気ままな更新スタイルのいいところは、興味を持っていることをそのまま書けるということだ。
ぞうはなのぼささんは、ここしばらく千人祈という運動が組織だって運営されなければならないことを指摘し、それゆえに平和運動の空想的理念と運動の実態がかけ離れてしまう、というジレンマについて思索を続けている。私はその議論はさっぱりとスルーして、話の枝葉である選挙(ちょうど本日は統一地方選挙の投票日)の話題を読みつつ、ふと思ったことを書いた。いつまでたっても政治に民意が反映されないのは何故か、と。
はっきりいって、ここでは議論が成立していない。私の注目点がぼささんの関心とずれており、お互いの意見はすれ違っている。でも、別にそれでいい。何ら問題はない。
……といってこのまま気ままな更新を続けたかったのだけれども、ぼささんが徳保さんの政治の話に引きずられたようだ
とぼやいていらっしゃるので、申し訳ないことをしたかと思う。そこで今回は、少し言葉を補ってぼささんの本題につながる話をしてみたい。
不可分のものを各々分離して語ることができるという仮定にそもそもの誤りがあるので、ぼささんの議論が行き詰まるのは当然だ。とりあえず答えが出ているのは今回のイラク攻撃の問題では僕も含めてこれだけ様々な場所で様々な意見が飛び交った、ということは、それはとても意味がある、と思う。
といった段階の話なのだが、これでは毒にも薬にもならない。結論が割れて意見が対立しているときに、考えることは大切ですね、という基礎的な確認をしても無意味だ。けれども、他に成果がないのだから、そうしたことを書いてお茶を濁すしかない。
ぼささんは、不可能を可能にする方策を求めて彷徨っている。政治に関与しない千人祈は、具体的成果を達成できない。それは構造的な問題なので、永遠に解決されない。千人祈への賛同者が世界を覆い尽くしても世の中平和にならない。自由な個人の意思を千人祈という形にまとめるには組織が必要だ。組織ができれば内部論争とヒエラルキーの形成は避けられない。空想論を現実に当てはめるのは、もうやめた方がいいのではないか。無理なものは無理なのだ。
ただし、具体的成果はなくとも、空虚な言葉に意味があることには注意しなければならない。反戦平和主義への賛同を表明することで、いい気分になれる人は少なくない。祈ることで心安んじるならそれもいいだろう、と私は思う。具体的な成果だけを評価基準とする必要はない、そういい切ってしまえば、千人祈への批判はほとんど力を失う。
参加者自身の精神的充足がほとんど唯一の成果であるという自覚があれば、千人祈は強くなれる。そして、私にとって無害な存在となる。理屈抜きの幻想に酔ったまま千人祈に賛同する人(少数だとを信じたい)だけが、私の敵なのだ。