趣味Web 小説 2003-10-13

Google 八分を誰が期待しているのか

そうなんだろうか? essaさんの記事がなぜこれほど話題になったのかと考えたら、やはりGoogle八分の刑は怖い、嫌だ、あってはならないことだ、と考える人が多かったということなのではないか。

私は、人々は基本的には、言論の自由の保障を望んでいると思う。特定の意見の排除を、必ずしも希望しないと思う。もしそれがあるとすれば、パナウェーブとか、鈴木宗男とか、そういったレベルの嫌われ者の意見、社会の敵とされた者の意見に限定されるだろう。だからもちろん、ほとんどの人々は、例えば自分の意見がネット上で抹殺されるようなことはありえないし、あってはならないと考えているはずだ。それで、Google八分の刑という反実仮想のシミュレーションには恐怖を感じた。

けれども面白いのは、例えばその人があらゆる場合に特定の言論への弾圧に反対するかといえばそうではないだろうな、ということだ。例えば、掲示板で無体な批判を始めるものが現れたとする。それはそれでひとつの言論だから、自由には違いない。もちろん、そんなことはするなというのも自由だから、みんなでよってたかって反論を浴びせて撃退すればよいだろう。けれども、時には驚くほどしぶとい人もいる。この場でそういう批判をするべきでない、という意見に耳を貸さない者がいる。で、掲示板の運営者はしばしば、アクセスを禁止する。

これは掲示板だからいいのだろうか? と考えてみる。さて? 現に、テレビ・新聞などの超マスコミはある種の意見を流さない。雑誌はかなり自由で、だいたい何でも書いてしまうけれども、「ナチスのガス室はなかった」と書くと廃刊になる。売れなくなって採算が取れなくなって……というのではなく、「責任を取って」廃刊してしまう、というのがこの国の現状だ。でもそれは、よいことだと思う人が多いだろう。

結局、そういうレベルの話になると、Google八部の刑はたしかに人々の待ちわびていることなのかもしれない。最近のことでいうなら、ゲーム脳とかね。あのトンでも本を鵜呑みにした言説は全部Google八分の刑にしたいと思っている人が少なくないと思う。ところが世間はゲーム脳に飛びついているのだから、じつはGoogle八分の刑を望んでいる側が少数派だったりするのが面白い。

言論で他人を叩き潰すなんてのはなかなかできることではなくて、ゲーム脳批判さえ人口に膾炙しない現状を見るに、どうにもこうにも実力行使に出たくてうずうずするのは人間のサガってやつなんだろうなあ。で、もしお互いにGoogle八分の刑のような攻撃をしあったなら、理不尽にも正義が負けて(?)、反ゲーム脳派が沈黙させられるのだろう。暴力ってのはそういうものなんだが、しかしまあそうはいっても、話し合いをしていればいいってものでもないとは思うのだった。

政治家ってのはしばしば、国民の支持がない政策でも押し切るわけで、あれはやっぱり正しいことだと私は思う。自民党は消費税で2回も大幅に議席を減らしたのだけれど、それでもあれをやった。偉かった。もし将来、GoogleなどのWWWのトラフィックを左右する技術に人間が恣意的に介入できるような社会状況になったとき、責任者にはどうか、ポピュリズムに堕さないことを望みたい。

もちろん、Googleが「ゲーム脳の恐怖」批判者の言説を弾圧するようなことになれば、対抗言論としてInktomiあたりは逆を行くだろう。そうして将来、朝日と産経のように、検索エンジンが個性的になったら楽しいよな、なんて思う。

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