就職活動終了まで、あと一歩になりました。健康診断の結果さえ問題なければ、これで全て決まります。
2月末に塾講師の仕事を辞めてから、ずいぶん長くかかりました。ネットを部屋にひいて、画面に向かい合って、方々の工場を見学して、各地の説明会を聞きにいって、エントリーシートや履歴書を何枚も書いて、適性検査を受けて、面接して……。久々に乗った新幹線、中学時代以来の山梨県、初めていった東京ビッグサイト、新しい知人ができたり、悩みや不安を語り合ったり。卒業研究もいつのまにかはじまって、もうすぐ夏季中間発表の季節です。
就職活動中に考えたこと、いろいろあります。中でもとくに苦しんだのが、「才能」のこと。
才能を活かすために人生があるのでしょうか?
人生を活かすための才能のはずなのに、なかなか割り切ることができませんでした。才能は周囲の期待と深く結びついていて、私は6月に、とても気に入っていた、そして唯一だった内定先を断りました。7月12日の夜、他社の役員面接通過のお知らせを聞くまで、どれほど後悔したことでしょうか。
多くの方々は、「自分に向いているから」その職業を選ぶのだと思います。しかし私は、「自分には違う才能があるけれど」技術者になることを選びました。そこまでは、とりあえず誰もが祝福してくれたのです。大学もちゃんと、その方向でいちおう一流の端にかかるところに入りました。でも、就職活動は最初から躓いていました。
大学の先生方の「成績がいいのだから院に推薦で入れますよ」という誘惑は、しだいに「院に入らないのはもったいない」という勧告に変わり、しまいには「どうしても院にいかないのか?納得のいく説明がほしい」となりました。ほとんど誰もが、会うたびに私を説得しようとするのです。先生には先生の事情があります。が、才能ってなんだろう?と、私は久しぶりに考えさせられました。院に行きたいのに、先生方から「就職活動頑張れよ」と肩を叩いて激励される学生もいるのです。
惨敗を重ねた面接で、何度もくり返されたやり取りがあります。
「なぜ研究職を志望しないんだね?立派な大学で、こんなによく勉強してきたのに」
「私は、もっと現場に近いところで仕事をしたいんです。勉強はしたくてしましたが、全部を何かに生かす必要があるとは思っておりません」
「もったいない、何故なんだ」
そうして、数日後に不採用通知が届くのが常でした。もちろん、不採用の理由はいろいろあったのだろうと思います。ただ、まず思い浮かぶのがこのやり取りなのです。
教育学部に友人がいます。彼は会うたび私にいいます。
「なんで先生をやらないの?俺よりずっと向いているじゃない」
私のこたえは決まっています。
「やりたいと思わないからな」
「でも、いっぱい本を読んでたじゃないか。本と雑誌で300冊くらいでしょ。教育学部の誰より勉強してるじゃないか。雑誌の論文審査でも最高点を取ってるじゃないか。もったいないよ、なんで先生を」
「あれはさ、何度もいったでしょ。塾でいい授業をしたくて勉強しただけだって」
「でも俺には真似できないよ。先生になりたいのに、麻雀して遊んじゃうんだよ」
「知るかよ、そんなこと」
でも本当は、分かる気がします。それに私はじつをいえば、教職にも憧れないではありません。けれども、人生は一度きりで、時間も限られています。画家として暮らすのもいいなあという夢を、中学・高校の美術部で簡便に実現したように、編集者・評論家の仕事を高校の文芸部で疑似体験したように、大学時代の余興として塾講師をやることで、私の教職願望は実現されたのです。
私は、それでいいんです。そうでなかったら、何回人生をくり返せばいいのでしょうか。
高校を卒業するとき、なぜ工学部なのかと何度も問われたものです。美術でも、文学でもなく、なぜ工学なのかと。そしてまた大学では、なぜ教育じゃないのかと訊ねられます。就職活動では、工学の中でも、なぜ研究・開発ではなく、生産・製造なのかと疑問を投げかけられます。才能が足りないより、よほど恵まれた悩みです。
それはわかっています。ただ、私が苦しいのは、私が捨ててきた選択肢だって、本当は魅力的だったことです。いつだって自分の選択に自信なんか持てなかったことです。そして、これからも不安に怯えながら、しかし表向きは毅然として、人生の分岐点を通過していく他ないことです。
こうした気持を初めてしっかりと汲んでくださったのが、最初の内定先でした。私はとても嬉しかったんです。なのに、周囲は猛反対でした。まがりなりにも一流の技術者集団です。業績も絶好調、東証一部の株価も高いです。けれども、業種がネックになりました。両親はともかく、先生の強硬な反対に、私は折れました。
そして二十日経ち、ようやく次の企業にめぐりあいました。私はここに決めようと思います。先生はやっぱり反対するのでしょう。「君ならもっと超一流の企業も狙えるはずだよ。焦らずにまず院でもっと勉強を……」
才能を活かすために人生があるのでしょうか?
