性格判断だけでなく、幼いころからの性格形成において、血液型性格判断が影響を及ぼすことも多いにありえる。
なので、統計的に「血液型と性格との間には相関がある」というデータが出てくるのは、とくに不思議ではない。
しかし、統計データから血液型性格判断を肯定できるわけではない。
- 肯定派が主張するほど、相関は強くない
- 血液型による影響ではなく、血液型の自己認識(自分はA型だ、B型だ・・・)が影響を与えている
の2つが理由である。
血液型と性格が関係あるように見えるということも、そういう事実の反映ではなく、認知的なバイアスによってもたらされたものかもしれません。なぜなら、観察者はしばしば、血液型と性格の間には関係があり、A型はこういう性格、B型はこういう性格…という信念(あるいは「理論」)をすでに持ってしまっています。このような眼鏡で観察すれば、そのように見えるかもしれません。なぜなら、関係のある部分だけクローズアップして感じられ、強調的に記銘されやすいからです。
「血液型性格判断は疑似科学か?」(Yasufumi SHIBANAI)
統計的なデータとしては、「血液型と性格」には関連がある場合もある。しかし、だからといって血液型が原因とは限らない。
それよりも、認知的なバイアスや、「A型の人は几帳面で・・」といったステレオタイプ化の方が、性格に与える影響は強いと思われる。
統計的に、血液型と性格との間には非常に弱い相関が見られる。しかし、血液型が直接の原因とは断定できない。
Yas的日常
まったりと3連休を楽しんでいる。毒男(独身男性)3人で焼肉を食べたり、家族連れで賑わうファミリーレストランの中でランチを食べたりと、充実した休暇を過ごしている。TSUTAYAで「猟奇的な彼女」を借りてきたので、これから独りで見る予定。
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血液型で不採用になる -血液型による人種差別- (2003-11-03)
血液型による人種差別
血液型性格判断の罪は、血液型による差別が行われ、現実に被害を受けている人がいることにある。
血液型で差別される。
今日も血液型性格判断の話。とりあえず今日で最終回。
「あんまり理屈っぽい話は抜きにして、血液型性格判断を楽しめばいいんじゃない?」という意見がある。これはもっともであって、私も同感である。神社の「おみくじ」と同レベルぐらいになればよいと思っている。
しかし現実には、娯楽のレベルを超えて、血液型という生まれ持った属性によって不当な差別を受けることがあるのである。
私の友人から聞いた話だが、その友人の勤める会社では、「B型」の人間は決して採用しないという。理由は、社長がB型の人間が嫌いだからである。
私が以前勤めていた会社でも、採用試験の前のアンケートには、血液型を記入する欄があった。入社後に話を聞くと、どうやら「A型」「O型」は優遇され、「B型」「AB型」はなるべく採用しない方向らしい。
検索エンジンで同じような体験談を探してみたところ、面接で血液型を問われた例が見つかった。
面接で「家族全員の血液型は?」と聞かれて、「性格と関係あるのかなぁ?」と思い、普通に答えたら、次は「親のどちらに顔が似てる?」…そんなの業務に関係あるのか? 採用になりましたが、あまりの不信感に辞退しました。(ビーさん・26歳・求職中)
(ソース)
こんなものは特殊な例で、大企業やほとんどの企業では血液型による差別はない、と思われる方もいると思う。しかし、門田秀夫の『人権問題入門』(明石書店)によると、某化粧品会社が女子社員採用にあたって血液型によって採点基準を変えていたことが発覚している。
また、菊池聡(心理学者)の『超常現象の心理学』では、批判的な文脈の中で、
血液型を人事に利用したことがある企業は、名前を挙げれば誰でも知っている一流電機メーカーや住宅会社、製薬会社など数多くある。これらの企業では、たとえば特定の血液型の社員でプロジェクトチームを組むとか、役員を各血液型で揃えるとか、履歴書に血液型を書かせて配置の参考にするというような形で血液型が「活用」されているのだ。
(菊池聡『超常現象の心理学』 平凡社新書 1999 p.125)
と、血液型による差別の例を挙げている。
生まれながらの属性による差別
血液型という生まれながらの属性で、差別を受けてしまうことが現実にはある。前近代社会ではないのだから、「生まれながらの身分」「出身地域」などで差別を受けてはいけないはずなのである。もし「あなたは埼玉県民だから採用しない。埼玉県民は劣等意識が強くて仕事には向かない」なんてことを言われたら、黙っていられないだろう。
差別による被害は、たいていB型かAB型の人が受ける。B型やAB型には、ネガティブなイメージがあるとされている。
日本人の場合、A型とO型が約七割を占め、AB型はわずか一割に過ぎない。企業社会の中の女性差別や少数民族差別などと全く同じで、「多数派が力を持って、少数派を差別する」構図がここにもはっきりと見て取れる。
(菊池聡『超常現象の心理学』 平凡社新書 1999 p.129)
ありもしない真実が多数派によって支持され、少数派の人間を差別する。同じようなことを、歴史においても、人間は繰り返し行っている。その歴史的事実から、私たちは何かを学んでいるはずなのだが。
たしかに血液型性格判断を娯楽として楽しむことができれば、それでよい。でも楽しんでいる人は、「多数派」であって、自分にとって不利益のない人たちなのではないだろうか。
現実に血液型による差別が存在し、多数派が少数派を差別する構図が見て取れる。
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「メリーさんの羊」のメリーさんは、小さな女の子 (2003-11-04)
メリーさんは小さな女の子
童謡「メリーさんのひつじ」のメリーさんは、小学生ぐらいの小さな女の子である。
思い込みの恐ろしさ
思い込みというものは恐ろしいものである。今日の今日まで、「メリーさんのひつじ」のメリーさんが、中年のおばさんだと思い込んでいた。原詩では、メリーさんは小学生ぐらいの小さな女の子なのである。
「メリーさんのひつじ」の英語の原詩をExciteテキスト翻訳にかけてみた。日本語になっていない部分や、おかしな部分(「笑いおよびプレー」など)があるが、あえてそのまま残した。
1. メアリーは小さな子羊を飼っていました小さな子羊、小さな子羊およびメアリーは小さな子羊を持っていました。その羊毛は雪のように白かった
2.Everywhere、メアリーは行きました、メアリーは行きました、メアリーは行きました、Everywhere、メアリーは行きました、子羊は必ず行きました。
3. それはある日学校へ彼女に続きました、訓練する、ある日、訓練する、ある日、それは、学校へ彼女に1日続きました、それは規則に反しました。
4. それは子供を笑わせました、そしてプレー、笑いおよびプレー、笑いおよびプレー、それは子供を笑わせました、そしてプレー、学校で子羊を見るために
5. それで、教師はそれを回しました、それを回した、それを回した、それで、教師はそれを回しました、しかし、それはまだ近くとどまりました。
6. そして、根気よく根気よく根気よくぶらぶらして待たれ(ほぼ)、メアリーが現われるまで、根気よくほぼ待たれました。
7.「なぜ子羊はそのようにメアリーを愛していますか。」メアリー、したがって、メアリー、したがって、「なぜ、子羊愛メアリーをそのように行う?」熱望している子供は叫びました。
8. 「なぜ、メアリーはその子羊を愛しています。」ラム、ご存じのように、子羊、ご存じのように、「なぜ、メアリーはその子羊を愛しています。」その後、教師は返答しました。
(原詩は「■世界の民謡・童謡 メリーさんの羊■」を使用した。)
驚かれた方も多いのではないだろうか。Maryは、子供たちのいる学校に行っているのである。そして羊とはとても仲がよく、Maryの帰りをじっと待っていたりするのだ。
世間が抱いていたイメージ
メリーをおばさんだと思っていたのは、ひょっとして私だけかもしれない。そこで、Googleのイメージ検索などで調べてみた。まず、「メリーさんのひつじヨーグルト」なる商品を発見した。このヨーグルトの容器に描かれているメリーさんは、どうやら中年女性のようである。
さらに調べてみたところ、今度は「メリーさんの羊(再演)」という演劇のパンフレットを見つけた。なんと、ここでは、中年からやや老年にシフトしつつある女性がメリーさんを演じている。しかも劇中の設定では、メリーさんには息子がいる。
どうやらメリーさんは、「おばさん」あるいは「おばあさん」というイメージを抱いている人が多く、それが日本では定着しているようだ。
あえて言おう、「メリーたん」と
このような誤解が生じてしまったのは、日本語訳が「メリーさん」だったためだろう。小学生ぐらいの女の子だったら、「メリーちゃん」が自然である。では、なぜ「メリーちゃん」ではなく「メリーさん」だったのだろうか。おそらく歌うときの語感が悪かったからではないだろうか。「メリーちゃん」では言葉が長いし、音もきれいではない。
日本語に訳された原詩をよく読んでみると、萌えキャラとしての潜在能力を感じる。ならば、「メリーたん」としてはどうだろうか。「メリーたんのひつじ」というタイトルにし、歌詞も「メリーたん」に変更するのだ。音も綺麗だし、「さ」が「た」に変わっただけなので、言葉の長さの問題もない。そのうえ小さな子供も親しみやすい。
すくなくとも、作詞者の意図を大きくゆがめてしまわないような歌詞にするべきだろう。
「メリーさんのひつじ」の「メリーさん」は、小学生ぐらいの女の子である。
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バカな政治家の存在理由 (2003-11-05)
バカな政治家の存在理由
国会議員の中にはバカな人もいるが、それはバカの代表としてバカに選ばれたからである。
衆議院総選挙迫る
選挙が目前である。各政党の有力者が毎日テレビで論説を繰り返している。参議院議員の選挙とは違って、候補者の面々はそれほどバラエティ豊かではない。
とくに参議院についてだと思われるが、たまに耳にする話に「なんであんなバカが国会議員をやってるんだ。あんなバカがいるから国がよくならないんだ」というものがある。電車の中で酔っ払ったおじさんが息巻いているのを、たびたび目にする。
具体的に誰とは言わないが、たしかに「ちょっとあの国会議員は・・」と思うことがある。しかし、はたしておじさんが言うような「バカな国会議員」の存在理由はないのだろうか。
国会の役割
国会と国会議員の果たす役割を整理してみる次のようになる。
- 法律の制定
- 内閣総理大臣の選出
- 政府の監視・統制
- 代表機能(国民の代表)
抜けがあるかもしれないが、だいたいこの4つになると思う。法律の制定などは当然だし、それ以外についても異論はないだろう。
そして4番目が基本的かつ重要である。国会議員は国民によって選ばれた代表者で、民意の代表なのだ。
バカの代表
国会議員は国民の代表である。福沢諭吉も述べているとおり、社会には賢い者と愚かな者がいる(『学問のすすめ』参照)。国民の投票によって選ばれるのだから、愚かな者、つまりバカな者の代表も選ばれて当然なのである。国会議員の中にバカな者がいなければ、民意が反映されているとは言えないのだ。
バカによってバカな国会議員が選び出され、バカの代表としてバカな発言をする。これらは決して無駄ではない。そのようなバカな議員がいなければ、バカの意見は届かない。
バカな議員にも立派な存在理由があるのであり、飲んだくれて酔っ払ったおじさんは、その議員よりも賢いかもしれないが、国会議員としては不適切なのである。おじさんは平凡な存在であり、誰かを代表することなど出来ないのだ。
