三千人の死は悲劇だが、三十万人の餓死は統計に過ぎない
東西冷戦(とうざい・れいせん)というコトバを聞いたことあるでしょ?
日本なんかの金持ちの国は「西側」だった。これは栄えてる側の論理――「金持ちな国は、ある意味ずるがしこく、貧しい国の安い人件費を利用して汚い仕事や下請けをやらせ、ますます栄える」、くだいていうと「おれらだって苦労してリッチな生活を手に入れたんだ。おまえら貧乏人もリッチになりたかったら、びしばし働け。世の中、競争なんだよ」と。これは、理解できると思う。
「東側」ってのは貧しい側からみた夢とでもいうか、「地球上にこうも貧富の差があるのは、よろしくない。ひとにぎりの金持ちの横暴がまかり通り、おれらは働けど働けど、みんな吸い取られちまう。地球全体がひとつの国みたくなって、地球全体での総生産の果実を全地球人で平等に配分したほうが良い」――これも理想論としては理解できると思うが、現実的に考えると、もし東側の言い分を通せば、我々金持ち先進国は、ある時期をさかいに、せっかくこれまで稼ぎまくったアイテムを全部のプレーヤーに平等に分けてやらなければならなくなるので物質的に「損をする」、貧しくなる。
まぁ競争がなくなるので精神的にはラクになる部分もあるかもしれないが、貧富の差がなくなるということは、金持ちのためこんだものが貧乏人どもに広く平等に配布されてしまうことだから、金持ちからみると、損をする話だ。ほかにも、競争がないと、人間は怠けるという問題がある。いずれにせよ、金持ちな西側が上のようなことをもくろむ東側貧乏国どもを、ぶっつぶそうとしたのは当然と言えよう。
ただし、「東側」の理想論というのは、決して貧乏人が自分につごうよく考えたことではなく、古代ギリシャの貴族やら、西側ドイツの偉い思想家とかが思い描いた理想の未来図だったりする。
――たぶん貧富の差やあまりひどい競争がないような、ほのぼのとした世界というのは、貧しい側が金よこせと言って金持ちからうばうことでは実現困難で(それじゃ問題が逆転するだけ)、物質的に豊かな側が、衣食住に充分に余裕ができ、その次に精神的なものの価値を理解するようになって、そして自発的に動かないと、たぶんダメだろう。――また、実際、方向としては、そういうふうに動く大きな流れもあって、「修正」資本主義というふうに言われている。構図としては、強者が弱者に手をさしのべるわけだが、必ずしも優しい精神とは限らず、計算ずくのことも多い。
自由競争原理をあまりにナマで実践すると、あるところから貧富の差がでかくなりすぎて、競争にならなくなってしまう。チェスや将棋でいうと、強いプレーヤーは、相手のコマをどんどん取る。そしてますます強くなる。で、例えば、飛車角金銀ぜんぶあなたがゲットして、相手が裸の王さまに歩(ポーン)とかだけになったらね、あなたが「正々堂々と正面から勝負しましょう」なんて言ったって、それは勝負にならない。
将棋だったら、相手の王を詰めて(殺して)勝負終了すればいいけど、現実世界では、事実上のどれいである国をホントに滅ぼすわけには行かない。優しい気持ちからじゃなく、どれいを皆殺しにしたら、こっちが困るからだ。安い人件費で下請けやらせるどれいがいなくなったら、我々は自分で食事のしたくや後かたづけをしなきゃいけなくなって、優雅に生きられないから。
であるから、貴族のホンネとしては、平民どもは飼い殺し、生殺しにしたいところだが、あんまり追いつめると、暴動を起こしかねないから、ほどほどに優しくしておくことが肝心だ。つまり、貧富の差があまり極端にならないように、お菓子は全部こっちがいただくけど、パンに困ってるヤツにパンは恵んでやる。でないと、平民どもも食ってけなくなり、生命がかかってるから、命がけの死にものぐるいで特攻してきて、こっちがやばい。
将棋で言えば、相手を生殺しにしてるうちに、いつのまにか「と金」の非正規軍がひそかに組織され、居飛車アナグマでぬくぬくなごんでいると、知らないうちにことのほか事態が切迫してたりする。「と金」をなめちゃいかん。「ポーンをそんなふうに使うのは卑怯だぞ、文句があるなら正々堂々とルークやビショップで正面から来なさい。そうすれば話し合う。お前らは汚い」などと抜かしても、むこうはルークもビショップも持ってないんだから、非正規戦で来るしかないに決まってる。
