どうも痴漢話になると(自分も含めて)露出の多い衣服=無防備で固定されそうになるのですが、どんなに着込んで神経を尖らせていても痴漢被害にはあうものでして、そうなると存在自体が無防備なのかとも考えますけど…。
服装と被害に遭う確率の関係は実際のところどうなのか、というデータは私も寡聞にして知りません。ただ、ムムッと思う人が多いのが露出の多い服装だ、というのは事実です。といってもムムッと思う人のほとんどは痴漢行為なんかしないで、仏頂面を決め込みます。コトに及ぶ場合には、むしろ騒ぎ立てたりするのが苦手そうなおとなしい感じの方を狙うとか、いろいろ他の問題が絡んでくるのでしょうけれども、犯人の言い訳としてよく聞く「つい魔が差して」を信じるとすれば、やっぱりとくに危ないのはこういうタイプ、みたいな連想が働くのは当然といえば当然のことだと思います。
実際に「服装は関係ないんだ」というデータがない以上、感覚的・経験的に実態を推測する他ないのであって、そうするとチャラい格好をした方があんまり同情されないのも仕方ないのです。で、そういうイメージがある以上は、逆にそれを利用した方がいい。
こゆさんは痴漢の被害に遭うことそのものよりも、そのことに対する周囲の反応が許せないわけでしょう。なぜ服装次第で同情されたりされなかったりするのか、って。いずれにせよ痴漢は逮捕されるわけだけれども、それでも納得がいかない、と。でも相手の意見が経験則といくつかの事実に間接的に裏付けられているのに対して、自分の意見はどちらの服装でも被害に遭う(場合がある)としかいっていないわけで、確率の問題について何ら傍証を挙げることに成功していない。
どんな服装でも痴漢の被害自体は防ぐことができないかもしれない。けれども、その後の世間の支援に違いがあるのです。もし本当に服装と被害に遭う確率に関連がないのなら、世間の対応は理不尽ですよ。理不尽ですが、その事実を証明できない以上は、世間の常識に従って自己防衛するしかないのです。
以下、余談。それなりに違う話なので注意。
この話題、日本が自衛隊という名の軍隊(のようなもの)を持たざるをえない状況と似ています。軍隊があるから攻撃される、という説と、軍隊がなかったら攻撃される、という説があります。世界の常識は後者です。だから、ふつうに憲法第9条を読んだら無理っぽい自衛隊が創設されることになる。本当のところはわかりませんよ、現代の世界の状況は過去に事例のないものですからね。日本が軍備を一切放棄しても、本当に誰も攻撃してこないかもしれません。でも、経験から想像するに、それはたわ言であると、そう断言する人が多い。
で、もし日本が自衛隊を解散して、それで例えば北朝鮮の工作員に大暴れでもされてごらんなさい(それもまずないと思いますが)。世界中のどの国の人だって、「バカは勝手に死ね」といいますよ。そういいつつも、人道的何とかといいつつ支援してくれますが、それは非常に冷たいものとなります。自分で自分の身を守るだけの国力がありながら……と、愚痴る相手に、日本は土下座して支援を請うことになるのです。
服装と痴漢被害の話は、これほど極端ではありません。しかし、問題の構造は同じです。自分の考える真実を人に納得させることができない以上、相手の考え方に添って行動せざるをえません。
ふと思いついたのでもうひとつ余談。これはかなり元の話とは違ってきているので注意。
放蕩息子とまじめな息子がいるとします。昔から親をないがしろにしてきた放蕩息子が、数年ぶりにふらりと家に帰ってきて金を無心する。競馬ですっちゃったー、とかいって。親はしばしばこれを拒絶するでしょう。けれども、最後には「それでもたった一人の息子だから」とか何とかいって、ちょっとだけお金をくれるかもしれない。一方、両親を大切にしてきたまじめな息子が、不運にも事業に失敗して実家に転がり込んできたとする。もう一度、チャンスをほしいと彼が頭を下げたとき、親は全財産をなげうってでもこれを支援するかもしれない。
放蕩息子もまじめな息子も、すってんてんになって親に向かって金の無心をすることでは同じだけれども、周囲の受け止め方は違います。ある状況において共通の結果にいたるとしても、その後の展開を考えるならばやはり、「どのような経緯があって、そのような結果になったか」ということは無視できません。
徳保さんちのBBSでも、あの頃とほぼ同じような展開の議論になっている
のかなあ。どうなんだろう。少なくとも掲示板の議論ではいまのところ、女性の挑発的な服装によって男性が痴漢するという説に根拠はあるのか