バカな議員はバカの代表である。
追記:とくに誰かを批判するつもりではないし、自分が「バカ」ではない。と主張するつもりもない。(2003/11/5)
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選挙制度の不完全性 (2003-11-06)
選挙制度の不完全性
欠点のない完璧な選挙制度は存在しない。
アローの不可能性定理
選挙に限らず、多数決による選出は、投票者の意思が正確に反映されているとは限らない。
- 「あなたが選ぶミステリベスト10」
- 「モー娘。人気投票」
などの投票によるランキングも、ファンの嗜好がそのまま反映されているとは限らない。
経済学者アローが1951年に発表した、有名な定理がある。(「アローの不可能性定理」)
アローにより、以上の条件を満たすならば、「社会の中の個人はそれぞれ個人的な選好を持ち、そうした各人の選好を総計すると社会全体の選好を得ることができる」という(ごく普通に考えると)民主的な意思決定が不可能なことが示された。
選択肢が3つ以上になると、数学的に見て完全な集計方法は存在しない。たとえば、「あやや」「あいぼん」「みきてぃ」という3人の女性の中で、誰が一番人気なのかを投票によって決めようとしても、社会全体の人気が完全に反映されることはないということである。
完璧な制度はない
多数決による選出が不完全であるため、完璧な選挙制度は存在しない。それゆえ、国ごとに選挙制度が異なるのである。その国の状態や民族性に応じて、適切と思われる制度を組み合わせている。
衆議院議員選挙の小選挙区制と比例代表制の並立も、お互いのメリットとデメリットを考慮した上での制度である。小選挙区制では、少数意見が反映されないが、候補者を直接選ぶことができる。比例代表制は、少数意見もその数に応じて反映されるが、人選はできない。
完全な選挙制度は不可能ではあるが、私たちはその不完全な制度とうまくつきあっていかなければならない。
欠点のない完璧な選挙制度は存在しない。
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女子高生はマグロか (2003-11-07)
女子高生はマグロか
女子高生に限らず、多くの女性はマグロである。
女子高生の性経験と反省
『高樹洸のWebColumn』の「女子高生の性経験と反省(2003年11月6日)」が興味深い。主旨は、「女子高生はセックスに前向きで経験の数も多いが、中身はとぼしい」というもの。
極端に言うなら、女子高生をナンパしたらすぐにホテル直行だったけど、ベッドの上では完全にマグロ、なんていうパターンです。ナンパされてホテル直行でもいいんですけど、それだけ積極的なら、ベッドの上でももっと積極的でもよさそうなものです。そういうアンバランスさを感じるのです。
説明を加えておくと、マグロとは、「セックスするときに横たわっているだけの人」のこと。良い意味では使わず、セックスに不満があったときに用いられる言葉だ。
セックスの行為
はたして現代の女子高生はマグロなのだろうか。統計データを見てみよう。
『データブック NHK日本人の性行動・性意識』(MHK「日本人の性」プロジェクト編 NHK出版2002)のp.201のデータを元に、グラフを作成した。「問16 【問8で1(過去1年間にセックスをしたことがある)と答えた方へ】ふだん、その人とのセックスで次のような行為はありますか。(あてはまるものにいくつでも○を)」というのが質問内容だ。データのうち、16−19歳女性、20代女性、30代女性のみ抽出。27の回答項目のうち、能動的な行為を意味するものだけをとりあげた。
グラフをざっと見てみると、次のようなことが分かる。
- 行為が豊富なのは20代女性
- 若いほど膣性交をする
- 能動的な行為(口で相手の性器を刺激する等)は、どの年代も多くない
- どの年代でも、マグロと思われる女性が多い
たとえば、「相手の性器を口や舌で刺激する」は、「16−19歳女性」が53%、「20代女性」が63%、「30代女性」が46%となっている。個人的な意見だが、もっとこの数字は高くてもいいんじゃないかと思う。
さらに、「相手の乳房・乳首を口や舌で刺激する」は、「16−19歳女性」が33%、「20代女性」が32%、「30代女性」が17%となっている。個人的な意見だが、もっともっとこの数字は高くてもいいんじゃないかと思う。
数字を見る限り、女子高生のような若い世代では、セックスの行為は豊かではない。20代女性と比較すると、若干だが貧しい。しかし、女子高生だからといって、特別マグロが多いわけではない。多くの女性が、マグロなのである。
セックスは本能による行為ではない
セックスは本能で行える行為ではなく、学習によってはじめて可能になる行為である。本能であるならば、なぜ、こんなにも生殖と無関係な行為を行うのだろうか。なぜ、20代女性の5%が肛門性交を行っているのだろうか。
マグロ化を防ぐためには、性教育が必要なのである。行為の場面において、どのような行動をとったらいいのか、人間はわからないのだ。
女子高生に限らず、女性の多くはマグロである。
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「運命」のたたき売り -猟奇的な彼女- (2003-11-08)
運命のたたき売り
絶対的であるはずの「運命」が、最近では安く叩き売りされている。
猟奇的な彼女
『猟奇的な彼女』を見た。韓国で大ヒットとなったラブストーリー映画。たんなる萌え萌え映画かと思ったら、意外に感動作で驚いた。韓国人に感動させられるとは。
映画からのメッセージの1つに、「運命は努力をする人に偶然という橋を架けてくれる」というものがあった。いいセリフだな、と最初は思ったのだが、よく考えるとおかしい。努力をしなければ橋を架けてくれないのならば、それは運命とは呼ばないのではないか。運命とは、本人が努力しようが、何をしようが、変更することのできない未来の決定事項なのではないか。
運命は切りひらけるか
今の日本を見てみると、
- 運命や未来は自分の手で切り開くもの
- 自分から積極的に行動してこそ、運命の出会いが訪れる
- 家族は運命共同体。ともに運命を共にする
などの思想が強い。しかしイスラム文化圏では、絶対的な神が運命を決めているので、人は神を信じ、運命にまかせるしかないという信仰が強い。インドネシアのジャカルタ・アスリという集団も、運命を絶対的なものと信じている。
ジャカルタ・アスリの間では家族は運命共同体ではないのです。「家族たすけあって苦境に耐え、運命をきりひらいていこう」といったことは、彼らには想像もできないでしょう。運命というのは、アラーの神のおぼしめしにより一人ひとり異なるものなのであって、家族同士で努力したところでアラーのおぼしめしを微動だにさせることはできないと思っているのです。
(原ひろ子『子どもの文化人類学』晶文社 1979 p.43)
もしひとりの韓国人がどんなに努力しようとも、運命の視点からすれば、「それが何か?」の一言で「終了」である。運命とはそれほど絶対的なものであり、逆にいえばそういう絶対的なものを、人は「運命」と呼んでいたのではなかったか。
運命は変えられる?
信仰や宗教は自由である。「運命を変えられるもの・努力によってはじめて与えられるもの」という考えを持つことは、非難されるべきではない。しかし、それにしても「運命」が安くたたき売りされていると思う。
電車の中吊り広告を見たところ、ある雑誌広告にこう書かれていた。
「運命を変えた! 専業主婦の再就職成功談」
「運命」とはこんなにも安くなってしまったのか。たかが専業主婦の再就職で「運命」なんて言葉を使っていいのか。「運命」に失礼である。
専業主婦の再就職が困難であることは知っている。しかし、それは「運命」ではないだろう。
絶対的であるはずの「運命」が、最近では安く叩き売りされている。
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等しく選挙権が与えられている本当の理由 (2003-11-09)
等しく選挙権が与えられている本当の理由
国民に投票権が等しく与えられている理由は、公正に代表者を選出するためではなく、代表者が正当性をもって支配するためである。
投票しなくても結果は同じ
投票に行ってきた。私の一票で結果が変わるとは思ってない。ただ投票したという満足感が欲しいだけなのかもしれない。
『世捨て人の庵』(「世捨てコラム/みんなにあげるな選挙権」)が面白い。筆者であるAZMA氏は、「確率的に、自分の1票で結果が変わることはないから、投票には行かない」と述べている。そのとおりだと思う。自分も同じように考えている。
全員が投票しなければいけないという発想がそもそも古い。これはギリシャの直接民主制を引きずった考えである。統計力学の教えるところによれば、選挙のサンプルは有権者の1%(任意抽出)でも十分正確な結果が得られる。現在の投票率は50%前後もあり、多すぎるくらいである。テレビの視聴率なんか数百万世帯の動向をわずか数百世帯のサンプルで測定しているのである。
全員が投票する必要はない。選挙の当選者速報では、まだ開票途中にも関わらず当選者がわかってしまう。統計処理により、すべての投票結果がわからなくても、全体の結果が分かってしまうのである。
国民の数パーセントをランダムに抽出し、その人だけに選挙権を与えて投票を行っても、選ばれる代表者は同じだろう。
支配の正当性
しかし、支配者が大衆を支配する上では、選挙権をすべての人に与えたほうが良い。
社会学者のマックス・ウェーバーは、支配する力(権力)を、4つに分類した。
- 自発的服従
- 説得による支配
- 威嚇による支配
- 暴力による支配
選挙によって選ばれた支配者による支配は、「説得による支配」である。「みんなが選んだ人だから」という単純だが強力な説得力をもつ理由によって、大衆を支配できるのである。
これはある意味で「暴力による支配」よりも恐ろしい。なまじ説得力があるだけに、大衆は反抗できにくい。かつて青島都知事が、「みんなが私を選んだのだから、私の公約である『都市博の中止』は実行して当然」と言い、実際に都市博は中止になった。その結果の良し悪しは置いといて、「みんなが選んだ」という事実に基づいた支配は、説得力があるだけに、大衆は逆らいにくいのである。
等しく投票権がある理由
支配者は、強い支配力を求める。大衆を動かしたり、口を封じ込めるための権力が、支配者には必要である。そのためには、「説得」「暴力」「威嚇」などが必須である。
代表者の選出は、ランダムサンプリングが可能であれば、数パーセントの国民の投票でも結果は同じである。しかしその投票方式では、「みんなが選んだ」という説得力のある権力が、支配者に与えられないのである。国民に等しく投票権を与え、投票させることによって、支配することに正当性を持たせているのだ。
一部の人にだけ投票させようが、国民全員に投票権を与えようが、選ばれる人は同じである。しかし、国民全員に投票権をあたえることで、「みんなが選んだ」という説得が可能になる。これにより、「説得による支配」という、ある意味では恐ろしい権力を、支配者が持つことができるのである。
国民に選挙の投票権が等しく与えられている理由は、公正に代表者を選出するためではなく、代表者が正当性をもって支配するためである。
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投票率は低いほうが良い? (2003-11-10)
投票率は低いほうが良い?