そうならないように、もし貧富の差を肯定するなら、較差をほどほどに。貧しい国に半分わけてやれとは言わないが、最低限の衣食住だけは確実に保証して、むこうがかえってこっちに感謝するように持っていくのが賢い。開発援助なんかがそうだ。だが、あまり援助して、むこうも軌道に乗ると手ごわい。この手加減が難しい。かつては貧しい弱小国だったが、最近、強敵になりつつある地域がアジアにもいくつかある。
油田や天然資源の死活問題がかかっているからといって、あまりに強者のおごりでひどいことをやると、自分で自分の首をしめることになる。――例えば、自分が支配したい地域の国の、国民全体を極悪非道ときめつけ、金持ち国で一致団結して叩き自分たちにつごうよく改造しよう、などと考えると、そのときは勝てても、あとあととんでもない禍根(かこん: わざわいのタネ)を自分で作ることになる。
東西冷戦では、ちょっとそれをやってしまった。東側、社会主義とか共産主義とかいうのは、とにかくものすごく悪いものなのだ、と宣伝し、自国民を洗脳するために「これこれの国では、こんな悪いことがある」という個別の事例を並べてみた。実際、批判された国とて理想の国ではなく、むしろ政治には汚い部分が多いので、個別の事例についての批判は、おおむね当たっていただろう。が、個々の政治家の人間的なあれこれというのは、じつは「全地球でほのぼのと行きたい」という理想論自体を攻撃する材料には、なり得ないし、よく観察すると、「あの国では、ひとにぎりの政府上層部だけがいい思いをして、国民は貧しい。みなさんもああなりたいのですか?」というかつての西側的宣伝は、「不公平や不平等はよろしくない」という「東側」的理念そのものだった。おかしなことに、自分たちが否定しようとしている相手を否定するために、そのまさに否定したい論理を使う。
ほかにも、経済競争第一の資本主義社会には、公害、農薬、商品宣伝のための巨額のムダ、それにともなうくだらないテレビ番組やおまけがますます低きについてゆく、といった、ネガティブな側面も多いが、さりとて、現実がこうなっているのを、ある日とつぜん「地球市民革命」で「平等公平」にする、なんていうのも非現実きわまる。貧乏人どもが我々にも富を分配せよ、公平で平等な福祉社会にせよ、と息巻いているときの「平等」とか「公平」というのは、単にカネを公平に分けろという物質的な話で、資本主義側の勝者の論理と本質は同じだからだ。
精神的なものの価値を本当に実感できるのは、経済的には何もかも満ち足りて、それでもこころが満たされないことを切実に感じている我々貴族なのであって、貧乏人どもの精神論は、要するにパンをもっとよこせという話。物質的に貧しい国にも(豊かな国にも)少数のスピリチュアル志向はあるとしても、多くの人々は、そうでない。我々がばかげた戦争をやめさせようとする場合でも、多数決の原理のため、多くの人々に訴えざるを得ないのであって、そこで、ちゃちながきの写真とかを見せて「これを殺したいのか」などと、動物の本能レベルにまでおりて話を合わせてやらねばならない。「敵」もさるもの、これこれは、か弱い女性や子どもをいじめているので罰を与えましょう!と同じレベルで戦うし、根が物質主義の連中のほうが、ぜったい宣伝がうまい。宣伝したい相手と同じ感覚を共有しているから。
この現象を冷徹に記述すると、ひとにぎりのスピリチュアル主義者が――決して「統治」する(いわゆる哲人国家)のでなく――「ほぼ物理レイヤだけで生きる大多数」の「反抗」の前になすすべもない、という状態が長くつづいていた。プラトンふうに言えば「このことに同意する者は少ないし、未来においても少ないだろうということなら、分かっているさ」といったところだが、しかし最近になって、物質的繁栄のひとつの果実のインターネットが、いろいろな意味で物理的世界から離れた実存になり始め、少し流れが変わりつつあることを、感じているかたも多いと思う。
ネット空間はある意味、利権のなれの果てでありながら、従来の利権のかこいこみを自己解体させるポテンシャルを持っている。典型例として、ミュージシャンと聴衆のあいだに入り込み、音楽に寄生して中間搾取していたレコード会社やプロデューサーの自己正当化としての「著作権」理論。これはデジタル化と高速常時接続によるファイル交換の前に、ますます形骸化してゆく。この世界の生活必需品、例えば、ソフトならソフトは、ユーザ自身のなかの頭のいいやつが自分たちで作ってパブリックドメインに置いてしまうので、既得権者側からみたら、たまらない。物理レイヤの大衆操作に必要だった情報コントロールも、ますます難しくなる。情報それ自体がそれ自体の深い迫力の強弱によって広まり、長期的には、扇情的だというだけでは弱く、まして政治的意図からある情報だけを広めようとしても、ネット空間は、そもそも政治的中央に完全には支配されない自律社会なので、まず無理だろうし、今後、ますます無理になるだろう。
