痴漢論議06 それから

平成15年6月9日早朝

まずはご紹介。

返事を書くのは追々ということで。以下はメモ。

平成15年6月9日夜・その1

私が当初、路上型の痴漢について服装と被害確率に関連があると信じていたことは、掲示板で書いている通りです。しかし電車型の痴漢については、「世間では関係があるといわれているが私はそれには疑問がある」という立場でした(これもナツさんの資料が出る前に発言している内容です)。しかし私は24日の更新で痴漢を区分して書いていないので、たいよーさんの指摘を受けて言葉足らずに気付いたわけです。もうひとつ、痴漢というと電車型をまず想起する方が多いらしいということも気付きました。そこで25日の更新ではそれなりに配慮した書き方になっていると思う。ただしこの辺りの言葉足らずの補完は意識的ではなく無意識的に行ったものだったので、例の「最初から」発言が飛び出すことになります。私にとっては、あくまでも最初の更新が言葉足らずでニュアンスがうまく伝わっていなかったという思いがあったわけですが、読者にはそんなことはわからないということだったのでした。

で、結局は路上型の痴漢も服装と関係なかったし、服装と関係あるという説は世間の主流派でもなかったようで(いろいろな状況を見ると、今度こそ、そう判断して差し支えないと思う)、私の当初の意見は前提が間違っているので結論もダメ、ということになったわけです。

私の当初の意見がダメだということを示したのはナツさんでした。私はようやく当初の意見の誤りを認めたのだけれども、じゃあナツさんが新たに持ち出した意見にも賛成するかというとそうではないわけで、話はまだ続くのです。そう先は長くないと思いますが。

平成15年6月9日夜・その2

見慣れた論理展開

いわゆる挑発的な服装が、「痴漢の挑発を目的としているわけではない」のは当たり前です。鍵をかけ忘れた扉も、置き去りにされたスーツケースも、犯罪者を挑発するためにそういう状態になっているわけではありません。挑発的な服装が痴漢にアピールしないことは科捜研の資料から明らかになりましたが、無施錠の家は泥棒にアピールするようです。ぽつんと置かれたスーツケースが置き引き犯にアピールすることも確実といってよいでしょう。

無防備であることは、犯罪者から見て挑発的だといえます。「おとなしそうに見える」「通報しなさそうに見える」ことが痴漢にアピールするというのは、被害者の前に姿を現す痴漢という犯罪の特質を考えた場合に、なるほど理に適っています。ふつうに考えたら捕まらない方がおかしい犯罪です。不可能を可能とするには前述のような被害者を選ばねばならないわけですね。

もし可能ならば、「おとなしそうに見える」「通報しなさそうに見える」状態は改善すべきです。可能なのにそれをしないとすれば、無防備だといわれても仕方がありません。ただしここで問題となるのは、果たしてそれは可能なことなのか、でしょう。不可能なのであれば、被害にあってからの対応が重要になってきます。被害にあったら、できる限り犯人を警察へ突き出さねばなりません。捕まって当たり前の痴漢が実際にどんどん捕まることが、新たな痴漢被害を予防することにつながります。

データだけの誤り? ロジックも誤り?

前項で展開したロジックは、私の当初の意見と同じものです。何が犯罪者から見て本当に挑発的なのか、という点を私は見誤ったので、私はこのロジックに事実に反する入力データを与え、間違った回答を導き出しました。

いま、ナツさんは入力データの誤りを指摘するのみならず、ロジックも否定しようとされています。しかし私は今でも、ロジックは正しいと考えています。

「痴漢(レイプもそうだが)されるにはされるだけの落ち度があるはずだ」という意識が問題だと思っている。

争点はここにあります。

私はその意識を問題ではないと考えます。ナツさんは性犯罪における「落ち度」とその他の犯罪における「落ち度」を区別されているけれども、私は賛同しません。同列に論じるべき問題だと考えます。あくまでも「性犯罪は被害者の努力では防ぎようがない」という事実があって、そうだから結果的に、性犯罪では被害者の「落ち度」を責めようとする議論はすべて誤りであるというなら納得できます。しかし最初から性犯罪を特別に扱って、「被害者の落ち度を追及してはならない」というのはどうか。それでは可能な防犯対策までをも「すべきといわせない」ことになるではありませんか。

