備忘録

平成15年1月30日

私は非常に怒りっぽい。備忘録を書くようになってからというもの、私はようやく、はっきりと自覚した。私は従来、怒らない人として知られていた。皆が怒りに燃えているとき、バカバカしいと思って冷めていることが多かったからだ。皆が怒っている対象よりも、つまらないことに怒っている皆の方が、むしろムカつくのだった。見るべきところが違うだろ、本当に怒るべき相手を間違ってるだろ、と。だが、備忘録を読み返してみてつくづく思う。何だ、自分も同じじゃないか。つまらないことに、見当違いのことに怒ってばかりだ。おかしな方角を向いてはいるが、毎日のように何かに怒っていて、その姿は実に馬鹿げている。馬鹿げていすぎる。馬鹿げていすぎる。馬鹿げていすぎる。←月曜日に「煙か土か食い物」火曜と水曜に「暗闇の中で子供」木曜(今日)に「世界は密室でできている。」を読了。仕事して、備忘録にいろいろ書いて、早く寝て、いつの間に読んだんだろう。とにかく舞城王太郎の作品。その影響。いろいろ。

私は文章を書くのが嫌いである。面倒で面倒で仕方がない。そんな私が備忘録を書き残すようになった。私はなんでもすぐに忘れてしまう。私が思い出せるのは断片的な物語だけで、私がその日そのときその世界に生きていたという実感がまるでなくなってしまう。もう中学生の頃のことは物語としてしか思い出せない。だから、物語にならなかった部分は、もうすっかり失われてしまったといっていい。物語に欠落しているものはたくさんあるけれど、とくに残念でならないのは、ふと思ったこと、考えついたこと、妄想したこと、そういった行動を伴わない瑣末な思考活動がほとんど残っていないということだ。日記でもつけておくのだったと後悔するが、実際、私は何度も何度も日記を書こうと挑戦してきた。そして敗北を重ねてきた。中学、高校の頃は記憶の喪失が非常に早く、思い出せない世界はわずか3年前まで迫ってきていた。この調子では、二十歳になる頃には昨日のことも物語としてしか思い出せなくなるのではないか、と不安でならなかった。

自分の昔の考えを読み返すのはとても楽しい。記憶喪失の津波は緩やかになり、このところあまり不安を感じなくなってきた(ひょっとするともうすっかり物語に飲み込まれたのかもしれない)のだけれど、とにかく昨年、私はまた備忘録を書きはじめた。これもすぐに行き詰まった。文章を書くのが面倒で面倒でやってられなかったのだ。文章を書くのがつらくて、その気力がわいてこなかったのだ。このあたりの苦闘の経過は、掲示板のログに残っている(HTML文書を作成するのが面倒なので掲示板に自分だけが書き込みできるようにして備忘録代わりに使っていた)。そんな私がこうして連日のように長文を書けるようになったのは、日々ふつふつと湧き上がる怒りのエネルギーを素直にぶち込む感覚をつかんだからだと思う。

この項、続く。いや、続かないかもしれないけど、私の中でこの話題はまだ全然書き終えていない。でも今日はここで放り出す。

平成15年1月30日

産経新聞論説委員の石井英夫さんは、乱暴にいってしまえば一日に書く記事は一本の短いコラムだけだというのに、しばしばろくな取材もせずに思いついたことをそのまま書く。1月29日の産経抄にはこんな記述があった。

たまたま開いた『水明』という句誌の一月号に主宰・星野紗一氏の現代俳句があり、「鯛焼ぞくぞくクローン人間生まれさう」と。なるほどタイ焼きやタコ焼きなどのように、鉄板の鋳型でクローン人間が作られる悪夢を見た思いになった。

しかしタイ焼きならばしっぽまであんこが入っていないのもあるし、タコ焼きなら具のタコに大小の違いもあるだろう。ところがクローン人間なら同じ遺伝子をもつ個体だから、寸分たがわぬものが生まれる。クローン人間は“コピー人間”かもしれない。

クローン人間という言葉の響きだけで何事かを判断する人が多すぎる。石井さんもその仲間だったようだ。以下、反論を述べる。

以上の内容を、産経新聞社に産経抄筆者様としてメールで送った。いやしくも記者を名乗るならば、記事は取材に基づいて書くべし、といったいらざる言葉も添えた。私はバカだ。

平成15年1月29日

今日こそは、さっさと寝る。平日に連日の長文更新は、私としては異常。睡眠時間が6時間を切るのはヤバイ。基本が8時間なんだから。

平成15年1月28日

書いてみてから気付いたのだけれど、父の方法論というのは、ようするに「馬鹿にするなら、お前、自分でやってみろ」というものだった。今回の話題にリンクしている。

たしかに現代は、誰も彼もが甘やかされすぎているのかもしれない。消費者原理が優先されすぎて、生産者がないがしろにされすぎているのかもしれない。テレビが壊れて怒っている人に「じゃあお前がもっといいテレビを作れ」というのは馬鹿げているけれど、私の父がしたように、適切な場面を選んで「じゃあお前がやってみろ」といい、そして実際にやらせることは大切かもしれないと思った。

まあ、私のような失敗例もあるわけですが。(などと書くと、文章としておさまりがいいような気がする←卑怯者)

平成15年1月28日

奇啓示」を読んでいてふと思い出した父親のこと。

私が小学生の頃、我が家では食器の数が絶対的に不足していた。理由はわからない。ただとにかく、家族全員揃って朝食を食べたら、ちゃんと皿洗いをしないと夕食時に困ってしまうのだった。私が小学校低学年の頃、それはいつだって母の役目だった。