という問題とは関係なく、世間にそう思っている人が多い以上は、挑発的な服装をしていて痴漢被害にあった場合に、こゆさんが例にあげた評論家の発言のような口撃に出くわすことは予想されるリスクである、という話をしています。その上で、リスクを考えた結果、自分はひどいことをいわれたくないならば服装を変える、そうした(誤解含みの)風潮に負けたくないならばひどいことをいう人がいることを予想した上で着たい服を着る、という主に2つの選択肢がある、と。
それはともかくとして、間違った常識は正された方がよいに決まっています。記事中で紹介されている統計データ(の概要)はたいへん参考になります。しかし常識というのはどういう理屈で決まってくるのでしょうね。HTMLにいたっては、仕様書の精神を無視する(あくまで形式的に文法違反しなければそれでいい)という発想が常識となっているわけですが。
事実に反する常識、いろいろな理不尽を引き起こす常識であっても、常識がそうである以上は、それに反する行動・意見は多かれ少なかれ圧力を受けます。それは予想される事態です。反常識的行動・意見が常識に攻撃されたとき、「信じられない」といってもいいのですが、本当に「信じられない」と思っているのだとすれば問題があります。常識による攻撃を予測して対応しなければ、反常識は潰されます。これは反常識が背負う避けられないリスクです。反常識を標榜するならば、リスクを背負う覚悟が必要です。
反常識の側に真実や正義がある場合、リスクの存在自体が許しがたいものと思われるでしょうが、しかし現に存在する以上は対決せざるをえません。多数派を切り崩そうとするのだから、少数派の労力が大きくなるのは当然です。多数派と同程度の論証をしても、勝てません。(どんな分野であれ)反常識で頑張ろうという方は、どうか頑張ってよい結果を獲得してください。まあ、たいていの常識にはそれなりの根拠があるので、長く険しい道程になると思いますが……。
玄関の鍵の話。
鍵をかけるかかけないか、という単純な区分けばかりではなくて、最近のピッキング盗対策では鍵の種類などが問われたものでした。サムターン回しでは、扉の材質やサムターン周辺部の形状が話題となりました。どこまで気をつけるかというのは、鍵についても結局は比較の問題ということができます。鍵といえど、それが単純な二元論で区分けできるのは局面を限定した場合に限られるわけです。しかし結局はということばかりいっていると、何もいえなくなってしまうわけですが、ひとつの言葉遊びとして。
比較の問題といえども、実際には論議されている場の状況によって、曖昧ながらも落としどころが一定の範囲に絞られてくるものです。状況の変化によって落としどころも変化しますが、行き着くところまでいくなんてことは滅多にありません。パッと見にも明快な基準線がないからといって、まったく基準がないというわけではない、ということ。
ある場所で実際に起きていることだとしても、それがここでも起こりうるかというと、「基本的にそれはありえない」といってよいことが多い。
とはいえ、頭の体操はいろいろ自由にやってみるのが面白いと思う。結果を出さなきゃいけない議論というのは、たいてい現実との妥協の繰り返しでつまらないことになるわけだから、趣味の議論くらいは自由に突き抜けてみるのも一興。
不幸な目にあった人の非を何とかして見つけ出したいという欲求の源泉は何か。いっぱい思いついてしまってまとまらなかったので、今後の課題ということで。
痴漢論議はくりかえすに資料が出ていたので、参照されるとよいと思います。ただ、こういったひとつの事実が社会にちゃんと浸透していくには、かなりの時間がかかるのでしょうね。不勉強を想像力で補う人ばかりで世の中はできているわけでありまして。というか、何事も事実に基づいて判断するというのは、なかなか難しいものがあります。ひとつの理想としてそれを掲げるのはかまいませんが、いちいちそれにこだわると、判断材料の不足のため立ち往生する場面に頻繁に出くわします。
最近、どこかのサイト(忘れた)で厚生省は関西の安全宣言より先にSARSの予防について情報を示すべきだ、という意見が出ていました。でもSARSの予防については、とっくの昔にふつうの風邪と同様の予防法が有効という情報が出されています。(参考:一般的なSARSに関するQ&A)
そうか、そういうことか。