「夜道を一人で歩かない」「人気のない裏通りはなるべく通らない」「なるべく先頭車両は避ける」などなど、効果は小なりといえども、いつもそうできるというわけではないということばかりではあるけれども、ある程度の防犯は可能なわけです。「先頭車両に乗っていて」痴漢の被害にあった人に、「乗り換えに不便でも今度からもう少し後ろの車両に乗りなさい」と忠告することは何ら間違っていない。わざわざ危険の多いことはしない方がいい。こうした忠告が、被害者の落ち度を調べた結果として生まれてきていることに注意すべきです。

犯人の行動を調べることは、被害者の落ち度を調べること、有効な防犯の手立てを考えることと同義であって、それは性犯罪においてもまったく同様だと考えます。

余談ですが、みんなが防犯に努めれば泥棒にならずにすむ人が増えるだろう、という話は割と有名だと思います。精巧なお札が偽札犯を減らす、というのも半ば常識かと。女が挑発さえしなければ、男は犯罪を犯さずに済んだかもしれない」という視点から被害者の落ち度が責められてきたというのは多くの犯罪に当てはまることだと思いますよ。

平成15年6月9日夜・その3

私は今でもこゆさんには批判的です。

掲示板でたいよーさんへ返したレスで、愚痴にもいいようがあるだろう、ということを私は書いています。根拠不十分なら、もうちょっとおとなしく書けばよかった。こゆさんは自分の常識外の発言をする評論家を侮蔑したわけですが、私は評論家がそんなに変なことをいっているとは思わなかった(しつこいけどまた書く。私は路上型の痴漢被害は服装に関係あると思っていた。だから電車型のほうはあんまり関係なさそうだけれど、痴漢に関する一般論としては服装と痴漢被害には関係があるといっていいだろう、と。このことはナツさんの資料提示前に掲示板で書いています)。それでムッとしたわけです。結果的にこゆさんは多数派に属していて、しかもその常識は正しかったわけですが、こゆさん自身はろくな根拠を持っていませんでした。評論家の方が特殊な意見をいっている、と示すことも、自説が正しいという証拠を出すこともできませんでした。

つまりこゆさんはなんとなくこれが常識だという程度の根拠で人をバカにしていたので、その点を突かれたら困ってしまった。こゆさんがやっていたことはいつも私がやっていることと同じなんですが、私はそういうことをしたらどこかから反撃があるのが当然だと思っています。徳保スレが私に批判的な空気が強くなった頃合いを見計らってサイトの表紙からリンクしたのは、意図するところがあってのことです。で、こゆさんは他のテキストを見ても、反撃を全然予測していないでいいたいことをいっているように見えた。

掲示板でたいよーさんは愚痴なんだから放っておけばいいと書いた。私は全然そう思わない。愚痴に共感するのはOKで、反発するのはNGというのでは釣り合いが取れない。愚痴だといえばどんな暴論でもいいということになってしまう。賛成だけ許すなんてのはふざけている。私がやったのは、いうなれば愚痴に対する愚痴なのです。ただ私は生来理屈っぽい性格だから、愚痴も理屈っぽい。そういうことなんです。私のこゆさん批判には、たいよーさんのいう美学なんてありません。あった方がいいとすら思いません。外道が外道を批判したという構図です、これは。

つまり、(1)痴漢被害に遭う→(2)服装のせいだと偏見で落ち度を責められる→(3)偏見でも多数派なら従え、できないのは愚か者だと徳保さんのような人に責められる。

この最後の(3)の圧力は不必要だろうってこと。防犯意識とは関係ないから。(2)の圧力は、偏見のある人が言うぶんにはどうしようもないとしても、徳保さんにはその偏見がないわけですから(としておきますが)、これ以上多数派だの常識だのを背景にして被害者を追いつめることもないでしょうってことです。偏見のある人にもない人にも責められるなんて、逃げ場がないとはこのことです。

話を戻すと、ここで述べられているナツさんの疑問への回答は防犯意識云々ではなくて、以下のくだりです。

自説に根拠がない場合には、世間の常識に従っておくのがベター。(ただし面従腹背を基本とし、自説を証明する事実の探索を怠らないこと。世間の常識は誤りかもしれない)

ナツさんのように偏見を偏見だと断言する根拠があるなら、全然話は違ってくるのです。こゆさんは「それは偏見だ」と思っても残念ながら証明できなかったので、それなら常識に従ってとりあえず社会の常識に従ってリスクを回避した方が賢いと私はいったのです。あるいは反常識でもいいけれど、それなら冷たい言葉が投げかけられるのは覚悟すべきだといったわけです。ただ今回は、しつこいようですがこゆさんの感覚の方が実は多数派でした。だから同じ証明できないなら私の方が分が悪い。黙っていればよかったのは私の方だったわけです。

