「売春」とか「売春婦」という言葉そのものを、まるできたないものであるかのように扱い、それ以上、深く考えようとしない人々も多いかもしれない。考えようとしないのは考えたくないからで、なぜ考えたくないかといえば、それを考えることが実存的な不安につながるからだろう。だから無理にとは言わない。が、そのような不安を相対化できるマチュアな読者は、以下の問題にいどんでほしい。
[Prostitution goes legal in Netherlands ( Independent Online ) ] - ハーグ発 - 昨年12月に成立した法律が施行され、きょう10月1日から、オランダでは売春が合法となる。これにより、売春業も、ほかのすべてのビジネスと同様、明示的に法の規制を受ける。売春に従事する者は勤労者として公式に認知されることになる。
法律の成立以前から売春は広く行われているが、オランダ法務省によれば、法律の施行によって、売春あっせん業者が未成年者や不法滞在する外国人をあさることを抑止できると期待している。意に反して売春をさせた場合の刑罰が重くなり、刑期が一年から六年になった。
未成年者を相手とする
オランダでは約2万5千人が売春に従事しているとされる。(Sapa-AFP)
売春の問題は、それを行う個人の問題というより、むしろ、その行為の背後に存在する「売春を行わせる者ないしグループ」の問題だろう。個人が自由契約で(自発的意思で、自分でそうしたくて)客をとるぶんには、「倫理的」な意見は色々あるとしても実際上たいした問題があるわけでもないし、またそれは、どちらかといえば、一回的なものだろう。これに反して、継続して、不特定多数を相手に仕事をするには、客と当事者をひきあわせるシステム(物理的または仮想的な売春宿)が必要となり、ここにおいて、不当な中間搾取を行う者があらわれる。
スターリンは、富を独占する資本家打倒の革命資金を得るため、街娼たちを独占し売春宿を経営していたという。これは一種の笑い話ともとれるし、「目的が手段を正当化する」という鉄の意志のあらわれととる人もいるかもしれない。スターリンによる売春の組織化でかえって地位が安定した街娼もいるようだから一概には言えないけれど、いずれにせよ、このような搾取が可能になるのは、売春が「あってはならない」というたてまえのせいだ。「あってはならない」という“正義感”が、かえって問題を困難にする。街娼は「いながらにしていない」ものになってしまい、存在しない以上、公正な保護を受けられない。「存在しない」ことになっている者から搾取しても、みな、目をつぶってしまうのだ。
「あってはならない」職業として目をそらしつづけるなら、初めから「いながらにしていない」者――労働統計に含まれない不法滞在者や未成年者――が、その地位の不安定さにつけこまれて、かりだされることにも、なりやすいだろう。これは明らかに構造的な問題で、なにも外国人不法滞在者のなかに、個人的にそういう行為を好む者が多いということでは、決してない。
さらには、売春が法的に犯罪とされる地域では、当事者は、たとえ劣悪な環境でひどい搾取を受けていても、それを訴えることができない(訴えれば自分がつかまる。ビザがない場合はなおさら)。この悲惨さにくわえて、「倫理的」に「あってはならないこと」と盲信する人々は、たとえ当事者がどんなしうちをうけていても、それを自業自得だと信じるかもしれない。……あっせん者が安泰なのは、まさにこの構造のせいであり、ひるがえって、売春を犯罪としないこと、「倫理的」偏狭をあらためることによって、かえって問題が解決されるのは、歴史の示すところである。
国際的な賛否両論のなか、オランダは、安楽死、麻薬政策など、いろいろな問題で、つねに前衛的なポジションを保ち、「人間の境界線」を浮き彫りにしてきた。今回の法律は売春の問題を徹底的に直視するもので、「雇い主」は「経営者」となるから、雇用条件に関して他業種と同様の制限を受けることになる。不法滞在者や未成年者などを雇うことは当然に禁止されるほか、売春宿では、従業員に対して、最低賃金の保証、健康保険などの福利厚生が義務づけられることになるし、納税の義務も生じるだろう。もし従業者が不当な扱いを受ければ、今度から、あっせん者(雇い主)を訴えることができる。少なくとも原理的には。