選挙の投票率は、昔もそれほど高くはなかった。また、投票率が高いことは、必ずしも良いことではない。
衆議院議員選挙の投票率
選挙が終わり、各メディアは「民主躍進」と騒ぎ立てている。一方で、低い投票率を嘆く声もある。「選挙に行かなかった人は政治に文句をつける資格なし」「こんな投票率では、民意が反映されているとはいえない」という暴論や意見が、あちこちで見受けられた。
今回の選挙の投票率は、総務省の発表によると、小選挙区では59.86%だったという。はたして、これは低い数字なのだろうか。これまでの衆議院議員選挙の投票率を調べて、まとめてみた。
いわゆる55年体制が出来た、55年の選挙では、投票率は75.84%である。69年では68.51%。そして2003年は58.86%。
30年以上も前から、7割を切るような投票率だったのである。偉そうに「最近の若い者は政治に関心が・・・」なんて言っているおじさんたちがいる。彼らが若かった時代から、すでに投票率は高いとは言えなかったのだ。
「今の人は政治に無関心で・・・」と、偉そうに説教できる水準ではない。
低投票率のメリット
また、投票率が低いことによって生じるメリットがある。もっとも大きなメリットは、「質の向上」である。政治に無知で関心のない人が投票しないことにより、優れた人選が可能になる。
仮に、20歳を過ぎても珍走団(暴走族)でバイクを乗り回している有権者がいるとしよう。彼らが、
「ヤバイ。超ヤバイ。『高速道路無料化』だって。民主党に投票すると、タダで高速走れる。マジでヤバイ」
とか考えて、民主党に投票してしまう可能性があるのである。(べつに民主党を批判しているわけではなく、短絡的な考えで投票を行うことで、投票のレベルが落ちてしまうことを批判している。)
有権者登録制と言って、ある一定のレベル以上の人間にしか投票権を与えない制度が、他の国にはある。日本にはそれがない。したがって、投票率を上げてしまうと、選挙そのもの、民主主義の質自体が落ちてしまうのである。投票率が高いのも困りものなのである。
55年体制のもとでは、6割〜7割の投票率であった。問題なのは、投票の質は高かったのかどうか、である。特に自分の考えもなく、周囲の人間にあわせて、自民党に投票していた人も多かったはずである。特に地方では、社会的圧力が高いため、都会よりも投票率が高い。そして自民党支持率も高い。地方に利益をもたらしてくれる人を選び、熱心に投票した。その結果、今の日本がどんな状態になったかは、言うまでもない。
低い投票率を嘆く以前に、投票の質を問うべきなのである。
選挙の投票率は、昔もそれほど高くはなかった。また、投票率が高いことは、必ずしも良いことではない。
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知的障害者やボケ老人に投票権は与えるべきか (2003-11-11)
知的障害者やボケ老人に投票権は与えるべきか
知的障害者やボケ老人に投票権を与えることは、必ずしも良いとは限らないし、悪いとも限らない。
知的障害者に投票を強制
施設職員が、知的障害者に自民党へ投票するよう強制させていた事が明らかになった。「障害者更生施設職員4人を逮捕 投票干渉の疑い 和歌山」(asahi.com)
まったくとんでもない事件である。似たような例は、発覚していないだけで、他にもあるのではないだろうか。障害者施設で組織だって行えばバレてしまうが、近所のおじいちゃんを無理矢理選挙会場に連れて行けば、出来ないことはない。スーパーの「卵安売りお一人様2パックまで」という特売で、無理矢理子供を連れて行くようなものである。
知的障害者には、程度の差はあるが、判断力がないと思われる人もいる。ボケた老人もしかり。労働者の中にもいるだろう。はたして、これらの人々に、投票権を与えるべきなのだろうか。
エリートには複数票を
たまに耳にする意見が、「俺に100票よこせ! バカな人間と同じなのはおかしい」というもの。(半分は冗談で言っているのだろう。)
エリートには複数票を与えるべきだという理念や思想は、決して否定しきれない。愚かな「大衆による専制」を防ぐことができるからである。比例代表制を強く主張した、J.S.ミルも、この考えを示している。
政治的な場面においては、たとえば大多数の白人が少数の黒人を差別する法律を支持したり、大多数の貧しい人々が、少数の土地所有者の土地を没収する法律を支持したりということが起きうるとミルは考えた。
とくにミルがおそれたのは、普通選挙 (貧富の差にかかわらず市民全体に選挙権を与えること)によって貧しく学のない大勢の労働者階級が、少数の知識階級を数で圧倒し抑圧することであった。そこで、その対策として、知識階級に複数の投票権を与える複数投票、貴族ではなく大学の教授や元政治家などによって構成された上院、(中略)などを唱えた。
(「多数者の専制」)
これは、「まだ大衆が十分に教育がなされていないならば」という条件がつく。ミルは普通選挙制の提唱者であり、少数派の意見が鏡のように反映される比例代表制を強く主張した。
どちらが正しいのか
民主主義には、「愚かな大衆による専制」という危険性がつきまとう。だからといって、エリートに複数票を与えてしまうと、民意が議会に反映されない。そして少数意見が届かず、エリートにとって都合の良い社会が作られてしまう。
さて、知的障害者には投票権を与えるべきだろうか。思想にもよるので、どちらが正しいのか、一概には言えない。与えても、与えなくても、どちらもそれなりに正当性をもっている。
- 知的障害者だろうと、民意であることには変わらない
- 知的障害者に投票させたら、政治を理解している優秀な人間が選出されない
現実的な話だが、知的障害者やボケた老人に投票する権利があるのは、その数が少数だからである。たいした影響はないし、そもそも投票に行くこと自体が困難である。だったらはじめから投票権を与えれば良いのである。
もし、超々高齢化社会が到来し、国民の60%がボケ老人となったら、おそらく投票権は剥奪されるだろう。
知的障害者に投票権を与えることは、必ずしも良いとは限らないし、悪いとも限らない。
(追記 2003/11/11:読者様から、「投票率は低いほうが良い? (2003-11-10)」と「バカな政治家の存在理由 (2003-11-05)」は主張が矛盾しているという指摘があった。それに回答するつもりで、今日の日記を書いた。
- バカの代表としてバカも選ばれるべき
- バカは投票しないほうが良い
という2つの思想は、どちらか一方だけではいけない。両者がうまくバランスをとって、共存しなければならない。各個人がどちらかの立場に立つことは、自由である。
この2つの考えは、どちらも正しく、どちらも問題を含んでいる。その問題の上に、今の選挙制度が成り立っている。)
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完璧なソフトやサイトを目指すべきか (2003-11-12)
完璧なソフトやサイトを目指すべきか
タダで利用できるソフトやサイトのコンテンツは、完璧でなくても良い。
カウンターリセット
このサイトのアクセスカウンタがリセットされ、0(ゼロ)に戻ってしまうことがときどきあった。そのたびに、だいたいの数字を再設定していた。
カウンタはフリーのプログラムを利用し、サーバ上で動かしている。調べたところ、プログラムに問題があったので、問題点を修正し、再びサーバ上にアップした。
フリーソフトやタダで提供しているプログラムの作者に、文句は言えない。バグ(プログラムの欠陥のこと)があるソフトを提供し続けるなんて無責任だ、という意見もあるし、その無責任さがソフトウェア産業自体を滅ぼすという主張もある。
私の考えでは、フリーソフトが氾濫すると、ソフトウェア産業界が潰れ、結局はソフト作者自身の首をしめることにも繋がると考えている。
簡単に例えるなら、1000円のラーメン屋の前で、入手先不明の安いラーメンを売っているのと似たようなものなのである。
普通の味のラーメンをタダで配っていれば、みんなタダのラーメンをもらいに行くだろう。その結果、ラーメン屋さんはその地区への出店をひかえてしまう。ラーメン屋による競争が起きず、その地区の人は、おいしいラーメンを食べることができなくなってしまう。
無料というのは、恐ろしい一面もあるのである。(恐ろしいことだが、プログラマの給料が下がることも考えられる)
完璧を目指すべきなのか
しかし、多少のバグ(欠陥)があったとしても、フリーでソフトを提供することは、より大きなメリットがあると思う。商品には出来ない独創性のあるソフトや、小回りの効くコンパクトなソフトは、フリーソフトの最大の魅力である。
たとえ細かいバグがあったとしても、私は利用するだろう。ソフトを欠陥のない状態にするコストがもったいない。
「1年先の完璧なソフトより、今日の素敵なソフト」を、私は望むし、ユーザーも期待するだろう。
ホームページの情報
個人で作成しているホームページの中には、便利な情報を公開しているものが多い。その中には、情報の間違いや正確さを欠くものもある。作成者は、間違いのない、完璧なコンテンツ作成を目指すべきだろうか。
私は、完璧(complete)なコンテンツよりも、十分に良い(good enough)なコンテンツを目指したほうが良いと思う。完璧さにこだわって全体の質や情報量を犠牲にするのは、もったいない話である。
利用者は、完璧ではないことを承知の上で、利用すべきなのである。
タダで利用できるソフトやコンテンツは、完璧でなくても良い。
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日本人の発情期は冬 (2003-11-13)
日本人の発情期は冬
日本人は、冬に妊娠する人が多い。
星座と交通事故と
「うお座に事故多い? 道警が星座別に分析」(北海道新聞)というトンデモ報道があった。報道する方もどうかと思う。新聞社と警察との間にも、複雑なしがらみがあるのだろう。
- メディアが喜びそうな情報を警察が提供した
- 警察がいい加減に作った情報を、新聞社が嫌々ながらも報道した
このどちらかだと思う。
「うお座」に事故が多いのではなく、そもそも「うお座」の人間の人口が多いのではないだろうか。そう思って統計データを調べていたら、それとは別に面白いデータが見つかった。
冬は寒いから
北海道は冬が長く、そして寒い。ゆえに、冬は家にこもってセックスしやすいらしい。
