痴漢論議08 平行線

平成15年6月20日

平行というよりも、ねじれといった方が適切だけれども、中学数学の話はもう忘れている方が多いかもしれないから、いちおう平行線という慣用句(?)を使うことにします。

話が終わらないわけ

話が終わらない最大の原因は、徳保さんが「根拠さえあれば、痴漢被害者の落ち度を責めてもいい」と考えているためである。

話が終わらない最大の原因は、ナツさんが「痴漢被害者の落ち度は責めてはいけない」と考えているためである……。

問題提起したのはナツさんです。私が考えを変えないから話が終わらない、というのはいかがなものか。ナツさんの持ち出したいくつかの価値観、前提を受け入れれば、なるほどナツさんの意見は頷けます。しかし私はその前提の一部に懐疑的で、前提を解釈する価値観も異なりますから、結論が異なるのは不思議ではありません。

「忠告」と「落ち度の追求」

忠告(まだ起きていないことに関するアドバイス)と、落ち度を責めること(起きてしまったことに関しての被害者の断罪)とは別の事柄なのである。

「同じ」という言い方が不満なら、「忠告は非難へと連続的に変化する」と説明すればご理解いただけるかもしれません。同意はできなくとも、「そういう考え方もありうる」と理解できるだろう、ということ。念のため付記すれば、「非難」は「誹謗・中傷」と同義ではありません。ここでは「批判」に近い意味として扱います。

忠告通りにしても、不幸を確実に防ぐことはできません。気休め程度の役にしか立たない忠告も多いでしょう。しかし、「こうした方がいい」という忠告を無視して不幸になったとき、(忠告者とその賛同者の)同情をえにくいのは当たり前です。当たり前でないとしたら、私はそんな世の中の方がおかしいと思う。やるだけのことをやって、それでも不幸になった人と、努力を怠って不幸になった人が同じ扱いを受けるのでは、割に合わない。(だから被害者を一律に同情的に扱うべきという意見は共産主義を連想させる)

防犯対策は被害確率を下げるものなのだから、「忠告通りにしたけれども被害にあったという反例」が存在するのは当然です。「反例があるから」といって「その忠告は誤り」というのは短絡的です。無施錠で泥棒に入られたケースが3割前後に過ぎないからといって、「だから鍵なんかかけても意味がない」という結論に飛びつくようなものです。

忠告者が優位

被害者、忠告者ともに根拠薄弱な場合、私は忠告者が優位にあると考えます。世の中たいていの忠告には、さしたる根拠がありません。しかし、聞く側にも忠告を否定するさしたる根拠がないことがほとんどでしょう。誤りの証明抜きに忠告を聞かない場合、冷たくされるのは当然のリスクです。忠告の内容が本当に正しいかどうかは、ここでは問題ではありません。忠告の誤りが証明できないこと、にもかかわらず被害者がそれを無碍にすることが問題なのです。

今になって気付いたのですが、冷たくされるのは再び被害にあったときだけではありませんね。忠告者は自分の意見がさしたる根拠もなく却下されれば、その時点でもう不機嫌になります。そして忠告者が多数派か少数派か、ということも関係ありません(これも後で気付いた)。あんまり関係ない話ですが、複数の人に意見を聞くと、しばしば相反する忠告がなされます。どれかを選ぶ必要がありますから、誰からも冷たくされない方法はないということになりますね。どれかひとつの忠告に明確な根拠があり、他の忠告を論破できるならよいのですが。

決定打

不確定であればこそ、痴漢の防犯キャンペーンでも「比較的危険」「比較的安全」としか言えないのであり、決定打とはなり得ない。

中略

示せもしないのに、「あるはずだから自己防衛しないのは無責任なので責められるべき」と断罪するのは、ありえない解決法による攻撃である。

決定打でなければ努力に値しませんか。私はありえない解決法による攻撃をしているのではなく、精一杯のことをやろうよといっているのです。決定打ではないからといって、できる努力をしないのは無責任だといっているのです。

