千人祈の出版について、効率の面から否定的な意見が多数。私は必ずしも出版化をバカバカしいとは思いません。物販による寄付金集めはたしかに効率が悪いのですが、それだけ見て切り捨てるのはどうかと。
たとえば国労問題はいまだに決着しておらず、解雇された元職員たちはいまも裁判などで戦っています。とはいえ彼らも生活しなければならないわけです。北海道のあるグループは、漁村で干物を作っています。私の会社の労組はこのグループと親交があり、国労支援物販が毎月のようにあります。労組の方々が昼休みに北海道から届いた干物を売るのです。スーパーで売っている値段の3割増しくらいの札がついています。なぜ物販という方法をとるのか。それは、闘争資金と生活資金をセットで寄付していただこうということなのです。
前述の例は構図が非常にわかりやすいわけですが、もちろんいつもそうわかりやすいわけではありません。千人祈の出版など、たしかにすっきりと説明がつきません。けれども、こうはいえるのではないでしょうか。寄付金の源泉は、各人の収入です。ではその収入はどこからやってきているのでしょうか? たしかに書籍売上の9割は誰かさんの給料になります。寄付に回るのは1割に過ぎません。けれども、それは直接の寄付だって同じようなものです。収入のごく一部だけを寄付に回しているわけですから。
寄付金だけを直接的にやり取りするのも、書籍代に上乗せという形でやり取りするのも、結局は同じことだと思います。千人祈の本も、チャリティーコンサートも、まず本として、コンサートとしての値段があり、そこにいくらかを上乗せするという形式です。千人祈の本が1000円だとして、1000円も出して実際に寄付金に回るのは100円でしかない、というのはちょっと話が違う。900円の本を買い、ついでに100円の寄付をした、と考えるべきです。
900円の本を買うことを無駄と決め付ける論法には、落とし穴があります。みな生活必需品だけ買って、残りは直接的に寄付すればいいということになっていくじゃありませんか。理屈で効率的な福祉社会を求めていくと、共産主義的な方向へと流れていくのです。そして社会が閉塞してしまう。金は天下の回りモノです。千人祈の本を買って、編集者や印刷所や書店などで働く人の収入を増やす……それは一見、寄付という観点からいえば無駄なようだけれど、そうして資本主義経済を回していくことが、結局は社会全体の余裕につながり、世のため人のために使われるお金の増大へと帰着していくわけです。
また運動としての千人祈を考えた場合に、書籍の出版というトピックは、再びマスコミに大きく取り上げられる好機を作り出す最高の仕掛けのひとつといえます。当面の戦争は終結しても、反戦のメッセージがその意義を失うことはありません。反戦平和主義の方々にとって、本が出るのは重要なことです。本自体はさして売れないかもしれませんが、テレビなどに取り上げられれば、千人祈の心を数百万人(運がよければ数千万人)に伝えることができるのですから。