ひとことで言うならば、西側的発想の到達地点である電子技術が実現したのは、なんと、かつての東側的理想の世界だった――共産共有、平等対等、分散自由、自発自律。けれども、それが依拠している物理的インフラは、本質的には「物理的に貧しい国から奪った」ものだし、この新しい世界を生み出したのも西側的な原理による激しい競争だった。
二分法的に図式化すれば、とりあえずそんな感じだろう。
要するに、「本当に良い理念」というのは、革命など起こして押しつけなくても(押しつけるのが悪いとは言わないが、そうしなくても)、長期的には、いつかは自然と実現される。なぜなら、だれだって、本当は、かげで足をひっぱりあうような、ストレスだらけの競争社会じゃなく、ほのぼの、またーり暮らしたいと思っているわけで、けれども現実がそうでないので、のほほんとしてると不利になってしまうから、やむなく自分も「戦闘」に加わる。競争が悪いわけでは、ない。無駄で無意味でばかげた競争がイヤなのだ。競うなら、純粋な実質で。ソフトをつぶしたいなら、ソフトの内容で勝負しろ。そう言いたい。そういう世界になってほしい。良いもの、使いやすいもの、セキュアなものが自然とそれ自体のちからで広まり、見てくれはキレイだが、ずるがしこい粗悪製品は自滅してほしいのである。――これは、極めて単純なことでありながら、非常に難しい。なぜなら、過半数の消費者は、情報不足という意味でまだ「愚か」だから。
具体例をあげると、スーパーマーケットで「たらこ」(日本の食品)を買うとする。人工着色で真っ赤っかなのと、そうでないのとが同じねだんで並べておいてあれば、常識的には、着色なんてしてないのを選ぶに決まっている、とだれでも思う――と思うのだが、現実は、そうでなく、けっこう真っ赤っかのほうを選ぶ消費者も多いので、そうすると、それがニーズである限りにおいて、生産側もそーゆーものを作らざるを得ない。これは、ひとつのたとえだが、フリーで(あるいは同じねだんで)もっと良いものが手に入るのに、表面的なとっつきやすさが優先される結果、それがスケールメリットになってしまい、結果としてフリーで良いものが栄えにくい。
これを打開するのは、「何がどの点でなぜ良く、何がどの点でなぜ悪いか」という情報の集積と、「これこれは初めは、とっつきにくいですが、こうすれば簡単に使えるので、チャレンジしてみてください」という解説の集積で、それらがあらゆるレベルで自由にアクセス可能なら、長期的には必ず良い「とみなが判断するもの」が栄えるだろう。
言い換えれば、ある世界が悪いのは、その世界の構成員の多数意見が間違っているから、と言えるかもしれない。インターネットは、少し特殊な新しい世界で、意見というか考え方そものが「構成員」なので、好ましくない考え方が広まるとネット世界そのものが好ましくなくなってしまう――自分のトクになれば、他者の不利になって良い、という「自由競争=不平等肯定」原理だと、ネットの対等性のために自分に跳ね返ってくる――例えばファイル交換のときに、アップロード速度に制限をかけてダウンロード速度は無制限でやれば自分がトクをすると思うかもしれないが、みんながそう考えると、自分のダウンロードが遅くなる(相手も同じことを考えているから)、ということを、分かっているので、なるべく相手に優しくしようとする。全員ではないが大部分が相手に優しくしようとこころがける結果、だれにとっても気持ち良い場所になる。その逆だとその逆になることもよく分かっている。
なぜそうなるか。これまでとどこが違うか。というと、従来は「中央」のある企業(サーバ)が作ったものを、庶民というか大衆であるクライアントどもに売りさばいていた。一般に、生産側には消費者の個別的な「顔」など見えないし逆も見えない。