そんな、バカなこと。
そんな、バカなこと……。
追記:
私は研究開発本部に配属予定です。現場と研究チームのパイプ役として、両方の仕事に精通した技術者になってほしいのだそうで、実際の職場は相当程度現場になるそうです。玉虫色の決着になりましたが、これぞ大人の知恵というものでしょう。
それはともかく、健康診断で落とされたらいい加減、洒落になりません。緊張しながら、決着のときを待っています。[2001/07/14(Sat) 10:26]
池田小学校の校舎が、建替えられるといいます。子どもたちに事件を思い出させ、恐怖を与える教室で授業をするような、配慮のないことはとてもできないのだそうです。何をいっているのか、と思います。生あるものに死はつきものです。そして死はつねに安らかに訪れるとは限りません。ときに偶然・必然や悪意をともなって、暴力的にもたらされる死から目をそらしつづけることは、できないはずです。いま池田小学校でそれを教えずして、いったい誰が、いつ、子どもたちに「死」を教えられるのでしょうか。
祖父が亡くなったとき、私は千葉から愛地へ帰り、葬式に列席しました。夜、出棺されぽっかりとあいた畳の上に、自分の布団を敷きました。白くなった祖父の顔、拾い集めたお骨の軽さ、静かに談笑していた親戚の方々の顔、順々に思い出されてきました。と、堰を切ったように祖父と自分との思い出が頭を埋め尽くしました。気付くと、もう朝で、私は涙を流していました。
以前、私は団地に住んでいました。団地は柵に囲まれて、車の出入り口は一つでした。よく事故がおきました。耳をつんざくスリップ音、近くの激突の衝撃で窓が振動した翌朝、警察の現場検証の終ったアスファルトにはまだ血がこびりついていて、爽やかな朝日の中でじっと息を潜める猛獣の口のように見えました。私は立ち止まり、深呼吸をして、まだ散らばっている細かいガラスの破片を見ながら、じっと考えたものでした。
かつて通っていた幼稚園の滑り台で、女の子が死にました。肩にかけていた鞄のひもが、首に巻きついたのだといいます。滑り台は、長い間、残されました。たくさんの子が、女の子が死んだのと全く同じ軌跡を描いて、滑っていくのを眺めながら、命のはかなさを思いました。
こんなことはもちろん、何の比較にもならないのかもしれません。でも……。
死者の記憶とともに生きていくこと、死を思いながら生きていくことがなぜいけないのでしょうか。どのような街だって、人の死の上に建設されてきたのです。生者が死を忘れ、それこそなにごともなかったかのように生きていくことが、なぜ許されるのでしょうか。
巨大なマンションの一階にある集会所が、しょっちゅう葬儀場として使われることに、住民が怒りの声をあげたというニュースが、かつてありました。いわく「子どもの教育に悪い」と。
どこが悪いのでしょう? むしろ、「人は死ぬ」ということこそ、教えるべきです。繰り返し、繰り返し……。死の恐怖を身近に感じずに、能天気に暮らして行くのは、愚かなことです。それが明るく楽しい生活だと考えるのは、尚更です。サラエボでは、コソボでは、さらに世界中で、今も銃弾の跡の生々しい家で、人々が生活しています。死の記憶を身近に引き受けて、生きています。人間には、恐怖と共存して生きる強さが備わっているのです。情緒的になって、軟弱に子どもを育てることが、本当によいのでしょうか?
