なぜ女は議論に弱いのか (2004-02-01)
なぜ女は議論に弱いのか
女性が議論に弱いのは、女性の使う言葉が議論に向いていないからである。
なぜ女は議論に弱いのか@2ch
2ちゃんねるの男性論女性論板で、「なぜ女は議論に弱いのか」というスレが立っていた。
私も、女性は議論が下手だと思う。専業主婦はもっと下手だ。PTAの会合なんて、おそらく議論すら成り立たないのではないだろうか。「朝まで生テレビ」を見ても、男性と比較して、女性はまともなディスカッションが出来ていない。
>>1
うん,わかるよ。
けどね,私ゃ♀(女)だけど時々♂(男)の同僚を見ていてこう思う。
「なんでこんな明白なこと議論すんだろ。アホか。」
または
「裏付けだの数字だの言って,こんなことも直観でわかんないのかなー。頭悪っ!」
(低脳ぶりを晒した43さんの書き込み)
43さんは叩かれたが、周囲にもこのような女性は少なくない。理屈が通じず、自分の感じたものや信念を曲げようとしない。少しでも否定しようものなら、ヒステリックな反応を示す。専業主婦に多い。困ったことなのだが、これには深い理由がある。
自己主張をやわらげる言葉使い
女性の議論下手や非論理的な思考は、女性の「女らしい言葉」に理由がある。
成長する中で、女性は「女らしい言葉」を周囲から叩き込まれる。断定的ではない、やわらかくて婉曲的な表現が、社会からは求められる。
和光大学の井上輝子によると、女性が言葉を発するときには、「自己主張和らげの原則」が求められるという。
言語というのは、ある程度自分の意思とか感情とかを主張しなくては意味がないわけですが、しかしあまりあらわに主張すると女らしくないと思われるので、「〇〇だわ」と語尾を上げて言う終助詞の使い方がある、それは断定しないで相手に同意を求めるような効果をもつ表現としてある、というわけです。それが自己主張和らげの原則。
(「女の言葉/男の言葉」)
女性特有の言葉は、男性よりも曖昧で協調的である。それに対して男性の命令調や論理的な言葉(つまり、であるがゆえに、いっぽう、したがって、等)は、はっきりとしていて、議論に向いている。
東京大学の上野千鶴子がどこかの本で書いていたことだが、彼女の書いた論文が、周囲から「男が書いた論文みたい」と思われたことがあったそうだ。「名前を見なければ、絶対に男が書いた文章だ」と思われてしまった。
性別によって、使用する言葉は違う。それが議論や論文に向いているのが男性で、向いていないのが女性である。女性らしい言葉使いを教え込まれることは、同時に議論に弱い人間を作ることになる。(それが悪いと主張しているわけではない)
もしも言語が女性的だったならば
仮に「朝まで生テレビ」でのディスカッションが、全部女性の言葉で行われていたら、どうだろう。単なる専業主婦の井戸端会議のような議論が、頭の中に思い浮かぶ。女性の言葉での議論は困難を極めるだろう。
また、女性の言葉で物事を考えてみると面白い。男性らしい言葉は一切禁止で、典型的な女性の言葉で思考するのである。やってみるとわかるが、理詰めで物事を考えるのに、女性の言葉ではやりにくい。専業主婦がいかに愚かな思考をしているか、少しだけ理解できると思う。
思考は言語によって行われる。言語の限界は思考の限界でもある。だから、女性が女性の言葉を使って物事を考えれば、議論や論理的な思考は難しいのである。女性らしい言葉は、議論には向いていないからである。
女が議論に弱かったり、論理的な思考に弱かったりするのは、「女性らしい言葉」に理由があるのである。
女性が議論に弱いのは、女性の使う言葉が議論に向いていないから。
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生物学的結婚否定 (2004-02-02)
生物学的結婚否定
生物学的に見れば、男女二人が結婚する行為は、自然ではない。
女の議論が下手な理由2
昨日の「なぜ女は議論に弱いのか」にいくつか指摘があった。生物学的な理由(「脳」「ホルモン」とか)の方が影響しているのではないか、という指摘だ。「もともと脳に原因があって論理的な思考に弱く、そのため議論向きの言語能力が発達しない」という理屈は、私は否定しない。ジェンダー論好きな一部のフェミニストは、徹底的に生物学的な性差を否定するが、否定できるだけの根拠がない。
私は、生物学的な理由と社会的な理由の二つがあると思っている。これはごく自然な考え方だと思う。『バカの壁』の影響か、最近ではやけに生物学的な理由に還元してしまう風潮がある。それに対抗するつもりで、あえて社会の方面からのアプローチをしてみたのだ。
生物学的結婚否定
生物学的なアプローチが嫌いではないときには違った視点で物事を考えるのに役立つ。たとえば、生物学的なアプローチは結婚制度を否定してしまう。
生物学上での雌雄の論理(生殖・出産)は、実は結婚の自然性を肯定しない。セックスは結婚しなくても誰とでもできるし、同性愛など多様な性的指向・性自認があり、子育ては生物学上の親以外でもできる。本来の形=自然の形がまず「男女二者の結婚」というイメージは、生物学的に正当化できるものではない。
(伊田広行『シングル単位の恋愛・家族論』世界思想社 p.15)
生物学的に見れば、結婚は不自然な行為である。もっとたくさんの女性とセックスしたほうが、子孫を残せる確率は高い。男性が多くの女性とセックスしたいと思うのは、自然なことなのである。
それでも多くの男性は結婚して、たとえ飽きても一人の女性とセックスし続ける。そうしているのは、社会の側に理由がある。
どうして人は生物学的に不自然な行為を行わざるをえないのか。その理由を探すほうが楽しいので、私はどちらかといえば社会からのアプローチを好む。
生物学的に見れば、男女二人が結婚する行為は、自然ではない。社会的に見れば、結婚が自然とされる社会もある。
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生物学的根拠が流布しやすい理由 (2004-02-03)
生物学的根拠が流布しやすい理由
生物学的根拠に人気がある理由は、安心したり、努力を放棄するのに都合が良いから。
自己正当化としての生物学的根拠
再び、読者様からのメールから、話を発展させたい。
人々が生物学的なところに能力とか性格の差を求めたがるのは、自己の能力の欠落を正当化するためではないか、というご意見をいただいた。
するどい。私はこれまで同じように考えたことはなかったが、心理学者の中には同じ事を主張している人もいる。
私たちは自分の置かれた状況を変革し闘うよりは、今の状況をそのまま受け入れて諦めてしまう方がはるかに楽なのです。
(中略)実存的反応からの逃避の口実として「生物学的本能」や「性ホルモン」「性染色体」があるのです。これらは、血液型と同じカテゴリーに入ります。
私たちは、性役割を身体的なものに還元してしまうことで、結局は抑圧の中に安住してしまおうとするのです。抑圧は常に安定と連れ添っていますから、自由にむかう努力よりは、抑圧されていることの安心感を私たちは選んでしまうのです。今の状況が不安だからといって努力しないでいられるわけではありません。そして努力放棄より、さらにいけないのはそれにもっともらしい理論を与えることです。
(小倉千加子『セックス神話解体新書』ちくま文庫 p.244-245)
彼女はフェミニストで、生物学的決定論を基本的に否定している。その方がフェミニストにとっては都合が良い。しかし私は、脳とかホルモンとか血液型とか、生物学的な根拠自体は否定はしない。しかし、それ以上に社会の側からの影響が強いのではないか、と考える。なるべくなら社会の側からのアプローチをとり、生物学的根拠は最終兵器としたい。
もっともらしい理論の危険
引用した文章で印象的なのが、「そして努力放棄より、さらにいけないのはそれにもっともらしい理論を与えることです。」という一文だ。生物学的な「もっともらしい理論」に限らず、世間には様々な「もっともらしい理論」があふれている。その理論を知ることで、納得したり安心したりできる。自分を正当化することもできる。でもそれは、努力放棄や能力をはじめから否定することにつながってしまう危険性がある。「女だから出来なくて当たり前」とみんなが思ってしまうのは、恐ろしいことではないか?「男だから出来て当然」というのも然り。
「もっともらしい理論」は、人々にとって自分を正当化する役割を果たすため、流通しやすい。「もっともらしい理論」が社会に流布したことで、脳の構造差以上に男女差が拡大してしまう危険性がある。