掲示板などで「質問に答える」場合には、相手の質問の意図を汲み取るべきだと思うけれども、誰かの文章に対する感想を書く場合には、別に相手の一番いいたいことなんか無視してもいいのではないか。本論には興味がもてなくても、枝葉末節が気になるということはある。
「初めはこう考えていたが、今はここが変わりました」という箇所を文中で明確にしないのは卑怯
という意見はまさにおっしゃる通り。でも無意識のうちに考えが変わっていくので、自分では気付かないんだなあ。できればスレの方でチェックしてください。
鍵の話も程度の問題として扱うことができる、と書いた件についてナツさんが反論されていらっしゃいますね。
私は最初、服装も鍵も二元論(注:なんか変な気がするけど二元論という言葉を使います)として扱いました。それに対してナツさんが、服装は程度の問題で、鍵は二元論とおっしゃった。そこで、鍵だって程度の問題とみなすことができると書いたのです。つまり見方次第で、服装も鍵も、二元論とも程度の問題ともみなすことができるのだから、ナツさんが服装は程度の問題で、鍵は二元論(だから鍵の議論は服装の議論の参考にならない)というのはどうかと。
服装の場合は、境界線の曖昧さを突けば程度の問題となり、鍵の場合は視野を広げれば程度の問題となります。アプローチは違いますが、どちらも程度の問題に帰着できます。逆に服装の場合は両極端を取れば二元論になり、鍵の場合は開閉に注目すれば二元論となります。にもかかわらず、ナツさんは服装の方だけを程度の問題に帰着させている。そのロジックで服装の方は私の説を否定し、鍵の方は私の説にとくに反論しないというのは納得できないということです。
痴漢の話題、徳保スレの方でおおよそ議論は尽くされているようなので、まずそちらをご覧になることをお勧めします。
さて、なにごとも事実に基づいて議論するなんてことは不可能だ、という私の指摘に対して批判が多く集まっていますね。しかし例えば、アドレナリンショックのナツさんは、「扉に鍵をかけない→泥棒に入られやすい」という推測に対しては反論していません。しかし私は、その推測を裏付けるデータを目にしたことがありません。探せばみつかりそうですが、実際には資料を探さずに書きました。ナツさんはそのあたり、いかがなのでしょうか。
ひょっとすると、鍵をかけるかどうかは泥棒の被害に遭う確率と有意な関係がみつからないかもしれません。その場合、鍵をかけ忘れて泥棒に入られた人が、鍵をちゃんとかけていたのに泥棒に入られた人と比べて同情を得にくいのは、偏見に基づく不当な扱いだということになります。だいたい、鍵がかかっていようといまいと泥棒するやつは悪いのであって、鍵のかかっていない家に忍び込んだからといって減刑などされないでしょう。鍵をかけていなかったという被害者の落ち度は、泥棒を正当化する材料とはなりません。しかしその一方で、被害者はその落ち度のために世間に冷たくされることになります。
なにごとも事実に基づいて議論しましょうなんて本気で言い出すと、話が進まないわけです。「鍵のかかっていない家に忍び込んだからといって減刑などされない」というのだって、推測に過ぎません。実際のところどうなのか、いちいち調べなきゃ書けないとしたら、私は困ってしまう。
「隙のない服装で被害に遭った場合は同情されるし、落ち度はないと言われるのだから、服装に気をつければ済む」なんて単純な問題ではないと思う。それが本当だとしたら、今現在の日本ではたまたま「チャラい服装」をした女性がたくさんいるから、その人に比較して地味な服装の被害者は同情されているだけである。女性全員が気をつけて地味めの服装をするようになれば、「その中でさらに比較的派手めな服装で被害にあった女性」が隙があると非難される、という堂々めぐりに陥るのは目に見えている。
目に見えている
とおっしゃるわけですが、その説を裏付けるデータがあるのか、という話になるでしょう。これまでのいろいろな経験とかそういったものから推測しているのでしょうが、何か統計のようなものがあるのかと問われると、ハタと困ってしまうはずです。ひょっとしたら、世間の「チャラい服装」の基準は案外強固で変動の小さいものかもしれませんよ。とすると、服飾文化が保守反動の方向へ向かった場合に、「チャラい服装」をしていると判断される人はいなくなるかもしれない。
私はナツさんの推測の方に分があると思いますが、しかし、それは明快な事実があるからではありません。経験上、たぶんそうなるだろうな、という印象があるからに過ぎません。