が、ファイル交換はピア・トゥー・ピアで、個別の知性と個別の知性の個別の接触だから。在来著作権がからむファイルについては、話が複雑だが、フリーのファイル、例えば偽春菜ねたな自主制作アニメとかの交換こは、従来でいえば「趣味の領域」なので競争原理と違う行き方がすんなり通る。なぜなら――相手がそれをほしがっていること自体が自分にとっても楽しい。いわば「あげる(アップする)こと自体が楽しい」。しかも与えても与えてもべつに減るわけでもない、という「愛のモデル」になっている。これはまだネットでも一部の特殊な領域かもしれないが、クライアント・サーバでも――例えば、従来の本なら大量に売れれば紙代、インク代のコストが問題になるけれど、それに対して――アクセスが増えても、サーバ負荷がOKの範囲にある限り、だれも損をしない。
現状、世界の大多数の人間にとっては、ネットは現実生活の道具であり、あるいは、現実の生活の余暇に楽しむ遊びかもしれない。ネットばかりやっているなんて非現実だと思うだろう。たぶん、人類が「言語」というものを使い始めた当初、数千年か数万年の移行期にも、コトバにすると「一日中、コトバを使っているなんて非現実だ」という「考え」があっただろう(ホントはコトバがないので「考え」じゃないかも)。当時は、一日の活動時間のほとんどすべてを動物としての自分の生存を維持する活動に使っていたからかもしれない。コトバなどしゃべっている暇は無い。そう「思った」のかもしれない。コトバなど無形で無力で実生活の役に立たないと。
実際、言語的思考や知識が蓄積されることで、どんなステキなことになるかなんて、それが起きる前には一般には想像だにつかない。けれど「この植物は、こう調理するとおいしい。この動物は、こういうワナで簡単につかまえられる。この症状の病気は、こうすれば治る」といった知識の集積は人間を激変させ、知識そのものを実存とした。ここにおいて知識がオブジェクトとして措定(そてい)されたので、次には「こういう知識に対しては、こういうアプローチ、視点の取り方ができる」という知識を操作するメソッドについてのメタ知識に進むことができる。その基本理念のひとつとして、情報の無制限なアクセス可能、つまり情報論的社会主義(情報の貧富の差をなくすべきだという意味)というのがあって、ネットは、その文脈で語ることもできる。
けれど根本的な問題は、人間はコトバ=知性に目覚めてトクしたのか?という点だろう。知恵の実をくわずにエデンの園で寝そべっていたほうが良かったという意見もあるハズだ。もちろん、そう考えることができるのも、結果の果実を受け取ったからこそなのだが。ある人々は「あーーーなんで殻を壊すんだよぉ。生まれたくなかったのに、生まれちゃったじゃないか」という意味も分かるであろう。
インターネットの箱のふたは、まだあまりあいていない。
■ 豆知識: そもそも難民(難民認定希望者)のうち特定の人種だけを差別的に逮捕したりするのは人道上も法理上も許されない。
れいの受動態たち。見るからにすごい――: 毎日スクールネット『まいうぃる』【アフガン人一斉摘発】: 東京都や千葉県内に住むアフガニスタン人に対し、捜査そうさ当局は3日、出入国管理法違反いはん(不法入国)などの疑うたがいで自宅などを家宅捜索そうさくし、計11人の身柄みがらを拘束こうそくした。政府は米国で発生した同時多発テロ以降、首謀しゅぼう者とされるウサマ・ビンラディン氏の潜伏せんぷく先とみられるアフガニスタンからの不法入国者の摘発てきはつ強化を指示しており、これを受けての異例の摘発となった。日本国内での一斉いっせい摘発はテロ事件後初めて。
捜査当局の内偵ないてい捜査で11人はアフガニスタン国籍こくせきと判明。同法違反容疑ようぎが固まったとして、一斉摘発に着手した。今後、押収おうしゅう資料を分析ぶんせきして、背後はいご関係の解明を進めるとみられる。ブッシュ米大統領は1日の演説で「25カ国で約150人のテロリストや支援しえん者が逮捕たいほされたり拘束された」と述べた。日本政府も全国の捜査当局に対し、テロ組織に対する捜査態勢の強化を指示しており、今回の摘発はこの指示を受けて行われたとみられる。捜査関係者は「今後もテロ組織とのつながりがあるとみられる人物を検挙けんきょするため、摘発を強化する」としている。
---こんないい加減な記事が、島国ローカル紙とは言え島民にとっては有名な「大新聞社」の名で公開されたのだから、たまらない。「あまりに非論理的」「論旨が破綻しており、これが一大新聞社の記事かと思うとめまいがする」などと、激しい非難が寄せられている。これでまた世界の多くの国々で、日本の評価が低下したものと見られる(と受動態で書いてみる。省略された受動態のあるじ = "by わたくし"
