私の意見の変遷とか、いろいろまとめてみます。
痴漢には主に電車内と路上というふたつの出現パターンがあります。当初、私は路上型の痴漢には服装が関係するだろうと思っていました。一方、電車型はさして関係いだろうなという気がしてました。で、単に痴漢といってひとくくりにした場合には、「防犯のため挑発的な服装はしない方がいい」といってよいだろうと思っていたわけです。
いろいろな反応からわかったことは、痴漢というとき電車型の方しか連想しない方が多いということでした。また、痴漢被害と服装には関係がないという意見もかなり強いことを知りました。そしてナツさんの提示された科捜研の資料(の概要)から、挑発的な服装はほとんど被害確率に影響しないことが明らかになりました。路上だろうと電車内だろうと関係なくそうなんだ、ということは資料を見て初めて知ったことです。
ところで、おとなしそう、警察に通報しなさそう、といった印象が服装とどれだけ関係するのかはよくわかりません。だから、科捜研の資料(の概要)を見た今でも、「だから肌の露出の多い服装をすると痴漢にあいにくい」という意見には引っかかりがあります。なんだかそういうことではないような気がするのです。(でも私の感覚のほうがずれているのでしょう、たぶん)
ナツさんは最初から、ひとつの事実を知っていました。しかしこゆさんはご存じなかった。それでもこゆさんは服装と置換被害に関係があるというのは偏見だという自説に確信があった。だから評論家の発言に「はっ?」
と侮蔑の言葉を投げかけたわけです。結果的にこゆさんの(根拠薄弱だった)意見は、科捜研のお墨付きを得ました。こうして評論家の不勉強は明らかとなったので、評論家はバカにされても仕方なかったという話になるのかもしれない。
でも科捜研の資料を出したのはナツさんであって、こゆさんではなかったことには注意するべきだと思う。私とこゆさんがやり取りをしていた段階では、こゆさんには偏見が偏見であることを証明する根拠がありませんでした。私もそれは同じです。26日になってから、私はちょっと統計データを探してみました。でもこれだというような資料は見つけられませんでした。
てなわけで、初期の私の意見はこうでした。
「はっ?」といえるだけの根拠は、こゆさんにはない。(評論家の意見にもたいした根拠はないけれど)
……現時点では、こゆさんの意見に科捜研のお墨付きがつき、評論家の意見に納得する人は「ある程度」存在するというくらいでそれほど多くもない、といったことが明らかになったので、話の前提が変わってしまいました。ただ、見当違いなことをいっていた人間がこういうことを書いてもアレですけれども、いくら正しくても根拠を示せなかったら頑迷な論敵をやり込めることはできない、という教訓にはなったと。それでもみんな根拠薄弱なまま議論をするわけなんですが。(というか決定的な事実があったら、むしろ議論にならないと思う)
「ドアに鍵がかかっていない。よって泥棒してよい」といったらヘンでしょう。鍵がかかっていてもいなくても、泥棒は悪いことに決まっています。けれども、鍵をかけていなくて泥棒に入られた人を「無用心だ」というのもまた自然なことではないでしょうか。被害者の非をあげつらうことと、加害者を正当化することとは別問題です。なのに、この辺をごっちゃにしたがる人が多い。
現に痴漢はいるのであって、だったら被害者の傾向を調べて、それを真似しないようにした方がいいに決まっている。調べてもほんとのところがよくわからない場合には、とりあえず世間の主流となっている意見に従っておくのがベター。私が当初書いていたのは、そういう価値観を反映した話です。なぜしつこく、加害者を正当化するなという結論につなげようとする人が現れたのだかわからない。犯罪者が現にいる、というのと同様に、被害者の非を責めることを加害者の正当化としか考えられない人がいるのでしょうか。
服装に気をつけた方がいいという意見が多数派と言い切れるほど多数派ではなかったこと、そもそも服装は被害確率に関係しないことは私の目測の誤りでした。しかし少なくとも、私が加害者の正当化を狙っていたのではないことには、注意してほしいと思う。
なぜ話が通じないのか理解できなかったといえば、掲示板に現れたゆりさんのこれは要するに「男性は衆人監視の電車内であろうがいともた易く理性を蒸発させるような程度のイキモノである」ってことに賛成されるわけですか?