池田小学校の校舎建替えには、億単位のお金がかかります。校舎すらない学校で、それでも必死に学ぼうとしている子どもたちが、世界にはいくらでもいます。お金には、もっと正しい使い途があると、思うのです。[2001/07/14(Sat) 23:15]
にゃごろう村では現在、少しずつ街並の再開発(デザイン改訂)を進めております。助役がイニシアチブを取っている珍しい事業です。現在、中央広場、上部のフレームの再開発を完了し、繁華街の施設に少しずつ手を加えているところです。HTMLを初めて勉強したりしつつ、楽しく工事を進めております。
私がにゃごろう村の再開発を思い立ったきっかけは、HTMLレイアウトスタイル辞典という一冊の本でした。いまならまだ大きな書店ならどこでも置いてありますので、機会があればぜひ手にとってみてください。辞書的解説書といいつつも、じつのところ読み物としてよく工夫されています。
ふつう書店で平積みされているサイト建設の入門書は、サイト作成ソフトの操作技術を解説することに力を注いでいます。たしかに読み進めればいろいろできるようになりますが、何のためにそうした技術をサイトに導入するのかという理由については、ほとんど書かれていません。そのため、私はふつうの入門書で勉強しても、本末転倒な努力をしているような気分が抜けませんでした。この本では「何のために」の観点から論点が整理されており、まだ数回読んだばかりの私でさえも、サイトデザイン観が驚くほどクリアーになりました。
というわけで、べた褒めの本紹介でした。(多くの場合こうしたちょうちん記事は役に立たないものと相場が決まっていますね)
追記:
本というのは、お金を取るだけのことはあって、さすがに内容が充実しています。本当に勉強したければ身銭を切らなければだめだということは、ふつうにレポートを書くときでも、卒業研究でも、いつもつくづく実感します。今回もまたあらためて、お金をとって情報提供する人は凄いと、思いました。
* * *
インターネットの問題点は、それだけでは商売にならないということです。ネット上で情報提供するだけでは、簡単に商品をコピーされてしまいます。結局、形あるものを取引するしかありません。これは情報が有料だという感覚がまだまだ人々にとって希薄なことや、コピーを制限する技術が全く未成熟なことに起因していますが、いずれもすぐに解決される見込みはたっていません。このことが意味するのは、当面、本当に役立つ情報は紙媒体で伝えられるということです。有料でやっていけるだけのクオリティーをもった情報を、わざわざタダで放出する人は、そうはいないものです。[2001/07/15(Sun) 13:59]
晴天の夕焼けは、西の空が真っ赤に燃えるとき、すでに南・北・東の三方の空に星が瞬き始めています。こうしたとき、夕焼けに気付くこともなく、街をゆく人も多いでしょう。けれども、ふと顔を上げたとき、遠くに紅く大きく沈んでいく太陽に、心うばわれたことのない人はいないでしょう。夕立上がりの夕焼けは、雲間からさす長い光と地上の水滴があいまって、またたいへん美しいものです。
うすぐもりの日、私は夕方が楽しみです。年にたった数回の、空一面の夕焼けを期待します。
世界中が紅く染まる、うすぐもりの夕焼け。誰もがはっとし、あたりを見回さずにはいられない夕焼け。街に、自然に、新たな輝きと顔を与える、はかなくも最も美しい夕焼け。私が愛してやまない夕焼けの、理想の姿がそこにあります。[2001/07/18(Wed) 23:56]
その日もサクラが咲いていた。
と、電話がかかってきた。サイトの更新をやってほしいのだという。高校時代の後輩からだった。更新といっても、原稿は全部こちらで用意するから、ただインターネットにつなげる環境を借りるだけのことだ、せいぜい5分か10分ですむ、というので、私はよくわからないままに了承した。まあ、問題はないだろう、と思った。
ちょうど就職活動を始めて約一ヶ月、インターネットのこともだいぶわかってきて、息抜きにテキストサイトを回ったりもし始めた頃だった。まだ就職活動には何の危機感も抱いていなかったし、忙しくあちこちの説明会・見学会・面接へと出かけつつも、何とはなしに時間を持て余していた。最初の更新には苦労した。更新データの入ったFDと一緒に、IBM製のHPビルダーを受け取ったのだが、いくら取り扱いの簡単なソフトとはいえ、10分ではインストールしただけである。更新まではまだまだ遠かった。
まず苦労したのは、FDからデータを読み込むことだった。まったく典型的な「理系」学生で、パソコンは使い慣れていない。ファイルをひとつひとつコピーして貼り付ける方法しか知らなかった。あちこちのヘルプを参照して、複数のファイルを一気に移動するやり方を発見したときには一時間もたっていただろうか。こうして、最初の更新には半日かかった。いくら何でもと思われるだろうが、私はいつも、最初に苦労するのである。
翌週土曜日、新しいFDが届いた。更新せよ、ということだろう。それから毎週土曜日にFDが届いた。次第に私も慣れてきて、3回目には本当に10分で更新を完了できた。