日本語訳: 「アフリカのニジェールでなぞの爆発事件がありました。フランス嫌いで有名なニジェール政府は、フランスのひみつそしき『ばらばらばんばら』がやったと決めつけました。フランスのひみつそしき『ばらばらばんばら』の黒幕ジャン・ジャック・ルソー氏は、日本の高知県の山奥に潜伏しているのだそうです。そこでアメリカのけいさつは、観光ビザで入国しながらテキサス州のハンバーガー屋でバイトをしていた東洋人の家を捜査し、日本人と判明したので緊急逮捕しました。この日本人も凶悪な爆発事件に関与しているものと見られ、当局は拘束した日本人を厳しく追及してゆくもようです」
参考リンク: 新聞の「正しい読み方」
米国のほとんどの小中校で、毎朝、生徒が起立し国旗に向かって「神のもとにひとつになった自由と正義の国、米国に忠誠を誓います」と暗唱している(Mainichi)
「戦域核兵器」初使用か: 前からうわさされていた米国は地表貫通型核爆弾をアフガニスタンに投下するか?ねた。未確認情報ですが、米軍は「バンカー破壊爆弾」を初めて使用、というAFP電(YAHOO NEWS)。B61-11 "bunker busting" nuclear bomb casing のことか?
AP電では、「バンカー・バスター」(BGU28)や「クラスター爆弾」などの特殊爆弾の使用を本格化させる模様
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ピンポイント誤爆: わざわざ大使館(@ユーゴ)とかUNの建物とか、よく当たる。「おれたちを怒らせると怖いぜ〜」ってわざとやってるのだろうか。「怒ると手がぶるぶる震えちまってさ〜だから、俺たちをおこらせちゃいけないんだよ、へへへ」ってな感じで?
ウクライナ軍の?ミサイル誤射?は、よく分からずに調査が続いているらしいけど、むしろよく調べるのがふつうだろう。ミサイルのように、いちおう発射責任者がいるであろうものでも、けっこう分からないのかもしれない。どこのだれがどう動いたやら、もっと準備周到で複雑精緻な事件が起きて24時間以内に実行犯が名指しされるほうがおかしい。
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ある意味、これは日本が、精神的な意味での自信をとりもどす良い機会かも。大戦の結果、勝ったほうは「正義」として、いまは安保理の常任理事国、負けた側は日本にせよ、ドイツにせよ、ほとんど百パーセント悪ということにされてしまった。たしかに半分くらいは悪いのだろうが、勝った側の言い分がすべてにおいて完璧に正しいということにもならず、でもそんなことを言うに言えず、怖い先輩にこてんぱに叩かれたからと、後輩にあたるのかも。
けれども、全員じゃないとしても多くの人が、いくらなんでも今度ばかりは先輩の言動は少々おかしいのでは?とうすうす感じて、それでも島国ローカルのニュースや新聞は、いつものとおりとりすましているらしいので、自分の感覚に不安になりながら、いろいろ調べて、やっぱりおかしいと思っている人も多い、と安心するのかもしれない(実際には日本のテレビ等を見れないので、どんな論調か知らない)――ひいては、戦後おしつけれた「正邪」のものさしも絶対ではなかった、と実感する機会なのかもしれない。
たいへん古い世代にとって敗戦は、どうも自分たちの価値観を全否定されたようなショックだったらしく、そうしてようやく新しい価値観に適応したら、それも半分おかしいなんて、たぶんもうついてけないだろう。我々の世代だと、んな生まれる何十年も前のこと分からないので、自分の親の親あたりがどっかそのへんで悪いことをしたという背景を分析するのが何で自虐なんだ?ぜんぜん「自」じゃないぞ、聞いてやるから恥ずかしがらずにすっかり話してごらんなさいな、と思うのだが。
2001.10.11 TV station defends Bin Laden coverage(BBC News): The channel's defence of its airing of the tape came as it was revealed that the US government had asked Qatar to rein in the influential and editorially independent Arabic satellite station, which gives air time to anti-American opinions.