という一文。私の記述は「ムムッと思う人が多いのが露出の多い服装だ、というのは事実です。といってもムムッと思う人のほとんどは痴漢行為なんかしないで、仏頂面を決め込みます。」というもの。ふつうの人は魔がさしたりしない、と書いているつもりなのだけれど、ゆりさんはそう読まない。
「露出の多い服装に魔がさす」ことを肯定されている(信じている)以上、そして「魔がさす」という言葉が「その気もないのについその時だけ何故かふらふらと」という意味である以上、男性が「衆人監視の電車内でいともた易く理性を蒸発させる」可能性があり、そしてそれは誰に起こるか分からない(だって魔が差すんですから)=誰にでも起こりうる(生物学的に?)という意味だと解釈したのですが。
多くの方は、魔がさす可能性があります。しかし、その確率は低いと思います。だからほとんどの方は結局、痴漢などしません。いともた易く理性を蒸発させる
という見方がなぜ生じるのか、私には理解できません。
私は25日の更新で、服装と痴漢被害に本当に相関があるかどうかとは関係なく、現に相関があると思っている人がいると書いています。そして挑発的な服装をしていて痴漢の被害にあった場合に、被害者の非を追及する人がいるのはリスクとして認識するべき、と展開しました。
そこへ提示されたのが科捜研の資料(の概要)でした。話がひと段落したところへいいものが出たと思いましたが、これに添えられたナツさんの意見がよくわからなくて困りました。で、読解力不足のために私は迷走しはじめる。
どう迷走したか、という分析はすぐに飽きたのでバッサリ省略します。迷走中に私が拡散させてしまった話題は、とりあえず全部脇におきます。で、今の考えをまとめるとこうなります。
「痴漢(レイプもそうだが)されるにはされるだけの落ち度があるはずだ」という意識が問題だと思っている。それを「従うべき常識」と言いきって話を終わらせてしまうことにはものすごい危機感を感じる。
いじめもストーカーも満員電車での痴漢被害も運・不運にすぎない。どんなに気をつけていようとも、運が悪ければ被害者になってしまうだけのことだ。
科捜研の資料が常識となると、おとなしそうに見えることが被害者の落ち度とされるようになる。今度は根拠があるわけです。鍵をかけていないと泥棒に入られやすい(スレの方で有志の方がデータを探してくださいました)という話と同様に。科捜研の資料は通説(だと私が思っていた意見)の誤りを指摘しているに過ぎず、どんな対策も意味がないとはいっていません。
偏見がなくなれば、今度は事実に基づいた形で被害者の防犯意識が問われるようになります。ナツさんは挑発的な服装なんて人によって基準が違うとおっしゃるけれども、それこそ程度の問題。だいたいの範囲は決まってくるでしょう。ピッキングとサムターン回しの一般的な対策をしても泥棒に入られることがあるからといって、決してそれらの対策が無効だというわけではありません。同様に、活発そう、すぐに警察に通報しそうに見られるよう努力することは、痴漢対策として有効なのではないかと思います。
しかしながら、「派手な服装」というのは変えるのが簡単だったけれども、「おとなしそうに見える」のを改善(?)するのはなかなか難しいかもしれない。「おとなしそうな服装」だったら簡単なのですが。(注:人によって「おとなしそうな服装」の基準は違うとはいっても、ほぼ一定の範囲内に入るでしょう。レアケースへの対処に見切りをつければ、「おとなしそうな服装」をやめるのは難しい話ではありません)
で、「おとなしそうに見える」ことを改善する現実的かつ有効な手立てが見出せない場合、痴漢被害を防ぐ有効な手段がないということになります。すると社会の関心は、被害にあってからの対処にシフトしていくでしょう。
わたしは徳保さんの5月24日の備忘録にそもそも納得がいかなくて言及した。でもそれだけではなくて、わたしが提示した資料から判断して、跡地の件の時のように何か被害者側の立場に立った、興味深い論理展開を示してくれないかとも勝手に期待してたんだけど。(詐欺事件のようなもので、ハメられた方が間抜けなのは確かだが、警察につかまり世間で指差されるのはまず詐欺師でなくてはならない。というYさんに関しての見解のよーな論法で)