北海道とか青森って初体験がけっこう早いんですよ。彼らが言うのは「冬が長いからだよ」「寒いとデートもできないだろ?」って。「コタツに入って一緒にミカン食ってたら、やることはひとつしかない」(宮台真司)
(『データブック NHK日本人の性行動・性意識』2002 NHK出版 p.179)
もし本当ならば、冬に妊娠する女性は多く、冬から計算して40週後の秋〜冬にかけて、生まれてくる子供の数は多くなるはずだ。
平成13年の人口動態調査のデータを見てみると、秋から冬にかけて出生数は多くなっている。北海道の10月の出生数は4177人。3月は3766人であった。
月ごとに1日あたりの出生数を求め、人口の異なる地域と比較するために偏差値(平均からどれだけずれているか)を計算し、グラフにしてみた。(とくに偏差値にこだわった意味はない。本来なら、人口千人あたりの出生数を求め、比較すべきだろう。)
グラフを見ると、秋から冬にかけて出生数が多くなることがわかる。つまり、それより40週前の、冬に妊娠する人が多いということだ。
環境か生物的要因か
「冬は暇でセックスするしかなく、妊娠しやすい」と考えることもできる。しかし、沖縄や東京も、同じような傾向が見られるのだ。もし、環境や社会による影響が強いならば、北海道と沖縄では、異なる傾向が見られてもよいと思う。
冬に妊娠しやすいのは、社会的な要因ではなく、生物的な要因なのかもしれない。たとえば、人間の発情期のピークが冬なのかもしれない。医学には疎いので、これ以上詳しいことはわからない。
日本人は、冬に妊娠する人が比較的多い。
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『GOTH』と大阪家族殺傷事件 (2003-11-14)
『GOTH リストカット事件』と大阪家族殺傷事件
大阪家族殺傷事件のゴスロリ少女は、異常快楽殺人のミステリ小説を読んでいた。
『GOTH』との関連
『江草乗の言いたい放題』の「『GOTH』〜家族殺傷事件の真実(11月14日)」に、興味深い指摘があった。乙一(「おついち」と読む)のミステリ小説、『GOTH リストカット事件』を、大阪家族殺傷事件の少女が読んでいて、少年と少女は作中の主人公らに自己を同一化している、というもの。
大阪府河内長野市で発生した19歳の大学生による家族殺傷事件を知ったときになんとなくこの本のことを思い出した。少女に自傷癖があったと知ったときにオレの思いはもはや確信に変わった。少年少女は、この作品の主人公である少年少女、神山樹と森野夜に完全に自己を同一化させたのだと。
(中略)
今回の事件に関わった少女もまたゴスロリ(ゴシック・ロリータ)と呼ばれるファッションを愛したのだった。ネット上に記された彼女の日記には、オレの予想していたとおり7月24日にこの『GOTH』を購入したという記載がある。
『GOTH』は一年ほど前に私も読んだが、事件との関連には気が付かなかった。『GOTH』は2003年度版「このミステリーがすごい!」で2位にランクインするほど人気があった小説で、大人たちの評価も高い。
「私の心は暗黒なの」
そう口にする彼女は、黒っぽい服を身につけ、病的な青白い顔をしている。外で遊ぶよりも家で本を読むことを好むような、不健康な気配を持っている。
一部ではそういった人々のことをGOTHと呼ぶ。GOTHというのは、つまり文化であり、ファッションであり、スタイルだ。ネットで「GOTH」や「ゴス」を検索すると、いくつものページがヒットする。
(乙一『GOTH リストカット事件』角川書店 2002 p.128-129)
若い少年と少女の異常な快楽殺人が物語の中心であり、その異常性をうまく物語にとりこんでいる。
「人間には、殺す人間と、殺される人間がいるね」
「突然、何を言い出すの」
人を殺す人間が、確かに存在している。どんな理由もなく、殺したくなるのだ。成長する過程でそうなるのか、生まれつきそうなるのかはわからない。
(同上 p.242)
作品は事件に影響を与えたか
気になるのは、作品が事件の少年少女に影響を与え、それが事件に結びついたかどうかだろう。作中と類似する部分があることは否定しないが、安易に作品と事件を結びつけることは避けたい。異常快楽殺人の小説と、事件との間に関連性が見られたとしても、
- 異常快楽殺人の本が原因で、異常な性格が形成された
- もともと異常な性格だったので、異常快楽殺人の本に興味を示した
の2つが考えられる。今回の事件の少女の場合、後者だと思う。『GOTH』を読む以前からホームページを公開しているのだ。『GOTH』の影響を受けなくても、逸脱的な行動をしたり、自傷癖があったりしたのだろう。
『GOTH』の影響がないとは言い切れないが、今ところ、事件の間接的な原因とは断言できない。
大阪家族殺傷事件のゴスロリ少女は、異常快楽殺人のミステリ小説を読んでいた。(読んだだけであり、それ以上のことは推測の域を出ない。)
(各方面から、「今日のポイント」がズレているとの指摘があった。勘違いされやすい文章だったので、追記した。2003/11/15)
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今泉の出ない「古畑任三郎」 (2003-11-15)
今泉の出ない「古畑任三郎」
脚本家の三谷幸喜と、俳優の西村雅彦の関係は、不仲説が出るほど複雑である。
古畑任三郎スペシャル
「5年ぶり古畑任三郎復活!犯人役に松本幸四郎(サンスポ)」のニュースに驚いた。脚本家の三谷と俳優の西村が不仲のため、「古畑任三郎」は二度と作られることがない、と噂されていたからだ。
西村が演じる今泉慎太郎は、古畑の部下である。素っとん狂な行動が面白く、「古畑任三郎」には欠かすことのできないキャラクタである。彼なくして古畑はありえない、と個人的には思っている。
西村が再び今泉を演じるのか?と思ってニュース記事を読んでみると、
古畑が部下を連れて出かけた中南米旅行からの帰国当日、パスポートを紛失してしまい、相談に行った日本大使館で事件に巻き込まれるというストーリー。部下はすでに飛行機に搭乗してしまったため、古畑が初めて単独で事件解決にあたるという展開に。
なんと、西村が今泉を演じる必要のないシナリオだった。今度の「古畑」には、今泉は登場しないようだ。非常に残念である。
三谷と西村の微妙な関係
三谷と西村は、三谷が劇団「東京サンシャインボーイズ」を主催していた頃からの付き合いだった。
三谷は脚本を書くときに、西村のことをいつも気にしていたという。
西村雅彦というのは、私の所属する東京サンシャインボーイズの俳優です。彼は劇団員の中で、もっとも気難しいといわれている男です。製作スタッフの女の子の90パーセントは、彼に泣かされた過去があります。実際の西村は、密かに子猫を飼っていたり、落ちかかった柿の実を見つめてそっと涙するような優しい心を持った男なのですが、何分顔が怖い。加えて、物言いが挑戦的なので、非常に損をしているのです。しかし気分屋なのも確かです。出番が少なくてもやりがいのある役(設け役といいます)というのもあるのですが、西村に限らず役者には得てして、出番の多い役イコールいい役という固定観念があるのです。
西村の機嫌を損ねてしまうことは、稽古場の雰囲気を悪くすることを意味しています。それは公演の失敗につながります。
(三谷幸喜『オンリー・ミー』幻冬舎文庫 平成9年 p.301)
もしかしたら、「もう脇役の今泉なんてやってられない」と西村が考えているのかもしれない。
西村は、自分のエッセイで、次のように反論している。
正直に言うと、小さい役だったり、自分が見えない役はイヤだった。
「オレはこんなんじゃない」
と本当にいつも思っていて、三谷はそんな僕を見ていたのだと思います。彼の著書『オンリー・ミー』に、
「西村は見せ場を作らないとすぐふくれ面をする」
と書かれてしまいました。
だって僕、気分が顔に出ちゃうんだもん。彼の本を読んだときは怒るに怒れず、苦笑いするしかなかった。
(西村雅彦『僕のこと、好きですか』小学館文庫 1998 p.42-43)
西村自身、「小さな役はイヤ」と書いている。「古畑」の今泉役を嫌うのも無理はないし、そのことで三谷と対立したのかもしれない。
西村雅彦は、三谷脚本の作品に欠かせない存在だった。しかし、もう二度と三谷作品に出演することはないのかもしれない。とてもさびしい思いがする。
三谷と西村の関係は複雑である。
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入試問題は悪文で (2003-11-16)
入試問題は悪文で
大学入試問題に採用される文章は、悪い文章である。
意味がつかみにくい朝日新聞
新聞の文章にも、悪い文章がある。
「Irregular Expression」の『土井辞任で解けない方程式(2003-11-13)』で、意味がわかりにくい朝日新聞の記事を批判している。憲法改正についての記事だが、たしかに意味がわかりにくく、勘違いしやすい。「Ireggular Expression」の管理人は、次のように書いている。
こんな支離滅裂な記事を書く新聞が大学の入試問題使用率ナンバー1なんて悪夢だ。
入試問題は悪文でなければならない
朝日新聞は、大学の入試問題で試用されることが多く、使用率はナンバー1らしい。朝日新聞が宣伝している。しかし、使用率がナンバー1であることは、内容や記事が良いことを意味してはいない。むしろ、文章が悪い、ダメな記事であることを意味している。
悪い文章の大きな特徴は、
- 意味がわかりにくい
- 複数の意味に解釈できてしまう
の2つである。
そして、大学入試問題ではこの2つの文章が求められる。その理由は、次の2つ。
- 誰にでもわかりやすい文章では、試験にならない。
- 誰もが同じ解釈が出来る文章では、試験にならない。
入学試験は、選抜である。わかりやすい文章では、試験にならない。
また、世の中には難解な文章も数多く存在する。内容はしっかりしているが、文章が悪いこともしばしばである。試験によって、「悪文」を読み解くことができるかどうかをチェックする必要があるのだ。「悪文」を読む能力があるかどうかを調べるには、「悪文」を使うのが一番である。要点がはっきりせず、読み手が脳みそを振り絞らなくてはならない。入試にはもってこいである。
「支離滅裂な文章を書く新聞が入試使用率ナンバー1」であるのは、むしろ当然と言えよう。「悪夢」ではなく、問題製作者がしっかり仕事をしているのである。
入試問題に採用されても、良い文章であることを意味するわけではない。