ある寒い冬の晩のこと。珍しく父の帰りが早かったらしく、私が夕食の時間ギリギリに帰ってみると、醤油皿が父と母の席の前にしか置かれていなかった。私と父は席が隣同士なので、私の席の前に置いてあった皿を自分の方へ引き寄せたらしい。私はまさか母の醤油皿を取るわけにはいかないから、台所へいって空いている醤油皿を探しにいった。

醤油皿はすぐに見つかった。洗い桶の中だ。水の底に沈んでいる。山葵漬けか何かのあとがまだついているのが見えた。そっと水に指を差し込んだ。凍りつきそうな冷たさだった。

母は廊下の納戸で何かを探していた。私は台所から上半身を出して、「何で醤油皿を洗っていないの!」と声を張り上げた。家中の壁がびりびりと震えたのは、その直後だった。

「***(私の名前)!!! こっちへ来い!!!」

父だった。私は、何がなんだかわからなかったけれども、もう涙をボロボロこぼしていて、台所から食堂へトボトボと歩き出た。

「おい、いつからお母さんだけが皿洗いをすることに決まったんだ? 答えろ!!!」

父の声は大きかった。いつも大声だ。怒るとさらに大声になる。父は怒り狂っていた。少なくとも、当時の私にはそう思われた。父の言葉が理解できたのは最初の一瞬だけで、あとはもう頭が割れるような大声の記憶しかない。……と、背後で何か声がする。それも何だかよくわからない。しくしく泣いていることしかできなかった。喉が詰まったようになって、声も出ない。息もできないような感覚だった。長い長い時間、真っ暗になった世界が続いたように思われたが、じつは一瞬のことだったかもしれない。

「……ね、あなたもう許してあげて」

ああ、母だったのか。背後の声が、ふいに私の頭に意味のある言葉となって到達した。私はワーンと声をあげて泣いた。

で、その日から夕食後の皿洗いは私の仕事となった。生来肌の弱い私は、あっという間に手にあかぎれができた。それはどんどん増えた。父は何も気付かない。だが、母はすぐに気付いた。「いいから、今日はお父さんいないから、私が洗うから、もういいよ」私はもちろん、皿洗いをやめない。救いようのない阿呆の私も、そのときには気付いていた。母の手はいつもがさがさで、冬にはいくつもあかぎれができていた。毎日私は母の手を見ていたはずなのに、その実、何も見えていなかったのだ。私は、自分に罰を与えたかったのだろうと思う。

結局、母は私を医者に連れて行き、私を叱り飛ばし、強引に皿洗いをやめさせた。父は、私が皿洗いをやめたことにも気付かなかった。自分が命じたことも忘れていたろう。父はそうした意味では愚かな人だった。

私は長らく、この話を母の思い出として記憶していた。しかしここ数年、この話を思い出すとき、私は父のことを考える。

ところで、なぜ「奇啓示」を読んでこの話を思い出したかというと、バカで過去の失敗に学ぶことのない私は、皿洗いから開放されて間もなく、連日続いた鍋料理に「また鍋か」と愚痴ってその食事を抜かれた挙げ句、翌朝より「自分の食べるものは自分で料理すること」と言い渡されてしまったからである。といっても、父が部屋にこもると母はりんごを剥いてくれたし、翌朝の朝食も味噌汁を作っているうちに時間切れになって、実際はほとんど母が料理したようなものだった。

一週間くらい料理勉強の真似事のようなことをしたけれど、結局は私が「ごめんなさい」と父の前でもう一度(当然、事件当日にも謝っていた)母に謝ることでお終いになった。そのとき父は、「ああ、そんなことをいったっけか」と不思議そうな顔をしていたものだった。そして暢気に「どうだ、料理を覚えるのは大切なことだから、これからも続けたらどうだ」などといった。私は料理するのが本当に嫌いだから、それだけはご勘弁とその場から逃走したものだった。今でも、料理は好きじゃない。

ただ、私は基本的に出されたものはご飯粒一つも残さない。多少は、食べ物に感謝できる人間になったのかもしれない。

平成15年1月28日

拙文にご意見・ご感想をくださった皆様、どうもありがとうございました。

必要以上に長くて、全然わかっていないオーケストラについて思いつきの例をでっち上げて、いろいろ無理して校正不足のまま出してしまった文章で、毎度毎度のことながらほんとすみません。

今回の件は、私にとってもひとつよい経験になりました。Web上の意見交換について、明るい認識を再確認できました。上智さんには最初の問いかけからていねいに対応していただき、本当にありがたかったです。

今回の件についてご意見くださったサイトなど(私が気付いた範囲で)

平成15年1月28日

というかあれだ、私は文章が長すぎると思った。

受け売りと謙遜されている文章が、非常に端的に、私がいいたかったが書き切れなかったことまでをあますところなく補ってくれているのを見て、閲覧者にあまり負担をかけるのも罪だと思った。

というか、同じことをいう人が何人もいても、それは無意味なことじゃあないということがよくわかった。

平成15年1月27日

2ちゃんねるが冷笑主義の受け皿になっているというのは慧眼だろうと思います。

2ちゃんねるがこれほどまで肥大化したのは、批評史上初めて冷笑主義を積極的に肯定する余地のあるメディアだったから、というネガティヴな事実もひとつの大きな要因だと思います(要するに現実で発言権がない人間の救済としての場であった、ということ)。