もともと世話好きだ。余裕ができれば余計な手出しをしたくなる。更新データを読んでみると、誤字やらなんやらがいろいろある。いよいよこれを放っておくのが我慢ならなくなった。また半日くらい悪戦苦闘して、いちおう、手直しした。しかし、人様のWEBサイトである。ふつうはデータに手を突っ込もうとはするまい。それをしてしまうのが、私というヤツなのだ。こうして私は、助役になった。
もうすぐ終ると思っていた就職活動は、サクラが散り、アジサイがしおれ、ともかく3ヶ月も長引いた。昨日、やっと正式に内定のご連絡をいただいた。
けさ、この夏一番の朝顔が咲いた。朝露に日がさす。サクラには遥かに間に合わなかったが、美しければすべてよし。[2001/07/28(Sat) 14:21]
今にして思えば、就職活動中は暇でした。説明会は午後1時過ぎに開始と決まっていて、夕方3〜5時にはめでたく終了。千葉県在住だから家を出るのは10時半過ぎ。逆算すれば朝起きるのは午前9時で十分で、夜更かしするのに心配の種はありませんでした。応接室(チャット)によく顔を出し、サイト構築の参考書を読み、ネットサーフィンを楽しんで……何かとネットに関わっていられたのは、まさに就職活動中だったからです。
翻って現状はといえば、卒業研究に勤しむ毎日です。私は東京・新小岩の企業にお邪魔して研究しています。当初の狙い通り、ここはなかなか鍛えられる環境です。
まずは朝。6時台に家を出て、ラッシュの電車に揺られて1時間あまり。さらに15分間走ってようやく研究先に到着します。ついたらすぐに作業着に着替え、8時半からラジオ体操第一。前晩に遅くまでおきていようものなら、ここらですでにグロッキーです。
続いて昼。今の生活で、朝・昼・晩のうち一番ボリュームがあるのは昼食です。コンビニ弁当なら2人前、厚生省推奨の一日30品目も、一食半で達成です。社員の方はこれを15分で平らげますが、私にはとてもついていけません。が、不思議と最近はこの量が苦じゃなくなってきて、かえってありがたいという感じに……。
そして夜。5時半で終業ですが、連日の1〜2時間残業を敢行中です。社員の方が誰もお帰りにならないので、自分ひとり帰るというわけには……。しかも企業にいる間は、ひたすら実験ばかり。疑問に思ったことを勉強したり、データをまとめたりするのは家に帰ってから。帰宅しても、ゆっくり休んでなんかいられません。
これが社会人生活!とても趣味どころではありません。就職活動中、誰からもいわれるのが「やりたい仕事につきなさい」ということです。今、擬似的に社会人生活を体験しながら、これはたしかに好きでなくっちゃ勤まらないと、つくづく実感しています。以上、近況報告まで。[2001/07/28(Sat) 20:43]
個人サイトの多くには、BBSが設置されています。ちょっと感想を残したいとき、メールより気楽に書けるので、私はいつもありがたく利用させていただいています。書き込みのマナーについてはいろいろな意見があります。「荒らしでもいいから書き込んで!」から「あらゆる批判を禁止します!」まで、よりどりみどり。マナーの話題は、多くの方が「自分がふつう」「自分が常識」という立場で発言するので、なかなか議論が成立しません。私も敢えて、今回はそういった話を避け、自分のことだけ書こうと思います。
BBSに書き込むとき、まず迷うのはメールアドレスを入れるかどうかでしょう。迷惑メール排除のため、絶対に入れないという方も少なくないのですが、私は入れることにしています。かっこよくいえば、発言に責任を持つためです。反論の受付先を明記しておくのは、ついつい低きに流れがちな自分自身への戒め、歯止めになると思っています。たとえ迷惑メールが届いたとしても、特定アドレスからのメール受け取り拒否を設定すればいいのです。この数ヶ月、私はずいぶんいろいろな場所に書き込みましたが、迷惑メールはたったの5件。それだけのことなら、過剰に心配する必要はないのではないでしょうか。
サイト持ちに限定した話ですけれども、BBSに書き込むとき、次に迷うのはサイトのアドレスを入れるかどうかでしょう。これもやはり、私は入れることにしています。それって宣伝じゃないか、という方もいらして、まあその指摘を必ずしも否定はしませんけれども、基本的にはそんな効果(?)を期待しているわけではありません。要するにメールアドレスを入れるのと同じ理屈で、発言に責任を持ちたいという考えなのです。「そーゆーあんたはどうなわけ?」という疑問にこたえる一手段として、こちらのサイトを明かしておく、という手もありなんじゃないかと。