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冬は結婚する人が多かったから (2003-11-17)
冬は結婚する人が多い
秋から冬にかけて出生数が増えていたのは、前年の12月に結婚した人が多かったからである。
冬が発情期か
「日本人の発情期は冬(2003-11-13)」で、日本人は秋から冬にかけて出生率が高くなる。ゆえに日本人の発情期は冬なのではないだろうか。と、私は書いた。
その後反響があり、
- 冬にはクリスマス・イブがあるから
- 冬は人肌が恋しい
- 夏は暑いのでとても性交する気分じゃない
などのご意見をいただいた。どれもそれなりに説得力があると思う。ついクリスマス気分で妊娠なんてこともあるだろう。
婚姻数が多いから
もっと具体的な根拠はないものか、と思い、統計データを探してみた。平成12年(2000年)の人口動態調査による月別の婚姻数が見つかったので、横浜と大阪について、1日あたりの婚姻数を偏差値で表したグラフを作成してみた。(沖縄、北海道、東京のデータは見つからず。)
人口の異なる地域同士を比較するため、今回も偏差値を計算した(本来ならば、人口千人あたりの婚姻数などを計算すべきである)。数値は、その月の婚姻数が、平均とどれだけずれているかを意味する。
結果を見てみると、もっとも結婚する人が多いのは、12月であることが分かる。全体的に見て、冬は婚姻数が多い。他に多いのが、3月である。理由はよくわからない。
ジューンブライダルの季節である6月に結婚する人は、これといって特に多いわけではない。梅雨の時期だから、アメリカのようにはいかないのだろうか。
出生数が多くなる原因
秋から冬にかけて出生数が多くなったのは、前年の12月に結婚する人が多かったからである。再び、平成13年(2001年)の出生データを見てみよう。
前年、つまり2000年の12月に結婚する人が相対的に多かったので、その次の年の秋から冬にかけて、子供が比較的多く生まれたのである。おそらくこれがもっとも納得できる理由ではないだろうか。
しかし、問いが変わっただけで、根本的な解決になっていない。
なぜ冬に結婚するのか
12月といえば、年末でせわしい時期である。現に8月は、お盆などの行事があるためか、婚姻数が極端に低い。なのに、なぜ12月に結婚する人が多いのだろうか。
- 冬は発情期なので、「うっかり」結婚してしまう
- クリスマスに結婚する人が増えた
ぱっと思いついたのは、この2つ。クリスマスの日の結婚にこだわる人はいるかもしれない。私は「発情期」による「うっかり結婚」説をとりたいが。
日本人は、12月に結婚する人が多い。
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お嫁さんを求める女性 (2003-11-18)
嫁、求む
男性に「嫁」の役割を求める女性は、まだまだ少ない。
嫁が欲しいのだ
『MagMell』というWebサイトの日記(2003年11月16日)から、私の日記へリンクが張ってあった。結婚について書いた日記へのリンクだった。
そのサイトの11月17日の日記で、「わたしは夫を必要としているのではない、お嫁さんが欲しいんだ!」と叫んでいる。日記を読んでみると、彼女は仕事の出来る女性らしい。高学歴のキャリア女性の中には、嫁(=家政婦)が欲しいという人も少なからず存在する。
家事能力か経済力か
社会学者、山田昌弘の『結婚の社会学』(丸善ライブラリー 1996 p.35)に、面白い調査結果がある。
若い女性に、
- 仕事ができて家事ができない男性
- 家事ができて仕事ができない男性
どちらの男性がよいか、と質問したところ、9割以上の女性が「仕事ができる方」と答えた。
多くの女性は、男性に仕事の能力、つまり経済力を求めている。たしかに家事を手伝ってくれるならばさらに良いが、それは経済力という前提があってのことである。
結婚相談所の坂本洋子氏によると、なかなか結婚できない男性ほど、「結婚すれば家事もやります」とアピールする割合が多いそうである。
そして、家事をやる男性だからといって、結婚しようとする女性もまずいないそうである。
(山田昌弘『結婚の社会学』丸善ライブラリー 1996 p.35)
男性に「嫁」としての機能を求める女性は、まだまだ少ない。
そして独身男性は、「家事もやります」などというアピールが、いかに無駄かを知る必要がある。多くの女性にとって、男性は家事以前に、仕事ができることが前提である。
男性に対して「家事能力」より「仕事力」を求めている女性が、圧倒的に多い。
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12月の結婚はおトク (2003-11-19)
12月の結婚はおトク
年初の結婚より年末の結婚のほうが、お得である。その結果12月に婚姻数が増え、次の年の秋から冬にかけて、子供が比較的多く生まれる。
年末結婚のメリット
「日本人の発情期は冬(2003-11-13)」「冬は結婚する人が多かったから (2003-11-17)」で、秋から冬にかけて出生率が高くなるのは、12月に結婚する人が多いからだ、と書いた。そのときは、12月に結婚する人が多い理由は、わからなかった。
しかし、読者様からメールで、謎が解けた。12月に結婚が多いのは、「税制上のメリットがあるからではいか」との指摘だった。
調べてみると、年初の結婚よりも年末の結婚のほうが、メリットが大きいことがわかった。
その納税者に扶養家族が何人いるかということは、12月31日の段階で判定される。つまり、12月31日に結婚していれば、税法上は1年間結婚していたとみなされるのだ。もし、彼女もしくは彼のその年の所得がなかったり、一定額以下だったりした場合は、配偶者控除や配偶者特別控除が受けられるというわけ。その年の収入を計算してみて、少なければ年内結婚がお得!これは、子供についても同じことが言える。
相手の収入にもよるが、年末の結婚はお得である。また、会社によっては扶養手当を出す場合に、年初の段階で、収入のあるなしを判断する場合もある。なので、1月に働いていると、扶養手当がもらえなくなるので、12月に駆け込みで結婚してしまう。3月に結婚が多いことも、同じ理由ではないだろうか。
(グラフを再掲載。3月と12月は、婚姻数が相対的に多い。)
風が吹けば桶屋が儲かる
これまでの話を整理してみる。まず、税制上のメリットがあるため、12月に駆け込みで結婚する人が増える。結婚することにより、社会的に妊娠が認められ、子供を作ろうとする。その結果、秋から冬にかけて出生率が高くなる。
「風が吹けば桶屋が儲かる」の縮小版みたいだ。しかし、
- 冬季発情期説
- クリスマス説
の2つよりも、よっぽど説得力のある仮説ではなかろうか。税のシステムが出生率に関係してくるとは想像していなかったが、他にこれ以上納得のいく説は、今のところない。
もし1月に結婚を考えている人で、家事手伝いや無職の女性ならば、前倒しで年内に結婚してしまうことをおススメする。
年末の結婚は税制上メリットがある。その結果、秋から冬にかけて出生率が相対的に高くなる。
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「本当の愛」の詭弁性 (2003-11-20)
「本当の愛」の詭弁性
「本当の愛」「本当の家族愛」などの言葉には、疑いの目を向けなければならない。
本当の家族愛を見つけに
スカパーの「朝日ニュースター」チャンネルを、最近はよく見ている。そのチャンネルで流れるCMが、気になって仕方がない。
『地球家族』という番組の宣伝で、異文化に触れることで「本当の家族愛」を理解する趣旨の番組のようだ。
「本当の家族愛」に限らず、「本当の」とか「真の」という言葉の飾りは、あまり好きではない。特に抽象的でとらえどころのないものに対して、「本当の」をつけるのは、嫌いである。
- 本当の愛
- 真の友情
- 本当の自分
- 本当の夢
- 本当の幸せ
こうした多くの言葉が、世の中には氾濫している。もともとが実体のないものなのに、それに「本当の」という言葉をつけてしまうと、どのようにでも解釈が可能だからである。
詭弁
たまに私が、「独身って幸せですよ」とメールの返事を書くと、専業主婦の方から、「それは本当の幸せじゃないと思う」と、返答されることがある。本気で書いてくるから、困惑してしまう。
「それは本当の○○じゃない」は、何にでも使えてしまう詭弁である。ときに自分自身への詭弁として機能してしまうことがあるので、気をつけるべきである。
若者たちを悩ませる煙の代表は、「ほんとうの」「絶対的」「本質的」などという、深遠でしかもどこにでも使える言葉であろう。これらがいかに詭弁的であるかは、言葉の意味がぼかされて、結局は「いいように」あしらわれてしまうことからわかる。
たとえば「愛」という言葉について考えてみよう。相手の考えに反対したければ、
「ほんとうの愛っていうものは、そんなものではい」
といえばよい。
(野崎昭弘『詭弁論理学』中公新書 1976 p.71)
「本当の○○」という言葉を耳にしたら、まず疑ってみるべきだろう。何にでも使えてしまう言葉であり、裏を返せば空虚で意味のない言葉と考えられる。
本当の自分、愛、家族
それでも「本当の愛」や「本質的な家族」という幻想を、相手が押し付けてきたら、どのように対応すればよいだろうか。
「本質的な」とういう言葉は、「おれがいいたい」と同じ意味ではないかと私は疑っている。
(同上 p.72)
「そんなの本当の愛じゃない」などと言ってくる人がいたら、「それは『あなたが理想としている』愛でしょう。『本当の』愛ではない」と言い返すのが良いと思う。
『本当の自分』を探している人は、まず『本当の』という言葉の意味を考えたほうが良い。
「本当の愛」は、本人の空想である。
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他人の気持ちは絶対にわからない (2003-11-21)
他人の気持ちはわからない
他人の気持ちは、絶対にわからない。わかったふりをするか、わかったつもりになるだけだ。
てのひら
Amazon.co.jpで注文していたMr.Childrenのニューシングル、『掌』が届く。以前のミスチルと比べるとポジティブな歌詞だが、根底にあるのは「自分の弱さ」である。社会や他人に適応しようとするけれどもなかなか適応できずにもがいている、そんな歌詞だ。
解り合えたふりしたって
僕らは違った個体で
(中略)
君は君で 僕は僕 そんな当たり前のこと
何でこんなにも簡単に 僕ら
見失ってしまえるんだろう?
