痴漢論議07 再反論

平成15年6月15日

「ヘンだよーオカシイよー丸め込まれてるよう」と感じるのは私も同じです。「わかった、なるほど」と腑に落ちないので、話が終わらないのです。

話はすりかわっているか?

もし可能ならば、「おとなしそうに見える」「通報しなさそうに見える」状態は改善すべきです。可能なのにそれをしないとすれば、無防備だといわれても仕方がありません。ただしここで問題となるのは、果たしてそれは可能なことなのか、でしょう。不可能なのであれば、被害にあってからの対応が重要になってきます。被害にあったら、できる限り犯人を警察へ突き出さねばなりません。捕まって当たり前の痴漢が実際にどんどん捕まることが、新たな痴漢被害を予防することにつながります。

後半から話がすり替わっていますね。「被害者の落ち度の追求」とは、前もって自己防衛すべきことをしなかった、お前のここが悪いから痴漢されたのだ、と言って責めることであり、被害にあった後の話は別問題です。

「被害者の落ち度を責めることに意味があるか否か」を話しているのに、「被害者が何も悪くない場合でも痴漢を捕まえなければ事後の落ち度はある」という話にまで発展していくと、論点がさらにずれます。どうやったら被害を防げるかではなく、落ち度を追求すべきか否かが現在の争点ではないでしょうか。

話はすりかわっていない。ナツさんは話のすりかえということをよくおっしゃるけれども、それは価値観の違いから生じる認識のずれに過ぎません。私にとっては密接に関連している話題だから説明に持ち出しているのに、ナツさんにはそれが遠い話題のように思われるから「違う話をはじめたな」と感じるのでしょう。

世の中から少しでも犯罪を減らすにはどうしたらいいか。まず、悪い人間を育てないことです。そして、不幸にも悪いことをするようになった人間を捕まえることです。最後に、各人が自分が被害者となることがないよう、できる限りの対策をすることです。悪党を責めるばかりで、自分の無防備を正当化するのはどうかと思います。

被害者の落ち度を責めることに意味があるか否かは防犯という枠組みの中で語るべき問題です。

ナツさんは痴漢は自己防衛が困難な犯罪であることを示しました。対策の簡単な「挑発的な服装」は痴漢被害と関連がなく、「おとなしそうに見える」「通報しなさそうに見える」ことの改善はもし可能ならば有効な対策となりますが、実際問題としてそれは困難です。仕方ないので、起きてしまった犯罪に対処する段階を重視せざるをえない。これは私にとっては本来の枠組みに従った自然な意見の展開であって、話を限定していこうとするのはナツさんの物の見方です。

なぜ話が終わらないのか?

それはともかく。徳保さんが最も固執しているロジックは、なによりも「リスク回避論」ですよね。

リスク回避などという視点より他に問題とすべきことがある、とわたしが主張しても、徳保さんは常に多数派の圧力によるリスクの有無だけに論旨を絞ってきた。(論点を逸らされて苦しみましたが) だから当然、
(1)痴漢被害確率と女性の服装には関連がある
(2)(1)を理由に、被害者の落ち度を責める者が社会の多数派=常識である
この二つの前提どちらも崩れた今となっては、多数派の偏見によるリスクは雲散霧消しますから、ここで話は終わるだろうと思っていました。

ここはカチンときた。なぜ話が終わらないのか? 私の当初の意見を否定するだけなら話は決着しています。痴漢被害に服装は関係ないという事実は資料から明らかだったし、関係あると思っている人が決して多くないこともわかった。それは十分、納得しました。けれどもナツさんがリスク回避などという視点より他に問題とすべきことがあるという新しいテーマを持ち込んだから、話が終わらないのです。

ただ念のため付記すれば、「ナツさんのように決定的な根拠を示す」ことができない多くの方は、偏見(ここでは「事実に反する意見」の意味)が偏見であると示すことは困難です。したがって実際には少数派の偏見によるリスクが残存します。「偏見=思い込みに基づく根拠薄弱な意見」とすればお互い様になります。「偏見=非常識な意見」とすれば偏見を偏見と示すことは根拠薄弱なままでも可能ですが。

「痴漢(レイプもそうだが)されるにはされるだけの落ち度があるはずだ」という意識が問題だと思っている。

争点はここにあります。しかしこれはナツさんが持ち出したテーマです。だからこれが本筋だとか、私が関心を示さないことを話をそらしたとかいわれたのは不愉快。自分が新しいテーマを持ち出して相手を引きずり込むのはOKなのに、こちらが用意した話の枠組みに添って話を展開させると話のすりかえといわれてしまうのでは不公平です。

私はナツさんの提示されたテーマに興味が持てず、当初は対応しないつもりでした。だからナツさんの意見のうち、自分が興味を持った部分についてだけいろいろ感想を書いたわけです。いつもの更新のように。(他サイトの記事を紹介し感想を述べるのは備忘録の基本的なスタイルのひとつです)