結局そうなってくると、議論の勝敗は「どちらの意見が多くの人の感覚にマッチするか」というレベルの話でしかない。今回の痴漢の話題でちゃんと事実が出てきたのは「服装と痴漢の被害には相関がない」ということだけで、他の部分は誰の意見も基本的に推測ばっかりです。ナツさんの意見に支持が集まったのは、ナツさんの意見がより一般的な感覚にマッチしたということを意味します。(少なくとも現時点において、ナツさんと私は明らかな事実について意見が対立しているわけではありません。事実以外の部分について納得するかしないかという話をしているのです)
(つーか、「自分が見ていて不愉快な服装」と「痴漢に遭いやすい服装の定義」とを故意にすり替えて話している人も多いと思うんだな。困ったもんだ)
これなど、まったくの憶測。でもかなりの支持が得られる意見だと思いますよ。多くの方がこれまでに似たような経験(と思っているもの)をしてきているので、共感できるからです。でも実際にこの意見が、どれほど真実に迫っているかはわかりません。そもそも多い
って、どれくらいいたら多いっていうのですか。私がチャラい服装の基準をはっきり示すことができないように、ナツさんも多い
の基準は示せない(あるいは無理に示すと自分自身、ちょっと微妙な感じがする)のでしょう。
とすると、ナツさんは根拠薄弱なままに反対意見の論者の多くをこんな人間だと決め付けて困ったもんだ
といっていることになる。偏見はよくないという人が、思い込みであからさまな偏見の暴露をやっている。こういう偏見をなくすのは難しい、もっといえば不可能です。事実に基づかないあらゆる偏見を排除することは、人間の推測・予想の自由を大幅に制限することです。それは現実問題として、様々な不合理を生むことになるでしょう。
派手な格好をしていると、むしろ痴漢の被害に遭いにくいという説があります。それは本当でしょうか。誰か統計データを示してください。……防犯に限らず、人の生活はこうした様々な推測・憶測に基づいて判断されていくのです。そうせざるをえない。事実がわかるまで判断を保留する、という立場を徹底させるのは、事実上不可能です。
こゆさんは、服装と痴漢被害には相関がないという説を書きました。それはそうかもしれない。しかし、思い込みと思い込みの対決では、本来、明快な軍配の上げようがない。せいぜい、どちらの意見に共感する人が多いか、という話にしかならないのです。なので、私はこゆさんの「はっ?」
という反対意見の論者(テレビの討論番組に出てきた評論家らしい)に対する書きようにムッとしたわけです。
なにごとも事実に基づいて議論するのはひとつの理想ですが、現実にはなかなか難しいものがあります。根拠薄弱な推測なしには議論が進みません。で、結局そのことが、事実が埋もれていく原因ではないかと思います。事実は多くの場合、明らかではない。ちょっと探すくらいでは見つからない。そうした経験の積み重ねが、逆に統計データがあるのに参照する人がほとんどいない、常識となるべき事実が多勢に知られないままとなってしまうことへとつながっていきます。
これは根深い問題です。先の一文自体が、私の憶測に過ぎません。既に誰かが統計を取っているかもしれませんが、私はそれを期待せず、そして最初から調べもせずに憶測のまま意見を書きました。でもいちいち過去の文献を調べていくのでは、日常の意見交換に支障をきたすのは目に見えています。
服装と痴漢被害には相関がないという事実がある。ではそれはすぐに常識となるでしょうか。ならない。そうはならない。偏見を偏見だというのはいいことですが、ひとつの統計データがありながら、なぜこれほど知られていないのかということも考えなければいけないと思う。
事実の無力さというか、真実が単に真実だというだけで世の中に受け入れられていくと思ったら大間違いだというテーマは、私にとって馴染みの深いものです。教育技術法則化運動の顛末と教育界の進んできた道を考えるとき、根拠薄弱な口先だけの(しかし共感する人、そうだろうなあと思う人の多い)意見がどれほど強いか、ということについて絶望的な気分にさえさせられるのです。
ナツさんは不可能ではない
という書き方で希望をもたせているけれども、服装と痴漢被害には相関があるという意見が非常識といわれてほとんどの人に顧みられない社会を実現するのは、簡単なことではない。相関なし派がみな統計データを踏まえて意見表明すればかなりのインパクトになるはずですが、ほとんどの相関なし派は統計データの存在を知らないでしょう。探そうとする努力さえしないでしょう。この状態で、どうやって偏見をなくせるというのでしょうか。