先頭車両の件ですが、ケースバイケースでいいのではありませんか。私はこう考えて先頭車両に乗りました、という説明に説得力があれば相手は納得するでしょう。あるいは「この路線のこの区間では実際には何両目が危ない」ということを教えてくれるかもしれない。先頭車両はダメというのは一般的な話であって、個別の事情に合わせて説得力ある選択肢があるならそれを選べばいい。けれども、「結局どの車両に乗っても痴漢の被害にあうことはあるのだから考えても仕方ない」とはいってほしくない。

基本的には、迷ったら警視庁の提言にしたがうのが無難でしょう。「なんとなく」「ま、いいじゃん」で先頭車両に乗るべきではありません。

当然

「(責められるのは)当然のリスクです。」というのは徳保さんにとってだけの「当然」であり、徳保さんであればここまで厳しく被害者を責める、という話でしかない。現実認識がまるでできていないとしか言えない。

自分ならやる、こうするべきだという願望を「社会における当然のリスク」とすり替えて語るのが徳保さんの不思議なところだ。以前、これと同じように「世間の常識」を勘違いしていたと思うのだが。

「当然」と「現実」は同じ意味ですか? だいぶ違うように思いますが。理屈としてはこうなるべきで、実際にそうなってもおかしくない、それはヘンなことではない、といった流れで「当然」といっているのに対して、「現実にはヘンとされている」といっても話がかみ合っていないのでは?

社会と個人は対立項か?

つまり、忠告を無視することが良くない、というのは、被害者の身を慮ってのことではなく、「社会全体の犯罪率が上昇するから」責められるべきだ、というわけだ。

物事にはいろいろな側面があります。「忠告を軽視して困るのは自分だけだから、他人が忠告の軽視を責めるのはおかしい」という批判を予見して封じてみたわけです。「忠告の軽視=防犯努力の不十分=落ち度」は責められて当然です。責められるリスクをキャンセルするには、忠告の誤りを証明するか、忠告に従うしかない。よってリスク回避の考え方へと帰着します。帰着させなくてもいいのですが。

ところで、なぜ社会と個人が対立項になるのでしょうか。社会の安全は個人の安全に直結しているのではありませんか。

主張の核心

要するに徳保さんにとっては、リスク回避論も現実主義も便法なのだろう。「被害者の落ち度追求を正当化する」ための。落ち度追求に邪魔になれば、そのロジックも簡単に捨てられる。

どうやらそのようですね。

私は現実主義や功利主義(私のリスク回避論はたいていコレ)が好きなのですが、現実的で功利的なら何でもいいとは思っていないのでしょう。より上位に置かれている価値観がある、と。

病気

わたしは、性犯罪にあったあとの自己嫌悪感・トラウマ問題についても語り、性犯罪の特殊性の証拠としたのだが、そこは完全にスルーされ、他の犯罪被害とまったく同列に置かれてしまった。

徳保さんは性犯罪被害者の心の問題についてはどう考えているのだろう。それをも「なかったこと」にしてかれらを断罪するつもりなら、精神病患者についても同様の見解なのだろうか。すなわち、心の弱い人間は、世の中のためにならない人間である、と。

性犯罪被害者の心の問題ばかりいうナツさんは、他の犯罪の被害者にも自己嫌悪感・トラウマ問題があることを忘れていませんか。後半部は話が飛躍しているような気がします。ただ、精神病患者(と周囲の人々)は何か現状に不満があるから治療を望むのでしょう。誤解を恐れずに書けば、病気は基本的に世の中のためにならないから保険制度が整備され、社会から駆逐せんと努力が続けられてきたのです。

何を悲観するか

これは典型的なヴィクティム・ブレイミング(犠牲者非難)のロジックである。1970年代のアメリカでW・ライアンがこういう論理の問題点を指摘し、社会的反省が行われるようになったと言われている。