防犯は市民の責任である

それなのに、今度は「被害者への圧力は、必要悪だと思います」「被害者に優しい社会は、必然的に被害者の防犯意識を低下させます」という論理で落ち度追求を肯定している。それともこれもやはり「リスク回避論」の一環なのでしょうか。

(※「被害者への圧力が必要悪」か否かについては前回のまとめ2で述べました。圧力なしでは防犯意識を持てないほど被害者は馬鹿ではないと。被害にあっただけで充分、意識向上につながります。)

ナツさんのおっしゃることが正しいならば、一度でも痴漢の被害にあった方はみなバッチリ防犯努力をしていて、たとえば電車の先頭車両には絶対に乗らないのでしょうね? 先頭車両に乗らねばならない理由なんてふつうはありえない。けれども先頭車両にも女性の姿はよく見かけますね。あの女性たちは被害にあった経験がないのでしょうか? 「本当は望んでいたのだろう」なんて電波なことをいいたいのではない。できる対策をしていないのはどういうわけか、といっている。

どれほど被害者に落ち度があっても、犯行は正当化されない。先頭車両に乗っている人が痴漢を望んでいるはずがない。鍵を開けっ放しの人が泥棒を望んでいるはずがない。犯罪は悪事です。やっていいことではない。(これは私の無断転載だって同じです)

けれども、被害者の防犯意識の不十分は犯罪を誘発します。荷物から目を離せば置き引きされる、鍵をかけていなければ泥棒に入られる……。犯罪者が全部悪いというのはけっこうですが、現に犯罪者がいる以上、防犯に無頓着なのは愚かです。相当しっかり防犯していても被害にあうことはあります。しかし、だからといってあらゆる対策を無意味と考えるのは短絡的です。一定のラインを超えれば被害にあわない、という話ではなく、確率の問題として考えるべきだからです。

東京都には5600店以上ものコンビニがあるのですが、平成14年度のコンビニ強盗は64件に過ぎません。そのうち2回以上被害にあったのが5店、うち1店は3回もやられました。強盗に狙われているのは防犯意識の薄い店であり、しかも警察の防犯講習で聞いた内容を無視して何らの改善策も取っていないケースもある。(産経新聞6月11日付30面)

被害者の無用心が犯罪を誘発しているのです。被害者が犯罪を望んでいないことは明らかですが、ならば防犯をきちっとやるべきです。防犯意識の薄さが犯罪を増やし、犯罪の増加がすなわち治安の悪化を招くのです。犯罪者をちゃんと捕まえるのは当然ですが、被害にあわないよう努力することも必要であって、それをやっていない人は責められてしかるべきです。

「被害にあったら、できる限り犯人を警察へ突き出さねばなりません。捕まって当たり前の痴漢が実際にどんどん捕まることが、新たな痴漢被害を予防することにつながります。」

これが真なりとすれば、被害者がどんどん犯人を捕まえて警察に突き出しやすいような体制を整えねばならない。警察に駆け込むたびに落ち度を細かく調べられいちいち責められるとして、果たして被害者が積極的に訴えようと思うだろうか。これは前回にも書きました。

女性の方が男性より落ち度を責められることが多いか、あるいは責められることを恐れて、訴えることをあきらめる傾向にあるとのことですが、前者はわからないので保留するとして、もし後者が真ならば、責められることを恐れる価値観を正した方がよいのではありませんか。どれほど落ち度があろうと犯人が100%悪い。しかし防犯の不十分がもしあるとすれば、その点は責められてしかるべきであると考えなければならない。今後は気をつけるようにしなければならない。落ち度の追及は犯罪の正当化ではないと、はっきり認識すべきなのです。

そこがごっちゃになっているから、防犯努力という市民の責任が犯罪の糾弾にすりかわってしまうのです。犯人が悪いのは当たり前です。被害者の落ち度を理由に犯人を許すことは、絶対にしてはならない。しかし、犯罪を糾弾していれば防犯の不十分が許されるというものではない。犯罪がなければ防犯なんていらない、というのはあまりに理想論に過ぎる。現に犯罪者はいるのだから、防犯に努めて少しでも犯罪を減らすよう努力しなければなりません。それが安全な社会を構成するために市民に科せられた責任であり、それを怠って被害にあった者が防犯の不十分を責められるのは必要悪です。

やってはならないことは落ち度の追及そのものなのか?