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カタール政府に圧力をかけてアメリカ政府が言うには、「アメリカを批判する放送局をとりしまってほしい。」御用達の評論家たちいわく「ブレアとのインタビューの時間が短すぎて不公平だ(claiming that its interview with British Prime Minister Tony Blair was unbalanced)」とか何とか。
あいにくというか、さいわい、カタールのテレビ局には少々言論の自由があったらしく、“公平にアメリカ賛美100%”にするのは断った。いじめられてるほうの言い分も聞くべきだ、という、こんなことをいちいち主張して「守りました」というのがニュースになる寒さ。
アジアやアフリカには、そういう自由に乏しい弱い国もあるだろう。もちろん「親分の言うことなら何でも正しいです!」というどれい政府が支配する島国には、初めから圧力をかける価値すらない。そもそも influential とか editorially independent なんていうマスメディアもほとんどなかろうし。
二次大戦、敗戦50年記念の日本の総理大臣の談話より(※これはギャグではありません)
わが国は,遠くない過去の一時期,国策を誤り,戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ,植民地支配と侵略によって,多くの国々,とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は,未来に過ち無からしめんとするが故に,疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め,ここにあらためて痛切な反省の意を表し,心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また,この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。
敗戦の日から五十周年を迎えた今日,わが国は,深い反省に立ち,独善的なナショナリズムを排し,責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し,それを通じて,平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。同時に,わが国は,唯一の被爆国としての体験を踏まえて,核兵器の究極の廃絶を目指し,核不拡散体制の強化など,国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。これこそ,過去に対するつぐないとなり,犠牲となられた方々の御霊を鎮めるゆえんとなると,私は信じております。
2001.10.09 そろそろ「60か国」の残り59か国、とくに約2地域があすは我が身状態。ロシアも便乗して、あのへんをあーしたいだろうし。鍵をにぎる中国、賛成はしないだろうが、今度も「棄権」か?それとも「拒否権」か。それが地球史の分かれ道? あー今度だけは日本にUNSCの投票権がなくて良かった。
さて、今回の非人道兵器、「食糧ばくだん」♪ 解説しなければなるまい。これは極限状態の飢餓地帯のまんなかにほんのわずかの食糧を落とし、雑魚どもの共食い、仲間割れ、相互不信、心理的壊滅を引き起こす斬新な兵器なのだ。なんとか秩序を保とうとすれば、政府としても今以上の厳罰主義、強硬姿勢でのぞまなければならない。それを経験した避難民をとっつかまえて調理後10分経過した捨てるビッグマック10人前を与えて感謝させたあと、法廷に引っぱり出して涙ちょちょぎれ政府は悪いんだ〜な証言をさせれば、いっちょあがり。「国内」では。
ほかの国では、自分の国からNGOが行っているので、地上のその場に行ってもその地域にあまねく援助することがどんなに大変か分かっている人が「医師も投下しましたか」などとギャグをかまして事実が広まってしまうであろう。少しは「良いこともしています」という後方宣伝になるかもしれないが(実際、一時的に水にありつく人もいるだろう=奪い合いの勝者)、恒常的な必要量(人数ぶん)よりぜんぜん少ないのだから、混乱も大きいだろう。それに、相手の自尊心を傷つけない相手が援助中毒にならないように配慮するのが人道的支援の鉄則。上からてきとーにばらまいて「ハイハイ、助けてあげまちゅよん。ついでにとまほーくたんもよろぴく」?
ぜんぶの食糧パッケージにブシュの写真でも印刷しておけば、なおおもしろい。
心理的壊滅効果の高さに対して、非人道的な作戦に対する諸国の批判は低く抑えられるという(いちおう食糧援助なので)、ローコスト兵器と言えよう。
朝がくると鳥は目覚め
東の空へニュースを運ぶ
from Nokko: Crying On Monday / 『人魚』, 1994
↓アメリカの侵攻開始とほとんど同時にトップページに張ったオーディオクリップ。深夜のバカ力「バカニュース」より
手話ニュース845「多国籍軍、日本上空に展開〜休日がだいなし」
5時のニュース「21世紀の国連の課題について30か国会議、きょうから」
2001.10.06 「30秒で分かるアフガン問題」――初めは東西冷戦のコマ。アフガンの共産政権を倒しソ連を追い出したアメリカ。そのままソ連圏は滅ぶ。平等思想に対する金持ちは金持ちでいたい思想の勝利。――今は結果として広がった貧富の差に対する「抗議」と「抗議つぶし」戦争のコマ。抗議つぶし側は抗議行動をテロと呼び、自己目的的な悪であると嘘をつく。――まとめ。第一次:貧乏人(東)は貧乏のままでいろ。第二次:そのことについての抗議(アラブ)も許さん。――ポイント:第一次はソ連たたきなのに無関係なアフガンで勝負。第二次はアラブ叩きなのにやはり無関係なアフガンで。なぜ? 敵の本体を叩けばもろに反撃が来て総力戦になる。それは互いに望まないらしい。
Memecentric - 安心して屁のできる、明るい職場。屁をがまんさせる「人にやさしい」掲示板。
ばかだね、人間さんは人間さんなのに。いつまで金のメッキの失楽園?