私は長いこと、知り合いのサイトと、調べモノで必要になったサイトにしか訪問したことがありませんでした。BBSに書き込むということに悩むようになったのは、ここ数ヶ月のことです。ネットの住人には倫理に厳しい方が少なからずいらして、私もあっちで注意され、こっちで怒られの連続でした。その一方で、多くの方は現実に寛容で、ほとんどの場所では書き込みに感謝されました。どこでも同じように書き込んでいるのに、これはどうしたことでしょうか。世間では真面目で丁寧と評される私にしてからがその程度ですから、皆様は苦労されているだろうと思いきや、さっぱりそうした話を聞きません。これは少しくショックです。思い上がってはいけない、ということでしょうか。[2001/07/29(Sun) 00:57]
テレビゲームと縁がなくなってから、しばらくたちます。私がゲームをやることもあったのは、スーパーファミコン(SFC)とファミコン(FC)が混在していた頃でした。かろうじてディスクシステムは生き残っていて、おもちゃ屋さんの片隅にある自動販売機が、500円でディスクを書換えてくれたいい時代でした。
日本で最も売れたゲーム機はゲームボーイ(GB)だそうですが、初期のGBはとにかくよく壊れて、知り合いにも2台目を買った人が少なからずいたものです。カラーになったらまた買ったとか、アドバンス(GBの最新型)が出たからまたもや買うんだとか、そこまでこだわる人は、さすがに珍しいわけですが……。次に売れた台数が多いのはFCで、それに続くのがプレイステーション(PS)だとか。SFCはいつのまにか抜かされていたようです。
SFCはもともとFCとソフトに互換性を持たせる予定でしたが、IT業界の拡張に部品調達が追いつかず、価格との折り合いを考え互換性を捨てました。その結果、なかなかソフトのそろわなかった序盤2年間くらいは「任天堂、苦戦中」と報じられたものです。「旧型機と互換性を持つ新ハード」はメーカーの悲願でしたが、メジャーに育った機種で実現されるにはPS2まで待たなくてはなりませんでした。PS2もまた部品調達に不安を残しつつの仕様決定でしたが、おりよくITの波が悪いほうに振れて部品がだぶつき、予定通りの商品を発表できたとの報道がありました。
横河電機はPS2の続伸に伴って半導体テスタの売上が高止まりし、大きく業績の伸びた企業ですが、それにしたって「これで今期も大幅黒字です」という程度。例えPS2なしでも「やっぱり黒字です」といいます。だから安心して入社してほしいという説明会でのひとコマだったのですが、ゲーム機業界いまだITのおまけに過ぎません。事実、半導体製造装置日本一の東京エレクトロンの説明会では、おりからのIT不況のため今期は大幅減益を予想しているとのこと。PS2がいくら売れようと、問題にならないのだそうです。
今の流行はゲーム業界、昔は映画やテレビに流れたクリエイターのたまごがどんどん参入している、なんて新聞記事が目立ち始めたのはSFC全盛の頃。そして週刊少年ジャンプと同じ大きさを売りにして(註1)PSが大きな市場を形成した頃には、全ては既定事実のように書かれていたものです。しかしデジキューブが多くのコンビニに進出し、以前はおもちゃ屋にしかなかったゲームが日常的に目に触れるようになった今、むしろ「あの記事は本当だったのかな?」と思わずにはいられません。
日本で映画「タイタニック」を映画館で見た人は2000万人弱といわれます。世界中では億人単位の人が見て、ビデオなども含めて数千億円を売ったとされます。そんなゲームソフトは、かつて登場したことがありません。毎年、数十億円を売り上げる作品がある映画産業。テレビでも新聞でも毎日どこかで特集が組まれます。専門誌の種類も幅広く、また多くの総合雑誌には映画のコーナーがあります。
そしてなんといっても娯楽の王様はテレビでしょう。市場規模も庶民生活への浸透度も他を圧倒しています。民放キー局一社で数千億円の売上はダテじゃありません。結局、クリエイターのたまごが集まるのは、まずテレビに決まっています。次が音楽や映画、あるいは出版でしょう。ゲームという選択肢はもっと小さいはずです。
FFXというお化けソフトが発売されて数週間になります。初週の販売本数175万、最終的に250万本に到達する見込みだそうです。ゲームソフトとしては全く驚異の売上でありながら、例によって毀誉褒貶かまびすしいですね。発売前から「FFなんてダメだよ」という方も少なくありませんでした。どれほど売れている人気ソフトであっても、つねに多くの方がそれをけなします。どうしてなのか、私には長らく疑問でした。ところが最近、鈍い私にも、ようやくわかってきました。
FFXが250万本売れても、これは見方を変えれば、日本人の98%以上はFFXに数千円の価値を認めていないということです。売れるといってもその程度だということです。ゲームなどよりよほど多くの人に支持される映画やテレビ番組でさえ、多くのアンチを抱えているのです。FFXをけなされて、何でそんなことをいうんだ!と怒っていらっしゃるファンの方を散見しますが、あまりムキになっても仕方ありません。PS2が一千万台以上売れていて、その購入者の中でさえ半分の人しかFFXを支持していないのです。ましてやゲームに興味のない多くの方から見れば、「くだらないことに大騒ぎしてバカみたい」となるのは仕方ないことなのです。