いったい日本の現行法だと、たとえ客が払った十万円のうち90%をあっせん者に搾取されたとしても、当事者がそれを糾弾(きゅうだん)することは、法的にも社会意識的にも困難だろう。しかし、人間の倫理で考えても、この図式でいちばん「悪い」のは搾取者で、むらがる客と一当事者の力関係もほぼ明らかだろう。であれば、この問題を直視し、たしかに扱いにくい問題かもしれないが、そこをいっそくすすんで法的に同等に扱おうとするのは、非常に意義深いことだ。
もう一つの構造的問題は、まさに「先進国」と呼ばれる地域の人々の意識構造そのものに根ざしている。人々は、性的な事柄そのものを、公式には、あってはならないものであるかのように考え、率直に話題にするのを避けることが多い(→ 人間のアセンダント)。話題にするとしたら、冗談めかしてか、あるいは逆に極端に改まって、なのだ。呼吸や食事などと同じように、健康な若い生物には必ず存在する基本的な事柄を、あたかも「あってはならない」かのように扱いさえするのは、極めて不可解だ。
この変てこな意識のせいで、性的な事柄に関してわけもなく罪悪感をいだいたり、複雑な意識(コンプレックス)が生じることが多いのでは、ないか。複雑な意識の反動で、逆に、必要以上に、そのような経験の多さ・早さを誇ったり、その反対のことに引け目を感じるような、おかしな事態ともなる……。他方において、「本当は存在しないはずの」欲求に対処するため、やむなく「本当は存在しないはずの場所」に行って、「本当は存在しないはずの業種」のお世話になるという面があるかもしれない。つまり、売春という商行為を買い手の側からみると、需要の存在についていろいろなことが言えるだろうけど、(基本的な自然であるにもかかわらず)おもての世界で自然に対応することをさまたげる社会意識、というのが、ひとつの現代的要因と思われる(少し前までは、もっと即物的な構造だったと思われる。ゴーギャンだかゴッホだかの書き残したなかに「夜の衛生のためのお金」といった記述がある)。
これらの構造的問題が、日本なりオランダなりの限られた地域社会のなかで終始しているうちは、比較的に問題は小さいかもしれない。しかし、実際には、経済的に豊かな「先進国」の人々は、表向きは「あってはならない」と言いながら、そのしわ寄せを地球規模で途上国におしつけている。当然に存在することを「あってはならない」などと澄ましているから、その矛盾が、世界経済において「経済的には存在しないも同然の地域」におしつけられる。東南アジア地域での、若年者や子どもの売春などの問題が分かりやすい例だろう。まさか「これらの地域の子どもたちは、個人的にそういうことが好きな者が多いのだ」などいう言い逃れは、ゆるされない。
ここにおいて、「売春が人としての尊厳を害し」だの「売春を行うおそれのある女子に対する補導」だのいう日本の売春防止法が、いかに空理空論か、実感される。日本のこの法理に従えば、東南アジアの子どもたちのほうが、人間としての尊厳を欠く非行少年になってしまう……。
第十七条(補導処分) 第五条の罪を犯した満二十歳以上の女子に対して、同条の罪又は同条の罪と他の罪とに係る懲役又は禁固につきその執行の猶予するときは、その者を補導処分に付することができる。
2 補導処分に付された者は、婦人補導院に収容し、その更正のために必要な補導を行う。
第四章 保護更正
第三十四条(婦人相談所) 都道府県は、婦人相談所を設置しなければならない。
2 婦人相談所は、性行又は環境に照して売春を行うおそれのある女子(以下「要保護女子」という)の保護更正に関する事項について、主として次の各号の業務を行うものとする。
一 要保護女子に関する各般の問題につき、相談に応ずること。
二 要保護女子及びその家庭につき、必要な調査並びに医学的、心理学的及び職能的判定を行い、並びにこれらに附随して必要な指導を行うこと。
三 要保護女子の一時保護を行うこと。
