調べた所、東京駅構内などで女性警官が対応する痴漢被害相談所が設置されるなど、警察も被害者側にたった対応をし始めてきています。服装で差別といった対応はセカンドレイプの一種であってそういった認識で女性団体や警察は動いています。末端の派出所では行き届かない所もあるでしょうが、そういうケースは女性団体や相談所などにも一報を入れて派出所に適切な対処をするよう求める事も可能でしょう。依然として被害者に対する社会の目は厳しいものですが、それを認識するに留めるばかりでなく、上記のような組織を有効に利用していくことが被害者の負担を減らす、一番よい方法だと思います。
というところで今確認したところ、こゆさんの全ログが消えました。うーん、後味が悪い結果になってしまった……
こういった問題を話し合うのは意味のあることだと思うのですが、なにぶんナイーブな問題でもあるので・・・難しいところですね。
個人的には、電車での痴漢に関しては服装はあまり関係ないのではないかな、と思うのですが(友人等からの話ですから統計データではありませんけれど)。まあ言う人はどんな服装でも何か言うわけで、さらに短めのスカートとかはいてれば余計に何か言われる材料になっちゃうというのも、経験上は事実のように思います。たいよーさんの言われるように、そんな被害にあわれた方は、女性団体や相談所を尋ねるのがいいかもしれませんね。
以下、ちょっと話がそれます。電車の痴漢に限って言えば、逆にジーンズのパンツとかはいてるほうが、痴漢認定がしにくくて辛い、という面もあったりします。たまたま手が当たってるのか、作為的なのか微妙なところがありますから、どうなのよコレ、と思っているだけで反撃できないという辛さが・・・。その点スカートですと、中に手を入れられた時点で作為認定完了、安全ピン発動、とか出来るのですけれど。しかしこれも「・・・?」と思った時点では何も出来ないあたりがまた微妙というか・・・。手を入れられるのを待たなきゃならんのかい、というジレンマ。この話は「こんな服装だから痴漢が発生する?」という話とはあまり関係がありませんけれども、スカートはいてたほうが痴漢認定がしやすいため、発覚もしやすいのかなあ、という事も考えられます。これもあいかわらず統計データは(略)。
まあ、世間様は色んなことを言うわけで。たとえば夜道で女性が前を歩いていて、急に走り出されて嫌な思いをした男性は結構いるかと思います。俺疑われてんのか、みたいな。さぞ気分が悪かろうと思います。でもまあ、女性側からすれば、自己防衛のために走るのはやむなしでしょう、となる訳で。世間がどう言おうとも、自己防衛はしないとならないわけです。その結果、ひどい女だなあ、と言われてみたり、かといって走らないで素直に歩いていて被害にあうと、なんで注意しなかったんだと言われてみたり。いや、ほんと、まともに全部とりあおうとすると大変なことになります。ただ、そういう意見がある、ということを認識するのは有意義なことかと思います。不意打ちでセカンドレイプにあったとき、自己防衛するために。
すいません、長々と横槍を入れてしまいました。
ログが消えましたか。うーん。
> ただ、そういう意見がある、ということを認識するのは有意義なことかと思います。不意打ちでセカンドレイプにあったとき、自己防衛するために。
私もそれだけ書けばよかったのかな、と思わないでもないです。
こんにちは、はじめて書き込ませていただきます痴漢についての御意見についてひと言申しあげたく思い書き込ませていただきます
女性の格好をなおせという論調は明らかにおかしいとわたしも思います何故なら女性で痴漢されることを経験するのは成人した女性であるとはかぎらないからですわたし自身もそうですがわたしの周りの女性には性的な対象になりうる成熟以前に痴漢を経験している人間が多くいます明らかに身体能力の劣る子どもに口止めをして痴漢行為に及ぶ変態は少なからずいます子どもに挑発的な格好をするなも何もないとはおもいませんか?変態は所詮、己の欲望を果たすことのみに忠実であり他者の権利を省みることをしない下劣な人間であるとわたしは断じます被害者の服装でリスクの重い軽いについて言及されるのは問題のすりかえのようにわたしには思えました力のあるものからないものへの一方的な蹂躙をわたしは憎みます
