痴漢論議10 5年後の見解

2008年8月にナツさんへ送ったメールより。一部、書き換えています。

5年後の見解

1.

2003年、私は「犯罪の発生を抑制することを目的として、犯罪者側の要因に加えて被害者側の要因も解消すべき」という見地に立って、痴漢被害者を巡り長々と持論を展開しました。それから5年、いろいろ意見も変わりましたので、簡単に記します。

泥棒や置き引きといった犯罪の被害と比較した場合の「性犯罪の特殊性」は、被害にあう最大の要因が「女性であること」であって、対策が不可能だという点です。痴漢の被害についていえば、第2の要因は「混雑した交通機関の利用」であり、これも現実問題として対策できないといってよい。

つまり被害者側の要因のほぼ全てが、対策不可能な内容なのです。その他の気休め程度の対策をしていなかったとしても、問題視するのはおかしい。きちんと対策することで被害率を確実に下げることが可能な多くの犯罪と同列に語るのは、明らかにバランスを欠く。

*「要因」という言葉にカチンときた方は、原因と責任(2006-07-01)という記事を参照してください。その上でなお「許せない」ということであれば、ご批判は甘受します。

2.

ただ、2003年当時の私の抵抗も理解できないわけではありません。

というのは、現実には事実に基づかない議論が大半。本当は大きな要因が大勢に小さな要因と認識されていたり、その逆、といったことは珍しくありません。そうした状況下で「小さな要因について声高に指摘するなかれ」という意見を受け入れることは、多くの問題の解決を決定的に困難にしかねません。

現に経済問題では、そうしたことが日常茶飯事です。経済学の知見と国民の直感は多くの場面で相反し、政治的に経済学者の主張が実現されない。

要因を指摘するオプションを捨て去ることには、徹底抗戦する理由があったのです。

性犯罪についてはオプションを捨ててもいい、今はそう思います。ただ、2003年当時、きちんとデータを示したのはナツさんだけでした。大半の人は、たまたま直感と事実が一致しただけです。にもかかわらず、その危うさに気付かず、「バカな主張」を叩き潰して溜飲を下げただけの方が多いと感じました。

だから、ナツさんの提示した事実を受け入れてさえ、それでもなお「(実際には行使しない/できないとしても)要因の指摘というオプションが存在していることは、共有認識としたい」と。現在の私が擁護するなら、そういった理屈になります。

実際の運用の仕方は、ナツさんの主張と変わりませんが、「個別の事情にルールの変更で対処する」と「ルールは共通とし、柔軟な運用を行う」という違いは原理的なものです。

3.

もちろん、誤りの判明している意見を是認する理由はありません。

また、痴漢などの性犯罪については、事実に基づくが費用対効果の非常に低い対策と、事実無根の「対策」しかない。そして後者が世間に流通する言説の大多数である以上、その害を取り除くためなら前者の小さな益は無視するのが妥当であり、「一律に被害者側要因の指摘自体を禁止すべき」との主張にも賛成できます。

本来なら言論の自由を制限するのではなく、世間の無知、偏見、誤解を正していくべきです。しかし、多くの人々の数十年にわたる努力によっても世間の認識は緩やかな変化にとどまっています。このペースでは、今そこにいる被害者を救済することは不可能。被害者側要因の指摘の全面禁止は、緊急避難として合理的です。

口を封じて満足し、誤解を「当人の不勉強」として放置すると問題状況の固定化につながります。しかし実際には、熱心な啓蒙活動が続けられています。懸念は杞憂でしょう。

2003年の議論を振り返って

徳保さんの追記記事には一理あるんです。泥棒と被害者の行動の因果関係という一般論として考えれば。

ですが「痴漢問題」あるいは性犯罪は、それほどわかりやすい構造をもっていません。女の体を自由に触りたい、と考える者が一定数存在することを社会のリスクとしてあらかじめ織り込んでおいたとき、実際に犯罪が起こる原因は被害者の服装ではなく、「触りやすい環境(満員電車)」の方にあるのではないのでしょうか。徳保さんは「痴漢論議」において、そのあたりをスルーして語っていた。わたしはそれを「どうしても性犯罪被害者を糾弾したい心理の現れ」だと感じました。

「痴漢は被害者の服装の問題ではない」ということを納得してなお、被害者に原因があるというスタンスを保ち続けるならば、最終的には「女であること」そのものが原因だった、という結論に辿り着きます。そのことも徳保さんはスルーして、あくまでも「泥棒と鍵」の一般論にこだわり続けていました。