たとえば、「病気になるのは本人(の生活習慣)が悪い」と病者を非難することによって、はっきりしない因果関係をもとに、すべて被害者個人の自己責任に還元したり、社会的要因を見過ごしにして話をすり替えてしまうことをいう。このような非難によって、国家が責任を取るべき部分がうやむやにされたり、社会的要因の究明が後回しにされ、この世に起こるもろもろの不都合はすべて個人の問題だという視野狭窄状態に陥ってしまうわけだ。

だからそれは視野狭窄になるのが悪いのであって(以下略)。

ナツさんが衆愚に対して悲観的なのはわかりました。

私は、ナツさんとは逆方面に悲観的なのです。酒鬼薔薇の事件で宮台さんは街に原因があるといった。ひとつには、そうだったかもしれない。けれども、宮台さんは第一に街の構造をあげた。それはもちろん個性的な評論家としての立ち位置を築く演出だけれども、しかしなぜあんな説がウケたのか。「野良猫が増えるのも自民党政治が腐っているからだ」といった、何でも自分たち大衆以外に責任をもっていく考え方が日本では強すぎます。もともと自己責任という発想が薄いのです。今後ますます、被害者は犯人の非ばかり見て、自分の防犯責任は省みなくなるでしょう。(被害経験から「**な状況でも被害にあったのだから防犯は無意味」といった教訓を導く人が多すぎる/決定打以外の防犯対策はする気になれないらしい

私は被害にあうことを責めているわけではない。防犯の不十分を責めているのです。やるだけやって、それでも被害にあってしまうのは仕方がないといっています。

まとめ(発端となった文章の修正版)

もちろん、悪いことをするやつが悪いに決まっている。けれども、例えばこんな話があります。イラクの攻撃にあっという間に屈して国土を占領されたクウェート指導層は、じつはけっこう米国などに非難されたものでした。自分で自分の国をちゃんと防衛しないで、他人の力を借りて国土を回復することしか考えていない、と。あるいは、いまどき旅行中に玄関の鍵を開けていて泥棒に入られたといったら、誰も(深くは)同情はしてくれないでしょう。

クウェートを占領したイラクは避難されてしかるべきで、当然のように罰を受けました(しかしイスラエルはどうなっているのか)。玄関の鍵が開いていたのだとしても、泥棒はちゃんと有罪判決をくらいます。玄関の鍵云々では情状酌量など一切されません。

でもね、だからといってクウェートが批難されないというわけではありません。玄関の鍵を開けておいてもいいんだ、という話にはなりません。できる限りの対策をしていて、それでも被害にあってしまった場合と、他人の善性に期待して無防備にしていて被害にあう場合では、社会の見る目が違ってくるのです。それは悪者を正当化する話ではないのです。世の中には残念ながら、悪いやつがいます。それは認めざるをえない。だから、無防備にしている人は馬鹿なのです。被害に遭うことは予想できるのに、対策をしていないからです。

くりかえしますが、これは悪者を正当化する話ではないのです。警察だってね、鍵を開けっ放しにしていて泥棒に入られました、なんて間抜けな話には付き合っていられないのです。服装と痴漢の話も同様なのです。扇情的な服装をしていたって、そりゃあ痴漢するやつが悪いのは当たり前です。当たり前ですが、わざわざ危ない格好こと(例えば電車の先頭車両を利用するとか)をしている必要もないだろうと思う人がたくさんいるのも当然のことなのです。

世の中から少しでも犯罪を減らすにはどうしたらいいか。まず、悪い人間を育てないことです。そして、不幸にも悪いことをするようになった人間を捕まえることです。最後に、各人が自分が被害者となることがないよう、できる限りの対策をすることです。悪党を責めるばかりで、自分の無防備を正当化するのはどうかと思います。

事例を修正しました。「犯罪の糾弾」と「防犯の不備追及」は別問題だ、という大筋の論旨はそのまま。

平成15年6月22日

可能な限り、というのはどこまでなんだ、という話があります。それは一概に決められません。人によって判断は違うでしょうね。

私が思うに、痴漢対策についていえば、先頭車両とドア付近は避けるべきですが、こんだ電車に乗ることまでは回避しがたいと思っています。ただこれはあくまでも私の基準であって、通勤ラッシュの電車に乗らないことは「可能な対策」と考える人もいていい。その人は通勤ラッシュの電車に乗る人をバカだと思うのでしょう。田舎で農業でもやったらいいのに、とか。