まさにおっしゃる通りで、これまで冷笑主義は商売にならないから、メディアで大きな位置を占めることができずにいたわけです。

宇多田ヒカルのアルバムが700万枚売れた、これは凄いぞといって盛り上がるのが既存メディアです。けれども、これは裏を返せば日本人の94%が、宇多田ヒカルのアルバムに3000円の価値を見出さなかったということを意味しています。つまり、ほとんどの人はそんなに宇多田ヒカルには興味がない、好きでもない。これはハリー・ポッターでもFF9でも何でも同様です。

「先行者」は数百万人が見たのに、「侍魂」の読者は10数万人どまりだった、というのも同じ文脈で語れますよね。圧倒的なトップであっても、せいぜいその程度なんだ、ということです。

けれども、そんなことをいっていても何の商売にもなりません。単純に多数決を取ったら、「あんなの何がいいのかわからない」が常に最大の割合を占めてしまう。それでは何も売れやしないから、あれこれ情報にバイアスをかけてきたのが既存のメディアの習い性でした。

2ちゃんねるは匿名子ばかりの、編集者のいない世界だから、非常にプリミティブな形で多数決が行われます。すると、冷笑主義になるのは当然だったともいえるでしょう。これは野蛮なことではなくて、単なる世の中の現実です。これまでは表に出てこなかっただけです。

創作者の心が打ち砕かれかねない、といった理由で上智さんはこの状況に異論を唱えていらっしゃるのかもしれませんが、私は「創作者はもっと強くなるべきだ」とも思います。世の中で比較的成功した創作物も、単純な多数決を取れば否定・無関心派の方が多い、この単純な、しかしよく考えてみれば当たり前の事実に、もう少し慣れていくべきではないかと。開いてしまったパンドラの箱は、もう閉じられることがないのですから。

平成15年1月27日

引き続き「エニグマのマリオネット」の主張について。

批評−被批評における立ち位置の問題というのは、can−can’tの問題ではなくて、その批評に説得力があるかないかという問題だと思います。私はやはり、「ならお前がやってみろ」と言われて、その通り出来る範囲の事柄でない限り、その批評には説得力は生じないと思います(もちろん、批評を行うという行為自体は出来ます(can)が、その批評には説得力は発生しないということです)。

自分にできないことを主張しても説得力はない、のでしょうか。もしそうだとすれば、スポーツのコーチはみな選手が兼任しなければならなくなるでしょう。漫画雑誌の編集者は自分で漫画を描きはじめるか、さもなくば廃業するしかありません。世の中になぜ評論家という職種があるのか、あるいは教師の存在が許されるのか、もっといえば、会社の上司というのは何者か、といったことを考えれば、上智さんの仰っていることはあまりにも単純すぎます。

挙げられている実例に、ひとつひとつ反論してみます。

コージー富田という芸人がいますが、彼が物真似ライブをやっていたところ、観客に「似てないぞー」という野次を受けてぶちきれ、その観客を壇上にあげてタモリの物真似をさせ、晒し者にしたという出来事が昔ありました。

コージー富田が新春かくし芸大会に登場したとする。今年と同様に、集団芸の中で彼は得意の物真似を披露したとしよう。一通り終わった後で審査員が適当な感想を述べるわけだが、その審査員には道場六三郎のようなお笑いに関してはずぶの素人といってよい人もいる。さて、そこで「ちょっとコージーさんの物真似がね〜」という意見が出た、しかもその意見に深く納得する空気が会場に流れていた、と仮定してほしい。さて、コージー富田はライブと同様の行為に及ぶでしょうか?

答えはわかりきっているけれども、ここでは発言者にコージー富田と同等の芸ができるか否かは問われないことに注意してください。

以前、トロンボーンの後輩が先輩に対し、「貴方は下手すぎて合わせられない」と言ったことに対し、もっと上手な先輩が、「お前の方がもっと下手だろう。お前レベルの奏者がそんなことをいうのは10年早い」から始まって泣くまで説教をしたということがありました(実際にその後輩の方が下手だった)。

後述しますが、こうした例からすぐに、自分にできもしないことはいうものではないといった教訓を導くのは早計です。

私はオーケストラに入っているのでよく判るのですが、上手か上手でないかで全てが判断される実力社会において、下の人間が上の人間を批判することはタブーなわけです。

では、音楽雑誌であれこれの批評をしている人はどうなのか、という話になりますね。あるいはコンテストの審査員が、必ずしも名奏者ばかりではない、ときには全く演奏のできない人が審査員を務めることもあるという事実をどう説明されますか。

同一空間における立ち位置を無視した批評行為に対しては、このように物理的な力を行使しての排除が行われることで、被批評者の救済が行われるわけです。

この一文だけにしか登場しない文言ですが、これは重要な指摘だと思います。先のオーケストラ参加者同士の例のように、同一空間においては「できる」かどうかが批評の資格と直結しているかのように見える場合が多々あります。批評の資格を、当人がその発言通りに「できる」かどうかで判断できるとする錯誤は、基本的にこの特殊な条件設定を拡大適用するミスが原因になっているのではないでしょうか。