ただ、私は、ゲームという業界で250万本を売れる商品を作る苦労・知力・体力を、僅かながら想像できるつもりです。日本人の2%に財布を開かせるソフトをつくり上げたスクウェア社のスタッフには、素直に敬意を表したいと思います。
註1
実際にはもっと他に押しがあったのでしょうが、すでにゲームに興味がなくなっていた私にとって、印象に残ったのはその小ささと、ソフトの値段が半額になったことでした。[2001/08/09(Thu) 01:59]
8月10・11日の2日間、研究室の先生が主催しているらしい研究会の企画に便乗して、院生の方と茨城県東海村へいってまいりました。真面目な感想は後日にして、今回は備忘録です。どうでもいいことばかり書きます。
行き先:
ずうっと福島県の原子力発電所を見学するものと思い込んでいたのですが、じつは茨城県東海村の日本原子力研究所東海研究所でした。院生の車に乗せていってもらうだけで、自分で行き先を調べる必要がなかったとはいえ、あまりに迂闊。
茨城県東海村といえば、JCOが事故を起こした、あの街です。やたらめったら道路がよく、駅舎はきれいで複数あるホームには特急が停まり、3車線の常磐自動車道が通り、しかも村内にインターが用意されているという素晴らしさ。驚くべきは市街地全体がきれいで、しかも活気があること。先生の使い走りで研究会の方に配る飲物を買いに駅前のジャスコに入ると、多勢のお客さんでにぎわっていました。どの道にも車が走っているし、千葉県の村と比較して「あんまりにも」と思わされました。
八角:
研究所に勤務(出張?)している先輩に昼食をおごってもらったお店です。昼食は定食メニューだけで1000円と値は張りますが、とても美味しかったです。院生ともどもまったく感動したので、地図も添えて紹介しておきます。詳細な地図
原研:
広すぎる。
交通マナー:
今回の旅行中、一体何度「身の危険」を感じたことでしょうか。どこへ移動するにも後部座席に陣取りましたが、茨城県内ではずっとシートベルトを着用しつづけました。茨城県の交通事故死者数が千葉県を越えていないのが不思議でなりません。(ひとつの回答になりそうな事実として、ごつい車がやたらと目立ったのは気のせいでしょうか?)
このお店(ホームセンターです)はバカみたいにでかく、3000台収容の駐車場と、それを包み込むような配置の構造物(!)という非常識さ。見ただけで笑えました。新潟県からもお客さんが来ると予想しているというのも恐ろしいところです。今回の旅行では、いろいろお世話になりました。
あこぎ:
東海村に泊ったのは、じつは院生と私の4人だけでした。先生や研究会のメンバーは日帰りなのです。夕方5時過ぎに見学は終るわけで、3時間かけて戻れば泊る必要などないのはわかりきっています。今は淡白な研究会が多くなって、ここも例に漏れず例会のたびのドンちゃん騒ぎはしていないのです。でも、それでは満足できないのが学生です。
さて、FAXに記載されていた宿泊施設名は「あこぎ」……すかさず「あこぎって、何よ?やばいんじゃないの?」と一同爆笑。けれども、お1人様一泊1300円とのこと。あまりの安さに、今度は呆然。ただし夕食は選択せず、朝食はオプションで500円追加という設定。食事はふつうのお値段なのです。
結論を書けば、正式名称は「阿漕ヶ浦倶楽部」地名からとった名前でした。ここは原研の保養施設のような場所で、一般向けにはレストランとして営業しているみたいです。宿泊できるのは原研関係者だけらしいのですが、どうもはっきりしません。
阿漕ヶ浦倶楽部の部屋は掃除の行き届いた6畳間、テレビは無料です。押入れ、板間、トイレつき、冷蔵庫なし、一通りそろっていて1300円は非常にお得でした。
* * *
阿漕ヶ浦倶楽部のサービスで嬉しかったのが、鍵を持ち出せること。ふつう安い旅館はフロントが深夜には閉まってしまうため、遅くまで遊んでいると宿に戻れません。もし鍵の持ち出しサービスがなかったら、私たちはこの日寝床を失うところでした。
バーベキュー:
夕飯をどうしようといいながらジョイフル本田へ繰り出してみますと、とにかく食材が安い。そして度肝を抜かれたのがバーベキュー道具の値段でした。立派な炭火焼コンロが1998円、安すぎます。「……夕飯はバーベキューにしようよ」全員の意見が一致し、即決定。道具は炭、皿、着火剤、着火マン、ろうそくなどを含めても4000円程度。花火も買って大洗海岸へ。
夜の大洗海岸にはほとんど人がおらず、もう真っ暗。ちっとも海が見えないほど広い砂浜の一角にバーベキューエリアがあるのを発見するや、さっそく道具一式を広げて設営。もうおなかが空いてたまらなかったので、炭に火がつくかつかないかで食べ始めました。着火剤の炎だけで焼いていたような……健康に悪そう。
牛肉、焼き鳥、サラダ、ソーセージ、枝豆、ホッケ……何せ美味しくて、よく食べたものです。で、残った炭火で花火大会。日付が変わった頃に片づけまで終了。ジョイフルへ繰り出してから6時間、見学より長時間を費やしたというのもどうなんでしょう?