生物学的根拠に人気があり流布しやすい理由は、安心したり、自分を正当化するのに都合が良いから。
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なぜ専業主婦は家事で忙しいのか (2004-02-04)
なぜ専業主婦の家事で忙しいのか
専業主婦が家事で忙しいのは、家事が単純な労働ではなく、愛情表現などの意味が付加されているため。
暇なはずの専業主婦
最近女性からのメールが増えて嬉しい。女性の視点から見た「結婚観」や「専業主婦」の姿を知ることができる。
共働きや独身の女性の中には、「専業主婦は家にいて暇じゃないのだろうか。いったい何やって生きているんだろう」と疑問に思う人が少なくない。しかし、専業主婦の中には、忙しくて大変と感じている人もいる。実際に専業主婦からのメールで、「専業主婦は忙しい。独身時代とは比較にならないほど家事が大変」という内容のものがあった。
無職って言うけど、主婦というのは、大変なんです。
家にいると、一日中、休む間もないほどやることがあるんです。
「43歳/専業主婦暦 20年」
(石原理紗『くたばれ!専業主婦』光文社 p.23)
その家庭の状況に応じて、専業主婦の忙しさには雲泥の差がある。
- 生まれたばかりの子どもと親の介護をしている専業主婦
- 子どものいない専業主婦
前者と後者では、その忙しさは違う。
しかし子どもがいなくても、専業主婦は「私は忙しい」と主張する。なぜ専業主婦は忙しいと感じてしまうのだろうか。
家事のインフレ
専業主婦が家事で多忙を極めてしまう理由は、
- 期待される家事水準の上昇
- 家事が愛情表現であるため、際限がない
の二つが理由として考えられる。
たとえば、「電化製品の普及で家事が楽になった」と考える人が多いが、必ずしも家事は楽になってない。洗濯機の普及によって、洗濯は格段に楽になった。しかし、人々の清潔志向も上昇したため、洗濯の回数も上昇してしまった。洗濯という労働は、洗濯機の登場によって楽になってはいない。
もうひとつ、家事は愛情表現と見なされることが多い。恋人や妻の料理には愛情がこめられている、または愛情があるべきだ、という考えが普及している。家事は単なる労働ではなく、それ以上の「意味」が与えられている。
社会学者の山田昌弘は、家事の宿命として、「家事は決して楽にならない」と述べている。(『近代家族のゆくえ』p.158)
つまり、近代社会における「家事労働」は、自らを拡大再生産する構造をもっている。家事が「意味付与=価値」と連動しているがゆえに、家事は際限なく続けなくてはならない。
(山田『近代家族のゆくえ』 p.159)
家事そのものに意味があって、愛情表現と見なされていれば、家事の放棄や手抜きは、愛情の否定と見なされる。妻は一生懸命にお弁当を作り、それほど美味しくなくても夫はそれを食べなければならない。よく考えれば、その辺で売っているお弁当の方が遥かに美味しくて、効率的ではあるのだが。
たとえば、手間暇かけて食事を作っていたのが、突然インスタント食品に変わったとしよう。味がまずくなったわけでなくても、「味気ない」とか「手抜き」と評価されてしまう。どんなにまずくても手間暇かけたものが、手づくりという理由で、評価を受ける。
とくに、愛情表現としての意味に結びつきやすい活動であるだけ、子育てを楽にしようとする試みに対しては、強く非難の声が浴びせられる。「紙おむつ」が普及するときには、紙おむつは子どもの発達によくないといった説がいろいろな理由をつけられて流布した。
(山田 p.158)
専業主婦は家事で忙しい。家にいるのに家事をしないのは、愛情の否定になってしまう。たとえまずくても、手間暇かけて料理を作らなければならない。夫は内心では、外で食べたほうが美味しいと思っていても、我慢して妻の料理をたべなければならない。そして、それが「愛情」として評価されてしまう。
だから、家事はなかなか楽にならない。とくに専業主婦は家にいるため、家事や育児で楽をしようとすると、周りから非難されてしまう。そして専業主婦は家事と育児にしがみつき、忙しい忙しいと繰り返すのだ。
専業主婦は、不必要に忙しい労働をしている。
(補足)経済学者パーキンソンによる「パーキンソンの第一法則」 『Work expands to fill the timeavailable for itscompletion.(仕事はその利用可能な時間に応じて拡大される。)』 時間があればあっただけ仕事は拡大されてしまう。
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男女産み分け:だんご3兄弟は望まれない (2004-02-05)
だんご3兄弟は望まれない
女の子を産みたいと望む女性が多く、男3兄弟を望む女性はほとんどいない。
男女産み分け
男女を産み分ける方法は存在する。
- 母体への負担
- 生命倫理
などの問題があって、通常は認められる行為ではない。だが、「受精卵診断、無申請で3例に実施 神戸市の産婦人科(asahi.com)」の記事によると、男女の産み分けのために受精卵診断を実施した医師がいたようだ。
理想の子どもの組み合わせ
男女産み分けの是非はここでは保留とする。
視点を変えて、世間の女性がどんな子どもの組み合わせを望んでいるのか、そのデータを見てみたい。
国立社会保障・人口問題研究所の出生動向基本調査で、初婚同士の夫婦に対して理想の子どもや組み合わせを質問した。(回答は妻が行った)
データからは、
- 女の子人気が上昇している
- 男3兄弟(だんご3兄弟タイプ)は望まれない
- 一人っ子ならば女の子が人気
等が読みとれる。72.7%の女性が一人っ子ならば女の子を望んでいて、男3兄弟を望んでいる女性は0.6%と極端に少ない。
男2人が生まれた後に
男女の産み分けを希望した女性は、すでに男児を2人出産している。次が3人目で、女の子を強く望んでいたようだ。理解できない話じゃない。私の会社の同僚にも、男の子2人を産んで、「もしも女の子が産まれるってわかっていれば、3人目を生むんだけどなあ」とぼやいている男がいる。男の子3人という「だんご3兄弟」は、あまり望まれていないのが現実だろう。
私はもともと子どもが欲しいとは思ってないので、理想の子ども数もなにもないのだが、男の子よりは女の子が欲しい。正直な話、妻の連れ子は、男の子よりも女の子が良い。
女の子は大人気だ。(いろんな意味で)
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女性の顔と身上相談 (2004-02-06)
女性の顔と身上相談
女性の身上相談に的確なアドバイスをするには、その女性の顔を知らなければならない。
顔を見なければ答えられない
夫が浮気をした場合、たいていの妻は怒る。かつて、女性からのメールでグチをこぼされたこともあった。一般的な男女論で返信したが、もっとも的確な返信をするには、その女性の顔写真が必要になるだろう。
もしもその女性が松浦亜弥に似ていたら、「なんてひどい夫なんだ! こんないい奥さんを放っておいて!」と、私も怒るだろう。しかし、その女性が高見盛(相撲取り)に似ていたら、逆に夫に同情する。「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び、痛みに耐えてがんばった!」と思うだろう。
女性の身上相談において、顔は重要である。昼間に電話だけで相談しているみのもんたは、適当に専業主婦の相手をしているだけなのだ。間違いない。
福田的幸福論
文学者の福田恒存(ふくだつねあり)も、女性の身上相談では、「とても顔を見なければ答えられない」と述べている。
醜く生まれついた女性に生涯つきまとう不幸という現実を無視するわけにはいかないのです。いくら残酷でも、それは動かしがたい現実なのであります。いや、現実というものは、つねにそうした残酷なものなのであります。機会均等とか、人間は平等であるとか、その種の空念仏をいくら唱えても、この一片の残酷な現実を動かすことはできないのです。
しかし、身上相談係りというものは、つねに人間平等、機会均等の立場からしか答えてくれません。つまり、女性という女性が、みんな同じ魅力をもって生まれついているという仮定のもとに答えるのです。私のように意地わるく顔が見たいなどとは申しません。
(福田恒存『私の幸福論』ちくま文庫 p.11-12)
昭和30年に、福田はこのテキストを「若い女性」という女性誌に書いた。誰もが口にしたい事実を女性誌に書いた点は、すばらしいと思う。
今の世の中にあふれている、うわべだけで一時的に現実から目を背けるだけの幸福論などよりも、はるかに良いと思う。