忠告者が多数派であれ少数派であれ、忠告者は自分の忠告が聞き入れられなければ不機嫌になるし、忠告を無視して不幸になった人をバカだと思う。わざわざ不幸になりやすいことをなぜするのか、と。(どうも勘違いする人が多いようだから書くのだけれども、「忠告を無視したから不幸になった」というのではない。いや、そういうケースもありうるけれども、多くの場合は忠告の無視と不幸には必然的な因果関係はありません。だから、「不幸になりやすいことをするのは愚かだ」といっているわけです)

話をスタート地点に戻すと(ちょうど最初の発言をまるごと引用したばかりでもあるし)、その時点で私は服装と痴漢被害には関連があると思っていて、服装なんてのは簡単に(ある程度は)改善できるのだから、改善すればいいだろうに、と考えたわけです。服装で何か勘違いして痴漢する人は大バカですが、痴漢は許せないといっていても痴漢はいなくならない。現に大バカがいるのだから、わざわざ危険なことをしない方がいい。……しかし実際には、痴漢は服装で被害者を選ばないとわかった。

で、それはそれでいいんだけど、そもそも被害者の防犯の不十分を非難すること自体がよくないという意見が出てきたのでひっくり返る。私の「可能な防犯」の基準は厳しい、という意見なら「そうかもね」といってもいいけれども、一般論ならともかく個々の被害者の防犯の不備には目をつぶれというのは私にはとうてい受け入れがたい。

そーなのか?

夜道の一人歩きは危険です。男女問わず。だから、さしたる用事もなしに、夜道を一人歩きすべきでない。できる限り、人通りのある時間帯、明るい時間帯に歩くべきです。何の根拠もなく「大丈夫」とかいって、朝まで待っても全然困らないはずの用事で外出する人が相当数います。バカだ、と思うし実際に私はそういう。ところで、夜道の一人歩きが危険だという資料、私は知りません。探せばあるのでしょうが。私は夜道の一人歩きの危険さを証明できないし、するつもりもない。それでいて、夜道の一人歩きを気軽にやってしまう人をバカだと思う。夜道の一人歩きは危険じゃない、という証明がされるまで、いつまでもそう思い続ける。

忠告する側が自説の正しさを証明せよ、という意見は世の中の大半の忠告を葬り去ってしまいます。人がいう「ああした方がいい」「こうした方がいい」といった意見のほとんどにはろくな根拠がない。みんな根拠なしに話をしている。でも相手が忠告を無視したら、バカじゃないのかと思う。それでいったとおりに不幸になったら、だからいわんこっちゃないと思う。いった通りにしても絶対に不幸を避けられたというわけではないけれども、不幸になる確率は下がったろうと思うから。

バカだと思うのは勝手だけれども、口にするからいけない、という話もあります。私は口に出した方がいいと思う。夜道の一人歩きでカツアゲにあった人が、その後は夜道の一人歩きを自粛するかというと、そうでもない。犯人への呪詛を吐くばかりで、自分の行動を何ら反省しようとしないことがしばしばある。マンガ雑誌くらい朝になってから買いにいけばいいだろうに、読みたくなれば買いにいくのは当然だといって胸を張る。デパートの中でもカツアゲはあるくらいなんだから、夜道とかは関係ない、ともいう。

そりゃカツアゲする人が悪い。カツアゲそのものは加害者が完全に悪い。でも、一度被害にあったんだから、少しは懲りて安全な生活をしようと心がけてもいいんじゃないのかな。カツアゲの犯人は逮捕されていないわけだし。証明はできないけれども、デパートの中よりも夜道の方がカツアゲの危険(単に遭遇率ではなく、逃げやすさなどを含め総合的に)は高いだろうとは思う。くだらないことをいって危険なことを続けるのは馬鹿げている。……といった話を被害者に対してしちゃいけないんですかね。

被害にあった人が一番自責の念にかられているから? カツアゲにあい精神的に傷ついて対人恐怖と戦っている人をさらに追い込むことになるから? 忠告の正しさが証明されていないから? 実行不可能な忠告だから? そーなのか?