私は「常識だから従え」という倫理の話をしているんじゃなくて、「常識に従った方が得だ」という損得の話をしていました。あえて損なことをしてもいいけれど、自分でその道を選んでおきながら予想通り損をして怒るのはバカっぽいということをいったのです。

6月9日夜・その4

たまたま身近にいる数人の意見を聞いただけで「みんなこういっている」という人は少なくない。しかしこれは馬鹿げている。私がももさんの意見を切り捨てたのは、私が掲示板で数人ばかりの意見を拾って傾向を分析することには意味がないという判断からです。徳保スレくらいに数百もの意見が出れば傾向もある程度見えてきますが。(ところで匿名掲示板のいいところのひとつは、納得したら気軽に宗旨替えできることです。だから意見の優勢と劣勢の差が増幅されて多数派を明確にしやすい……ほんとかな)

私にとって関心の大きな話題を先に扱ったら最後が全然締まらなくなってしまったのだけれど、今回の更新はこれでおしまいです。

平成15年6月13日

満員電車の痴漢事情の中でも露出の多い服装が痴漢被害に関係ありそうだという説が出ていた。いろいろな要因のひとつとして。筆者は女性の方。服装は関係ないというのが常識だとしても、少数派の偏見を絶滅させるのは難しい。多数派が明確な事実を根拠としているわけではないのだから、仕方がない。結果として正しかったわけだけれども、明確な事実を根拠として提示できる人は多くないだろう。日韓W杯サッカーで日本は決勝トーナメントへ進出した、といった常識とはそこが違う。

結局、自分の意見が多数派であれ少数派であれ、反対意見を覆そうと思ったら何らかの明確な事実を出すのが一番いい。まあ、事実をいくつ積み上げても証明にならないタイプの議論もあるわけだけれども。

平成15年6月13日

しかしなんで男女で車両を分けるのが難しいんだろう。家族連れなどのためにどちらも乗れる車両もいくらか用意すればそれでいいような……あ、やっぱりあれかな、男女が乗る車両で(とくに女性が)痴漢にあったときに世間の目が厳しそうだから、かな。

警察が把握している痴漢犯罪の発生件数は年間約1万件だけれども、女性の半数が痴漢被害の経験があるという調査結果から考えると過去50年で3000万件くらいは痴漢事件が発生したはずであって、すると単純計算で年間60万件。59万件はどこへいってしまっているのか。いくらなんでも泣き寝入りしすぎだと思う。ところでこれだけ被害者がいるということは、犯人も相当頑張っているということになる。男性の1%が痴漢だとして、彼は生涯に50回痴漢をやるわけだ。50回……何となくそれらしい数字のような気がしてきた。数字のマジック。

平成15年6月13日

こゆさんのもともとの発言が再び公開されたのでご紹介。ナツさんの反論に対する再反論は長くなるので明日に回します。

平成15年6月15日

日本の女性の半数が痴漢被害の経験があるそうだから、勘違いではなくて現実に日本は痴漢大国なのではないか。数十年の間に3000万件以上もの痴漢犯罪があった……となると、道路交通法違反に次いで多い犯罪かもしれない。警察が把握している件数ではなく、実際の発生件数としては。

それはともかくとして、東苑路さんのおっしゃることは私にはよくわからなかった。ログページから表紙へ戻ると管理人が神子上さんに変わってしまうのも、よくわからない。

平成15年6月15日

痴漢論議07 再反論の要約。

私がナツさんの意見で納得したのは、「それは落ち度ではない」という指摘だった。なるほど、資料を見るとそうだった。だから納得した。落ち度でないことを責めても意味がない。

私が賛同しないのは、「(性犯罪は特殊なので)被害者の落ち度を責めるな」という主張だ。これは納得できない。特殊だったのは落ち度の責め方が間違っていたことであって、正しいやり方をすれば(他の犯罪と同様に)落ち度の追及は重要なのである。被害者は少しでも被害確率が下がるように努力した方がいい。痴漢が悪いに決まっているといって何も対策しなくてよいはずがない。もしその意見が通るなら、家の扉に鍵をかけなくたっていいということになる。しかしそれはダメだ。犯罪者を増やすことになるからだ。防犯対策をしないのは悪いことだ。みな、できる限りのことをするべきなのだ。それをサボったら責められて当然なのだ。