女性の顔を見ずに、本当にその人のためになるような的確なアドバイスなんて出来っこない。メールで相談を持ちかけられて、それに答えたとしても、それはあくまで平均的な女性を仮定しているのだ。美人と不細工では、与えるべき処方箋が違う。
女性の身上相談に的確に答えるには、女性の顔を知らなければならない。
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美人と性格と偏差値と (2004-02-07)
美人と性格と偏差値と
不細工だからといって性格が良いわけではない。
顔より性格か
昨日、美人と不細工について、本当のところを書いた。一部女性からは苦情があったものの、おおむね肯定的に受けいれられたようだ。
「たしかにそのとおりかもしれないけど、性格だって大事」という反論があったのだが、これは私も肯定する。でも、顔の重要性を否定にはならない。顔と性格は、シーソーのように、どちらかが立てばどちらかが引っ込むというものではない。両立が可能なものである。
- 美人で性格が良い
- 美人で性格が悪い
- 不細工で性格が良い
- 不細工で性格が悪い
という4種類の女性がこの世には存在するのだ。性格はたしかに重要だけど、美人か不細工かは別の問題である。美人で性格が良いのがベストだろう。
偏差値と「人を見たら泥棒と思え」という思想
「いくら美人でも性格が悪ければダメ」という意見と似ているのが、「いくら偏差値の高い大学を出ていても、人間として性格に問題があるやつはダメだ」というもの。たしかにそうかもしれないが、偏差値の高い大学に入ったからといって、性格に問題があるわけではないだろう。
興味深い調査結果があるので、紹介したい。社会心理学者、山岸俊男の『安心社会から信頼社会へ』(中公新書 1999)によると、大学の偏差値が高い学生ほど他人への信頼度が高く、偏差値が低い学生ほど「人を見たら泥棒と思え」ということわざに同意するという。(データの詳細については、紹介が難しいので、興味のある方は本をあたってほしい)
さて、これらの図に示されたデータによって、偏差値の高い大学の学生は他者一般に対する信頼が高く、偏差値の低い大学の学生は「人を見たら泥棒と思え」ということわざが社会的な賢さを意味するという信念をもっていることが示されたわけですが、この結果はいったい何を意味しているのでしょうか。
(p.232)
信頼は多様な機会が与えられている人や、機会が多く存在している社会で高くなる、と山岸は述べる。
ここで美人と不細工の話に戻そう。不細工よりも美人の方が、多様な機会に恵まれているだろう。山岸の仮定に基づけば、機会に恵まれた美人の方が、他者への信頼は高いことになる。つまり、美人の方が不細工よりも性格が良いのではないか。(性格は一つのものさしで計れるものではないが。)
誰か美人と不細工で性格にどのような差があるのか、統計的に分析した人はいないのだろうか。私は、美人の方が性格が良い(社会的に求められる性格)傾向が強いのではないか、と想像している。
不細工だからといって性格が良いわけではない。
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母性と娼婦性 (2004-02-08)
母性と娼婦性
男性が欲しているのは、「母親みたいなセフレ」である。
容姿と性格
昨日、美人で性格が良い女性が望ましいと書いた。美人とは何か、性格が良いとはなにか、あまり深く書かなかった。今日はその点について、補足をしたい。
まず、容姿が良いとは、簡単に言えば性的に興奮できるか否かである。人によって性的に興奮可能かどうかのストライクゾーンは違うが、世間で言われる美人は、男性を性的に興奮させやすい。
次に、性格が良いとは、社会的に望ましい性格をしているということだ。社会の側から要求される女性の性格は、やさしい、明るい、献身的で感情豊か、家庭的といったところだろうか。言い換えれば、性格が良い=母性的であるということだ。
母性と娼婦性
心理学者の小倉千加子は、『セックス神話解体新書』(ちくま文庫)で、女性はみんな、
- 母性
- 娼婦性
のどちらかを商品化して食べている、と述べている。
女性はみな、市場に出回る商品となるか、家庭の中で商品になるか二つに一つを選ばなければいけないのです。結局、女性が生きていくためにはプロ、アマを問わず母性を売り物にするか娼婦性を売り物にするしかない。娼婦性に自信のない娘は母性にかける。美に自信がなければ花嫁修業しなくてはならない。
一般に若い女性は一応この両方、母性と娼婦性の二股かけて社会化されます。そうやって無事商品化を達成しますと「主婦」と呼ばれるようになる。したがって主婦も全員が性を商品化して食べているのです。
(小倉千加子『セックス神話解体新書』ちくま文庫 p.67)
専業主婦なんてものは単なる「セックス付き家政婦」であり、「娼婦性」と「母性」を売り物にしているのである。(「セックス付き家政婦」という言葉は、たしか清水ちなみが言った言葉だったと思う)
昨日私が書いた「美人で性格が良い」は、娼婦性と母性の両方を兼ね備えた女性である。もし母性がなくても、娼婦的な魅力があれば良いし、娼婦的な魅力がなければ、母性を磨くしかない。どちらもないと、男性にとってはまったく魅力のない女性に映るだろう。
岡田斗司夫は『30独身女、どうよ!?』(現代書林 p.172)で、「男の子は恋愛に興味があるように思えちゃうけど、そうじゃない。『母親みたいなセフレが欲しいな』というふうに言えばいいのにそこまではっきり、認識もできていない」と述べている。
男性にとって魅力的なのは、やさしくて家庭的で、なおかつ性的欲求を満たしてくれるセフレ(セックスフレンド)なのである。メイドはその典型だろう。一部の男性にはメイドさんが大人気で、メイド喫茶までできている。世の中から専業主婦が消滅しない理由の1つは、男性が家政婦を求めているからである。セックス付きの家政婦として、専業主婦が求められてしまうのだ。(それゆえ、夫の中には、妻が外で働くことを嫌う人もいる。)
男性が欲しているのは、「母親みたいなセフレ」である。
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月曜から飲み会 (2004-02-09)
月曜から飲み会
今日はただのつぶやき。月曜だというのに、18:00から23:00まで飲み会。家に着いたら日記を更新する暇もなく。今日は飲み会での話を、適当に書く。
「私を養ってオーラ」
とある独身男性が、「独身で彼氏のいない女性と飲むと『私を養ってオーラ』が背後に見えるんです」と発言。これは私も感じるところがある。とくに女性が激安であればあるほど、この傾向は強いと感じる(あくまで主観の話)。
「エビでタイをつる」ならばまだしも、「ミミズでタイをつる」というのは、土台無理な話なのだが。
その発言に対して、ある既婚男性は、「そういう女は放置の方向で」と発言。「家でくさった専業主婦なんてやってる時間があったら、その分働いたほうがよっぽど効率的。でも男の中にも、『養ってこそ男だ』という考えを持つひともいるし、妻の両親が働くことを嫌う場合もある」と、既婚者らしい大人びた回答をした。もっともな話である。
その場の結論としては専業主婦=ダメ人間ということになったのだが、その席に専業主婦に寄生されている男が何人もいたのは、問題ではなかったか。なぜかウチの会社は、専業主婦家庭が多い。リストラターゲットになっているような冴えない社員も、専業主婦を抱え込んでいる。彼らの将来はいったいどうなるんだろう。
(今日はただのつぶやきで終了。)
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妻がセックスを断る権利 (2004-02-10)
妻がセックスを断る権利
子どものいない既婚男性の半数が、「妻にはセックスを断る権利はない」と思っている。
セックスつき家政婦、その後
「専業主婦はセックス付き家政婦」と書いたことに対して、反論や異論があった。時間の都合上、ひとつひとつに反論していくことは難しい。
本当は何十もの統計データを元に話を進めたいのだが、量も多いし、あまり長いのも好まれないだろう。論理が飛躍したり、十分な根拠を提示できていないのは重々承知の上なので、反論があるのも当たり前だろうな、と思っている。(逆に、ありのままに受け容れてしまったら、そっちの方が怖い)
セックスを断る権利なし