(Mr.Children『掌』)
人は解り合えない。他人を理解するなんて事はできない。自分自身の事だって理解できないのに、他人のことならなおさら理解できないだろう。
悪魔にも分からない
西洋のことわざに、「他人の気持ちは悪魔にもわからない」というものがあるそうだ。
日本の戦争犯罪人が裁かれた東京裁判でも、日本の弁護士が証人に「彼は何と思っていたか」という質問をしたら、裁判長に次のようにたしなめられたという。
「他人の気持は悪魔にもわからないという諺が西洋にはありますよ。彼は何をいったか、何をしたかといってお聞きなさい。彼は何を思っていたかと聞いたって無意味です。
(野崎昭弘『詭弁論理学』中公新書 1976 p.70)
他人の気持ちは、絶対にわかるものではない。言葉や行動から解釈するだけである。お互いに、ある程度理解し合えたつもりになっているだけだろう。
他人が何を考えているかはわからない。また、自分が何を考えているか、他人に理解して欲しくない。どんな人間も、誰にも知られたくない心の暗部を抱えていると思う。
人間、お互いにだまされ合っていなければ、この世に長く暮らしてはいけまい。
(ラ・ロシュフコー『運と気まぐれに支配される人たち』角川文庫 S.43 p.87)
他人の気持ちは絶対にわからない。それでも理解し合えたふりをして、多くの人は暮らしている。
他人の気持ちは絶対にわからない。解ったふりをしているか、もしくは誤解である。
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なぜアニメで哲学するのか (2003-11-22)
なぜアニメで哲学するのか
日本のアニメの特徴は、子供向けにもかかわらず、難解なシナリオが続出する点にある。
エヴァ2
プレステ2のゲーム『エヴァンゲリオン2』を買った。遊びながら、昔の『エヴァ』ブームをなつかしく思い出した。
『エヴァ』の特徴の1つは、哲学・心理学・宗教学などの用語を随所にちりばめられてることだ。一度見ただけではわからないほど情報量は多いし、小学生の子どもでは、まるで理解できないほど、陰鬱なストーリーだった。大人の間でヒットしたのも、こうした「知的」な要素があったからだろう。
アメリカのアニメは単純
私は普段はアニメを見ないので、今のアニメの状況には詳しくない。(『ガンダムSEED』が最終回を迎えたとか、『ナウシカ』のDVDが出た、という話は、知識としては知っている。)
しかし、難解なアニメが、日本だけの特徴であることは、想像がつく。ディズニー映画を見てみればわかるだろう。だが、これには難しいシナリオを作ることが難しい、商業的な構造上の理由があるのだ。
向こうのアニメーションというのは企画段階で全何話って決められてないんです。ヒットすれば何十回でも延長されるし、コケれば5回10回で打ち切られてしまう。だから、向こうで放映する場合には第1話も最終回もない方がいいんですよ。
とにかくなんの前提もなしにポンとキャラクターが出てきて活躍するようなタイプがウケるんです。第1話で少年がロボットに乗れと言われて「逃げちゃダメだ」と悩んだりしたらいけません(大爆笑)。
(岡田斗司夫『東大オタク学講座』講談社 1997 p.63)
「逃げちゃダメだ」は、『エヴァ』の主人公のセリフである。このアニメでは、終始、主人公が自分の存在理由について悩んでいる。「僕はどうしてエヴァに乗るんだろう」「エヴァに乗るとみんなが喜んでくれる。だから僕はエヴァに乗るんだ」と、ずっとウジウジ悩んでいる。最終回、ようやく「僕はここにいてもいいんだ」と気がつく。アメリカで受け入れられるはずがない。
アメリカでは、単に敵が出てきて、それに勝利してバンザイという物語しかつくれないのだ。
なぜ難解なのか
どうして日本では、難解なアニメが登場するのだろうか。『エヴァ』に限らず、政治的な要素の強い『ガンダム』もそうだし、宮崎駿のアニメも、一部では難解なものもある。
60年代に安保闘争というのがありまして、このとき政治運動に参加して就職活動しなかった人たちが、ポルノ映画界やアニメ界にたくさん流れ込んできて、それで子供向けアニメの中に政治とか人間とか陰鬱なテーマを盛り込むようになっちゃんたんです。
(同上 p.64)
岡田は、こうした背景があって、アニメにやたらと難解な用語や思想が登場するようになった、と解説している。
こうした難解なアニメを見て育った世代の人たちが、それらを引用し、新しい作品に反映させているため、難解なアニメが再生産(コピー)される。そして日本は、独特な作品を多く生み出すようになった。
日本のアニメの特徴は、子供向けにもかかわらず、難解なシナリオが登場する点にある。
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女性の男装が認められる理由:ジョージアCMの考察 (2003-11-23)
女性の男装が認められる理由
女性が男装するのは認められるが、男性が女装をすると、たいていの人は不快感を覚える。
ジョージアのCM
缶コーヒーのジョージアのCMをよく見る。矢田亜希子とその他2人の女性が男性用スーツ姿で歌っているCMだ。(参考:「ジョージア新CM スーツで美しっ!」)
サラリーマン男性をイメージしたスーツをまとっているが、とても似合っていると思う。もし、これが逆で、たとえば男性である藤木直人が女装したCMであったならば、苦情が殺到しただろう。
一般に、女性が男装をし、公の前で演じることは、社会から認められている。宝塚が良い例だろう。しかし、男性が女装すると、不快でしかない。コントにしかならない。女装の趣味がある男性は、社会の片隅で、こっそりと女装するしかない。
女性差別のひとつ
どうして男性と女性で違いがあるのだろうか。ひとつ興味深い説がある。それは、「女性差別のあらわれ」というもの。女性はワンランク下だから、上のランクの格好をするのはかまわない。しかし、上のランクである男性が、下のランクである女性の格好をするのは、卑しいことだと見なされる。ゆえに、男性の女装は差別的な目で見られる。
男性が上で女性はワンランク下という序列が前提として存在するとしよう。その場合、下に置かれている女性が時々上位の男性のかっこうをしてランクアップした気分になるのは、まあ気晴らしとして許される(常に、あるいは完全に男性と同格となろうとする女性は厳しく排除されるが)。
一方、「身分が上」のはずの男性が、わざわざ「卑しい」女性の立場に身を落とすなどということは、まともな人間のやることではない。そんな馬鹿げたことをする者は排斥されて当然である……というわけだ。
(馬場靖雄『社会学のおしえ』ナカニシヤ出版 1997 p.87-88)
ランクアップである女性の男装は許される。しかし、ランクダウンである男性の女装は認められない。他の場面を考えてみると、たとえば、幼稚園児がスーツを着るのは、ほほえましい姿として見られる。しかし、成人した男性が幼稚園児の格好をすると、異常と見なされる。ランクアップはOKだが、ランクダウンはNGという構図は、男装・女装に限らない。
アニメ・ゲームのコスプレは
ランクアップ説を応用させると、アニメやゲームのコスプレが非難される理由も分かる(ちなみに私はコスプレ未体験である。これからもないと思う)。
アニメ・ゲームは、一般の人から見れば、一段低い、下位のものだろう。お堅い企業に提出する履歴書の趣味欄に、「アニメ鑑賞」「TVゲーム」とは書きにくいと思う。ゆえに、アニメのコスプレは、ランクダウンであり、社会からは公認されない。
しかし、アニメファンの閉じた世界では、アニメキャラクタは上位のものなのでランクアップになる。その文化の中では、コスプレはOKなのである。
ある文化の中ではランクアップとなる変装も、違う文化から見てみれば、ランクダウンになる。男性が女装をした場合と同じように、コスプレする人も、多くの場合は異常者と見なされるのだ。(趣味でやってることだから、私は非難はしない。ただし、多くの人は認めないだろう。男性の女装趣味と同じように。)
女性の男装は認められるが、男性の女装は異常とされる。異常とされるのは、ランクが下がる行為をあえて行っているからである。
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意外に多い中高年のロリコン (2003-11-24)
意外に多い中高年のロリコン
13歳未満の人とセックスしたいと考える女性はほとんどいない。しかし、男性の中には、少女・少年とセックスしたいと考える人が少なくない。
性的虐待
マイケル・ジャクソンの性的虐待問題が話題となっている。現代では、少年や少女に対して性的興奮を覚える人は、異常者と見なされるし、ときには犯罪となる。この異常な性癖を持つのは、それほど珍しくはない。有名なところでは、『不思議の国のアリス』を書いたルイス・キャロルがロリコンとして知られている。
13歳未満とセックスしたいか
少年・少女を性的な対象としてとらえている人は、どのぐらい存在するのか。興味深い調査結果があるので、紹介したい。
調査を行ったのはNHKで、質問は、「13歳未満の相手とセックスすること」についてどう思うか、というもの。ちなみにここでいうセックスの定義は、異性同士とは限らない。男性と男性・女性と女性によるセックスも含む。(詳しくは「NHKによるセックスの定義」を参照)
注目したいのは、次の2点。
- 女性は、13歳未満の子どもを性的な対象として見ていない。
- 50代男性のうち、8パーセントが、13歳未満の相手とセックスしたいと考えている。
女性が少年・少女にまったく関心がないのは、予想外だった。二次元キャラ(アニメキャラ)なら、少しは萌え対象となるのかもしれないが、セックスしたいとは思わないようだ。そして、50代男性のロリコン傾向には、驚かされた。
50代に多いロリコン
男性は、20代で5パーセント、30代で4パーセントの人が、13歳未満の相手とセックスしたいと考えている。13歳未満といえば、小学生である。まだ毛も生えそろっていないのである。20人に1人ぐらいの人が、そんな小学生とセックスしたいと考えているのだ。決して少ない数ではない。