ここで、次のような例を考えてみてください。

不器用で演奏は下手だけれど、音感のいい新人がいたとします。いつも先輩に怒られて「すみません」と謝ってばかりの彼が、あるときふと、ピアノの調律がわずかに狂っていることを指摘した。最初は笑い飛ばした先輩だけれども、後で調べてみたら、たしかにドの音が少しずれていた。新人はその後もちっとも演奏が上達しなかったけれども、ときどき先輩の癖を指摘したり、曲のリズムについて的確な意見を述べることがあった。次第に彼は周囲に一目置かれるようになり、とうとう楽器の演奏は個人の趣味にして楽団からは抜けてしまったけれども、その後もご意見番としてみなから相談を受け続けた。

行動が説得力を生むのだとすれば、言葉を発するという行動もまた、説得力を生むことが可能なはずです。よい演奏をすれば口先だけの人間は黙るしかない、というわけではなくて、それにも対抗できるだけの言葉を用意できればいいわけです。

多くの場合、できない人間はろくなことをいいません。ですから、生活の知恵というか、経験智としては「できないやつのいうことは信用するな」という警句は有効に機能します。けれども、言葉の内容を吟味して、有効か無効かを判断するのが本来のやり方です。しかし全ての言葉を吟味する暇なはない。仕方なく「誰がいったか」という基準を持ち出さざるをえない。もし「いいことをいっている」と気付いたならば、誰がいったかは問うべきではありません。それでは本末転倒です。よいとわかれば取り入れればいいのです。

上智さんの挙げたオーケストラの例では、後輩の批判がそもそも程度の低いものだったので、当然のように排除されただけのことだといえます。もし演奏は後輩の方が下手であっても、彼の意見が正鵠を突いていれば、先輩もその場では生意気をたしなめるとしても、結局はその言を容れざるをえないでしょう。素晴らしい演奏者であればこそ、正しい意見を無視することはできないはずです。しかし現実には、下手な人間の意見は99%がだめな意見だといってもいいわけです。ここに、(下手な人間には批判の資格がないという)錯誤の生まれる土壌があるわけです。

私が「初級Webデザインアドバイス」さんに対し、何の脈絡もなく批判行為を始めたら、掲示板やメールでの批判や、読者が無言で離れていくなどの「お前が言うな」の発展形としての排除行為が行われます。逆に行われない限り、創作の世界は冷笑主義者の楽園になって、何も作らずに他人を嘲笑いこき下ろしているだけの人間が勝つだけの野蛮なものになってしまうでしょう。

実際に政治の世界は既にそのような状態になっていて、その辺のオバちゃんが「小泉首相? 駄目ですよあの人は。改革なんていっても一向に出来ないんだもの」などと言って憚らない野蛮が行われることで、すっかり骨抜きになっています。創作の世界もその方向に向かっていくのであれば、私は反対せざるを得ません。

ここで本当に問題となっているのは、「自分にはできもしないことを偉そうにいっている」ことではありません。薄っぺらな意見、本来なら「バカバカしい」と一笑に付される程度の意見が力を持ってしまっている、あるいは力を持っているかのように扱われている、その倒錯した状況が問題なのです。その辺のオバちゃんの意見だって、聞くべきものがあるならば、良心的な政治家ならそれを聞かねばなりません。

2ちゃんねるは匿名掲示板なのでこの立ち位置が消えており、非常に野蛮な空間になっています(その野蛮さが魅力のひとつではありますが)。

例えば私のサイトが叩かれても、相手が特定できない

相手が特定できないことは、本質的な問題ではないはずです。よい意見は聞く、ダメな意見は聞かない、基本をそこに置けばよいわけです。ただし、従来のような「発言者による篩い分け」が不可能なので、情報処理の手間が一挙に増大します。あるいは、匿名の発言者は一律アウトとするようなことになりましょう。しかし、立ち位置が消えており、非常に野蛮というのは認識がずれているように思われます。みなが思い思いの意見を述べているという意味でそれは社会の縮図でしかないわけで、これまでは大勢の眼に触れずにきた圧倒的多量のくだらない瑣末な個人的意見が文字情報としてそこにある、というだけに過ぎません。

私は前回、私たちが日常、どれほど自分の分をわきまえない意見表明を行っているか、その例を挙げてきました。テレビの前で野球選手のエラーを罵倒してもそれは家族にしか伝わりませんが、2ちゃんねるに書き込めば多勢が見る、それだけの違いです。テレビの前で怒声を上げても、2ちゃんねるに書き込んでも、その説得力には差がありません。内容がどうなのか、それだけが問題なのです。

私は基本的に、機会平等を唱えているわけです。WWWを発明したティム・バーナーズ・リーはオンライン・ハイパーテキストのためのスタイルガイド(翻訳版)の中で次のように述べています。

しかし、もしあなたが他の人は関心を持ちそうにないシステムのあまり光の当たらない部分についてドキュメントを作っていたり、あるいはとにかく何かの情報があるだけでも読者はラッキーだと思えば、テストに時間を費やする理由はありません。その情報が必要なら、目指す情報にたどり着くために少々余分な苦労をしてリンクをたどり、あなたの書いたことを理解するべきであるといってもいいでしょう。これがもっとも効率的な方法かもしれないのです。私がこの点を強調するのは、一瞬の間だけ頭に浮かび、急いでファイルに走り書きされ、後の代まで伝える必要はないという情報が非常にたくさんあるからです。このような情報は、洗練されていない形でも利用できるようになっている方が、形が整っていないからといって隠されているよりもずっと有益です。電子技術が発達する前は、出版の労力が大きいためこのような情報は日の目を見ず、クオリティの高くないものを出版するのは無益で読者を侮辱するものとみなされていたのでした。こんにちにおいては、あらゆるレベルの「出版」が存在し、クオリティの高いものも急ごしらえのドキュメントも、いずれもそれぞれの価値を持っているのです。けれども、読者を失望させないために、こうしたものへの参照を用意するときは、ドキュメントのクオリティを明記しておくことが重要です。

