いったん追いつかなくなると途端に面倒になってしまうのが言及サイトの紹介。追いつかなくなった理由は簡単で、一度言及したサイトは二度言及するという法則を発見してしまったからだ。しかも二度目の言及は多くの場合、リンクなしなので、解析に引っかからない。となると雪だるま式にチェックするサイトが増えていってしまうというわけ。AirH"32Kの低速回線(ISDN未満)では、とてもじゃないけどやっとれーん。
興味深く読みました。「多数派」はメンバーの選択範囲によって変動する、というお話。たしかにその通り。ゆきさんのサイト内ではゆきさんが女王様。けれども、プリシラさんたちがそこにやってきて、人数で圧倒してみせた。間宮さんはプリシラさんにも非があることを認識していたけれど、ゆきさんの非は責めつつプリシラさんの非は責めなかったから、結局のところプリシラさんに同情的な立場だったのだろうと思う。その後もプリシラさんたちの暴走が続いているところへ、さらに外野から多数のウォッチャーがなだれ込んで、再び形勢が逆転した。ウォッチャーはゆきさんに同情的だったわけですね。
外から人がやってくることで場を支配する価値観が変動するという観点から、今回の件について私が持ち出した「社会的制裁」という考え方に疑問を呈していらっしゃる。つまり、ウォッチャーの輪の外側から、例えばプリシラさんたちに同情的な圧倒的多数の人々がなだれ込んできたらどうなるのか、ということでしょう。そうなると、社会的制裁の根拠が崩れてしまうわけです。私が先の更新で指摘したように、騒動に関心を持った人数はたろたま読者より少ないわけです。だから、ことによると戯言日記の心配は現実のものとなるかもしれません。
とはいうものの、今回の件では再逆転はないと思います。いちおう、現在もこれからも、社会の単位は国家または民族を上限とするのがひとつの現実的な落としどころでしょう。だからもはやこれ以上、常識の前提となるメンバーの選択範囲については悩む必要がないでしょう。とすると、言及サイトの様子を見る限り、再逆転はありえないと断言できます。(騒動が終わってしまったので、ウォッチャー側が暴走して逆に責められることになる、というシナリオも消えました)
可能性を過大視すると、何も語れなくなります。私はもう、見切りをつけていいと思う。今回はプリシラさんたちがマイノリティーということで決定、と。
ところで謝罪させたがったロジックがわからないとのこと
云々はちょっと違います。なぜそのような手順で謝罪を引き出せると考えたのかがわからない、ということです。ゆきさんが「桃」を疑っているとわかったときに、怒るという価値観は理解できるのです(私なら怒りませんが)。ただ、プリシラさんは謝罪させるために、ゆきさんに作品名をいわせようとしました。そのロジックがわからないのです。私がゆきさんなら、作品名をいっても謝りません(参考:[付録]追補1)。なぜそんな手で、相手が謝ると信じきっていたのか。結果的にゆきさんは謝ったので、まあそういう価値観があるんだね、と納得するわけですが。でも私が考えるに、どうしてもそれは理屈にあっていない。理屈にあわないことは承知でやっているのか、あるいは単にバカなのか、私にはまだ判断がつきません。
疑問におこたえしておきましょうか。私なりの回答、ということになりますが。
今回、大勢の人がプリシラさんたちに対して怒ったわけですが、それは単純に、プリシラさんたちのしたことがひどかったからです。ネットじゃ集団リンチくらい日常茶飯事
かもしれませんが、今回は通常なら見逃されるラインを大きく超えていたということです。ゆきさんの非があまりに小さく、プリシラさんたちの行った制裁があまりに度を越していたのです。それ以上の理由はありません。
2ちゃんねらが独特の言葉遣いをするのは、匿名性を保つためです。「藻前ら餅つけー(=お前ら落ち着け)」とか「スマソ(=すみません)」などと書くことで、日頃の文体を完全に隠し、性別も年齢も不詳の「2ちゃんねら」に変身できるわけです。
CSSの話などはまた追々。
段落ごとに話が飛んでいて、正直よくわからないのだけれど、箇条書きの部分ではムムムと考えさせられるものがあった。HTML文書はPCを使用できなくとも利用できるのだ。また、実社会の常識とWWWの常識は、私はじつは大いに被っていると考えている。そのように見えない場合が多々あるのは、単に利用者の知識不足が主因であることが多い。
WWWがどのような技術かについて無知なので、間違った例え話を当てはめてわかった気になっていることが多いので話が食い違う。Webサイトを「ほーむぺーじ」と呼び、転じて「ほーむぺーじは家なのだから玄関から入るのが礼儀」といってみたり。アホかーってなもんだ。
あるいは著作権とかね。あまりにも簡単にデータをコピーできてしまうから不安になるのだろうけれど、そもそもあなたのWebサイトに著作物はひとつもないかもしれないよ、なんて話をすると驚く人が結構いる。音楽CDのコピーは犯罪だ。でもある種のデータ集のコピーは犯罪にならない。単なる事実の羅列は著作物にあたらないからだ。なので、本製品は著作権法で保護されています、だなんてラベルに書いてあっても、実際には保護の対象となっていない場合がある。素人には判断しかねる場合が多いから、一律に「やめておけ」ということになるけど、ちゃんと突き詰めていくとボーダーラインにお宝がたくさん眠っている。
自分の常識に反する事例を見つけたときに、単純に「いろんな価値観があるものだなー」と片付けてしまうのはよろしくない。結局それが、例えばWWWへの無知を放置することになっている原因なのだ。私は私のやりたいことを、このやり方でやっているの。それでいいじゃないの。いや、それは錯覚で、本当は全然実現できていないんだよ。何よごちゃごちゃとうるさいわね。ね、もうちょっと話を聞いてよ。もういい、あっちいって。……えーと。みたいな。
知識というのは大切なもので、ある程度蓄積していくと、遠く離れて見えたものがじつは強固に関連していることが、突然見えてくることがある。常識の埒外と思われたものがいくつかの知識を得ることで常識の範囲内に位置付けられ、逆に今まで常識だと思っていたことこそ非常識だったと気付いて愕然とすることもある。「かんたーん」なこたえですとんと落ちてしまったときってのは、拍子抜けするほど時間が余っていることが多い。ちょっと、別ルートを探ってみるのもいいんじゃないかな、と思った。
といった話は実際のところ【覚書】たろたま騒動とはほとんど関係ないので、読者のみなさんは私の文章にとらわれずに、リンク先の文章をご覧になってください。