重要な用事があって、しかたなく夜道を一人歩きしていて被害にあった人と、マンガを買いにコンビニに向かう途中で被害にあった人が同等に扱われるということでいいのかな。マンガを買うくらいの用事で深夜に人気のない夜道を歩くのは馬鹿げている、といってはいけないのか。被害にあった人がみな徹底的に防犯の鬼になるのなら、一度被害にあった人にはもう何もいわなくていい。でも、現実にはそうなっていない。だから逆に被害にあったときこそ防犯意識向上の忠告をするチャンスかもしれない。それまで頑として忠告を聞かなかった人も、少しは耳を傾けてくれそうな気がする。

えーと、マンガ云々は実話。

平成15年6月22日

人はみなさしたる根拠もなしに他人に忠告をしている。それでいて忠告が無視されると怒る。聞き手が忠告を無視するのは勝手であって、忠告者は強制的に忠告を遵守させる術を持たない。その代わり、忠告者が忠告を無視されて怒ることを他人が強制的に禁止する術もない。殺してしまえば別だけど。忠告を無視しても忠告者を怒らせないためには、忠告の間違いを証明するしかない。忠告を無視し、忠告の誤りを証明せず、それでいて忠告者が不機嫌にしない方法があるだろうか。忠告者の意見が少数派であれ、多数派であれ、忠告者が怒ることは止められないと思う。

極端に単純化すると。忠告を聞かないのは勝手。忠告を聞かないのはバカ、というのも勝手。強制なんてできない。できる、というのも勝手ですが。

平成15年6月23日

ナツ氏が問題を一般論に拡大せずに特定化させることにこだわるのは、性犯罪の特殊性を希薄化させないためだと思います。徳保氏が問題を一般化することにこだわるのは、自分の土俵に持ち込みたいということも当然あるんでしょうけれども、よくわかりません。あらためて徳保氏の文章を読み直すと、性犯罪を相対化しようとする文章の多さに驚かされます。

ナツさんは痴漢は特殊だから特別ルールでいいという。私は違いはそれほど大きくないから他のケースと同じルールを適用したらいいといっている。鍵をかけずに泥棒の被害にあった人への批判を、ナツさんは明確に禁じていない。施錠は泥棒よけの決定打ではない。けれどもこれはやっていなかった人を批判しても容認できるらしい。被害確率が下がるなら、ナツさんのいう「決定打」でなくてもやるべきだというのが私の考えで、痴漢だけ特別ルールというのは納得できない。

私が何に納得できないのか、というポイントのひとつだと思う。20日付更新の冒頭にある通り、性犯罪は特殊だという前提を受け入れれば、特別ルールも理解できる。ただ、私はその前提に納得しないということ。性犯罪は他の犯罪と毛色が違うというくらいの話が、物凄く特殊だということになってしまっているような気がしてならない。

平成15年6月23日

忠告することと、忠告を聞かない人を批判することは表裏一体だ。「こうした方がいい」とは「こうしないのは愚かしい」ということだ。だから「こうした方がいい」とだけいっていても、そうしない人への非難として機能する。もちろん、「こうしないのは愚かしい」といった方が非難としてはわかりやすい。だが、わかりにくければいいのだろうか。3度いえば「こうしないのは愚かしい」という裏の意味にも気づくというのに。

「忠告するのはいいが忠告を聞かないことを批判するのはいけない」という意見には、賛同できない。そんな腑分けには意味がないと思う。まあ、意味があると思う人は思えばいい。わかりにくければいい、という意見もあっていい。私は賛成しないけれども。ただ、ここは結論に大きく影響するポイントではある。