子どものいない既婚男性は、妻にはセックスを断る権利がない、と考えている人が多い。NHKの調査(『データブック NHK日本人の性行動・性意識』2002p.77)にようると、51.2%の既婚男性が、「妻にはセックスを断る権利がある」という質問に対して、「そうは思わない」と答えている。逆に「そう思う」と答えているのは、わずかに25.6%である。
夫が「セックスを断る権利無し」と考えているのに対して、妻の考えは対象的だ。71.1%が、「断る権利あり」と思っている。男女の認識で大きなズレがある。こうした認識の違いから、夫婦の溝が深まっていくのだろう。
ちなみに私は、妻はセックスを断る権利がある、と思っている。
私はできることなら、「セックスつき家政婦」なんて身分はないほうがいいと思っている。しかし今の社会だと、夫が妻を養って、そのかわりに妻は夫にセックス・サービスを提供していると見ることができる。
伏見 「セックスや家事を、自分の生活費と交換したい人は、主婦をやればいいということになりませんか」
角田 「現にそうなっているでしょう」
(『性の倫理学』伏見憲明 朝日新聞社 p.164 弁護士 角田由紀子との対談)
私が書いたのは、現実がどうなっているのか、というところである。今の現実は、私の道徳観や理想とは、まったく別のものである。男性の半数が「妻にはセックスを断る権利がない」と考えていても、私はそれに同意はしない。
子どものいない既婚男性の半数が、「妻にはセックスを断る権利はない」と思っている。
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バレンタインチョコの起源 (2004-02-11)
バレンタインチョコの起源
バレンタインのチョコは、もともとは女性に対して贈るものとして宣伝されていた。
そういえばバレンタインデー
気がつけばバレンタインデーまであと数日である。中学生のときはそわそわしたものだが、それ以降はどうでもよくなった。もらえるかもらえないか、というゲーム的な面白みがないから、盛り上がりに欠ける。もらう人からはもらうし、もらわない人からはもらわない。会社の女性からは義理チョコをもらう。社会人になると、極端にバレンタインデーがつまらなくなる。
製造コスト数十円の手作り義理チョコに対して、数十倍の値段のブランドもののチョコをお返ししなければならない理不尽さ。社内でチョコ配布禁止令でも出ればいいのだが。(幸い、今年は土曜日がバレンタインデーである。)
日本型バレンタインのはじまり
それはさておき、「バレンタインはチョコレート会社の陰謀」という説をよく聞く。モテない男のひがみとして受けとられることが多い。
たしかに、「バレンタインデーにチョコレートをプレゼントしよう!」と宣伝したのは、チョコレート会社である。しかし、もともとのチョコレート会社の意図は、現代のバレンタインデーとは異なっていた。
バレンタインデーについては、『OLたちの<レジスタンス>』(小笠原裕子 中央公論新社 1998)が詳しい。『OLたちの<レジスタンス>』によると、チョコレート会社の不二家が1956年にバレンタインデーの販売促進を行った。そのときのフレーズを引用する。
今年からヴァレンタインデー
(愛の日)も行います
貴方の愛する あの方へ
あなたの好きな お友達へ
母にも、祖母にも、お姉さんにも
慕う貴方の 先生へ
ハートの型をしたお菓子をお贈り下さい
(『不二家マンスリー』1956年2月1日
この宣伝文句から、
- 贈る相手は男性ではなく女性
- 贈り主は女性に限らない(「貴女」ではなく「貴方」と書いてある)
という旨が理解できる。
そもそもチョコみたいな甘いお菓子を好むのは女性である。バレンタインデーをチョコレートをプレゼントする日にしたい、とチョコ会社が考えたら、女性へのチョコのプレゼントをまず第一に考えるだろう。(チョコじゃなくてゲームソフトだったら、まず男性へのプレゼントを考えると思う。ゲームソフトをプレゼントされて、喜ぶ女性は少ない。)
その後、当初の不二家の意図とは違い、バレンタインデーは「女性から男性にチョコレートを贈る日」になった。チョコレート会社が、はじめから今のようなバレンタインデーを狙っていたわけではないのだ。
バレンタインのチョコは、もともとは女性に対して贈るものとして宣伝されていた。
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バレンタイン日米比較-友チョコは普及するか?- (2004-02-12)
バレンタイン日米比較-友チョコは普及するか?-
日本のバレンタインのプレゼントは、女性から男性への一方通行である。アメリカでは、女性から女性へのプレゼントもある。
日本のバレンタインの特徴
せっかくなので、昨日に引き続いてバレンタイン話をもうひとつ。
『OLたちの<レジスタンス> サラリーマンとOLのパワーゲーム』(中央公論新社 1998)では、日米のバレンタインの特徴を比較している。アメリカとは異なる日本のバレンタインデーの特徴は、
- 贈答品としてはチョコレートに執着
- 女性から男性への一方通行的贈答
- 職場でのさかんな贈答行為
の3つに集約できる。
まず最初の「チョコへの執着」は、日本の企業戦略の結果であろう。アメリカではチョコに限らない。アメリカ人が執着するのは、贈り物に添える「カード」らしい。
次の「女性から男性への一方通行的贈答」は、日本では当たり前のように思われている。しかし、アメリカでは、男性から女性へもプレゼントを贈る。女性は男性に限らず、同性の友人にもプレゼントを贈る。ただし、日本とアメリカで共通しているのは、男性から男性へのプレゼントがほとんど存在しない点である。男性から男性へのプレゼントは、意味深で気持ち悪い。バレンタインならなおさらだ。
最後の「職場での贈答」も、日本特有の現象である。アメリカ人は、職場の人間にプレゼントを贈らない。日本では、なぜか女子社員がチョコを配布している。(プレゼントというよりも、「配布」という言葉がふさわしいと思う)
「友チョコ」は普及しているのか?
日本でも女性から女性へチョコをプレゼントすればいいのに、と思った。甘いものが好きな女性は、男性よりは多いだろう。
そこで調べてみたところ、「友チョコ」という言葉が見つかった。「友チョコ」とは女性から女性の友人に贈るチョコレートのことらしい。Googleでは、1450件ヒットした。「バレンタイン」での検索は180万を超えていた。「友チョコ」、あまり普及していない。(ちなみに、「憂鬱なプログラマによるオブジェクト指向な日々」で検索したところ、2370件のヒット数が得られた。)
とはいえ、これからは女性から女性へのプレゼントも増えていくのではないかと勝手に予想している。男性から男性へプレゼントを贈る習慣は、向こう30年は、発生しないと思われる。
バレンタインデーに男性から男性へ贈り物をする習慣は、アメリカでも存在しない。女性から女性へのプレゼントはある。
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自分の性格 (2004-02-14)
自分の性格
今日はエゴグラム理論に基づいた性格判断と宣伝している、「辛口性格診断」について。
辛口性格診断をやってみた。
「辛口性格診断」という性格診断を勧められたので、さっそくやってみた。
私の診断結果は、「かんしゃく玉タイプ」だった。以下、コピー。
あなたは「かんしゃく玉」タイプです。このタイプの人は生真面目すぎるために心配性で不安にのみ込まれやすい性質を持っています。常識があり、曲がったことが嫌いなので規則や規範を大切にし、そこからはずれることはありません。何事も厳しい批判力、強い責任感で見てしまうために、ちょっとのことでもすぐに怒ったり、いつもイライラしがちです。その一方で「人によく思われたい」という気持ちも強いあなたの心のなかはいつもモヤモヤ。しばらく感情をためこんでいるとついには大爆発!誰彼かまわず罵倒してしまい手をつけられない状態になってしまいます。そのため周囲からはうるさがられることも・・・。このタイプの人は本当は自分に自信がなく、さみしがりやで臆病なのです。弱い自分を隠すために、他人からはずれてでも「強い個人」を演出し、そんな自分を誰かに認めて欲しい、理解して欲しいと思っていますが、もう少し許容範囲を拡げないと自分自身が損をしますよ。
だいたい当たっていると思う。自分自身の認識と似ている。ついでに、「恋愛観」については、
