徳保さんはシステムを所与として考えすぎです。もちろん、トラックバック以前にトラックバックに関する概念のほうがあったはずです。こういう使い方をするこういう機能がほしいというのがまずあって、それが実装されるんですから。その具体的な実装が、その最初にあった概念とかならずしも一致しなかったからといって、それは実装上の技術的都合というものです。
ようするに、私の反論はこうだ。
製作者がこう使え、という通りに使う利用者ばかりではない、ということ。利用者は勝手に自分に都合のいいようにモノを使う。そして製作者は少数派であり、利用者は多数派だ。ほとんどの人は製作者にならない。TrackBack文化のようなものが本当にできあがるのは、TrackBackが登場して以降のことだ。実装ミスで製作者の意図が反映されないシステムを世に出してしまったとき、ひょっとしたら利用者はその実装ミスを喜ぶかもしれない。そして結果的に、実装ミスを修正した製作者が利用者に呪われることになるかもしれない。
視覚系のWWWブラウザを例に考えてみる。もしマイクロソフトが、「HTMLはやっぱりStrictでなきゃいけないね」とかいってフレームへの対応をやめ(もちろんnoframes要素は解釈する)、font要素も無視し……、というようなStrictモードをデフォルト設定にしたIE7を発表したとして、果たして喜ばれるだろうか? W3Cの主張に共感する私のような人間は「うはははは!」と楽しくなるかもしれないが、大半の人は猛然と怒りを表明するに違いない。
まあ、ブラウザの場合は、HTMLを考えた人々と、それを扱う道具を作った人々が別の考えを持っていたという話だからだいぶ違うといえば違う。しかし仮に、マイクロソフトはネットスケープへの対抗上、嫌々おかしな実装を繰り返して利用者に迎合してきたのだという物語を導入したら? それに、HTMLを考えた人々が作ったブラウザがなぜ人気を得られず、変なソフトばっかり爆発的人気を博したのか、ということを考えるなら、私のいいたいことは伝わると思う。