徳保さんが「原因と責任」の違いを啓蒙するために痴漢論議を利用したのであれば、わたしはその当時、そんな目的にはまったく興味がありませんでした。あくまで「痴漢という性犯罪の問題」について論じたかっただけですので、平行線になるのも当然だと思われます。その主張を広めるために「痴漢」という問題は不適切だとも考えます。

一般論において正しかったことが全ての問題に敷衍できるとは限りません。そのことを徳保さんが認識されているようには思えないのですが、どうでしょうか。

5年前に私がこゆさんを批判した経緯から、改めて説明します。

2chで狂犬などといわれていた通り、当時の私は気に入らない人に出会うたび、過剰な批判記事を書くことを繰り返していました。ただし積極的に攻撃対象を探していたのではなく、基本的にはアクセス解析を眺め、リンク元記事のリンク先(1段階限定)までしか読んでいませんでした。

私がこゆさんを知ったのは、こゆさんが私の記事にリンクしていたからです。ポジティブな参照リンクだったと記憶していますが、リンク元記事は私の価値観とは相容れない内容で、どうして私の記事を肯定的に読みながら、こんなことをいうのだろう、と不愉快になりました。

小さなテキストサイトだったので、短時間で全部の記事を読むことができました。その中に、私のスイッチを入れるようなものがあったのです。痴漢論議01で唯一、段落単位で引用している記事です。

今読むと、何がそんなに気に喰わなかったのかわかりません。が、そのときの私は、すぐにこゆさんを皮肉る記事を書きました。しかし所詮、皮肉は皮肉でしかない。本当は怒りを正当化しうるような批判記事を書きたかったけれど、何も思いつかない。どうも気が治まらない。それで、他の記事についても、何かしらネガティブな異見が書けるなら全部書こう、と。それで手当たり次第にネガティブな言及記事をどんどん書きました。

とはいえ、こゆさんの関心事と私の関心事は当然ながらズレており、こゆさんの取り上げた話題について、真正面から論じるような土壌は私にはありません。したがって、私の関心事をいったん一般論に還元して手札とし、こゆさんが取り上げた話題の中で、何らかの観点から相似形の構図と捉えることができそうなものを選んで、手札を適用していきました。

「痴漢の言い訳」への反応はそのひとつ。ただ、最初の言及は私の主張をうまく表現できていなかったので、こゆさんのレスポンスに応えて、2度目の言及では、私の問題意識に引き付ける形で書き直しています。他の記事だって真意が伝わらない書き方になっているのですが、誰のレスポンスもなかったため、書き直す意欲がなく放置しています。

つまり、私は痴漢問題を語りたかったのではなく、こゆさんを攻撃したかったのです。そもそも私は痴漢というテーマ自体には無関心でした。自説の補強に持ち出した例示は湾岸戦争と泥棒でしたが、これはイラク戦争とピッキング盗への関心を背景としたものです。

また「処世術のレベルにおいては、正しいとか間違ってるとかは重要ではなく、信念で社会通念に逆らってもロクなことがない」という主張は、跡地でも繰り返し書いているように、私の価値観のベースにあるものです。

もともと私の関心が痴漢問題にないのだから、話を自分のホームグラウンドへ引っ張っていこうとするのは、自然です。その後、批判集中でこゆさん叩きどころじゃなくなった私にとって、痴漢問題について書くことは、私自身にとっては全く無意味となり、持論への導入口とする以外に何らメリットがなくなりました。

「性犯罪は特殊」説に与しなかったのは、単純には賛同できなかったからです。また、ここで同意すると痴漢を話題に一般論を書こうとしたこと自体が無意味となりかねず、既に投入したリソースが丸損になるように思えて、心理的に受け入れ難かったことも理由のひとつでしょう。

相手の意見を受け入れる理由は既になく、議論は平行線。とにかく持論を繰り返して、もう負けは確定的だけど、少数の伝わる人に伝わればいいや、となっていく。さっさと手仕舞いすればよかった、というのは外野の理屈で、当事者には難しい話。

……以上の長い説明が何なのかというと、「どうしても性犯罪被害者を糾弾したい心理の現れ」というナツさんの解釈には同意できない、その理由です。「どうしてもこゆさんを糾弾したい心理の現われ」なら納得します。こゆさん退場後は、引っ込みがつかなくなった、と。

余談

私がだんだん書き方の流儀を変えていったのは、気に入らない意見を粉砕したはいいけど、相手が1年ほども続けてきたブログを閉鎖してしまったり、それまで数年にわたって断続的に好意的な文中リンクをしてくれていた人とぷっつり交流が途絶えたり、そういうことが度々あったからです。

5年前にはさして気にならなかったのですが、少しずつそうしたことを「つらい」と感じるようになっていきました。