不安感が強く臆病なあなたを受け止めてくれる優しくて頼りがいのある力強い人を求めています。でも現実は「こうあるべきだ」という理想の高いあなたは相手の欠点が見えてくると「もう一緒にいられない!」なんて切れてしまったりするのでは?そのため恋人がなかなかできず、できても長続きはしません。もっと相手の立場を思いやり、相手のよいところも悪いところも認め合う関係が築ければ、本当のパートナーを見つけることができるでしょう。
という結果が得られた。否定はしない。
東大式エゴグラム
この性格診断は、どうやらTEG(東大式エゴグラム)をベースにした独自のものらしい。TEGよりも質問数が少なく、回答の幅が大きい。TEGはそれなりに信頼性・妥当性があると言われているので、結果について「当たっている」「当たっていない」というのは、不適切な評価かもしれない。学者や研究者が、真面目に作ったものなのだ。そこそこ当たるようにはできている。(ただし、ネットでできるのは、あくまで「簡易版」である)
東大式エゴグラムについては、「新版TEG 東大式エゴグラム」という本が出版されているので、興味のある方はそちらを読んでみると面白いかもしれない。
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教師はただの普通の人間 (2004-02-16)
教師はただの普通の人間
小学校や中学校の教師も、平凡な普通の人間である。期待しすぎるのもお互い不幸である。
シリーズ「教育」
「男女論」なんて書いていると、アクセス数は増える。アクセスが増えた分、意味不明な反論や、ただの人格攻撃にしか思えないような指摘を受けることも多くなった。
デフォルトでいちゃもんつけてくる人たちの相手をしたり、考えたりする時間も勿体ないので、しばらく「男女」に関するテーマは書かないようにしたい。ある程度アクセス数を減らしてフィルタリングをかけたいので、1ヶ月ぐらい延々と真面目なテーマについて書いてみたいと思う。とりあえず、受験シーズンでもあるし、「教育」をテーマにしたい。
また気が向いたら、男と女について書くつもり。
教師の人格レベル
私の友人が「小学校や中学校の教師の人格レベルって、今思えば低いような気がする。明らかに子どもに威張り散らして楽しんでいた。そりゃすばらしい先生もいるにはいたけど、全体的に人間としてどうかしている」という話をしていた。
私の経験からいって、小学校・中学校の教師のレベルはとても低いと思う。なかには人格的に問題がある人もいた。人格がまともじゃないのに、そんな人間に権力を与えてしまうわけだ。下についた生徒はたまったものではない。
ふつうの人間だから
小学校から高校まで、全国には約100万人の先生(教師)がいる。そして、最も優れた100万人の人間が、教師になっているわけではない。優秀だったら、他の職業についている可能性の方が高い。美術家のなりそこねとか、音楽家のなりそこねとか、研究者のなりそこねとか、それほど成績が良くなかったから教師にしかなれなかった人たちが何十万人といるのである。
社会学者の苅谷剛彦が、『学校って何だろう』(講談社)で、「教師は普通の人がついている普通の職業」と書いているが、私も同感である。
たくさんの先生が全員、生徒のことをよく理解できる「心の教育」の専門家になれると思いますか。
(中略)
学校の先生というのは、全部が全部、よりすぐりの特別な人ではないと考えたほうがよいでしょう。もちろん、そういう立派な先生もいます。ですが、全体としてみれば、普通の人がついている、普通の職業だと考えたほうがよいのだと思います。
(苅谷剛彦『学校って何だろう』(講談社 p.150)
苅谷はこの後、普通の人なんだから、あれもこれも期待したって十分に応えることはできない。それは教師のせいでも学校のせいでもない、と続けている。
私は、教師への期待過剰も問題だが、教師の持つ権力も過剰だと思っている。ただの普通の人間が、子どもを殴ったり、精神的に苦痛を与える権力を握っているのである。優れた人間ではないのだから、権力を与えすぎてはいけないのだ。権力を行使するうちに、次第に人格すら歪んでしまうのではないだろうか。
教師はただの普通の人なのだから、周辺の社会が監視をしたり、過剰な期待を押し付けないようにしなければならない。でないと真面目な教師が疲れ果て、不真面目な教師が暴力を振るってしまい、お互い不幸になる。
教師も普通の平凡な人間である。
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都市と山村の教育格差 (2004-02-17)
都市と山村の教育格差
山村や漁村に住む子どもよりも、都市に住む子供の方が、知能が高い。
田舎と都会
田舎の中学校を卒業し都会の高校に進学した高校生から、メールをいただいた。内容を簡単にまとめると、「田舎の教師は経験が浅く、都会の教師と比較するとダメ人間」というもの。具体的な根拠はないが、まあそんなものだろうな、と思う。私も地方出身で、地方の教育のいい加減さは体感している。
現実的に、生まれた場所によって「教育の格差」が生じてしまう。公立中学しかない田舎で、教育熱心な親だと、わざわざ良い学校の学区にまで引っ越したりもする。多くは住宅買い替えのついでなのだが、学区を意識する親は、多いと思う。
都会と田舎と知能
昔から知られていることなのだが、都会に住む子どもの方が、山村や漁村に住む子どもよりも、知能は高い。知能検査が環境によって向上する可能性を示すデータも存在する。アメリカの南部に住んでいた黒人がフィラデルフィアに移住したところ、知能が向上したという。小学校1年のときに移住すると、その向上は著しいらしい。6年生の時に移住しても、効果はあるが、1年生のときほど効果はないらしい。
都会の学校が優れているのか、環境が教育に向いているのか、要因は1つではないが、様々な点で都会の方が教育に適しているだろう。
都会に生まれた人は、教育の面で、恵まれていると思う。地方から上京してきた身として、強く実感するところである。
田舎の教師にダメ人間が多いのも、教える対象の人間(つまり子ども)のレベルが低いからではないだろうか。生徒のレベルが低ければ、教師のやる気もおきないだろう。教えたことをぜんぜん理解してくれなかったり話を聞いてくれない生徒たちに教える先生も、苦労すると思う。やる気もなくなるだろう。教師もただの普通の人間なのだから。
山村や漁村に住む子どもよりも、都市に住む子供の方が、知能が高い。
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DQN再生産のしくみ (2004-02-18)
DQN再生産のしくみ
DQNは再生産される。DQNはDQNとして生まれるのではない。DQNになるのだ。
DQN新成人、書類送検
「「こんな大事になるとは思わず」成人式で暴れたDQN新成人9人、書類送検★2」という2ちゃんねるのニュー速+板のスレを見た。擁護する人もいれば、DQNを叩くものもいる。いつものほのぼのとした2ちゃんねるの光景だ。
このニュースは、テレビでも報道されている。印象的だったのが、親が市長への謝罪のニュースだ。暴れた子どもの親が、「無学な親がこうして謝りにきた」と、市長に平謝りだった。端的に言って、子どももDQNなら親もDQNで、その自覚が親にもあるということだろう。
現実に、「DQNの子はDQN」であることが多い。事実としてDQNが再生産されてしまう。
DQN再生産の仕組み
DQNの子がDQNになってしまう理由は、フレデリック=ウィリアムズが提唱している「貧困のサイクル」で説明するのがわかりやすい。
「貧困のサイクル」は有名なので、知っている方もいると思う。簡単に説明すると、親が貧乏だと子どもの発達上よくない環境になり、子どもの成績が思わしくないものになって、よい職にありつくことができない。二代目も貧乏になってしまう。この悪循環を「貧困のサイクル」という。
これはDQNに対して当てはめてみても、同じである。親がDQN職だと、収入が少ないために「経済上の不利」が発生する。経済的に恵まれないため、子どもの「発達上の不利」が生じる。小学校以前での発達が遅れるため、小学校後において「教育上の不利」が発生する。よい教育を受け容れることができないため、今度は就職時に不利になる。この「雇用上の不利」が「経済上の不利」に繋がって、延々とループしてしまう。
こうしてDQNは再生産されてしまう。
DQNは生まれながらにしてDQNなのではない。社会の中にはDQNのサイクルがあり、普通の人でも「発達上の不利→教育上の不利」を経て、DQNになってしまうのである。そしてDQNは「雇用上の不利→経済上の不利」を経て、DQNを育てることになる。