ただし被害者にどれほど落ち度があっても犯人は捕まえられ厳罰に処せられなければならない。犯罪を正当化したり許したりするべきではない。

要約おわり。

平成15年6月15日

セカンドレイプ問題について。

痴漢被害者に対して、取り調べの最後に「今度からは性犯罪から身を守る 痴漢対策に書いてあることをよく読んで、なるべく被害にあわないように注意してくださいね。今回みたいに混んだ電車の先頭車両、それもドア付近に立つのはなるべく避けてください。お願いしますよ」といった説教をされるだけでもセカンドレイプだというのだろうか? 私が被害者の落ち度を責める、というのはこういうことをさしていっているわけだが。

で、こうした忠告を無視して何度も先頭車両のドア付近で痴漢被害にあうとすれば、バカな話だとしかいいようがない。忠告通りにしても痴漢被害にあう可能性はある。十分にある。しかし、だからといって忠告を無視するのは愚かである。確率の問題、ということがわかっていないといわざるをえない。気をつけていれば3回が1回ですんだかもしれないのだ。……で、こういうことをいうとセカンドレイプになるのだろうか?

そうだ、ということであれば、私は被害者ももう少し精神的に強くなったらどうか、といいたい。

平成15年6月15日

できる対策をせずに(犯罪であれ自然災害であれ)被害にあった人は、当然、その怠慢を責められるべきだ。どんなに対策しても被害にあうときはあうのだから、などといって適当な対策しかしない人は反省した方がいい。ところがこういう人は放っておいても反省しないから、社会が圧力をかけなきゃいけない。

これは犯罪を厳しく取り締まること、行政がしっかり自然災害の被害者を救済することと何ら矛盾しない。被害者にどれほど落ち度があっても犯人は捕まえられ厳罰に処せられるべきであり、災害への供えが全然なかった人にも平等に支援物資は与えられなければならない。しかし、防犯・防災意識の薄弱は批判されなければならない。ちゃんと防犯・防災の準備をしてきて、それでも被害にあってしまった人とまったく同じ扱いであっていいはずがない。

地震への備えなんて、いくら頑張ってしてみてもひどい場合には一瞬で家が壊れてしまう。最悪の事態では備えも虚しい。だが、地震にもいろいろあるわけだ。家は大丈夫だったが余震に備えて一時的に避難することもあるだろう。可能性としては倒壊よりも一時避難の方が確率が高い。このとき、乾パンなどの緊急食や水の備えがある人は皆の助けとなれる。行政の用意した倉庫が倒壊してしまったら、しばらくは個人の備えだけが頼りになるのだ。

何の備えもなかった人は恵んでもらうばかりだ。このとき、お互い被害者仲間ではあるが「ちゃんと備えておかなきゃダメだよ」と叱られるのは当然ではないか。叱られた人は、備えがなかったことをちゃんと反省しなければならない。ところが阪神大震災の教訓は、それでも地震に備えない人がいるということだった。こういう人には怒っていいのである。むしろ怒らねばならない、と私は思う。

再反論にも取り上げたが、都内にコンビには5000以上あるが、強盗事件は1年でわずか64件。ところが5つの店舗が2回以上強盗に入られた。1回目の教訓を活かさなかったのである。また1回ですんだ店舗も、事前の防犯講習を活かしていなかったケースが多い。こういうコンビニは責められなければならない。被害にあって可哀想でしたね、というだけではいけない。「防犯をしっかりやってくれなくては困りますよ」といわなければならない。

やることをやらずに被害にあうのは愚かなことだと、はっきりいった方がいい。防犯は市民の義務であって、これをサボる人は無責任といわれても仕方ない。もちろん、程度の問題というものがある。それぞれの人に可能な範囲でやればいいのだが、可能な範囲を狭く狭く取ろうとする人が多すぎるように思う。いくらか勉強したくらいで「どうせボクは勉強してもいい成績なんて取れないんだ、やっても無駄だ」という駄々っ子のようなことをいうのはやめてほしい。もう少し努力してはどうか、といいたいのである。

警察の捜査能力を強化する、防災体制を整備する、それと平行して防犯・防災意識の向上を目指さなければならない。ちゃんと意識を向上させない人は批判されなければならない。犯罪は現に起きる。災害も起きる。社会的に元を断つ努力がまず重要なのは当たり前だが、その段階の方策に限界がある現状では、どうしても市民の防犯・防災活動が必要なのだ。やるだけのことをやらないで、被害にあって文句だけいう人は無責任だ。