いろいろな情報がとりあえず公開されるという状況は、決して悪いものだとは思いません。情報の取捨選択は利用者の自由に任されているのです。最初から公開されないのでは選択のしようもありませんからね。

発言者不詳の情報は信用しない、というのも一手です。2ちゃんねるは全部、無視したっていい。それで損することもいろいろあるけれど、情報処理の手間は大いに省けます。それだけのことではありませんか。上智さんは、情報の説得力と発言者を不可分とするから立ち往生するのです。情報はその内容によって説得力の有無が決まる、と考えれば、問題は簡単に解消できるはずなのです。

無根拠な差別(部落、在日など)は糾弾されるべきですが、根拠のある差別は本来肯定されているはずでした。

私も、情報の価値が平等だといっているわけではありません。しかし発言する機会は平等でいいと主張しているのです。誰がいいことをいうかわからない。いや、もう少し正確にいえば、誰がいいことをいうかはおおよそ想像がつくけれども、しかし予想はいつも少しだけ外れるものです。その「少し」が、なかなか無視できないのではないかと思うのです。

だから、私はこう主張するのです。発言者に発言通りのことが「できる」かどうかで情報を篩にかけるのは、たしかに便利な方法です。けれども、それで全部事足りると考えるのは単純すぎます。私は、時間の許す限り、情報の内容自体を精査する方法をっていきたい。

なお、2ちゃんねると冷笑主義については別項を割きます。

平成15年1月27日

某所(テキストサイト界隈)で話題の「エニグマのマリオネット」を読んでいて気になった一文。

人は何かを語る際に、自分の立ち位置というものを無意識に考えるものだと思います。私は木村拓也に対し、「演技が下手」とは言いますが、「不細工」とは言いません。前者は、俺でもがんばればあれくらい出来るんじゃないの本業だろしっかりしろよという意味が、後者には女性が10人いたら全員俺よりキムタクを選ぶだろうという賢明な判断(笑)が背景にあるわけです。つまり、自分と比較してどうこう言ってる。「ミスフル」程度の作品なら私にも書くことはできるという確信をもっているから「ミスフル」はつまらん! と言っているわけですし、「ハンター×ハンター」を書くことは出来ないだろうからマンセーしているわけです。

さすがに単純すぎる。以前にもあちこちで書いたことがあるけれども、自分にできるかどうかを立ち位置の絶対の基準とするのは、全く現実的ではない。ほとんどの人が、ほとんどのことについて何もいえない世界になってしまうからだ。

洗濯機が壊れたとする。ふつう、何か愚痴をいうだろう。日記の中でメーカに呪いの言葉を発するかもしれない。そして、ほとんど誰もこれを咎めない。でも、その壊れた洗濯機よりいいものを作れる人が世の中にどれだけいるのだろう? 個人、ということにこだわれば、一人もいないといってもいいかもしれない。

洗濯機は、まがりなりにもお金を出して買ったものだから愚痴や呪いの言葉を吐いてもいい、という意見もあるだろう。では、例えば高校野球の中継を見ている場合を例に出そう。応援しているチームの野手が致命的なエラーをしたとする。このとき、「バカヤロー」というような言葉を絶対に口にしないと断言できる人は、あまり多くないのではなかろうか。しかし、彼らのほとんどは、おそらくエラーをした高校球児よりも野球は下手だろうと思う。

いや、その例はちょっと違う、という意見もあるだろう。テレビの前で批難の声をあげるのと、Webサイトで批難するのでは、当人への言葉の伝わりやすさが全然違うではないか、と。では、こういってもいい。新聞のスポーツ記事はしばしば、エラーした高校球児を「練習不足」と決め付けたり「信じられないポカミス」などとこき下ろす。書いた記者は高校球児よりも野球がうまいのだろうか? まずそんなことはありえない。

自分の立ち位置を、自分にそれが可能かどうか、などというレベルで考えるのは単純すぎる。それは批判される側に有利すぎる発想だ。批判されることに慣れていない人はすぐにそういうことを言い出すけれども、もう少し冷静になってほしい。自分にできもしないことを他人に求めてもいいのである。それはごく普通のことなのだ。批判者の資格を、なるべく云々すべきではない。自分も口をつぐむ覚悟があるならば話は別だけれども。

いっていることとやっていることが違う、という批判はもちろん成り立つ。一貫性を正義の基準とするならば、それは理屈にかなっている。だから、上智さんのマサムネさんに対する批判そのものは説得力がある。本筋はいいのだけれども、余計なことを書いて話を見えにくくしているのが引用した一文。一見、同じ話をしているようで、じつはだいぶ論点がずれているのです。

平成15年1月26日

outsider reflexのTipsをあらためて転載しなおしました。Homeのリンク先は当サイトとなっています。一部、リンク切れも残っていますが、ほとんどは問題なく閲覧できると思います。

平成15年1月26日

コピーコントロールCDという言葉もそこそこ浸透したようで、最近ではCCCDなどという略称もよく目にするようになってきた。

CD-Rが普及して誰もが簡単に音楽CDを焼けるようになるなんてことを真剣に心配する大企業がなかった時代に音楽CDの規格は決まってしまった。だから、音楽CDはそもそもコピーできるように作られている。ただ、音楽CDが登場してから10年以上もの間、庶民には機材が高すぎて、商売にならないという理由でコピーできずにきた。それだけのことだ。