私は悲観主義的な人間です。偏見を正すことは重要だとしても、今日明日の問題として考えた場合には、偏見をかわす技術について一考の価値があると思います。偏見による様々な被害は想定されるリスクであり、それとうまくつきあうのは大切なことではないか、と。(というわけで、私はここまで主張を後退させました)
たいていの常識にはそれなりの根拠があるっつうのが間違ってる例は、魔女裁判だの女のヒステリーだの(あ、女の例ばかりや)、他にいくらでも例が挙がりそうな気がします。
私が「それなりの根拠」というのは、納得する人が多い理由を指しています。
魔女狩り裁判だって、なぜある種の人々が魔女と考えられたか、怖れられ、殺されていったかということには一定の説明が可能です。くじ引きで魔女が選ばれたわけではないのです。実際にはただの人であって、人々の恐怖には根拠がなかったといえますが、しかし人々が恐怖を抱いたことには根拠があるのです。
ドアの鍵と泥棒被害の件だってそうです。鍵がかかっていない方が泥棒に入られやすいだろう、という意見に納得する人が多いのは、自分の経験上、そうなんじゃないかな、と推測されるからに過ぎません。本当はどうだか知る人はほとんどいないはずです。私はこうした例について、(薄弱とはいえ)それなりの根拠があるので、納得する人が多いのだろう、といっているわけです。
仮に「社会の見方がこうだから」という理由で肌の露出のある服装が全面禁止になるとしよう。それで被害に遭わなくなればいいのだが、実際には痴漢され続けるだろう。(地味めの女性が狙われるのだという調査結果からいけば、むしろ痴漢される確率が高くなるかもしれないわけだ。なんという理不尽さ!)
よくわからないのだけれど、「おとなしそう」という印象と服装には関係があるというデータはあるのだろうか。ひょっとすると表情や顔立ちの方に強い相関があって、服装はじつはあまり関係ないかもしれませんよね。もしそうであれば、ナツさんの意見は偏見を根拠にしているので、実際にはありえない話を書いているということになりそう。
憶測なしに物事を語らない、という偏見排除の精神はいいのですが、それを徹底させるのは不可能だといっていい。ナツさんは理不尽なのは「世間のおかしな常識」
とおっしゃるのだけれど、その本質論に出口はないと私は思う。なぜなら、そう語るナツさんの言葉がことごとく何らかの根拠薄弱な常識に寄りかかっているからです。でもナツさんは、根拠薄弱であることをいちいち気にしていらっしゃらないのではありませんか? それとも毎回毎回、これは偏見かもしれないと悩んでいらっしゃるのでしょうか? 私にはそうは見えませんが。
ナツさんでさえそうした状況にあるのです。「世間の常識を正す」とお題目に掲げるのはよいとしても、それだけでは今そこにある問題は回避できません。回避しないという選択肢はあります。そして世間の偏見による被害を回避しつつ「世間の常識を正す」運動を頑張ることは可能なわけです。ならば、偏見を批難する一方で偏見による被害を回避することを考えるのはそれほど意味のないことではないでしょう。(そして、偏見による被害を回避するためには、偏見の存在に意識的である必要があるわけです)
リンクしたつもりでいて、じつは忘れていたので。
後一応戸締まり云々の資料として、
- ttp://www.sekisuiheim.com/policy/04/anzn/con1/tema4/tema1.html
- これは一戸建てのデータだけど、34%が無施錠ゆえに泥棒に入られてる。
- ttp://plaza21.mbn.or.jp/~goodlock/bouhan/keiro.html
- これは北海道のデータだけど、半数近くが無施錠ゆえに泥棒に入られてる。
以上のデータを見る限り、無施錠=自分の落ち度ってのは偏見じゃないと思うけど。
私が昨日書いたことは、「鍵をかけない→泥棒に入られやすい」という憶測を統計データの裏づけなしに述べることは、偏見がなくならないことに通じているという話です。結果的に鍵と泥棒の関係は立証されましたが、事実の認識が先にあって意見が作られたわけではないのだから、これは運がよかったという話でしかありません。