私がいっているのは、警察につかまり世間で指差されるのはまず詐欺師だが、ハメられた方だって間抜けといわれるのはしょうがないという話。痴漢問題については、痴漢の方が悪いってことは誰だって認めているのです。だから、「警察につかまり世間で指差されるのはまず痴漢であるべきだ」なんていちいち確認するまでもない。ナツさんが納得いかなかったのは、被害者側の落ち度とされた挑発的な服装が被害確率に影響しないと知っていたからでしょう。
その指摘は重要です。私も今後、「服装と痴漢被害には相関がある」という意見に出くわしたら、科捜研の資料を提示することにします。ただ、科捜研の資料が「おとなしそうに見える」「警察に通報しなさそうに見える」ことが被害確率増大に直結する事実を指し示していることには注意が必要です。これで防犯のポイントが明快になったわけだから、わざわざ「おとなしそうに見える」ようにしていることは、防犯意識の欠如として責められるかもしれません。(そうはならないかもしれない、という留保は前述の通り)
「被害を回避することを考える」のは、被害者が自主的にそうするならいいけれど、「考えないのは馬鹿」と外野が責めると、いくら目的が正しくても圧力になってしまう。「世間の圧力を回避するため」というお題目で圧力をかけるという皮肉な結果に陥る。こゆさんに対しての徳保さんの意見がまさにそうだったですが。5月31日の雑記にも似たようなこと書いたけど、そこはスルーされてますね。
私は、この圧力は社会に必要だと考えます。泥棒の被害を国は面倒見ません。詐欺の被害もそうです。大怪我をしたってその治療費は自分もちですよね。性犯罪や殺人はどうしたって原状を回復できませんが……。なぜ行政は、被害者を十分に救済しないのか。なぜこの社会は、被害にあったものが一方的に損をする(犯人が捕まってもそれ自体は被害者の利益にはならない)仕組みになっているのか。
私は、「犯人を責めていれば犯罪がなくなるというものではない」からだと考えます。
犯罪者が全部悪いには決まっているのだから、家に鍵をかけていなくたって、間抜けで騙されやすくたって、本来なら問題になんかならないはずです。でも、やっぱりそうしたことを放置すると、警察がどんどん犯人を捕まえてもなかなか犯罪が減らないわけです。仕方なく被害者にならないですむように気をつけましょうという話も必要になります。そして、無用心な被害者が責められることにつながっていく。対策不十分でも同情されてしまう地震災害について、ちゃんと対策している人がいかに少ないか。対策不十分でひどい震災にあった場合には援助しませんという空気があれば、みんなもっと真剣に対策しますよ。被害者に優しい社会は、必然的に被害者の防犯意識を低下させます。
被害にあって、しかも社会に冷たくされたのでは踏んだり蹴ったりです。それでも、こうした社会の圧力なしには防犯意識の高まりは望めないと思います。服装と被害確率は関係ありませんでした。こうした見当違いの圧力は消えていった方がいい(というか存在意義がない)けれども、被害者が防犯の不十分を責められること自体は意味のあることで、これがなくなってしまうのはまずい。被害者への圧力は、必要悪だと思います。
原因が消えれば結果も消えるってわけで、「世間の偏見」の方をどうにかする方法論にこそ関心がある。つまり被害者側をどうにかしてリスクを回避させるという視点ではなくて、「被害者に落ち度がある」という思い込みの激しい人々をどうにかすることによって、つまらないリスクから被害者を解放するべきという視点。理不尽なのは「世間のおかしな常識」であることに変わりはないんだから。
1億2000万人が見るテレビ番組があって、その中で服装と痴漢被害には相関がないという事実を提示すれば、一気におかしな常識は覆ると思います。でも、それは無理でしょう。だから、それぞれの人が自分の周りの人の偏見を少しずつ正していくしかない。けれども、ゆとり教育はダメだという意見だって、膨大な事実の蓄積がありながらなかなか一般的にならなかった。和田秀樹さんなんか昔から一貫してゆとり教育を批判してきたんですが、ずっと(メジャーな場では事実上)無視されてきました。それで20世紀も終わろうとする頃に、西村教授の本が売れていきなりブレイクしましたよね。で、最後は真実が勝つかというと、必ずしもそうじゃない。いまだに受験勉強は意味がないという説が強いけど、あれなんかどうなんですかね。
とはいうものの、服装と痴漢被害については「関係ない」と思う人が既に多いようなので、勝ったも同然といっていいかもしれない。(というか、ひょっとして昔から関係ない派が多数派だったのかな。ちょっとその辺はわからないのだけれども)