はじめてでありながら感情的になり語気の荒い書き込みになってしまったことをお詫びいたしますお目よごしでございましたしつれいいたします
「被害者の服装でリスクの重い軽いについて…」とおっしゃってますが、徳保さんがおっしゃっている「リスク」とは「痴漢被害に遭うリスク」ではなく、「(チャラい格好をしていた場合に)チャラチャラした格好してるからだよ、と他人に言われるリスク」ですよ。「女性の服装をなおせ」とは徳保さんは言っていないと思いますが、そう読めたとしても「直せば痴漢に遭わなくなる」という意味ではなく「直せば、あんたもチャラい服着てるからだよ、と言われずにすむ」というただそれだけの話です。
また「子どもに口止めをして痴漢行為に及ぶ」のは痴漢というより児童虐待(性的虐待)に当たるもので、徳保さん達が議論しているものとは別の問題ではないでしょうか。
徳保さんの論を読んでどうしても感情的になってしまうのであれば、「痴漢」部分を「スカート内を盗撮」と置き換えてみると、徳保さんのおっしゃる意味がわかるかもしれません。「盗撮」であれば服装で対策が可能ですから。
ももさんがあまりにずれた話をなさっているのでつい口を出してしまいました。失礼しました。
わかりやすい反論は「横レス失礼します」さんがしてくださったので、私はわかりにくい反論をしてみましょうか。
あなたがどう思うか、ということは今回の件にあまり関係ないのです。周囲がどう思うか、世間の多数派の認識がどこにあるのか、それが問題なのです。多数派は、単に多数派であるというだけで強大です。個人的な経験に基づく反論、私はこう思うというだけの反論では、多数派に勝てません。多数派がぐうの音も出ないほどの、圧倒的な論証なしには勝てないのです。例えば、アドレナリンショックで提示された資料には、十分な力があると考えます。これくらいのものを出してこなければならないわけです。相手はただ思ったことを垂れ流しているに過ぎないわけですが、同じレベルで反論してもしょうがないのです。
しょうがないとわかっているなら、勝てない反論をするのも意味があるのではありませんか。それで気分も少しはすっきりするでしょう。しかし「なぜ私の方が正しいのに、あいつは理解しないんだ?」と本気で怒ってしまうのは、むなしいことだと思います。
いつも楽しく拝見しています。さて世間の見方で自分が感じていることを……「中年オヤヂはスケベ」 これには勝てません。
職場のセクハラ談義でも、若い女性社員と風采の上がらない中間管理職という構図になっています。事務員さんと若手営業マンというシチュエーションは、まずありません。経理のオバサンなどは服装を誉められただけで舞い上がっている。私ら同年代の者が誉めると「どこ見てんのよ、スケベ」と言われる始末。理屈は通じません(阿吽(あうん)の呼吸みたいなものはありますけれど)
婦女子は養い難し。昔の人が言った言葉です。とはいえ歳を取ってみると自分が中年オヤヂと言っていた立場になってしまったわけで、少しは理解できるようになりました……もう遅い(笑
>不幸な目にあった人の非
仏教で言う因果応報、または輪廻(りんね)と言われることもありますが、主観世界では日本人の価値観形成の基礎になっているようです。会社のQCサークルでは、かつて「全責任全自己」というスローガンもありました。生産性議論でも末端では「士気」、つまり精神論になりがちです。
リスクを減らすのは工場だけでなく、社会生活でも求められるシーンはあるように思います。そのあたりの危機管理論を期待しています。
>「中年オヤヂはスケベ」 うーん、これは・・・。「これだからオバサンは!」とかもありそうだなあ。年齢って厳しい・・・。理屈が通じないのは確かかもしれません(笑)。
>不幸な目にあった人の非辛い思いをした人に、このあたりを変えてみればいいんじゃないかなあ、というと怒られてしまうことが多いので(経験上。一般的にはどうかなあ。単に私の言い方がへたくそな可能性が)、なかなか難しいのかなと思います。痴漢騒ぎに限ったことではありません。「これが原因」ということと、「これが悪い」ことは別問題なので、そのあたりを意識して話さないと難しいのかなと。