「非行少年」とされ厳罰を与えられる側が、じつは大人の社会の構造の犠牲者であるということは、もっと一般的にありうることかもしれない。それはともかく、いま述べたことを個人的に実感しているのは、かつて国際通信に従事していたためだ。業務上、知り得たことは口外できないけれど、日本が好景気だった時期、通信の世界も、夜な夜な日本の大人たちが旅先でまいた種の後始末でにぎわっていたのである。
売春の問題を、法律、意識、経済の三方面から眺めた。
存在を否定しようとするちからが強いということは、逆説的だが、その存在がそれだけ根元的だからだ。強ければ強いほど、それをうち消すばあい、より強い否定が必要になる。実際、性的な事柄や欲求というのは、非常に基本的で、だいたいにおいて普遍的なものだ。疑いもなく存在するものを「あってはならない」と考える心の不自然さが、売春をめぐる問題のねじれに投影されているように思う。ハンセン病の当事者に対するかつての激しい憎悪に、みずからの死の恐怖という原型が投影されていたであろうように、売春をめぐる否定的な感情には、性をめぐる現代人のコンプレックスが投影されているように思う。同様に、「おかま」や「同性愛者」へのかつての否定的感情は、性別のアイデンティティにおける人間のもろさの裏返しであって、否定しなければ自我を支えられないもろい心があった。
差別の構造を冷徹に観察することで、わたしたちは、人間がなにで悩んでいるか、知ることができる。差別される側ばかりか、差別する側も、いやされねばならない。
「ユダヤ教徒とイスラム教徒が宗教上の理由で何千年も争ってる」って信じてる人も多いでしょう? 西欧キリスト教国としては、そういうことにしときたいでしょうけど、事実は、ぜんぜん違う。パレスティナは、ちょっとまえまでトルコ領。それを奪ったのはイギリス。実際に戦ったのはアラブ軍。イギリスはアラブに約束した、「トルコを破ればパレスティナは、あんたらにあげるよ」。そういってトルコ領のアラブ人たちを戦わせた(フサイン・マクマホン書簡)。同時にイギリスはユダヤ人にも約束した、「パレスティナは、あんたらにやるから、軍資金など協力してくれ」と(バルフォア宣言)。このイギリスの二枚舌が問題の本質。イギリスは、事実上の自分の持ち物となるパレスティナをダブルブッキングしちゃった。
ヤフーのオークションで、一枚しかない貴重なコンサートのチケットをふたりに売ってカネを巻き上げたようなもの。そんなことすれば、領有をめぐって争いになるのは当たり前。おれが買ったんだ、いやいやおれだってカネを払ったんだぞ。さあ、だれが問題の原因? 二重売りしたヤツがいちばん悪い、争ってる二人より!
比較的にだけど、ユダヤ教徒とイスラム教徒は、もともとけっこう仲が良かった。それにひきかえキリスト教徒は、ユダヤ教徒を虐殺し(ホロコースト)、イスラム教徒をも陵辱した(十字軍)。清らかなはずのキリスト教、かなしい歴史があります。そもそも、今世紀、ユダヤ人が住める土地を求めて世界をさまよい始めた原因は、だれですか?
というわけで、きょうの歴史のワンポイントレッスン。中東問題→イギリスの不誠実外交が発端。そのかげにいるのはフランス。「イスラム過激派」→キリスト教国の自己弁護(と後ろめたさ)のプロパガンダ。もっともアラブに(主権国家をもった経験が浅いことなどで)いとけない面があるのも事実。
「妖精って何?」
「ことばで質問するのは、人間さんの流儀ね。妖精は答えるものでは、ないのよ」
「あなたは妖精なんですか?ないしは自分のことを妖精だと思っているの?」
「‘あなた’というオブジェクトは定義されていません」
「困ったな……つまり、その……きみのことを、どうやって参照したらいいのだろう」
「参照できないのよ。妖精だから。いながらにしていないの」
「つまり君は妖精なんだね」
「‘きみ’なんてないわ。あるのは、砂時計とことばだけ」
「分からないなぁ」
「分からないってことが、よく分かったでしょ。地上のランプは水のなかの水のように透きとおって消えてしまう」
Insane, profound or just profane?