そして驚くべきことに、50代男性の8パーセントが、13歳未満を相手にセックスしたいと考えていることだ。50代ともなれば、小学生なんて自分の娘よりも年下ではないか。年齢差を考えると、異常とされてもおかしくない。
なぜ、50代でロリコンが多いのか理由ははっきりしない。小学校の運動会の応援に行っているうちに、ロリコンとして覚醒してしまうのか、妻が枯れ果ててしまって欲情できなくなったからなのか。いずれにせよ、50代の男性だからといって、安心はできないということだ。
女性は少年・少女を性的対象として見ない。50代の男性は、意外にロリコンが多い。
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意外に多い近親相姦願望 (2003-11-25)
意外に多い近親相姦願望
近親者(両親、兄弟)とセックスしたいと思っている人も、意外に多い。
わたしのおにいちゃん
昨日の日記、「意外に多い中高年のロリコン」には、そこそこの反響があった。
- 「そんなにロリコンが多いのか」
- 「自分の娘が心配」
という声もあった。2003年11月25日21時現在、Amazonの売り上げランキングでは、「週刊わたしのおにいちゃん」という、一般人から見れば引いてしまうようなシリーズもののアイテムが、ランキングを席巻している。日本は大丈夫なのか。1億総ロリコン化する日も近いのか。
近親者とセックスしたいか
「週刊わたしのおにいちゃん」がランキングを席巻する現代の日本。近親相姦を心配している人もいるので、またひとつ興味深いデータを紹介しようと思う。
今回もNHKの調査データである(1999年年末)。「近親者(両親、兄弟姉妹)とのセックスについてどう思うか」という質問だった。結果をグラフにしてみた。
次の3点に注目したい。
- 16−19歳以外の女性は、近親相姦に対してはっきりと拒絶している。
- 若い世代の男性、とくに16−19歳男性に願望が強く、経験もある
- 16−19歳の女性の一部に、近親相姦願望を持つ人がいる
まず、女性は近親相姦を忌避している傾向が強い。これが大きな特徴である。
次に、若い男性を見てみよう。16−19歳男性のうち、4パーセントが「してみたい」、2パーセントが「どちらかといえばしてみたい」と答えている。あわせて6パーセント。20人に1人ぐらいは、願望を抱えていることになる。学校のクラスに1人は、近親相姦願望を抱えている人がいるということだろう。
また、16−19歳男性のうち、2パーセントが実際に近親相姦の経験がある。相手が誰なのか、調査結果からは明らかではないが、おそらく妹か姉だと考えられる。私には女の姉妹がいないのでわからないが、どこかで間違えば、萌え対象になってしまうのかもしれない。
最後に、16−19歳の女性を見てみる。この世代のうち、2パーセントの人が「してみたい」、2パーセントが「どちらかといえばしてみたい」と答えている。おそらく、対象は父親かお兄ちゃんだと思う。ただ、実際に経験している人は、0パーセントで、調査結果には現れなかった。
20代の女性のうち、2パーセントが、「実際にしたことがある」と答えている。相手はお兄いちゃんかもしれないし、父親かもしれない。50代男性のうち、1パーセントが「してみたい」と回答している。(1パーセント程度では、統計誤差の範疇であるが)
気持ち悪いか
近親相姦はタブーとされている。考えただけで気持ちが悪い、と言う人もいる。私も、できれば想像したくない。しかし、若い人たちの間では、そのタブー性が薄らいでいるように感じられる。セックスする者同士、お互い不幸にならなければよいのだが。
近親者(両親、兄弟)とセックスしたいと思っている人も、意外に多い。
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自殺する権利は認められないのか (2003-11-26)
自殺する権利は認められないのか
身も心も安らかに死ぬためには、自殺するしかない。
安楽死を超えて
ここで話題にする「自殺」とは、高齢者の自殺である。自分自身の決定による安楽死や尊厳死を含めた「自殺」である。若い世代や中高年の自殺にも関心があるが、ここでは保留とする。
将来、安らかに死ぬためには、自殺するしかないのではないか、と私は考えている。
- 苦しみをともなう延命・医療行為からの逃避
- 身辺整理
の2つが、理由としては大きい。
おそらく、40年、50年後は、医療技術が格段に発達していることだろう。衰え、病に伏したとしても、命を救おうとする医者の行為によって、命は延長され、苦しみは続く。
夏目漱石は『我輩は猫である』で、1万年後には自殺だけが人間の死に方になる、と書いている。
「万年ののちには死といえば自殺よりほかに存在しないように考えられるようになる」
「たいへんなことになりますよ」
「なるよきっとなる。そうなると自殺もだいぶ研究が積んで立派な科学になって、落雲館のような中学校で倫理の代わりに自殺学を正科として授けるようになる」
私たちが生きている間には、自殺しかありえないという状況は訪れないと思う。しかし、医者の手によって死ぬ人(生命維持装置のスイッチが切られることで死ぬ人)は、ずっと多くなるだろう。
もうひとつ大きな問題が、身辺整理である。誰しもただ生きているだけでなく、生活というものがある。サイト上で日記を書いていれば、最後の挨拶ぐらい残したいだろう。恥ずかしい本やビデオ、動画をPCにため込んでいる人は、死ぬ前に整理しておきたいと思わないのだろうか。死んだ人のPCを起動してみたら、中にはダウンロードしてきたエロ画像ばかりがつまっていた、なんてことになったら、尊厳もなにもあったものではない。
人生を中絶する権利
人間は、自分の生き方を自由に選ぶことができる。しかし、死に方は選べない。
R・ジャカールとM・テヴォスの『安らかな死のための宣言』という本の書評で、興味深いものがあった。フランスの『ル・モンド』紙(1992年4月10日)の書評である。
安楽死という限られた問題を超えて、より一般的な問いを出さなければならない。どんなに不幸せでも、どんなに苦しくとも、何としてでも生きねばならぬ義務はない。ひとは義務で生きるのではない。生きたいから生きる。もしその気持が失せたら、各人は自分の自由な選択に従って、現在の薬学によって可能な安らかな死に近づくことができるはずだ。
妊娠中絶は、もう1つの生命を危うくするのに、女性の譲渡不能な権利となった。それなのに、ひとは望んでも、自分の生の中絶の権利をもてないのだろうか。
(R・ジャカール+M・テヴォス 菊地昌実訳『安らかな死のための宣言』新評論 1993 p.150 「ル・ボン」紙の書評より)
日本では、自殺権は認められていない。自殺に協力した人は、自殺幇助で罰せられる場合もある。オランダでは安楽死が合法化され、数パーセントの人は、安楽死で死んでいるという。より安らかに死ぬためにも、自殺権が認められても良いと思う。
安らかに死ぬためには、自殺するしかない。
(追記:念のために付け加えるが、自殺をすすめているわけではない。)
(追記2:参考「「自殺する権利」についての考察 - 2003年11月27日(木)」『マニアックな憂鬱〜野望篇』2003/11/29)
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たとえば、幸福の計算はどうすれば出来るのか (2003-11-27)
たとえば、幸福の計算はどうすれば出来るのか
倫理学を知ることで、問題を一段掘り下げて考えることができる。
加藤尚武
昨日、「自殺する権利は認められないのか」(2003-11-26)を書いたところ、加藤尚武の本をすすめられた。
いつも面白く読ませて頂いてるサイトに「Simple -憂鬱なプログラマによるオブジェクト指向な日々-」があります。毎回、主張が簡潔に読みやすくまとめられてます。今回は「自殺する権利は認められないのか」でした。たぶんSimpleさんは加藤尚武の本 (ISBN:406159267Xとか)を読むとはまると思います。すでにご存じでしたら恐縮ですが。
私はすでにflores channelさんがすすめている本(『現代倫理学入門』)を読んでいて、加藤氏のほかの本も読んでいる。「他人に迷惑をかけなければ何をやってもよい」(2003-10-22)で、一度引用したことがある。
floreschannelさんが、加藤氏の『現代倫理学入門』(講談社学術文庫)をすすめているが、私もこの本をすすめたい。高校生ぐらいになれば、この本をもとに議論ができるだろうし、物事を判断するときの、ひとつの物差しにもなる。子を持つ親にも、すすめたい一冊だ。
道徳的な難問・ジレンマ
『現代倫理学入門』は、タイトルこそ堅いが、難解な用語はとくに使っておらず、たいへん読みやすい本である。内容もコンパクトにまとまっている。私たちが直面するような、道徳的なジレンマ・難問についての倫理が本の中で、述べられている。
- 人を助けるために嘘をつくことは許されるか
- 10人の命を救うために1人の人を殺すことは許されるか
- 10人のエイズ患者に対して特効薬1人分しかない時、誰に渡すか
- エゴイズムに基づく行為はすべて道徳に反するか
- どうすれば幸福の計算ができるか
- 思いやりだけで道徳の原則ができるか
- 正直者が損をすることはどうしたら防げるか
- 他人に迷惑をかけなければ何をしてもよいか
- 貧しい人を助けるのは豊かな人の義務であるか
こうしたテーマに、はっきりと答えを出せる大人はいないだろう。子どもに尋ねられたら、答えに困ってしまう。興味のある方は、買って読んで欲しい。ただし、はっきりとした「答え」が書いてあるわけではない。むしろ「答え」が1つではない、ということを知るだろう。(それを知ることも重要だと思う)
倫理なき時代に
日本には「倫理」がない、と言われることが多い。日本にあるのは「世間の目」や道徳である。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という言葉どおり、周囲をうかがって、それに同調することが良しとされた。そして、今まではそれでうまく機能していた。
国際化、ライフスタイルの多様化の中で、「みんないっしょに」という考えだけでは通用しない。自由な社会で生きていくためには、私たちは判断基準となる「倫理」を知らなければならないし、知ることで、より他人と協調して生きていくことができるだろう。