平成15年6月23日

やらないよりやった方がマシなら、やった方がいいに決まっている。ところが、マシという程度ではやろうとしない人は少なくない。「それではいけない、ちゃんとやろうよ」と批判するのが防犯の役に立たないという意見は、やっぱり私には賛成できない。

決定打でなければ、それをしない他人を批判すべきでないという意見は、それはそれとしてありうる。でも私は賛成しない。マシという程度ならやってもやらないでもいい、という価値観に賛同しないからだ。

平成15年6月23日

説明がダメだったことは認めるけれども、結論は間違っていると思えないんですよ。だから手を変え品を変えしているわけ。ギャラリーの反応を見ての通り、ディベートとしてならとっくに判定はでているのですが、ディベートには「負けた側が自分の考えを変えなくてもいい」という不文律(諸注意として明示されている場合もあります)がある。ディベートなら単に「負けましたー」といってもいい。というか、今こうしていっているわけですが。とにかく、私の考えは当初からほとんど変わっていないということはあらためて明記しておきたい。

やった方がマシなことをしないのはバカであって、バカにはバカといっていいと思っている(みんなが政治家をバカにしているように)。やった方がマシという程度のことでバカとかいわれたくない、という人とは価値観が違う。

極端に単純化すれば、そういう話。

ところで、説明がダメなら答えもダメだ、というのはひとつの経験則だけれども、絶対そうだというわけではありません。「ソクラテスは賢人だった。だからソクラテスは賢い人だったといってよいだろう」これは何の説明にもなっていない。でもだからといってソクラテスが賢くなかったということはできません。説明がまずいだけで、結論はやっぱり正しいかもしれないのです(もちろん「賢さ」の判断には価値観が絡むので、人によって結論は異なるはず)。ナツさんの説明はうまいこといってるなと思いますが、その結論は私にはどうしても受け入れがたい。おかしいと思う。前提となる価値観が異なるのだから当然ですが、なかなかその価値観の違いを捉えられなかった。とうとう1ヶ月……。

平成15年7月1日

  1. 防犯の不備に対する注意と落ち度の追求とを故意に混同して語っている
  2. 痴漢被害者(こゆさん)を馬鹿だと言っておきながらそれを棚に上げ、さも被害者のためを思って忠告することが当初からの目的だったように見せている
  3. 「防犯の不備」というだけで、痴漢被害において何が不備といわれる行動なのか、いつまでたっても具体的かつ説得力のある例が出てこない
  1. 防犯の不備を注意することと、落ち度の追及は同じことです。ナツさんは違うといい、私は同じだという。

    同じものに対してライトを右から当てるか、左から当てるか、それによって言い方が変わる、といった感覚で私はものをいっているけれども、ナツさんは両者はそもそも別のものをさす言葉だといっている。私とは価値観も言語感覚も違うわけです。

  2. 評論家の発言は「痴漢は露出の多い服装から誤ったメッセージを受信する」という内容です。こゆさんは勘違いする痴漢を責めるばかりで、この情報を防犯意識の向上に役立てようとしなかった。だからバカだ、と私はいったのです。「**すると**の危険がある」という情報があれば、「ならば**するのは控えよう」と考えるべきで、「**の危険」を責めるだけで安心してしまうのは愚かなことです。

    情報の誤りを証明できない限り、情報を正しいと考える人から「この情報を無視するのは愚かだ」といわれるのは仕方ないことです。情報を無視する自由は誰にでもあります。その一方で、この情報を無視すべきではない、無視するのはバカだ、という自由も誰にでもあるといっているのです。

  3. 私が「防犯の不備」と考える内容をナツさんはそうみなさない、というだけの話です。国旗国家法案が成立して「軍靴の足音が聞こえる」と朝日新聞は心配した。これを「馬鹿げた妄想」というのも「まったく同感」というのも自由です。人によって「危険」の捉え方が違うという話に過ぎない。