カーフェリー:
関東大震災が発生した場合、私の家族は愛知県の親戚を頼ることになります。問題は、どう避難するか。千葉県から東京を抜けて愛知県へ行くのは、まず不可能ですから、陸路で行くとなると、東北から日本海側に抜けなくてはなりません。そこで大洗からカーフェリーというルートに俄然、注目が集まります。
地元から大洗までは徹底的に田舎街道です。にもかかわらず立派な道路が続いているわけですから、これは狙い目でしょう。予測されている東海沖の地震の場合、大洗はほとんど無傷のはず。カーフェリーの埠頭が使えるはずです。
今回初めて大洗へ行き、本格的なカーフェリーを初めて見ました。冗談のように大きいです。デパートが会場に浮かんでいるといった感じです。遠くからちらちら見えだしたとき、それが船だと気付きませんでした。ひたすら甲板のだだっ広いタンカーなども凄いですが、フェリーには高さで圧倒されてしまいます。しばらく心奪われて、ポケーっと眺めていました。
大洗海岸脱出:
車に乗って駐車場を出たまではよかったのですが、道を進むと柵が……。「あれっ?おかしーなー」なんていいつつ他の道を進んだのですが、今度は門が閉まっています。「きたとき門なんてあったっけ?」「暗かったしわかんないな(街灯が一部にしかないんです)」首を傾げつつ、しらみつぶしに横道をチェックしていくのですが、どこもゆく手を塞がれています。歩道は狭く、とても4人乗りの自動車は通れません。
「閉じ込められたってこと?」とK池先輩。
海岸の駐車場から、数台の自動車が出てきました。とりあえずついていくことにしました。ひょっとして、どこかに抜け道があるのかもしれません。
「……あの道ってさっき行ってダメだったとこじゃない?」
「あ、引き返してきた」
* * *
ぐるぐる回っていよいよ焦りが出てきたとき、一台の大型トラックとすれ違いました。その行く手にはがっちりとした門が待ち構えています。「どうせ戻ってくるでしょ」私たちはまたあてどもなく彷徨い続けます。「今晩ここで泊り?」「そりゃないよ、荷物はもう宿に置いてきちゃってるし」「道を封鎖するなんてどこに書いてあったんだよ」……イライラ
そして数分たった頃でしょうか。
「トラック、戻ってこないんだけど」
慌ててトラックとすれ違った道まで戻ります。「とりあえず、門のところまで行こう」
* * *
運良く黄色ランプを点灯させた覆面パトカーみたいな警備車に遭遇した私たちは、どうにか脱出に成功。宿についたのは午前一時少し前、シャワーを浴びるとどっと疲れが出て、翌朝の朝食が8時から、部屋を出るのが9時までという規定にぶつくさいいつつ布団に倒れこみました。
昼間の大洗海岸:
翌朝、することもないからふたたび海岸へ。昼間の大洗海岸は、あまりにも私たちには場違いな雰囲気でした。夏の海水浴場なんだから、泳ぐ人と物を売る人しかいないのに、「ただ海を眺めにきた」のは考えが足りませんでした。昨晩は取られなかった(夜には管理人も帰ってしまうのです)駐車料金1000円が痛い。
不思議なお店:
国道沿いの妙な店を2つ紹介します。
1.「ホームジョイ本田」……ジョイフル本田そっくりな黒い建物です。狙っているとしか思えず、みな笑ったのですが、帰宅後に調べてみるとジョイフル本田・本田会長の姻戚が経営しているそうです。
2.「とんぷう」……小さな中華料理店ですが、店舗の壁面一杯にかかれた宣伝文句に大笑い。いわく、「当店にうまい物なしもうかっていますありがとう」
ビリヤード:
国道245号線から51号線へ接続して大学へ帰る途中に、私の地元があります。午後が空いていることだし、というわけでイトーヨーカドーで昼食を取り、トイザラスを見て回り、そしてビリヤードをしました。
運動嫌いの私はビリヤードもやっぱり苦手で、ひたすら空振り、方向違い、へなちょこ、無駄な跳躍といったスカをくり返すばかり。当然、ナインボールの個人戦では不動の最下位。ところが、エイトボールで2人2人のチーム戦を始めた途端に状況が一変しました。私はやっぱりスカを連発するのですが、最後の持ち球と8番が盤上に残る場面で、なぜか完璧なショット!しかも2回もやっちゃいました。