被害者がセカンドレイプを恐れて訴えなくなり、犯罪者が野放しになる社会的リスク、泣き寝入りせざるを得ない被害者個人の心理的・物理的リスク。それと天秤にかけても、「被害者への圧力は必要悪」と言い切れるのだろうか。

自分が防犯の責任を十分果たさなかったことを追及されたくないからといって被害届を出さないのは、じつに無責任な態度です。それが一番世の中のためにならない。ナツさんは弱い人間を肯定されるようですが、私はこの弱さを克服するべきだといいたい。

もちろん落ち度の追及については、いくつかのルールが守られなければならないでしょう。

「本当は望んでいたのだろう」なんてバカなことをいってはいけないのは当然です。落ち度の追及なら何でもアリといいたいのではありません。

いちおう、明確な根拠がない防犯対策についても、常識とされているものならば従っておく方がよいでしょう。明確な根拠から反論できるならば話は別です。しかしそうでなければ、生活の知恵はバカにしない方がよいのです。それを無視して被害にあった場合に「だからいったのに」といわれるのは当然のリスクです。根拠がないという確信があるのなら、面従腹背で密かに調査を進めるべきです。目先のリスクを回避しつつ、恒久的な障害の突破を目指すことは可能です。

「忠告」や「被害にあった要因の調査」と、「落ち度を責める」こととは別です。落ち度を責めるということは、「お前がこんな事さえしなければ、まず被害になど遭わなかったのに。自業自得だ」という視点から被害者を断罪することです。ずっと、その意味でわたしは論じてきました。

私はそれが別の事象だとは考えません。忠告を無視して被害にあうのは、よくないことです。みなが犯罪を減らそうとして努力しているのに、その努力を怠って被害にあうのは責められるべきことです。勉強不足は行政の広報不足でもあるので一概に責められませんが、しかし誉められた話ではありません。忠告を聞かない、防犯の勉強をしない場合に、落ち度として責められるということです。

たとえば、「被害にあった要因の調査」をして要因が判明したとしても、それはたぶん要因のひとつだろうということがわかるだけで、これだけが唯一絶対の原因だと判明するわけでもない。被害者側の複数の要因、加害者側の複数の要因が複雑に絡み合って犯罪が起こるからです。

それなのに、「この落ち度のせいでそんな目にあったのだ」と決めつけて被害者を責めるのは馬鹿げている。ファクターはあくまでファクターでしかなく、唯一絶対の原因でもなければ責められるべき落ち度でもありません。

私は防犯は確率の問題だと考えます。これをすれば絶対に被害にあわない、というものではない。しかし防犯には意味があります。やればそれなりに被害確率が下がるのです。唯一絶対の原因ではないからといって、その要因を排除する努力を怠ってよいというものではない。

「挑発」を字面どおりにしか解釈しなければそうかもしれません。しかし挑発の意味が違う。

それは違う意味で挑発という言葉を捉える落ち度の追及者が間違っているというだけの話であって、防犯対策の不備を責めること自体の罪ではない。被害者に対して適切な防犯指導(「先頭車両は危険だからなるべく他の車両を使うようにしなさい」「ドアの近くは危険だから車両の中ほどまで進むようにしなさい」etc.)を行えばいいのであって、今回あなたが被害にあった情況が、どれほど危険なものだったか、避ける努力をすべきものだったかを説明する(それがつまり落ち度の追及である)こと自体を否定するのは話が飛躍している。

端的にいえば、「落ち度の追及の仕方が悪い」という話を、「落ち度の追及が悪い」という話にしないでほしいのです。仕方を改善すれば、落ち度の追及自体は有意義なのですから。

いくらなんでもあんまりなのか?

前回の「こゆさんとのやりとり」を読んだ限りでは、こゆさんに根拠がなかったことだけが問題のようにしか読めませんでしたが、程度や表現方法の問題だったんでしょうか。

当然です。私が「根拠なしに発言することは避けられない」と主張していることにご留意ください。

元のこゆさんのログが参照できない状態のまま、反論の機会も封じられて一方的に彼女がくさされることはフェアじゃないとわたしは感じました。

反論の機会は封じられたのではなく、こゆさんが自ら封じたのです。ログを消したのもこゆさんです。ナツさんの書き方はフェアじゃない。

今、読み返してみても、わたしには特にひどい文章だとは思えないし、彼女は実際に痴漢の被害にあってむかついているわけだから、このぐらいは書くだろう、という感じ。痴漢犯罪に苦しんでいる女性の共感は得たでしょうね。

ナツさんがおっしゃる通り、ナツさんと私とでは嫌いなタイプの発言が異なるということ。

こゆさんには確信があったのでしょうが、根拠不足のまま発言しているにもかかわらず、評論家(の意見)をバカにしているのは明らか。私は評論家の意見はありうると思っていたので、ムッとしたわけです。私が怒ったのは書き方が原因ですが、私はそのこと自体は批判していません。人を怒らせるような書き方をするのも自由だと私は考えるからです。むかつきを隠さずに書く人には、私も苛立ちを隠さずに反論する、それだけです。

もし感情的な批判を避けたいなら、自分もそうなさったらよいのです。共感する人が多ければ根拠不足でも人を見下した書き方をしていいが、さもなくば禁止だというのはアンフェアです。現実問題はともかく、理屈としてはそうでしょう。私の書きようがひどいといったのはギャラリーであってこゆさんではないから、ひょっとするとこゆさんは発言とリスクの関係を承知されていたかもしれません。

くりかえしますが、人を怒らせるような書き方をするのも自由だと私は考えます。ただしその自由はリスクとセットだ、といっているのです。