    私は相応の理屈付けなしに先頭車両に乗るべきではないと思うから、「この電車では先頭車両が安全だ」という理由も持たずに先頭車両に乗る人はバカだと思うし、そういう。ナツさんは、先頭車両を避けても「有意な危険の減少は認められない」と考えるから、先頭車両を避けないことは「防犯の不備」とはいえないと考える。

    私がわからないのは、なぜ具体的かつ説得力のある例について万人の支持する基準があるかのような妄想にとらわれているのか、ということです。私は先頭車両の例で十分だといっているのに、ナツさんは「自分はそう思わない」「そう思わない人が多い」から、私の考えは誤りだ、といいたいらしい。具体的とか説得力とかいうのは、個々人の価値観の問題なのだから、「徳保にとってはそれが具体的かつ説得力のある例なんですか、そうですか、ふーん」と納得してほしい。

    自分が説得力を感じないものに説得力を感じている人がいてはいけないとお考えですか。私は説得力を感じません、あんなものに説得力を感じている人は少数派です、と書くだけでは満足できませんか。

補足

ナツさんの価値観を基準に考えると、痴漢に有効な防犯対策は何一つないので、被害者が事前に気をつけるべきことは何もない、だから落ち度の追及など不可能だ、となるわけだけれども、ある対策(例えば警視庁のアドバイス)を有効な対策と見るか否かは、人によって判断が異なる。私は有効だと思う。ナツさんは思わない。

効果0というデータがあれば、警視庁のアドバイスをできる限り実践しようとすることの虚しさを、私も納得します。問題は被害確率が「1%下がる」という程度だった場合です。それでもやった方がマシならやるべきだ、やらないのはバカだ、と私がいうかどうかは微妙なところです。ただしそれは私の基準であって、0.1%の効果であっても「やるべき」という人がいてもいいし、逆に30%も下がっても「70%は防げないってことでしょ。他人に「やらないのはバカ」というほどの対策とは思えないね」という人もいていい。私はどちらにも批判的ですが、そういう考え方はあっていいし、それぞれの人の価値観において正しい答えなのだろう、と思う。

ナツさんの意見は、ナツさんの価値観において正しい。ナツさんは、警視庁のアドバイスはそれほど効果的なものではないから、「やらないのはバカ」というのはいい過ぎだと考えるのでしょう。しかし私はナツさんの価値観に共感しない。警視庁のアドバイスを実践しないのはバカだといっていい、と考えるわけです。ナツさんの価値観は多数派に属するので、批判者が少ない。私はその逆。

たくさんの批判が鬱陶しいなら多数派に迎合すればいい。少数派が自分の価値観を前面に押し出せば批判が多いのは当然のことです。意見を通し批判もかわすには多数派の説得に成功すればいいのですが、それは簡単なことではない。挑戦するのは自由だが、賢いことではない。けれども人は賢くあらねばならないと決まっているわけではないので、バカなことをやってもいい。

……少数派のくせに、「なぜ批判が多いんだ?」というのは馬鹿げている。賛同者が少数だから少数派なのです。しかし多数派が「なぜ批判があるんだ? 私たちには圧倒的な支持があるというのに、懲りずに楯突くやつがいるなんて信じられない」というのも馬鹿げている。多数派は、あくまでも多数であって全数ではないのだから。

平成15年7月5日

少数派は、あまりにも反論が多く寄せられるので、嫌でも多数派のいっていることは理解できる。多数派が、どのような価値観に基づいて意見を組み立てているか気付く。しかし、理解はしても、多数派の依拠する価値観に共感できなければ、賛同するには至らない。

多数派はしばしば少数派の意見を理解しようとさえしない。その必要がないからだ。自分の価値観だけで相手の意見を裁き、安易に「支離滅裂」という。多数派の価値観を基準にすれば少数派の意見は支離滅裂だ。逆に少数派の価値観を基準にすれば多数派の意見も支離滅裂なのに、なぜか多数派はそのことに気付かない。

私がいう不公平とは、こういった状況を指していっている。批判する自由は誰にでもある。多数派も少数派も相手を批判してよい。公平に扱うことと、批判しないこととはまったく関係がない。