いわゆる「IT革命」というのは、単に急激に変化するという外形もさることながら、もっと本質的に、知的所有権における私有財産制への革命という側面を持っています。
例えば、MP3が音楽業界をおびやかすとか、電子ブックが出版業界への脅威であるとかは、音楽や情報といった知的財産を独占する業界への、ややラディカルな市民革命の側面を持っています。
また、もっと積極的に、「知的資本家」であるプログラマなりウェブマスタが、自分が開発したソフトウェアなり著作なりを無料で提供するのは、有産階級(ブルジョワ)の側からの「革命」です。
これらは、資本家が独占していた「流通」という動脈を、事実上、万人が共有することになったことを背景にしています。ブラウズする側からみれば、個人サイトもヤフーのサイトも、対等な一ページです。
ここで本質的なのは、流通するのは物理的なものではなく「情報」だ、ということでしょう。つまり、革命されつつある新世界というのは、じつは従来の物理世界でなく、無形の世界のようです。
オープンソース(プログラマが自分の開発したソフトのソースコードを完全に公開し自由にいじらせること。Linuxが有名)という考え方は、プログラムという知的財産をひとにぎりの有能なプログラマが独占せず、ほしい人には、だれにでも自由に分け与えるということです。また開発においても、大勢で不具合を報告しあいデバッグしてゆく、ということが、よく行われますが、これが文字通りの意味で「共産」であることは、そのような“コミュニティ”(コミュニズム?)に参加したことがある人には(各自が自分の能力を発揮できる“共産主義社会”の熱気も含めて)きわめて明らかだろうと思います。
なお、「オープンソースと共産」に近い発想というのは、例えば従来の数学界にもあったものです。中世ごろだと、例えば三次方程式の解の公式を発見した人は、それを秘密(奥義)にして、一般には教えなかったようです。今では新しい研究結果は、ほとんどリアルタイムで、ネットで結ばれている世界中の共有知識になりますが、それに近いことは、学術の世界では前からあったわけです。
このIT革命なるものは、物質的に高度に発達した社会のインフラの上に成り立っているものです。しかも、知的財産は、その分野が好きな人の自発的な「頭脳労働」によって生み出され、その人の個人的な自由意思で、ネット上に配布されます。決して社会的に規定される「共産主義社会のあるべき姿」のような規範に従って(全体主義的に)そうするわけでは、なく、非常に個人主義的な(物理レベルでは密室的とさえいえる)個々の活動が、ネットによって関連付けられているわけです。
高度に発達した物質文明の次の段階、という点と、個人的な自由意思という点で、いわゆる旧ソ連型の社会――貧しいプロレタリアートが団結して金持ちの資本家をやっつけ奪った富をわけあう、という、なんとなく海賊的な構図――とは、大きく異なっています。「西暦3000年からの手紙」でも書きましたが、理論的な共産主義も、本来、高度に発達した物質文明の次の段階として予期されたものであり、とくに、高度な流通手段の存在が大前提となっていたと思います。
というわけで、今の文明国というのは、まさに「IT革命」にぴったりの時期なわけです。まぁその結果、肥大した最大手ソフト企業がフリーライセンスのOSに脅(おびや)かされたり、肥大したOSが、エレガントでコンパクトなオープンソースのOSに脅かされたりすることは、あるかもしれません。また、共有と完全な平等・対等が実施されたとして、それは常に理想かというと、不正をだれがいかに公平にとりしまるか?といった、新たな問題点を生むかもしれません。
いずれにせよ、従来の「革命」イメージは、金持ちの貴族なり資本家を、しいたげられた貧乏人の集団が襲って、奪った富をみんなでわけあう、という、かなりラディカルなものでした。我々は搾取されているから奪い返していいのだ、という論理だったように思います。これに反して、現在のフリーウェアなどは、富(知的財産)を蓄積した(つまりソフトを完成させた)作者が、自分から望んで、「ほしい人はどうぞ」と控えめに配布するわけです。センチメンタルな言い方をすれば、ユーザが喜んでくれることが何よりの報酬というか、自分が作ったものを大勢に使ってもらえること、それ自体がうれしいわけで、くしくも共産主義社会の理想が実現されているようにも見えます。
