なんで白鳥があひるよりいいんだよ、働かないアリ、カメになりたい(id:MrJohnny さん)で紹介されていたサイト。「アリとセミ」の物語がいかにして「アリとキリギリス」へ変化したのかを追いかける。面白かった……が、こりゃお勧めはし難いな。読み物としては全くこなれていないもの。「よーし、自分で語りなおそうか」と思ったけど、すぐガス欠に。
ところで、id:MrJohnny さんの日記は面白いね。毎回、ちょっとずつ引っかかるところもあるので、追っかけ感想日記を書くだけでブログになりそう。なりそう、というだけで自分ではやらないのだけれど。いや、書きたいのですがね、続かないんですよね。とりあえず1回分、書いてみるとこんな感じ。
アンデルセン童話の「みにくいあひるの子」は「白鳥はあひるよりも上」という価値観につらぬかれております。菊池寛訳の「醜い家鴨(あひる)の子」では、あひるの子は最後に「ああ僕はあの見っともない家鴨だった時、実際こんな仕合せなんか夢にも思わなかったなあ。」と述懐するのです。こりゃあんまりです。
異論あり。
「みにくいあひるの子」は、「家鴨には家鴨の生き方、白鳥には白鳥の生き方があって、白鳥が家鴨として生きようとしてもつらいばかり。でもみんな、自分の生き方を選べないよね。いや、選べるということさえ気づかない。だけど大丈夫、頑張って生きていれば、いつか本来あるべき生き方に辿りつける(こともある)よ」といった現代的な解釈が可能な物語だと思う。
白鳥は素晴らしい存在なのだけれど、その白鳥の子が家鴨として生きれば「見っともない家鴨」にしかなれない。つまり id:MrJohnny さんの引用された述解は過去の自分について語ったことであって、家鴨に対する一般的な評価ではない……と私は読みます。いかがでしょう?
ところで、幼い頃の私が一番つらく、涙をポロポロこぼして読んだのは、あれは全くのところ、きりょう好しではございませぬ。しかし誠に善い性質をもっておりますし、泳ぎをさせますと、他の子達くらい、――いやそれよりずっと上手に致します。
あるいはきりょうなんか大した事じゃないさ。今に強くなって、しっかり自分の身をまもる様になる。
と我が子を庇い続けた母家鴨の心がついに折れてしまうくだり。
家出した白鳥の子は苦難の道をたどり、ついに生に絶望して、殺されようと思って白鳥に向かっていくのだけれども、そのときも母家鴨を恨みはしなかったろう、と。まあ、これは私の思い入れであって、本文からそう読めるわけではないのですが。