これまで研究室のレクリエーションといえば、バスケで骨折、バレーでレシーブ成功0回、ボーリングで60点、卓球最下位、とにかく悲惨な結果ばかり。「次? 何でもいいですよ」と投げやりだったのですが、これからは絶対にビリヤードを押します。ただし、団体戦。(個人戦では上記の場面になる前に負けます)
ジェットコースター:
地元のイトーヨーカドーには立派な立体駐車場がついていて、長大な直線状のスロープが屋上までつながっています。先輩方がこれに感動して、ぜひ最上階から降りたい、と。まさかアクセル踏んで駆け下りるなんて……死ぬかと思いました。
結果:
みんなで使ったお金は一人あたり〆て6106円也。個人の勝手で使った分を含めても8000円くらい。無茶苦茶した割には安かったのではないでしょうか。あと、タオル2枚紛失。[2001/08/12(Sun) 22:07]
原子力が避けて通れない問題が放射性廃棄物の処理です。
8月10日、私は茨城県東海村日本原子力研究所東海研究所内の燃料サイクル安全工学研究施設(NUCEF)を見学しました。放射性廃棄物は政府が最後まで管理すべきだという声は大きいのですが、20万年後まで人類という種が存続しているはずもなく、現場の研究は逆に「人が管理せずとも安全を確保できるシステム」を追求しています。「わずか100年後でさえも、未来の人々が、現在の私たちと同じ職業的な倫理観を持って放射性廃棄物と向き合っている保証はない」と研究チーフはおっしゃいました。だからこそ、「今の問題は、今、解決しなければならない」のです。
未来に、期待しない。この厳しい決意こそが、仕事に責任を持つという言葉の重さを象徴しています。
東海村原発でメルトダウンがおきれば、数百メートル内にいる原研の方々は全員、死にます。原研の寮もまた、東海村の中にあり、家族も死の危険にさらされています。原研の研究者は、常に原発の側にいて、リアルにその恐怖を感じています。そうした環境に身を置きながら、原発に夢を賭け、日々研究に勤しんでいるのです。文字通り、命懸けで夢を追っている研究者の姿、目に焼き付けてきました。自分の人生に責任を持つということについて、少し教えられたような気がします。
NUCEFの中には、隔離された部屋がいくつもあります。その中に入るためには、宇宙船のハッチのような部屋をいくつも通らなければなりません。ハッチ部屋には基本的に2つの扉があり、その動きは連動しています。扉Aを開けてハッチに入り、扉Aを閉めます。すると扉Bのロックが解除され、扉Bが開きます。同時に両方の扉は開きません。
「面倒じゃないですか?それに、いざというときにこれでは逃げられないでしょう」
「いざというときには、現場でミスをした本人は死にます。助かりません」
原研でも原発でも、遠隔操作ですむことは、全て遠隔操作ですませています。遠隔操作では不可能なことだけを、あえて現場で行っているのです。現場に人がいるとき、外から手を出すことはできません。ですから、もし現場で事故がおき、人が死ぬとすれば、それは現場のミスに他なりません。一人も死なずにすむのなら、当然、それが一番よいのです。けれども、理想を許さない現実があります。
ちょうど終戦記念日が近づき、反戦番組が増える季節です。「全体のために一部を犠牲にするのは仕方ないといった考え方は恐ろしい」とは、よくいわれることですが、しかし、他にどのような方法があるというのでしょうか。誰だって死にたくはない、原研の研究者たちこそ、一番そのことを知っているのです。必死に知恵を絞っているのです。それでも、いざ事故が起きたとき、現場の研究者の命を守ることよりも、事故を施設内に封じ込めることを優先せざるを得ない、という選択をしたのです。
考えれば何か方策はあるはずだ、といった戯言を私は信じません。不可能に挑戦することは大切ですが、現実と折り合いをつけていかなければ、何一つ立ち行かないのが実際なのです。交通事故死を劇的に減らすためには、時速30km以上出ないようにすればよいのですが、それでは経済が停滞します。安全最優先といっても、程度があるということです。
そして、その選択には責任が伴います。原研の方は、自分の命と相談して、ハッチを採用しました。全てを遠隔操作にし、研究を停滞させる道を放棄しました。こうした方々が、日本の原子力を支えています。
責任を持つということ、その重さ。お話を伺って、背筋が、のびました。[2001/08/12(Sun) 22:10]