DVDの普及を待ち望むのは、まず第一に音楽業界かもしれない。現状では、いくらコピーし放題ではあっても音楽用CDの方が数が出る。商売としての旨味が大きい。本来なら、コピーできないDVDだけで商品を出したいはずだ。しかしDVDはCDのようには爆発的に普及できずにいる。VHSに対するLDといった敗北の歴史はたどりえないが、しかし遅々とした歩みに業界のイライラは募る。

音質が劣化しない、という強烈な武器を引っさげてレコードを駆逐したCDのような迫力が、DVDには足りない。大容量が売りになるが、音楽用としてはオーバースペックだ。CDの最大74分というのは、アルバムの長さとして絶妙な上限だった。仕方がないから、ビデオクリップのようなコンテンツを盛り込むことになるのだろうが、これはアルバムの制作費上昇に直結する。音楽は今でも「聞く」のが主体で、「見る」ものにはなっていない。画面を持たないオーディオ機器がDVDに対応するかどうか、微妙なところだろう。そうなれば音楽業界には福音だが、しかしそうなったときにDVDがCDに対して優位性を持たないことを考えると、上がった制作費を取り戻せないことに気付いて悩ましい。

というか、CDをレンタルしてMDに落としている人たちと、CDをまるごとコピーしている人たち、どっちがより問題かといったら前者なのだ。人数が桁違いに多いからだ。彼らはつまり、CDほどの音質を求めていない。CDを買うことでアーティストを支援しようという意思もない。音楽を安く消費するだけの人々だ。

CDの完全なコピーを防ぐことは、たしかに重要だ。音質を全く劣化させずにコピーできるという事実にはインパクトがある。だからこれを排除することには意義がある。しかし、コピー不可能なDVDで新曲を発売したとしても、MDやMP3へのコピーは行われる。劣化コピーは防ぐことができない。仮に、DVDへの移行が成功したとする。コピーコントロール戦争は以上で終了だ。しかし、そのとき音楽業界は、先延ばしにしていた本当の敵と闘わなければならない。MDからは一定の著作権料を源泉徴収することに成功した。ではMP3はどうか? 源泉徴収のしようがないではないか?

MPEG-4オーディオの勉強をしていて、ちょっと思ったことなどを書いてみた。

平成15年1月26日

ネットマナー系のサイトを読んでむかむかしてきたときに読むとスーっとする。ようするに彼らが何をいっているのか、そのバカバカしさが如実に理解できて、軽い笑いとともに頭が冷える。

スーっとして満足してしまうと、足元をすくわれる。なんと言葉にしていいかもどかしく思っていたことを代弁してくれる人を見つけたときの喜びといったらない。岡田斗司夫「ぼくたちの洗脳社会」「フロン」には本当に感動したくらいだった。なかなかそうした出会いはないので、概ね賛同できるくらいですぐに歓喜してしまう。盲目になってしまう。違和感をないがしろにしてしまう。

岩城さんの小論には心ひかれる。しかし次の反論も一読の価値はあると思った。

平成15年1月25日

今日はアドバイスの依頼にこたえる予定です。今日こそは。いろいろの話題が一段落したこの隙を逃がしてなるものか。職場の模様替えも手伝いに行かないことにしたわけだしね。

リニューアル講座は……。先延ばしにしてばかり。

平成15年1月25日

表示が崩れるくらいはどうでもいいが、NN4 が撃沈されるんですけど? と言われたら、さすがにかわいそうなので、なんらかの対応をしてあげた方がいい。

……なので、私はCSSのメディアタイプを"screen,tv"としています。NN4はこうするとCSSを読み込まないわけです。なんだかんだいって、その程度には自分の使わないUAにも配慮していたりするのが、私のせこいところ。

SGMLでは未知の要素はエラーとなるが、CSSでは未知のプロパティは単に無視される。 よってCSSの独自拡張プロパティは仕様に準拠していると考えて良い。

ちょっと変な感じがしますね、それは。type="text/css"と書いている以上は、UAはCSSの仕様外のプロパティーは無視するべきでしょう。けれども実際には独自拡張のプロパティーを解釈します。製作者もそれを期待したCSSを書いており、仕様に厳格なUAではむしろ意図通りの表示結果が得られないわけです。

独自拡張のプロパティーを記述したCSSファイルが仕様に違反していない、というのは認めるとしても、それを書く製作者、それを製作者の意図通りに解釈するUAは仕様に準拠していないような……。

平成15年1月25日

JavaScriptをONにしている方を対象に、アクセス解析を久々に試してみたわけですが。神父さんの話題でいまだにアクセスがあるとは思わなかったなあ。一人、リンクをたどってこられた方が……。

というわけで、一人だけ訪問客があったリンク元をいくつか列挙。ちょっと意外な感じがしたところを中心に。

7割方のお客さんがブックマークからの訪問でした。アンテナはたいてい訪問者数1、つまりアンテナ作成者自身だけが利用しているようです。そうだったのか、という感じです。

平成15年1月24日

この2日間でずいぶん大量の書籍を購入しました。置き場が……。

このところ金銭的に余裕が取れるようになったので、仕事関係の雑誌もとることに決定。「日経エレクトロニクス」年間19000円で隔週刊の23冊。それはまあいいんだけど、これが2誌、3誌と増えていくとたいへんだなあと思う。まあ、増えるんですが。