この本(『現代倫理学入門』)は、どの章も論争の材料になるよう書かれている。この本で論争の準備をしておけば、自分で実際に「あれか、これか」の選択の前に立った時に役立つと思う。
そして誰もが、「他人の立場に立って考える」とか、「未来の世代のために役立つ」とか、「権利を尊重する」とかいうことについて、ふだんよりも一段と掘り下げた深さで、相互に了解し合っている間柄になることが、日本の民主主義の根がしっかりすわってくることのために、よい効果を持つと、私は期待している。
(加藤尚武『現代倫理学入門』講談社学術文庫 1996 p248-249)
倫理学を知ることで、問題を一段掘り下げて考えることができる。
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売春は、倫理的にはOK。 (2003-11-28)
売春は、倫理的にはOKだが、道徳的にはダメ
売春は道徳的には認められない行為で、非難される。しかし、倫理的には問題のある行為ではない。
倫理と道徳
昨日にひきつづき、今日も「倫理」の話題を。「倫理」という言葉に対し、堅苦しいイメージや、行動を制限する規範や法律のようなイメージを抱いた人もいると思う。しかし、必ずしもそうではない。たとえば、「売春は、倫理的には問題のない行為である」という、常識と反する「倫理」も存在する。そして私も、売春は倫理的にはOKだと思っている。
まず、道徳と倫理の違いを、かみ砕いて説明すると、道徳は、世間や周囲の多くが「良し」としている行動の規範のこと。倫理は、超越的で、「善く生きるためには、○○すべきだ」というルールみたいなもの。道徳が周囲の人間のまなざしで、倫理が神のまなざし、と言っても良い。
売春は許されるか
道徳的には、売春は許されていない。買った人は非難の対象となる。ただし、現代の日本では、という条件がつく。これは道徳が、世間の目によるものだからである。かつての日本では、売春が当たり前だったし、非難されることも少なかったようだ。
倫理的には、売春は許される。というより、売春を禁止するだけの倫理的な理由がない。「各個人の身体は自由であり、判断力のある大人ならば、たとえ自分に不利益な事であっても、他人に迷惑をかけなければ、何をやっても自由である」という自由主義の原則にもとづけば、売春は非難されるべき行為ではない。(参考「他人に迷惑をかけなければ何をやってもよい」(2003-10-22))
よくある反論とその解答
売春否定派のよくある反論に、あらかじめ解答しておこう。
「女性の性を商品化するつもりか!」
そもそも「良いお嫁さん」とか「処女性」に価値をおいていたのも、性の商品化。現代の女性の多くも、自分をキレイにすることで、商品としての価値を高めている。
「売春は危険。犯罪に巻き込まれるリスクもある」
「○○には弊害がある」から「○○は禁止すべき」という結論は導けない。毎年多くの交通事故死亡者が出るからといって、車に乗ることを禁止すべきだろうか。弊害を少なくするよう努力すべきである。売春を合法化し、安全な売春を行えるシステムを構築すべきだろう。
「売春は自分が傷つくだけ。魂が汚れる」
自分が不利益をうける行為でも人間はその行為を行う権利を持つ(愚行権)。「タバコは肺が汚れるから」と言って、タバコを吸っている人から、タバコを取り上げてはいけない。お酒も同じ。リスクや不利益を承知で、自分の意思で愚かな行いをしているのであり、それは認められるべきである。
「親や恋人が悲しむ」
私の親は、私がプログラマになったことを悲しんでいる。これは許されないことだろうか。もし私の娘が仮にいるとして、彼女がプロレスラーになったら、私は悲しむ。しかし、彼女の判断であり、決断ならば、本人の意思を尊重すべきだろう。他人が悲しむからといって、行為を禁止することはできない。
売春の否定は可能か
理屈で攻められたら、売春を否定することは難しい。『性の倫理学』(朝日新聞社 2000)で、比較文学者の小谷野敦は、次のように述べている。
私はいま、売買春肯定論者と論争をしろと言われたら、それはやらないんですよ。というのは、論理的には勝てないのがわかっているから。とりあえず、私は直感的に否定しているという立場ですね。
また、社会学者の橋爪大三郎も、「売春のどこが悪い」という論文で、「売春を普遍法的に否定する論拠は存在しない」と結論づけている。
「売春否定」を証明するような文章は、私はまだ読んだことがない。(あったら教えて欲しい)
倫理的には、売春はOKである。売春を否定することはできない。
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最も多い死因は「自殺」 (2003-11-29)
20代、30代の死因順位
20代、30代の最も多い死因(死亡原因)は、「自殺」である。
ありふれた自殺
自殺は、知人や友人、家族に衝撃を与える。私にも、小さい頃に遊んだことのある女の子が自殺で他界してしまった、という経験がある。
「自殺」そのものについて、あまり語られることはない。学校でも教えられない。
- 「事故に気をつけましょう」
- 「健康は大事」
と先生は言うけれど、「自殺に気をつけよう」と教える先生は、ほとんどいないと思う。
しかし、現実には、「不慮の事故」で死ぬ人よりも、「自殺」で死ぬ人の方が多い。
人口動態統計の死因順位
厚生労働省の「人口動態統計」(平成14年)によれば、20代、30代でもっとも多い死因は、「自殺」である。
20〜24歳の死因順位は、次のとおり。
- 1位:自殺(1182人)
- 2位:不慮の事故(1107人)
- 3位:悪性新生物(281人)
- 4位:心疾患(226人)
- 5位:脳血管疾患(61人)
20代、30代の死因順位5位までのデータを、グラフにしてみた。自殺の多さに注目していただきたい。
20、30代の死因1位は、「自殺」なのである。ちなみに40歳を超えても、自殺者数は減るわけではない。他の死因(悪性新生物・心疾患など)が増えるので、自殺が1位ではなくなる。
自分が自殺する可能性を
自殺のない国は存在しない。毎年ある一定の事故死亡者が出るのと同じように、毎年自殺者は必ず出る。自分が「自殺」してしまわないよう、普段から心がけておくべきだ。
ふとしたきっかけや、不運により、「自殺」してしまうことも多々ある。たとえば、結婚して専業主婦を抱え込んでしまったため、過労自殺に至ってしまった例がある。専業主婦は、その後、保険金で貴族のような暮らしができた。
自分が「自殺」に追い込まれないように、あらかじめ先手を打っておくのも重要だろう。
20代、30代の最も多い死因は、「自殺」である。
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孤独なインターネット (2003-11-30)
孤独なインターネット
インターネットは、他人とつながりあえる可能性があるからこそ、ときに孤独を感じる。
アクセス増の裏側で
「カトゆー家断絶」から、またしてもリンクが張られた。これで5回目ぐらいだろうか。リンクされた日記は、次の2つ。
- 「意外に多い中高年のロリコン」(2003-11-24)
- 「「メリーさんの羊」のメリーは、小さな女の子」(2003-11-04)
「カトゆー家断絶」以外にも、多くのニュースサイトで取り上げられた。結果、ここ数日のアクセス数は増加し、1日で5000ぐらいのアクセスがあった。通常時にくらべて、3000ぐらいの増加である。
しかし、アクセスは増えたのだが、一方で奇妙な孤独感を感じている。最近、見知らぬ読者からのメールが極端に減った。アクセス数が平均500ぐらいの時は、毎日のようにメールが届き、返事を書いていた。しかし、ここ1週間ぐらい、ぱったりとメールが来なくなってしまった。
アクセス数は多いのだが、各個人からのリアクションがまったくない。不思議な感覚である。以前、2ちゃんねるで、人気Flashを作成した作者が、「ニュースサイトで取り上げられて、アクセスは殺到したのだが、メールは1通ももらってない。見た人がどんな感想を抱いたのかわからない」とこぼしていた。
閉ざされた扉
インターネットは開かれているし、孤独感を埋めることもできるだろう。しかし、開かれているからこそ、逆に孤独感を感じることもある。
- わざわざメールフォームを設置したのに、メールが届かない
- せっかく力を入れてサイトを更新したのに、何も反応がない
- 掲示板に書き込んだのに、反応がない
- メールを出したのに、返事が返ってこない
- サイトを作成したのに、アクセスしてくる人が少ない
多くの人に、こうした経験があるだろう。もともと物理的に交流が不可能であれば、孤独感は薄い。しかし、「つながりあえる可能性」があるのに、それでもなお「つながっていない」ときに、人々は深い孤独を感じるのではないだろうか。
扉は開くこともできるからこそ、閉ざされた扉が与える外界との孤絶感は、のっぺりした単なる壁が与えるそれよりも深い
(ジンメル『橋と扉』酒田健一他訳 白水社 1998)
インターネットユーザーは、いくらでもメールを出すことはできる。私はそのメールを受け取ることができる。しかし、なかなかその扉は開かない。開こうと思えばできるはずのものが、閉ざされている。この孤独感は、はじめから物理的にコミュニケーションが不可能な場合(壁が存在する場合)の孤独感とは異なる。
若者がケータイで必死にメールを打っているのは、壁ができて友人との対話ができなくなるのが怖いからではなく、扉が閉ざされてしまうことが怖いからではないだろうか。
インターネットは、開かれているからこそ、孤独を感じることもある。
(追記:「Books by 麻弥(2003/11/30)」で、この日の日記がリンクされました。『(引用)サイト見る方の意識も昔とは変わってきているのかもしれないなあ、と思います。「双方向のメディア」というよりは、テレビのように向こうが一方的に発信するばかりのメディアのように個人サイトも受け止めていたりすることが、私もあったりするので。』
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