「人にやさしい」板は、なまなましい情報がずばずば飛び交うには環境が悪い。発信の直裁より、受信の柔和に配慮するからだ。言い合いになれば、柔和な文体にこめられた悪意に、嫌味百倍。外向きな世界。――自分的には、内気でおくびょうな者もいられるほうがいい。卒業式の前、サイン帳まわされて、シャーペンで薄くちいさく「消せばまた使える」と書く。だれもわたしを見なければいいのに‥‥ホントは、とっても恥ずかしがりやな連中が多い堅いシェル。柔らかいものをたもつには、堅いからが絶対必要なのかしら――ときどきほとばしる無防備すぎる叫び。照れ隠しのツッパリ。きついやりとりのなかで、たまにこころが伝わってホローリ。それが(・∀・)イイ!! ――けど、一個しかないのは弱いので、どっちかというと alt2 が増えてほしい。いろんな過渡期の互換性もあるし、「1」があるのは、それは、それでおもしろいが、ふと思うのは――「偽春菜つぶし」もおろかだけど、偽春菜のあとから春菜を作るとは‥‥「西和彦氏」という字づらを見て、「中西氏」じゃないよね、とか名だけで判断する言動不一致なわたしたち。ぱくり?んじゃCもPerlもRubyも使わず自分で開発環境から開発すれば。もちろんOSから。つか、掲示板という概念をぱくらずオリジナリティあるもの作ってよ。自分の名誉/他人の不名誉という切り分けに執着する古い世代。情報気体は、みずから密度均一への風となる。「西風の見たもの」――
妖精の死が「Satyros」なのは露骨で、ピカソのミノタウロマキアっぽい。これが「Zephyros」だったら非常に謎めいて、またべつの世界になる。
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イェイツの妖精分類では、まず trooping か solitary か、という大別になる。ドナ・ウィリアムズふうに表現するなら、「外に出ていって戦おうとする気持ちと、内側に引きこもろうとする気持ちで粉々になりそう」な妖精たち。オンでもオフでも連続してすぅーっと生きられるか、それとも、回線をつなぐと「明るい社交モード」になって回線を切ると、ふっとため息? 明るい、清潔な、楽しい、プールの消毒塩素くさいきれいな板は、その格差が大きすぎる、と感じるのは solitary fairies で、便所の落書きみたいなことを公共の場で書くな、とまゆをひそめるのは「ふだん」から素で社交モードをやっている trooping fairies ―― なのかもしれない。
大国の軍事粛正政策を見て、反戦歌というとイマージンを持ち出すのが主流なら、イマージンより、へきるの「やさしいひとになりましょう」を歌おうよ♪と変てこなことを言い出すのは非主流だろう。イマージンには歌い手の人間としての哲学が現れているようだ。へきるは、たぶん、そんなに深く考えず、他人が作った詩をかわいく歌っているだけかもしれない。だから人間中心で考えると、レノンのほうが深みがあるのだろう。が情報中心で考えると「やさしいひとになりましょう」のほうがぴったりなのだ。
「暗いニュースTVで 毎日観ていても現実味がないとか 目を逸らしてたけど 道路の脇で咲いてる花をやっぱり踏みつけられない・・・でしょ?」
余談ですが、へきるというと、いたずら電話と話すを連想。このくるおしい清純な世界のぬしは、どんなCD聞いてる?と聞かれて「へきる」と答える。で、KOI2さんは「良くわからんので次の質問」て流しちゃうんですよね〜。この会話を読んで、あなたは、どちら側に感情移入しましたか(わら
自分「うーむ・・・何か違うぞ。さっきのへきるとピカチュウの共通点を述べよ!」
相手「かわいい・・・・・・・・・・・(どうやら自分の世界に入った模様)」
自分「おーーーい。何か言ってくれ。」
相手「・・・・・・・・・・・・・」
自分「もしかしてこれから無言電話パート2か?」
相手「・・・・・・・・・・・・・・・・・ふふ・・・・へへ・・」
♪もっともっとみんなみーんな★
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ナイフで刺してしまう。壁がせまってくる。世界が怖い。そんなに世界に深入りしたくない。「水をひどく怖がった泳げないオンディーヌ(水の妖精)」(by 吉原幸子先生)