この連鎖は、どこかで断ち切らねばならない。国家が「経済上の不利」に対して支援を行うのもひとつの方法なのだが、DQNは金の使い方もDQNなので、子どもの教育に金を回さない。そうした「社会文化的相」もあって、なかなか「DQN再生産の連鎖」を断ち切ることは難しいのだ。
DQNは再生産される。
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私立に逃げ出す「いい生徒」 (2004-02-19)
私立に逃げ出す「いい生徒」
優秀な「いい生徒」は公立学校から逃げ出し、私立に進学する。
受験シーズン
あちこちの日記サイトを読んでいると、「息子が私立中学に合格した」なんて話が書かれている。親もうれしいのだろう。不景気で経済的に余裕がないなかで、私立中学に通わせようとする気持ちのある親は、立派だと思う。
ブライト・フライト
東京の公立学校の崩壊が叫ばれて久しいが、この背景には優秀な生徒が私立に逃げ出してしまった、「ブライト・フライト」と呼ばれる現象が存在する。教育社会学者、苅谷剛彦の言葉で、「いい生徒」が私立学校に逃げてしまう現象を「ブライト・フライト」と呼んでいる。
アメリカにおいて、学区内に人種的マイノリティが増えたことに対して、白人がその学校から逃げだすことを「ホワイト・フライト(白人の逃亡)」と呼ぶ。日本で起きた現象は、それになぞらえてブライト・フライト(優秀者の逃亡)と呼ぶことができる。
(『階層化日本と教育危機』 p.109)
集団におかしな人間が混ざってきたり、集団全体の質が低下すると、優秀な人々はそこから逃げ出そうとする。「白人も黒人もみんな一緒に勉強するのが真の教育!!」と力説し、白人の学校に黒人を流入させると、白人は逃げ出してしまう。結果、黒人ばかりの学校になってしまい、最初の意図とは違った学校になってしまう。人は理念どおりには動かないものなのだ。
地方の人にはあまり関係のないことだが、都会で起きている公立離れ現象も、優秀な生徒が公立から逃げ出そうとしているからである。公立学校の質が低下し、優秀な生徒が私立に入学する。公立の学校の質がますます低下し、優秀な生徒は私立に逃げ出す。そして、公立学校が崩壊へと向かう。
「頭のいい子も悪い子も、いろんな人が一緒になって勉強するのが本当の教育!」という理想を掲げている人は、地方に引っ越すしかないだろう。都会ではこんな教育はありえない。(良し悪しはまた別の話)
地方に引っ越しても、今度は地方と都会での格差が問題となる。個人的には、都会の私立中学という選択が、ベターだと思う。
「いい生徒」は公立から逃げ出す。公立に残るのは「よくない生徒」。
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母親の学歴と大学ランク (2004-02-21)
母親の学歴と大学ランク
高学歴の母親を持つ人ほど、高いランクの大学に入学する。
DQNスパイラル
「DQN再生産のしくみ」が「それゆけ!!だよもん星」さんに取り上げられ、アクセスが増加。「DQNスパイラルの仕組み」として紹介された。個人的には、DQN再生産よりもDQNスパイラルの方がネーミングとしては好きだ。
DQN叩きの娯楽に満足するだけではなく、DQN人口減少に少しでも役立てればよいのだが。
エリートも再生産される
さて、DQNが再生産されるということは、裏を返せばエリートも再生産されることを意味する。「経済上の不利→発達上の不利→教育上の不利→雇用上の不利→経済上の不利・・・」がDQNを再生産するサイクルだ。これは「不利」ではなく「有利」な人にも同じ構造がある。
「経済上の有利→発達上の有利→教育上の有利→雇用上の有利→経済上の有利・・・」というエリート再生産のしくみも、日本社会には存在する。
母親が高学歴であればあるほど、その子どもも高ランクの大学に入学する、というデータがある。
データは、文科(経済、商、経営学部)系の四年制大学に進学した者の、大学ランクと母親の学歴の関係を表したものだ。単位は%である。偏差値70以上の大学に入学した人のうち、31.9%の人は、母親学歴が大学院・大学卒である。
ざっくりと見ただけでも、母親が高学歴なほど、その子どもも高い偏差値の大学に入学していることがわかるだろう。
母親の学歴が高いということは、
- 夫も高学歴なので、経済的に豊か
- 文化レベルが高く、教育向き
ということを意味する。(ここでは、遺伝を考慮しない)
「高学歴取得→高学歴の夫取得(または雇用上の有利)→経済上の有利→発達上の有利(高い文化レベル)→教育上の有利(十分な教育投資)→子どもの高学歴取得・・・」というDQN再生産とはまったく逆のことが起こる。エリートが再生産され、データが示すように、高学歴の母親からは高学歴な子どもが再生産されるのである。
(みんな薄々気がついてはいることなのだが、なぜかあまり不満の声があがらない)
DQNだけでなく、エリートも再生産される。
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家庭の収入と子どもの成績 (2004-02-22)
家庭の収入と子どもの成績
収入の少ない家庭の子どもほど、学校の成績が悪い。
高学歴女性の結婚相手
DQN再生産、エリート再生産に関して、「恋愛結婚社会なのだから、母親の学歴が高いからといって、夫の学歴が高いとは限らない。経済的に豊かだったり文化レベルが高いとは限らない」という反論があった。たしかに「〜とは限らない」と言ってしまえばそれまでの話だ。統計的にどんな傾向があるのかを明らかにしたまでである。
また、たしかに恋愛結婚社会なのだが、「女性は、自分と同じかそれ以上の学歴の男性と結婚する。」という事実は、過去の日記で書いた(「結婚と学歴の関係(2003/12/05)」同類婚の法則)。妻(女性)の学歴が高いのならば、夫の学歴もまた高いと考えるのが妥当であろう。
収入と子どもの成績
昨日提示したデータで、母親の学歴と大学入学ランクに関係があることを裏付けた。母親の学歴じゃなくても、年収でも同じである。高い年収であるほど、子どもは高い偏差値の大学に入学する。
これは、大学入学の機会を提供できるだけの経済的理由だけではなく、収入と子どもの成績との間にも関係があるからである。
東京都立大学教育学研究室「現代と教育実践」研究グループの中学2年生を対象にした調査によって、家庭の収入と成績との間に関係があることが裏付けられた。(苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ』中央公論新社 p.81)
家庭の収入が400万円以下だと、約半数弱の子どもが「成績下」である。反対に、800万〜1200万円の層だと、約半数弱の子どもが「成績上」なのだ。露骨に言うと、貧乏な家庭の子どもは成績が悪く、金持ちの子どもは成績が良い、ということである。
DQN再生産(エリート再生産)が働き、中学2年生時の成績にそれが現れているのだ。
収入の少ない家庭の子どもほど、学校の成績が悪い。
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新聞と学歴と子どもの成績 (2004-02-23)
新聞と学歴と子どもの成績
朝日新聞を購読している家庭の子どもほど、学校の成績が良い。
子どもの成績と新聞
昨日につづき、DQN再生産とエリート再生産のお話。
塾の先生をされている方の日記サイトに、「購読している新聞と生徒の成績との間に相関関係が伺える」という旨の記述があった。おそらく私の日記を受けてのことだと勝手に想像している。
塾での経験から、新聞と生徒の成績との間の関係に気がついたのだろう。おそらく、朝日新聞を読んでいる家の生徒の成績が良かったのではないだろうか。
今日の日記は新聞と学歴そして子どもの成績について、統計的に見ていきたい。
高学歴者が好む新聞
高学歴の人が好む新聞は、朝日新聞と日本経済新聞(日経新聞)である。女性だけのデータでも、高学歴の女性は朝日か日経を読む傾向にある。
このグラフは、東京都の女性が読む新聞の学歴別割合を示したものである。調査は世帯単位だったため、夫や父親の選択である場合も多い。また、85年のデータで、少し古い。(新しいデータが手に入らなかった)
このグラフから、
- 朝日・日経を読む人が高学歴者に多い。
- 読売は、高学歴以外の人に好まれている
という事実が読み取れる。朝日新聞の読者の半数は、大卒者である。
母親学歴と子どもの成績
次に、母親の学歴と子どもの成績の関係について見てみたい。昨日、「年収が低いほど子どもの成績が悪い」と書いたが、学歴も同様である。低学歴な親ほど、子どもの成績は悪い。