雑誌というのはバックナンバーを手に入れるだけならかなり安くなる場合がありますね。「Linux magazine」の創刊号以来の全記事を収録したDVDは1990円と格安だったりする。これはさすがに極端だけれど。

平成15年1月23日

代替スタイル「Change!!」CSSの固定メニューを廃止しました。

当サイトで用意しているCSS切替スクリプトに対応しているUAをご利用の方は、「deceiver」CSSや「flower」CSSを選択することで従来どおりの固定メニューを利用できます。ただし「deceiver」はIE6などでは固定メニューになりません。IE6などはposition:fixed;に未対応だからです。ちなみに、サーバ名を正しくwww2としていない場合(wwwやinfoなど)には、Cookieが効きませんので念のため。

平成15年1月22日

部分的には合理的だが、全體として筋が通つてゐない、と云ふのは、氣狂ひじみてゐる。

私もそう思いますね。私は気狂いじみた人間です。気狂い仲間が多勢いるので、それでも何となく安心してしまっているわけですが……。

「壓縮ファイルも檢索對象に入れて欲しい。檢索サイトにはそれが可能だ」と返答する事を、徳保さんには奬めたいのです。

名案ですね。ただ、Tips.lzh自体が検索されても不十分で、ちゃんとその中の文字列まで検索できることが条件となりますから、なかなか技術的に難しい面はあるかな、と思いますけれども。

私は「スタイルシート移行の手引き」という題名だけを手がかりに探して苦労しました。同じように苦労している人がいるかもしれません。Piroさんは解凍したファイルを公開しないでしょうから、差し当たって私が解凍したファイルを転載し、検索エンジンに引っかかるようにしておくことは、私の仲間にとってありがたいことでしょう。見つけるのに苦労したって悪くはないけど、私は多くの人にTipsは読んでほしいので、なるべくそうなるように状況を整えておきたい。検索エンジンの進歩を待つのはまだるこしいのです。

なぜTipsを多くの人に読んでほしいのか。いちいち説明するのも面倒なんで感覚に訴えますと、新興宗教の信者が教祖の書いた本を薦めるようなものだと考えてください。絶版になっていたから復刊しました、とかそういう感じです。古書店にいって探せ、というのは忍びないと。新刊はデータベース化されているけど、古書はそうではない。だから新刊として出せば多くの人がその本に行き当たりやすくなる。古書もちゃんとデータベース化されるのは何年後かわからない。それまで待てないよ、ということ。

平成15年1月22日

父は筆不精だし、電話も好きじゃない。家を離れてからというもの、実家に帰りでもしない限り父と直接話す場面がない。

父はおかしな人で、私は幼少時より散々バカにしてきたけれども、だんだんその偉さがわかってきたような気がする。少なくとも、私より将棋も囲碁も麻雀も強い。パチンコも釣りも競馬もできる。残念ながら仕事はからきしできないのだけれども、会社見学に行くと「お父さんはまじめな人でね、みんなそれだけは感心しているんだよ」と何人もの偉い方にいわれた。

父は登山が好きで、登山を続けたくて祖父のお金で大学へ行った。何も勉強しなかったそうだが、高卒、中卒ばかりの会社に入ったから課長になった。父は部下が仕事で何をやっているかもよくわかっていなかったようだが、部下たちは父を「本当は頭がいい人だ」とみないっているそうだ。将棋や囲碁が無類の強さで、部下に敵う者がいないという。これは弟が父がかつていた職場にアルバイトへ行ったときに聞いてきた話。

ちょっと頭はいいけど、平凡だったという母。誰に聞いても、母はあまり印象に残っていないらしい。子どもの目には、賢く頼りがいのある母、体力はあるけど学ぶところのない父と映ったけれども、なかなかどうして、父は無言の背中で私に多くのことを教えてくれたような気がする。

母には、いつも感謝してきた。父にも、こうはなりたくないと思いながらも、様々な場面で感謝はしてきた。しかし父にはずいぶん、不公平をしてきたものだ。父には、まだまだ教えてもらわなくてはならないことがたくさんある。お礼をいわなくてはならないことがたくさんある。100歳まで生きたいといっている父を応援したい。身体が丈夫だから、命だけは、ひょっとすると持つかもしれない。後45年余り。気の長い話だが。ああ、私はそれまで生きられないよ。

平成15年1月22日

実家から手紙とあれこれが届く。両親は仲良く暮らしているらしい。

母はいくらか性格が丸くなったようだ。父は昔からボケた人だったけれども、最近はさらにひどくなっているというから、それだけが心配だ。もうすぐ定年、年金がもらえる65歳までの10年間、どうするのだろう。私の収入はたかが知れていて、食いつなぐのが限界。やはり何か仕事をするのだろうか。母と違って身体だけは丈夫なのだけれど。

それにしても、給与の過半を実家に送っているけれども、それだけで親孝行しているつもりになっていたのは甘かった。手紙を何度か読み返して、なんだか申し訳なくなってきた。この件は書き留めておかずとも忘れやしないだろうから、備忘録には記さない。(といいつつ手紙の端にメモしたり)

また、いつも私のPHSが様々な理由により不通で両親から連絡が取れなくなっているのも、じつに申し訳ないことだと思う。せめてもう少し頻繁に(月に1回くらいは)充電くらいはしておかないといけない。

