Do As Infinity は伴 都美子と大渡 亮による2人組のロックバンドだと勘違いしている人がいる。あるいは、D.A.I に欠かせないのは伴都美子だと錯覚している人さえいる。D.A.I という名前は、あまりにあからさまだ。D.A.I は作曲家、長尾大のために作られたロックバンドなのだ。
長尾大は既に30歳を越えているが、作曲家デビューは意外にも99年と遅い。そのきっかけとなったのは、エイベックスに送った30曲入りのデモテープだった。浜崎あゆみのためにバラードを書いてくれ
と発注がきたのは、わずか3日後だったという。そして2000年、オリコンセールス第9位の作曲家として頭角を現す。
曲のセールスに最も大きく影響する要素はなんだろうか。小室哲哉、つんくらが90年代以降示し続けてきたことは、誰が歌うかは2の次、第1に重要なのは曲である、ということだった。浜崎あゆみはエイベックスが総力をあげた企画商品だ。才気あふれる作曲家、編曲家を惜しげもなく投入している。これまで多勢の作曲家が仕事に挑み、敗れ去っていった。勝ち残ったのが長尾大であり、菊池一仁だった。
しかし2001年、長尾大は苦汁をなめることになる。D.A.I の作曲家として活躍したものの、浜崎あゆみプロジェクトには地殻変動が起きていた。浜崎自身が作曲をはじめたのだ。
浜崎は完璧主義者で、しかも他人の才能を信用しない自信過剰なキャラクターを持つ。だから浜崎は、曲作りに常に自分の意向を最大限盛り込ませようと努力してきた。作曲家や編曲家が仕事をしていると、必ずそばについて指示を出したがった。とくに編曲家への指示は細かく多岐にわたった。浜崎はこうして、必死に日本の歌姫の地位に這い上がり、そして死守してきた。
自信に裏づけを得た浜崎が次に考えること……それは素人にも容易に想像がつく。なぜ他人の力を借りなければならないのか、と思うはずだ。だから、自分で作曲もすべてやりたくなる。浜崎はセルフプロデュースに踏み出した。2001年、作曲家ランキング2位はCREA、すなわち浜崎あゆみだった。その集大成というべき4thアルバムのタイトルが「I am …」なのは偶然ではない。
2002年、日本ゴールドディスク大賞は浜崎あゆみ「Voyage」に与えられた。浜崎の年度代表曲は「Voyage」だった。最も売れたのは「Η」だったが、浜崎は全ての年末特番で、そして紅白でも「Voyage」を歌った。この「Voyage」の作曲家が長尾大だ。セルフプロデュースで頂点を極め虚脱感に陥った浜崎は、米国中枢テロ事件に衝撃を受けた。そして他人に仕事を任せられる強さを、手に入れたのだという。
長尾大は3年で300曲を書いてきた。そのほとんどはモノにならなかった。一流の才能が、超一流の努力をしている。それでも2001年は苦労した。2002年は再び栄光を手にした。たゆまぬ努力があってなお、道は平坦ではない。こうして、ヒット曲が生まれている。