中学2年生の段階で、成績の差がはっきりと現れている。大卒の母親の子どもの成績は、中卒の母親の子どもと比較して、圧倒的に成績上である傾向が強い。
朝日新聞と子どもの成績
以上の2つのデータから、朝日新聞を読んでいる家庭の子どもは、学校の成績が良い、ということが言える。(朝日新聞を読む人は高学歴であることが多い。高学歴者の子どもの成績は良い。よって、朝日新聞を読む家庭の子どもの成績は良い、というロジック)
べつべつの統計データだし、調査年も異なるので、本当は単純にはいえない。だが、今調査を行っても、「朝日を読む家庭の子どもは学校の成績が良い」という結果は得られると思う。
朝日を読んだから成績が上がるわけではないことに注意したい。統計のよくある誤解である。子どもの教育にとって比較的良い家庭は、朝日新聞を読む傾向にある、というだけである。
朝日新聞の内容の良し悪しは、ここでは問題にしない。
朝日新聞を購読している家庭の子どもほど、学校の成績が良い。
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DQN言葉と思考への影響 (2004-02-25)
DQN言葉と思考への影響
言語は思考を制限する。DQNの言葉を身につけると、物事の考え方にも影響が出る。
なぜDQNの子は不利なのか
子どもは日常の中で、親から言葉を学ぶ。親がDQNだと会話もDQNなので、子どもはDQN的な言葉使いを覚えてしまう。言語はものの考え方に影響を与えるし、思考を制限もするので、思考力のないDQNが再生産されてしまう。
イギリスの社会学者バーステインは、貧困層の言葉の特徴を次のようにまとめている。
- 文法的に構造が単純
- 文が短い
- so,thenなどの接続詞の反復使用
- 形容詞・副詞の種類の数が少ない
- 理由と結論が区別できない
このような言葉の特徴は、DQNも同じである。
DQNの言葉
DQNの会話を検証してみたい。2ちゃんねるの「ふと耳に入ったDQNの会話」スレから適当にひろってみた。
警官に怒鳴っている人がいた。警官の声は聞こえなかった。
恐らく、一方通行を逆走して、止められた。
「警察ってそんなに、えらいのかよ!そんなの誰がきめたんだ!?」
「制服きてれば、えらいのか?俺だって、これは仕事の制服だ!」
「てめー、何様だと思っているんだよ」
結構前のことなんですが。
以下の言葉を耳にしました。
「アタシィ、こないだボランティアやったんだけどぉ、まだそのギャラ貰ってないの、ちょーむかつくー」
ボランティアって、お金貰えることもあるのかな。
映画館の上映待ち、後ろに居るカップル(なりかけ)のオナゴがウルサイウルサイ。
「近所にねー、公園があるのねー、紅葉チョーきれいだよー!」
「実家○○なんだけどチョーいいよー!」
「こないだのサークルのあれチョーウケなくない?!」
「チョートイレ行きたい!」
「チョー並んでたー!」
年のころ20前半。チョーくどい。
まだ何も言ってないのに、「ってゆーか」
挙げだしたらきりがないが、バーステインの指摘と同じ傾向が、DQNの会話にも見受けられる。理由も結論もわからない意味不明な言葉で、文法的に単純で、接続詞が「ってゆーか」で、副詞・形容詞などの修飾語は「超」と「ヤバイ」で十分事足りる。
教育に向かない言葉
親がDQNで、バーステインが述べたような言葉を使っていると、子どももその影響を受けてしまい、DQN的な言葉を身につけてしまう。日常的に仲間内だけで楽しく会話するのであれば、DQN的な言葉だけでかまわない。しかし、物事を考えたり分析したりする場合には、DQNの言葉は不向きなのである。
DQN的な言葉を身につけて小学校に入学した子どもは、教育の面においてハンデを背負うことになる。学校文化の中で、物事を考えたり、コミュニケーションをとったりするのに、DQN言葉は不向きなのだ。だから、DQNの言葉を身につけたDQNの子どもは、学校での成績が伸びずに自らもまたDQNとなってしまう。
DQN再生産の連鎖を断ち切るのが難しい理由の一つは、子どもが親から文化を継承してしまうからである。夫婦の会話や親子の会話を、社会の側から矯正させることは難しい。
親からDQN的な言葉を継承するため、親がDQNだと子どももDQNになる。
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DQNと言語相対論と教育 (2004-02-26)
DQNと言語相対論と教育
人間の思考は、使用する言語によって変わる相対的なものにすぎない。
DQN親とのコミュニケーションによって、DQNが再生産される。
言語相対論
昨日の補足を。なぜ言語が思考や考え方に影響を与えるのか。このことについて、「言語相対論」が説明を与えてくれる。「言語相対論」というのは、「人の思考様式はその人の言語習慣によって規定されている。そのため異なる言語を用いている人たちは、違った経験や考え方をする」というものだ。文化人類学でよく取り扱うテーマだ。
アメリカの文化人類学者、サピアが、次のように述べている。
人間は客観的な世界だけに住んでいるのでもないし、また、ふつうの意味での社会的活動の世界にのみ住んでいるわけでもない。人間は自分たちの社会にとって表現の手段となっているある特定の言語に多く支配されているのである。基本的に言語を使うことなく現実に適応することが可能であると考えたり、言語は伝達とか反省の特定の問題を解くための偶然の手段に過ぎないと思ったりするのは、全くの幻想である。事実は『現実の世界』というものは、多くの限度にまで、その集団の言語習慣の上に無意識的に形づくられているのである。
(『言語 ことばの研究所説』E・サピア 岩波書店 1998)
現実の世界は、言語の上に形づくられるものである。
言語相対論(言語決定論ともいう)については、このへんにリンクがまとまっている。(リンク先のタイトル不明)
DQN親との会話
社会学者バーンスティンによれば、貧困層の親子の会話は、理由と結論が分離できていないものが多いという。
- 「おれの言ったとおりにするんだ」
- 「出かけちゃダメだ」
など、理由が説明されていなかったり、一緒になっていたりする場合が多い。
「出かけちゃダメだ」
「どうして、お父さん」
「いつも出かけてばかりじゃないか」
「どうしていけないの」
「だめだって言っただろう」
というように、論理的でない会話が貧困層の親子の間には観察される。
DQNもこうした言語を日常的に使用する。親子の間でこのようなコミュニケーションが行われていれば、子どもの言語能力に影響を与えてしまう。そのため、子どもの思考能力が伸びない。そして、学校での成績も悪くなる。
親子のコミュニケーションの重要性を訴える人は多い。親子の会話が不要だと考える人はいないだろう。しかし、親がDQNである場合、親子の会話もDQN的なものになる。そしてDQN言語を身につける。
皮肉なことに、親子のコミュニケーションがDQNを再生産してしまうのである。(だからこの問題は厄介だ)
DQN親とのコミュニケーションによって、DQNが再生産される。
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DQN再生産を防ぐ禁断の方法 (2004-02-27)
DQN再生産を防ぐ禁断の方法
DQNから子どもを産む権利を剥奪すれば、DQN再生産を防ぐことはできる。
親の選別
世の中を見わたしてみると、親としての能力や素質に欠けるのではないだろうか、と思う人がいる。そして、そんな人ほど子どもを産んでいたりする。テレビでたまに見る「大家族スペシャル」はその典型だと思う。
子どもができたからといって、勝手に「親としての自覚」が芽生えるとは限らない。いくら親を批判したところで、親の素質にかける人には土台無理な話なのだ。
であるならば、親の能力に欠ける人には子どもを産む権利を与えなければ良い。強制的に不妊手術をさせる。もし妊娠してしまった場合、強制的に中絶させる。
恐ろしい危険な思想だが、これを実際に行っていた国がある。福祉国家、スウェーデンである。
福祉国家の暗部
スウェーデンでは、34年に断種法(正式名「特定の精神病患者、精神薄弱者、その他の精神的無能力者の不妊化に関する法律」)が制定され、75年までに不妊手術が約6万件行われた。その中には、不妊手術を強制されたものも、もちろんいた。