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魔法 - 錬金術: 「新しいおもしろさ」は、必ず「以前には、つまらないと思っていた」部分から生じる。以前からおもしろいものは、新しいおもしろさでは、ない。――みんなが「おもしろい」というものをいっしょになっておもしろがるのはサルでもできる。人が「つまらない」とけなすものを、いっしょになってけなすだけなら、サルにもできる。それも悪くは、ない。だが、真の魔法使いは、つまらないものに目を向け、魔法の杖のひとふりで、それをおもしろいものに変身させる。ひだの奥を見つめよ。
apogean:遠い恋人を想うように、月は、遠地点においてこそ、最も地球を見つめている。
肉体が利己的なゲノムたちの乗り合いバスにすぎないように、精神はゴーストであるミームを宿らせる「人形」なのかもしれない。だが、ゲノムは肉体によって初めて表現型を持ち、ミームは君の選んだ表現手段によって初めて現実に「見える」形となる。君がいてこそゲノムは「実存」し、君がいてこそミームは「生きる」。君がすべての鍵になっている。「人間は、妖精の世界と現実の世界を結びつける最初で最後の鍵である」
「脱出速度」:旅の終わりにホストファミリーの全員にていねいにあいさつし、みやげを買いあさるように、消えようとしている精神は、やたらと花粉をまき散らす。加速しすぎた惑星は、恒星系から飛び出すしかない。消える、そのとき、生まれる。
物語を読み終えて本を閉じる。と、君の「現実」が始まる。
from articles §2-05
暗いニュースTVで 毎日観ていても
現実味がないとか 目を逸らしてたけど
道路の脇で咲いてる花を
やっぱり踏みつけられない・・・でしょ?
憎しみあうため出会うより
愛するためだと思いたいね・・・
そしてきっといつの日か 世界中から
争いごとすべて 消えてしまうならいいのにね
from 椎名へきる: やさしいひとになりましょう Single『だめよ!だめよ!だめよ!!』(1996)
*
> 今の政権(と言っても国際的に認められてないが)のため、多くの難民が出て、
> 日本は多大の援助を続けている。
>
> 本当に国民の事を考えるなら、現政権を倒し、国王にお戻り頂いた方が、
> 日本を始め国際的に、国に直接援助できると思うのだが。
アメリカがアフガンで大暴れしていたときは、多くの難民が出た。アメリカが帰ってくれたら、難民も減った。けど2001になって、また難民が急増するだろう――生きて難民か死んで難民かはともかく。
1996以降、タリバン政権が治安を回復してからは、過去10年以上でいちばん避難者が少なかった。UNHCRの「アフガン難民人口(庇護国別): 1980-2001 (各年1月1日現在) 」を見ると、小さい字で分かりにくい注がついている。「1996年から 2000年のパキスタン国内にいるアフガン難民の推計は、登録済みか未登録にかかわらず、難民村に住むアフガン人すべてを含む。 難民村以外に住む未登録の難民は、1995年以前の合計には含まれない。」
てっとりばやく言えば、タリバン政権の時代の難民数は、多めにカウント、ソ連アメリカ大暴れ時代の難民は少なめに数えている。それでも(当たり前だけど)アメリカがゲリラを軍事支援していた時代と比べると、タリバン時代には避難者は半減している。NGOからみても、曲がりなりにもちゃんと行政機関ができたことで支援がしやすかったし‥‥って、もう、ぜんぜん後の祭りだけど。
「大量殺りく型テロリズム 体制側テロリズムが制度化された究極の形態で、政府の政策として特定グループをそっくりそのまま、まっ殺してしまうことを指す。‥‥大量殺りくでは、犠牲者を攻撃目標とされる集団の中から恣意的に選ぶのではなく、組織そのものが撃滅(全滅)の対象となる。このため、周到な計画が必要とされ、政府の官僚がその策定に携わることになる。」(テロ組織の類型について)
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