要因Aと要因Bが重なったときに起きる悲劇Cがあるとき、結果に責任を負うのは要因を作った全ての人々とは限らない。Bだけが責任を問われたり、どちらも無罪放免となったりする。
因果関係と責任の所在は、単純にはリンクしていない。
駅前に停められた、鍵を挿しっぱなしの自動車。運転手は道路の向かう側にある自販機でタバコを買っていて、他に乗っている人はいない。通りがかった人が、ふと出来心を起こして自動車泥棒をする。運転手は慌てて駆け寄ったが、後の祭り。さて、「悪い」のは誰?
もちろん、泥棒が「悪い」。罰を受けるのは、泥棒だけだ。
では今後、少しでも犯罪を減らすためにはどうしたらいい?
ひとつには、鍵を挿したままの無人自動車を見て泥棒を思いつく人を、社会から消し去ること。その手段として、学校教育、社会教育、そして不幸にも既に悪事を行ってしまった人々に対する更生教育がある。
もうひとつは、鍵を挿したまま車を離れないよう、車の持ち主が気をつけること。自動車の鍵を挿したままにするのは「悪くない」。今後も、当人の自由だろう。ただ、キーが抜かれ、ドアがロックされていたら、運転手の目の前で車を盗むなんて不可能だったろう。運転手の行動が犯罪の要因となったことは事実なのだ。
「誰に責任があるか」と「原因は何か」の違い、ご理解いただけるだろうか。運転手の不用意な行動と、悪人の登場が重なったから、犯罪が起きた。「悪い」のは泥棒だ。しかし「原因」は両者にある。
私はかなりわかりやすく書いているつもりなのだけれど、これでも、「キーを挿しっぱなしで車を盗まれるのは自業自得だというのか!?」と怒る人が出てくる。因果関係を「原因を作ったやつが悪い」と解釈することしかできない人がいて、「要因Aの存在を指摘するのは被害者を攻撃する許しがたい行為だ」と主張する。
「悪くない」側が何らかの「対応」を求められることを理不尽だと思う感覚はわかる。けれども、「誰も悪くない」のに起きてしまう悲劇だってある。責任の有無とは別に、原因を取り除く努力はしていいと私は思う。無論、「悪い」側は強制、「悪くない」側は推奨、という差異はあっていい。
以下は応用問題。
小泉内閣の主要な支持層がB層となっているのは、いわゆる有権者の主力という意味でしょう。実際、衆議院議員選挙の投票率は60%もあるわけですから、近年の大学進学率より高い。いわゆる有識者の人数は限られており、自民党に限らず、どの政党の主要支持層もIQ軸の下位領域に存在するはずです。この資料について「(有権者に)全く失礼な話」などと怒るのは、理念を優先して現実を無視する考え方。私は好みませんね。(参考:6月23日の国会審議抜粋)
街頭演説で「私を支持する IQ の低い皆さん、お早うございます」とやったら怒られるだろうけれど、現に IQ の低い人が多い事実を認めないような政治家では安心して仕事を任せられない。……と、思う人が少ないのだろうな、きっと。