昭和55年に第26回江戸川乱歩賞を受賞したのは井沢元彦「猿丸幻視行」だった。最終選考に残った作品には島田荘司「占星術のマジック」があり、これは後に「占星術殺人事件」として刊行され大きな反響を呼んだ。TBSで報道記者として修行中だった井沢は後に専業作家として独立し、地味に地歩を固めていったのだが、次第に小説よりも評論活動が主となっていった。近年では政治と歴史問題の評論家としてすっかり有名になったが、肩書きは「作家」を通している。教官として招くような大学がないのか、あるいはそうした話を蹴っているのだろうか。一方の島田荘司は本格推理の旗手として80年代をリードし続けた。90年代には実際の事件に材をとり大作を著す。「秋好事件」「三浦和義事件」がそれだ。井沢を右よりとすれば、島田は左よりへ進んだ。
井沢の受賞は至極順当なものだったようだが、もし島田が受賞していたらどうなったろうか。井沢の小説で最も有名なのは結局のところ「猿丸幻視行」らしい。井沢はもともと自説を展開することに興味があり、根拠の薄弱を物語を利用することで補うために小説という形式を選択したに過ぎない……ように思われる。「猿丸幻視行」の中で大学の先生が、史料に矛盾する点のある仮説も、通説を覆す強力な証拠があれば再考の余地があると述べている。通説では説明のつかないことが世の中には多々あり、通説はあくまでも最も瑕疵の少ない説に過ぎないというわけだ。小説の中では、実在しない重要人物が登場して井沢説の正しさを保証してしまう。無茶といえば無茶なのだが、歴史ミステリーというのはしばしばそういうものであって、読者の慣れの問題ではないかと思う。
井沢が小説という形を借りてやりたかったことは猿丸大夫の謎を解くことであって、推理小説を書くことではなかった。受賞作はそれでも一応は推理小説の体をなしているのだが、殺人事件が起きるのは全体の3分の2を過ぎてから。クライマックスを作るための読者サービスに過ぎない。結局、それ以外の部分の面白さがちゃんと評価されて受賞にいたったのだが、ここで受賞できなかったら井沢の今はなかったのではないかと思われる。井沢が近年ライフワークのように取り組んでいる「逆説の日本史」は、小説ではない。もはや井沢は自説の裏付けに作中人物の保証を必要としない。だが、井沢の著書は学問的には無視され続けている。作家だから出せる本なのだ。私は井沢の著書を楽しく読んでいるので、島田荘司が江戸川乱歩賞にクオリティーを向上させた「占星術殺人事件」ではなく完成度の低い「占星術のマジック」を応募したことをありがたく思う。