事実が先、意見が後、という順番を遵守しなければ、事実に反する思い込みが世の中で一定の支持をえる状態はなくなりません。しかも事実を確認しようがないケースというのもあるわけで、この場合には根拠薄弱な意見しかありえません。このとき当然、事実に反する意見(これを「偏見」と定義しなおしましょうか)を見分ける方法がなくなるわけで、偏見を世の中から排除する方法は「裏づけの取れないことはいうな」という原則論しかないということになります。もちろんそれは非現実的ですよね。
こういう方向性が望ましい、という意見は重要ですよ。それは諦めずにいい続けなくてはいけない。けれども、いい続けていれば現実がそうなるかといえば、決してそうではない。
こうしていろいろと書いているのは、ようするに「なぜ私がナツさんの意見の本筋に興味をもてないのか→それは無理な望みをいっているからだ」という話です。痴漢の話に限定すれば、たしかにナツさんの意見に説得力があります。ただ、こうした偏見はこれまで世の中にいくらでもあって、そしてこれからもなくなりません。痴漢の話は、そう遠くない将来に事実通りの常識が世の中に十分浸透しそうな感じもしますけれども、ナツさんの考えなんか変えなくてもいいから、あんたらが偏見の塊だってことくらいは自覚しろ
という最低限の要望
は、痴漢以外の話についていえば全然達成されそうもないわけです。
でも痴漢の話というのは結局、世の中の潤滑な運営のために必要不可欠となっている「いちいち事実にあたらず基本的に憶測でものをいう」現実から生まれてきているわけで、痴漢の話だけを叩いてみても本質的な解決策にはならない。第2第3の痴漢問題がどんどん顕在化してくることになるでしょう。だいたい、ある意見を偏見だと断じる側が、自説を保証するデータをなかなか示さないわけです。さらにいえば、事実に基づいて話をするというのもどんどん徹底させていこうとすると大変なことになるのです。
「おとなしそう」という印象と服装には関係があるというデータはあるのだろうか、と先に書いたのだけれども、これはひとつの皮肉です。どんな服を着たって立ち居振舞い、話し方、あるいは顔立ちなどから「おとなしさ」がにじみ出てくるような人はいるわけで、単純に服装の話と考えてはいけないかもしれない。それでもナツさんは挑発的な服装を理由に性犯罪の被害に遭うという例は少ないが、おとなしそうだという理由で被害に遭う例は格段に多いという話をひいた上で、地味目の女性=肌の露出の少ない服装の女性とつなげています。件の資料はおとなしい=肌の露出が少ない服装だなんて一言も書いていないのだから、ナツさんの勝手な判断ということになる。
たぶん、ナツさんの判断は正しいでしょう。でも、保証するものがない。ないけれど、みんなが納得する(ような感じがする)からそれでOKみたいなことになっている。多勢が「たぶん正しい」と判断した予想・予測はたいてい正しいのですが、稀に決定的に誤るわけで、それが例えばナツさんのあげた例でいえばいじめ問題における被害生徒側の要因だったりしたわけです。事実にあたらずに判断するのだから、ある程度のハズレは必ず生じてきます。
どれがハズレなのかは調べてみなければわからないわけですが、いちいち事実にあたらないことを前提にこの社会の常識決定のメカニズムができあがっているので、検証がなかなか行われません。あるいは検証が行われたとしても、いじめ問題がそうであったように、それは最終的に不徹底なものとなる(徹底するのは不可能)のであって、その結果、少ない事実を補完するために根拠薄弱な多くの意見が付け加えられてしまう。すると少ない事実はいろいろな解釈が可能だから、結局、謝った結論を導いてしまうことがありうるわけです。
付け加えられる意見は現在の常識に基づいたものとなることが多いでしょうから、結論はたいてい、現在の常識の線に沿ったものとなりやすいでしょう。だから常識が間違っている場合、これを正すのは非常に大変だということになります。
そんなこんなで事実をいちいち確認しないことが常態化しているので、せっかく重大な事実が明らかとなっても、それがなかなか世間に知られていかないわけです。
理想を追うのはよいことだと思うけれども、間違った常識を正すのはたいてい、そう簡単なことではないでしょう。だからまあ、頑張ってくださいね、と。私も自分の興味のある分野ではなにごとか書きます。
メールで、科捜研の内山さんに「性犯罪の研究資料を公開してください」と頼んでみたら、
内山研究官は退職されております。研究成果等に関しましては、「科警研報告」として国立国会図書館で閲覧できますのでご利用ください。
という返事がきました。こうして埋もれていっちゃうわけですね。マスコミに期待するしかないのかな。