たとえば、いじめられてる子がいるとして、何故いじめられてるのかという原因はどこかにあるわけです。(それは、ただ単にいじめっ子の勘に触るキャラだ、とかそういう理解不能な理不尽なものも含めて)
もちろん、原因があるからいじめてOK!ということはない訳で、原因があることとそれが悪いこととは別問題です。だから、被害者側を責めるのは間違いです。しかし、そこで思考停止してもどうにもならないので、いじめてる側をなんとかして黙らせるとか、原因分析をして、その状況と上手に付き合っていくとかするわけです。黙らせられないのであれば、上手に付き合うしかないのですが、上手に付き合いなよというと世間の悪い常識に屈するべきだというの?という感じになって・・・うーん。付き合い方にも色々あるのになあ、と途方にくれてみたりして。
話が滅茶苦茶になってきましたが、非を探すひとつの原因は、どうしようもないよね、では埒があかないからなのかなあ、とか。自分が同じ目にあったときに、なにか手立てがあるはずだと信じたい・・・のかもしれません。物事には何かしらわかりやすい原因があるんじゃないかと思いたいのかも。危険に対して、なんら手を打てないまま運に任せて生きていくことになるため、そんなのは不安だ、ということ・・・なのかなと思います。もちろん個々の事件にはそれなりのそこに至るまでの要因があるのですが、それは千差万別なので、もっとわかりやすい、共通した原因が欲しいのかなあと。(無茶いうな、という気がしますけど)
3日の備忘録の引用で紹介されているセキスイハイムのページを見てきました。泥棒の侵入方法のグラフにある、無締り34%というのが、鍵をかけないために泥棒に入られた割合でしょう。そうすると、残りの66%は、鍵をかけたにもかかわらず泥棒に入られたわけです。つまり、鍵をかけた場合の方が多く泥棒に入られているということが、データから読み取れます。まあ、これは少し牽強付会が過ぎるかもしれないので、きちんと項目別にデータを確認してみると、ガラス破り55%というのが最も多い泥棒の侵入方法だというのがわかります。そこで、このデータが正しいと仮定した場合に、泥棒の侵入を防ぐ効果的な方法はガラスを破られないようにすることで、そういった対策をしないで泥棒に入られても同情の余地は無いということです。――などということも、言えなくはないですね。
なんというか、たとえ事実をもとにしたとしても、自分の好きなように意見をつくることが出来るわけで。それに、事実にしても、ある程度は操作することが出来るし。特に、統計データは意見に合わせて作ることも可能ですね。
ある事実を説明するために、また別の事実が必要になって……まるで言葉のようなものなんですよね。
セキスイのデータをどう読むかといいますと、まず鍵をかけずに外出する人は30%もいないだろう、と。回数としてはありえますが、外出している時間を基準として考えたら、まずありえないような気がする。もちろん、この意見に保証はありませんよ。でも、そんな風に考える人が多いんじゃないかな。
だから、泥棒の被害にあった家の34%が無施錠だったと聞くと、「なるほど、鍵をかけないと泥棒に入られやすいんだね」と思うわけです。たぶん。仮に無施錠率(外出時間基準)が10%だったとしましょうか。すると、無施錠の場合は施錠した場合に比較して4.6倍も被害に遭いやすい、ということになります。10%とかいうのは適当ですけど、何となくそれっぽい数字だと思いませんか。でもそのあたり、いちいち事実を先に調べるのはアレなんで、結局は少ない事実とたくさんの憶測、というセットになってしまうんですよね。
ガラス破りの件ですが、たしかにそういう話は結構有名です。両親が家を建てたのは数年前ですが、「最近の常識として」1階のガラス窓は全部針金(?)入りで、しかも金属の柵(?)が窓の内側か外側に必ずついています。庭に出るガラス扉は外出時にはシャッターを下ろすことで完全に封鎖するという按配。両親は火事のときに助けてもらえなさそうだからそんなのは嫌だといったのですが、泥棒よけのために今はこれが常識という話だったので、渋々従ったという経緯があったような(突然記憶が曖昧に)。
初めて書き込みさえていただきます。
さて6月9日早朝の「痴漢論議06 それから」でなぜ鍵をかけないのはよくないのか。それは、犯罪を誘発するからだろう。無用心は犯罪を誘う。割れ窓理論にも関連?