出来の悪い人間を再生産しないことで、社会全体を良くしよう、という発想だ。スウェーデンは福祉国家(裏を返せば社会主義的)であるため、社会が子どもを育てる国だ。そのため、養育などの面では、福祉が充実している。しかしそのぶん、社会にとって必要のない、お荷物でしかない人間は、はじめから国家が産ませようとしない。
福祉国家は、少なくとも二つの理由から優生政策を正当化する。かつてM・フーコーは、福祉国家に内在する矛盾を「無限の要求に直面する有限なシステム」として表現したが、そうした矛盾ゆえに、福祉国家は、有限な財源の効果的配分を目指して、誰が子どもを産むに値するか、誰が生れるに値するか、さらには誰が生きるに値するかという人間の選別に着手するのである。と同時に、福祉国家は、児童手当の支給、あるいは障害者施設の拡充といった形で、従来は家族という私的領域に委ねられていた人間の再生産過程を支援する分、逆にその過程に深く介入する権利を手にするのである。
(市野川容考「福祉国家の優生学」)
DQNのなかにも、どうしようもないDQNというものがいる。満足に食事すら与えなかったり、虐待を繰り返したりと、親としての素質に欠ける人が確実にいる。「親資格」なんてものを作って、親になれる人間を選別すれば、残酷な家庭内での事件も減るだろう。しかし、それは危険な思想だし、別な意味で残酷な世界だ。
DQNに生まれても、途中でDQNから脱出できるような教育を施せる社会が、今のところは現実的で、そして効果のある方法だろう。
DQNから子どもを産む権利を剥奪すれば、DQN再生産を防ぐことはできる。
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『蛍の光』と常識の虚 (2004-02-28)
『蛍の光』と常識の虚
卒業シーズンということで、『蛍の光』についての小話をひとつ。常識にとらわれない発想ができるかどうか。
昼間は何をしていたのか
「シリーズ教育」と銘打っていたはずが、「DQN大特集」になってしまった。気分を変えるために、ちょっとした話のネタをひとつ紹介したい。
立命館大学教授、安斎育郎氏の『人はなぜ騙されるのか 非科学を科学する』(朝日文庫)のp.108に、「常識の虚」と題した面白いクイズがある。
晋の国に、車胤(しゃいん)という人がいた。貧乏で灯油が買えず、蛍の明かりで夜遅くまで勉強し、後に大成した。日本の『蛍の光』という歌にも、彼のエピソードが反映されている。
ここで問題。ある男が、車胤が夜遅くまで蛍の薄明かりで勉強していると聞いて、昼間はいったいどんな猛勉強ぶりだろうかと思い、ある日の昼下がりに車胤を訪ねた。いったい車胤は何をしていたのか。
蛍を採りにいっていた
答えは、「蛍を採りにいっていた」である。夜に勉強するためには、蛍が必要だからその蛍をとりに奔走していたのだ。貧乏だから召使もいないので、蛍は自分で集めるしかない。
昼間働いて灯油を買うか、昼間勉強して夜はゆっくりすればいいのに、車胤はそれをせず、あえて蛍の光で勉強していた。蛍の光なんて暗すぎて、とてもじゃないけど勉強するには不十分だ。それでも蛍の光で勉強していたバカな人なのである。
考える力
もともとの故事は、笑い話ではないと思う。後の解釈で付け加えられた笑い話だろう。しかし、こうした常識をひっくり返すものの見方は面白い。
おそらくこんな話を学校の先生にしたら、「ひねくれたやつだ」ぐらいにしか思われないだろう。誰だって「蛍の光で勉強なんてできるわけない」と思うのだが、そこで思考は停止してしまう。というより、それ以上つっこんで考えると、教師からはいい顔されない。ありがたく「蛍の光」のエピソードを頂戴し、勉学に励まなくてはならない。その一方で「考える力」を養おうとしているのは、滑稽だ。
いや、この話だって、車胤を揶揄して終わるだけでは芸がないと思えば、もっと発展させることもできる。「実は車胤は蛍を飼育していたのだ」と考えることもできるし、毎日何十匹もとる必要はないので、勉強で疲れた目は頭を癒すために散歩に出たついでに何匹かの蛍をとり、必要な数だけ補っていたのだ、だから蛍狩りは車胤にとってリフレッシュの行動であり、健康保持にも役立っていたのだと考えることもできる。
もっともらしい話に出合ったら、ちょっと警戒しなければならない。だいたい詐欺師は、最ももっともらしいことを言って人を情欲がらみの幻視の世界に誘っていくものだ。だから、人が「A」と言ったら、「もしかするとB」ではないかと考え、「B]という考えが浮かんだら、「いや、Cかもしれぬ」と自らを否定してみる姿勢が必要だろう。
(安斎育郎『人はなぜ騙されるのか』朝日文庫 p.109)
『蛍の光』のエピソードを用いて苦学することを教える教師よりも、「昼間はいったい何をしていたんでしょうね」とひねくれた見方であれこれ考えさせる教師の方が、個人的には好きだ。(好きだった。)
蛍の光で勉強していた車胤は、昼間勉強もせず、働きもせず、蛍を採りに行っていた。
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「少年易老学難成」は日本製 (2004-02-29)
「少年易老学難成」は日本製
有名な漢詩「少年易老学難成 一寸光陰不可軽」は日本製である。この漢詩は日本人の多くに知られているが、中国人には知られていない。
少年易老学難成
昨日の「蛍の光」の話が意外にヒットしているので、もののついでにもう一つ小ネタを。漢詩「少年易老学難成 一寸光陰不可軽」の意外な事実を書いてみたい。
「少年易老学難成 一寸光陰不可軽」という漢詩は、日本人なら誰でも知っていると思う。「少年老いやすく学なりがたし 一寸の光陰軽ろんべからず」。学校の先生の中に、必ず口にする人がいる。国語の時間にも習ったし、書道の時間にも書いた記憶がある。
漢文だから、てっきり中国の昔の書物に書かれていることなんだろうと私は思い込んでいたのだが、どうやらそうではないらしい。意外なことに、中国人はこの漢詩を知らないというのだ。
中国人は知らない
東京都立大学総長が2000年度の大学院入学式辞で述べた言葉を、まるっと引用したい。
博士課程に進学して研究者を目指す皆さんは、これから本格的に学問の研究に取り組むことになります。その学問研究をする態度について、「学ぶ者は先ず疑いを会せんことを要す」という偉大な先人の言葉があります。即ち、学問の研究は先ず疑ってみることが大切であるという意味です。これは中国の大哲学者朱子がその著書『近思録』の中で述べている言葉ですが、偶々この朱子について、その言葉通り「よく知られたことでも疑ってみた方がいい」という恰好の例があったのでお話しします。
「少年易老学難成 一寸光陰不可軽 未覚池塘春草夢 階前梧葉已秋聲」という漢詩は昔漢文の時間にも教わりましたが、朱子の「偶成詩」として古来余りにも有名です。皆さんに座右の銘にして頂きたい素晴らしい詩です。先般、この詩を引用しようと思い、確認のため中国の詩集等を調べてみました。しかし、この余りにも有名な詩が何故かどこにも見当たりませんでした。そこで親しくしている中国人の留学生達にこの詩のことを聞いてみましたが、誰一人知っている人はいませんでした。
不思議に思って何冊か辞典にあたってみましたが手がかりは得られず、最後に広辞苑の最新版を見てやっと謎が解けかかりました。そこに書かれていた意外な説明について中国文学の先生に確認して、疑問が氷解しました。この漢詩は日本製だそうですから、中国の詩集に載っている筈はなく、中国人の留学生がこの詩を知らないのは当然でした。
これはほんの小さな例ですが、「先ず疑ってみること」が大切です。
(東京都立大学総長「2000年度大学院入学式式辞」)
それなりに教養があると想像できる中国人の留学生ですら、「少年易老学難成・・・」の漢詩を知らないのである。あくまでイメージだが、中国人なら誰でも知ってそうな漢詩だ。「少年易老学難成」という含蓄のある漢詩が日本に輸入され、日本人がそれを学んだと思い込みやすい。私もそう思い込んでいた。学校で教師が偉そうに漢詩を引用し、説教をしたら、「そうなんだ」と思い込んでしまう。しかし、よく調べてみると、そうとは限らない。
人は権威に弱い。漢文で書かれているだけで、歴史があって何かありがたいものだとして受け取りやすい。この漢文程度の知識であるなら、騙されてもたいしたことはない。しかし、詐欺師は権威を利用する。人の弱さや騙されやすさを熟知した詐欺師にひっかからないよう、「疑ってみる」ということが重要だ。
有名な漢詩「少年易老学難成 一寸光陰不可軽」は中国製ではなく、日本製である。
「先ず疑ってみること」が大切。
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