被害者を責めるな、ということをいっている人は、無責任を黙認するわけだ。私はそれではいけないと思う。わざわざ被害にあいやすいことをするべきではない。防犯の話は不特定多数に向けて語るだけでいいのか? そうではないだろう。ちゃんとやっている人を賞賛し、そうでない人を批判するということでなければ、とてもじゃないが高度の水準を維持することは不可能なのである。批判は不特定多数に向けてやればいい、という方は社会主義の失敗から何を学んだのか。みんな自分では被害にあうようなことはしていないと思っているのだろうから、そんなことではダメなのだ。

というわけで、被害者の落ち度は責められなければならない。そうでなくては防犯意識は向上しない。

平成15年6月15日

簡単に申し上げますと、批判的に紹介した文章には全部ムッとしたということです。それから最初の日記については、むしろ触れたくない(話題として手に余る)ので、以降、避け続けているわけです。

ご本人からコメントをいただきました。ありがとうございます。無理矢理痴漢問題に言及したわけではなく、ムッとしたから批判したとのことです。以後その説明が変遷したとしても、該当する文章への不快感は一貫していると受け止めました。しかし、発端に関連して繰り返し出てくる日記の更新について「むしろ触れたくない(話題として手に余る)」とコメントされたのは意外でした。余計なお世話かもしれませんが、読んだ人は誰でもツッコミたくなるのではないでしょうか。それなら、最初から触れるなよと小一時間問い詰めたいとか。

つまりですね、書いて公開してしまってから「しまった」と思ったわけでありまして……。

痴漢問題の方がなぜか話題になって、これにはホッとしました。メンタル系サイトの話題の方が盛り上がったら「適当なことを書いてすみません」とかいって逃げるつもりでいたので。結果的には、メンタル系サイトの話題の方が注目された方がよかったかもなあ、と思います。持論であるリスク問題に絡んでいる痴漢論議が盛り上がってしまったのは、今にして思えばつまらないことでした。

サイト閉鎖の話題で盛り上がったときもそうでしたが、今回の痴漢の話題で盛り上がってもアクセス数は全然変化ないです。つまり、いつものお客さんが騒いでいるんです。2回続けて意想外のところで盛り上がって、何なんだろうなあと思います。私と興味のポイントがずれている人が、何でこんなにたくさんうちの読者にいるんだろう、と。言語感覚にしろ価値観にしろ、私と違う人間が多すぎる。うちなんか見て怒っていないで、趣味のあうサイトを見にいきゃいいだろうに、と思わないでもないのですが、まあセンスの違う人間を見るのも面白いというのはわかりますからね。

それにしてもくたびれ損ですね。サイト閉鎖の話題の際にも、これからは反応なんか無視して自分の興味のあることだけ書こうとか思ったわけですが、やっぱりついつい読者につきあってしまうんですね。新しい話題を書けという方もいらしたわけですが、でも痴漢の話題に反応した方がスレも進みますしね。反応の大きい話題を優先させたいんですよね。痴漢の話題だけ見にきてる客が多いってならどうでもいい感じもしますが、相手は常連さんたちなんで。

でもまあ期待に応えて持論を展開したわけですが、終わってしまえばくたびれ損。いつものことながら、やれやれ。沈黙は金といいますが、私は喋りたがり。しょうがないですね。

平成15年6月20日

帰納法の問題は、私にとって近しいと思われる事例が、他人から見るとそうでもないという点にある。というか、事実は何も倫理を生み出さないというのは論理学の基本であって、そもそも帰納法で倫理的説得を行うには相手と価値観が近くなければいけない。

ただ帰納的説得を試みる人の文章は、脇から眺めると面白いんじゃないかと思う。その人が何と何を似た問題として考えているか、ということがよくわかるわけで。ナツさんは細かくあれこれを腑分けしていくのが好きなようですが、私は逆にあれもこれも統一的な理屈で説明しようとする。ナカムラ・柊批判の1月31日付は私の帰納的思考を最もよく示している一文。読む人次第では、よくもまあこう無関係のものを牽強付会に結びつけるものだ、ということになるのだろうけれども、私は大まじめに書いているわけです。本当に近しい問題だと思っているから、並べて書くのです。