というようなことを書かれていましたが、これは割れ窓理論の解釈を間違っていると思いますよ。
です。
高度に市民の防犯意識が発達しているにもかかわらず犯罪が増加し続けていたNYで効果をあげたわけですから、いまさら「防犯意識の向上」なんていう使い古された理論のわけがないじゃないですか。みんなが防犯に努めれば泥棒にならずにすむ人が増えるだろう、という話
を信じつづけていたらいまのNYはなかったでしょうね。
まあ理論が現実に効果を挙げるまでは上記のような「自衛至上主義」を信じてる人が絶対的多数派だったわけですから、損得勘定からいっても「多数派に従ったほうが得だ」とはやっぱり思えないですよね。
最後に、被害者の落ち度を責める、被害者に隙がなければ・・・という考え方、社会(多数派?)の雰囲気の方こそ「割れ窓」ではないでしょうか。
補足です。
厳密には割れ窓=軽い犯罪行為でしたね。で、軽い犯罪行為が「犯罪を「場」が容認している雰囲気」を作り出す・・・と。で無用心を責める行為はむしろこのような「雰囲気」を作りだす効果のほうが高いのでは?というのが私の意見です。
私の母方の実家では、10数年前まで鍵をかけていませんでした。それで何度も何度も泥棒に入られた。それでもたいした被害はないからということで鍵をかけなかった。とうとう鍵をかけるようになったのは、駐在さんが若い人に変わって、この人にひどく叱られたからです。で、鍵をかけるようになってからというもの、泥棒の被害にあっていない。それまではカモにされていたんですね。
何度も書いている通り、被害者の落ち度を責めることと犯罪の正当化は全くの別問題と考えています。どれほど被害者に落ち度があろうとも、それによって犯罪者が減刑されることがあってはならないと考えています。ところがバウさんのように、被害者の落ち度を責めることが犯罪の容認につながると考える方があまりに多い。つまり被害者の落ち度と犯罪の正当化がリンクしている人が多いわけで、私はそこに問題があると思っている。
相変わらず日本人は外国で置き引き被害にあいやすいそうですね。同じ人が何度も同じ手口でやられたり。犯人が悪いのは当然ですが、被害者もちゃんと気をつけるべきです。こうした意見と割れ窓理論は矛盾しません。自衛するのは当然であって、自衛せずに被害にあった人は責められる。しかしその一方で、軽微な犯罪、被害者に落ち度のある犯罪もしっかり取り締まればいい。ちゃんと両立するのです。被害者に落ち度がある→だからこの犯罪者は許そう……そういう考え方をする人がいることが問題なのであって、自衛の不十分な人を責めることには意味があります。
都内には5000店以上のコンビニがありますが、コンビニ強盗はたったの64件しか発生していません(平成14年)。このうち2回以上被害にあったのが5店、3回も被害にあったのが1店あります。警察が繰り返し被害にあった店を調べた結果、防犯対策の不備と、最初の被害の後で改善がなかった事実を明らかにしています。(産経新聞6月11日付30面)
警察が頑張ればそれでいいのかというと、決してそうではないと私は考えます。コンビニ強盗についていえば、平成10年に激増して以降増加の一途をたどってきたものが、警視庁の指導が効を奏して14年には前年の98件から約3割減りました。検挙率は50%から30%へと低下したので、防犯の取り組みが成果をあげたケースといえます。
バウさんのように被害者の落ち度の追及を犯罪の容認とリンクさせて考えるのがおかしいのであって、被害者の落ち度の追求は正しい、それなしに十分な防犯意識の向上はありえないと私は考えています。