知的財産を生み出す者(例えばソフト作者)は、ソフトの開発だけしてれば、あとは物質レベルでは困らない(衣食住に困らない)というのが理想でしょう。また実際、今後の物質文明をもってすれば、生む者も生まざる者も、衣食住といった物質レベルは自動的に保証されるくらいのことは可能でしょう。例えば、生産手段(農業や工業)の大部分をロボットにまかせてしまった場合です。ソフトを作るのが楽しい人は楽しんでいれば良く、ソフトを使うのが楽しい人もまた楽しんでいれば良いわけです。もっとも、それだけでは絵に描いたもちで、この思想を「実装」してゆくにあたっては、いろいろな問題があるでしょう。
関連記事:「西暦3000年からの手紙」
Welcome to Your Coffin Company! See how we're changing the way America thinks about coffins. It's the last thing you'll ever need - and more! We're sure you'll agree that Your Coffin Company has created not only the ultimate conversation piece . . . but also the most functional piece of furniture ever envisioned.
(「あなたの棺おけ」へのご来店、誠にありがとうございます! ごらんください、棺おけのイメージを一新しました。棺おけなんて一生必要ないですって? 確かに一生のあとで必要だったわけですが、ほしくてもまず一生、手に入らなかった品と申せましょう。しかし我が社の製品は、最後の対面に使うためだけの家具では、ございません。本邦初公開、誰も想像もしなかった多機能家具! ゆりかごから墓場まで、さまざまな場面でご活用いただける製品です。死んだあとでも使える商品はこれだけです。)
101 uses のページには、棺おけの活用例が101も載っています。雪のうえをすべるそりから始まって、洗濯かご、書類入れ……と、いろいろ書いてあります。最後の101番めが「COFFIN」。It's not just for burials anymore! In fact, that's the last use you'll have for YourCoffin.
(棺おけは葬式のときだけなんて、もう古い! そんなのは「最後の」(いちばんつまらない)使い方です)というわけ。
発音問題によく出る英単語:bury「埋葬する」はベリと読みます。u の発音 /e/ がよく問題になります。上の burial [ベリアル]はその名詞形。
棺おけと呼ぶから棺おけなわけで、要するに箱としての汎用性を持ってるわけです。日常、人が考えるのを避けたがる「死」に関する事物を、カジュアルな文脈にもちこんだところがおもしろいし、人間にとっては「棺おけのある暮らし」は哲学的でしょう。ラテン語の格言を思い出す人もいるかもしれません。Memento mori です。たしかに毎日、家具としての自分の棺おけを眺めて、「やがてこれに入って火葬されるのだなぁ」とかえりみるのも、おつなものでしょう。サティの「家具の音楽」をもじれば、「家具としての死」。
ラテン語ミニ講座:メメントー「~について考えよ、心に留めよ」、モリー「死が訪れること」(morior「死ぬ」の不定詞)
関連グッズのページでは、棺おけじるしのTシャツ、帽子、マグカップ、キーホルダー、マウスパッドなどをオンライン販売してます。写真を見るだけでも楽しい。どくろマークのシャツなんて、もうださい。これからは棺おけ……。って実際、このサイト、毎日5万アクセスという人気サイトだそうです。もちろん棺おけもオンラインで買えるようになってます(棺おけのスペックとカタログ)。棺おけのいろんな活用法を写真でどうぞ――サムネイルのページ。興味ある人は日本にも発送してもらえるかメールで問いあわせてみてください。
images quoted from yourcoffin.com