平成15年1月22日

要するに、「自分に都合の良いものは何でも利用する」と云ふ事で、徳保氏の態度は一貫してゐる譯だ。

ちょっと違いますね。私は、自分に都合のよいものがあるのに、それを利用しないこともありますから。「何で?」っていわれても困りますけど、とにかくそれは利用したくない、と思うこともあるわけです。だから一貫してないんですよ。

徳保氏が何を考へてゐるのかは全く理解出來ない、と云ふ事だけは言つておきたい。

全体としては意味不明でしょうが、部分についてはわかっていただけるのではないかと。例えば私がなぜCSS振り分け様々なUAの実装状況を考えることを嫌うようになったか。それは、面倒くさいからです。CSSを難しくする元凶だからです。これではおかしい、というところから理屈を考え始めています。

私は、部分的に理解していただければ満足です。私はでたらめな人間なので、全体を見れば矛盾だらけで自分でも理解できないことばかりですから。

正字の勉強は結構ですが、正かなの勉強はなさつてゐないのですね。

野嵜さんの書かれたいくつかの解説などに目を通したくらいですね、たしかに。正かなで書かれた文章を写すというやり方が推奨されていたわけですが、意志薄弱なものでなかなか……。段々にやっていきます。

私の誤讀が意地悪に基くものであると、徳保さんは何を根據に判斷なさつたのでせうか。或は、なぜ意地悪なのかどうかを問ひ質さうとなさつたのでせうか。ただ、間違ひなら間違ひと言へばそれで濟むのではないですか。

あの「著作権放棄」の二つ目の文章、主語が無いから、そう読める、という理屈は理解できます。けれども、主語を省いても文脈から私の意図は伝わるものと思ったわけです。内容の転載・改変等を行う際、というただし書きがありますからね。ありうる解釈のうち、私を批判するのに最も都合のよいものを選んでいるように感じたので、「意地悪なのか?」と疑義を表明したわけです。

なお、野嵜さんのご意見には理があると納得したので、問題の箇所は書き換えました。

検索エンジンに引っかかるようにしてどうしようと言ふのだらうか。本當に情報を利用したい閲覽者ならば、檢索エンジンにそのものずばりの情報が表示されなくても、評判なり何なりを調べて、解凍される前の壓縮ファイルの存在を知るのではないですか。

私はかつて、「スタイルシート移行の手引き」を見つけるのに少々てこずった記憶があります。必読、などと紹介された記事があったので、ぜひ読みたかったのですが、一度は発見を諦めたくらいです。検索エンジンに引っかかるようにすれば、私と同じ苦労をする人は減るでしょう。私はそこに価値を見出します。

以上。ところで、私は毎日7時間くらい寝ています。それでも昼食後は眠くて仕事になりません。情けないことです。

平成15年1月21日

推奨スタイルシートを代替スタイルシートに変更しました。

平成15年1月21日

「文脈を省く」と云ふ事が、現實問題として「情報操作」となるのだから、徳保氏には注意して貰ひたい譯だ。

私が徳保さんに根據のない因縁を一方的につけてゐるかのやうに、徳保さんは書いてしまつてゐる。徳保氏と私の兩方の文章の熱心な讀者で、その讀者が賢明であるならば、文脈を「腦内補完」して讀めるだらうが、さうではない讀者は、この徳保氏の文章を讀むと、私野嵜が徳保氏に嫌がらせをしてゐるかのやうに思ふだらう。

根據のない因縁を一方的につけてゐるかのやうに読めるというのは反省点ですね。今後の参考にします。

ダブルスタンダードや一貫性のなさを相当程度許容する人間を自稱する徳保さんが、仕様に準拠すべきといいながら、ユーザエージェントの不具合にも対応せよ、というのは馬鹿げていますよ、と言ふ。

これも奇妙な事だと思ふ。

これは私にとっては全く奇妙ではありません。私は徹底してダブルスタンダードを貫こうなどと考えてはいないのです。場当たり的に、でたらめにダブルスタンダードを持ち出したり、原理原則を守ったりするのです。CSSについては、原理原則を守った方が私にとって楽です。だから原理原則を守る立場を明らかにしているのです。つまり私は、一貫性のないことに一貫するという愚は冒さないわけでありまして。

ならば、「消極的に『Operaにも對應すべきだ』と云ふ意見も認める」べきだと思ふのだが。そして、OperaでもInternet Explorerでも(ついでにMozilla Classicでも)それなりに整形されるやうにする、と云ふ「現実的」な對應をする努力も必要だと思ふのだが。

ここが理解できません。意見は認めますよ。でも賛成する必要はない。そういう意見があってもいいと思うだけ。私はそういうことをいうなとはいっていません。いえば反対する、それだけです。いうのも自由、反対するのだって自由でしょう。同様に、努力が必要という意見にも私は反対です。努力をするのも、それが必要なことだと主張するのも自由ですが、私が反対するのも自由です。UAの実装状況なんか一切考えない方がいいと、私は思っています。(今は、と付け加えておくべきですか?)

徳保氏は「將來の可能性さへ示しておけば拒絶してゐる事にはならない」と思つてゐるらしいが。

おっしゃる通りです。ただですね、私は「私の國語教室」は読みました。正字をある程度読めるよう、だいぶ読み取りの練習もしました。まるきり何もしていないというわけじゃあない。まだ書くところまで勉強が進んでいないという状況なんです。ここが大きな壁で……。可能性を、ある程度とはいえ私は担保しているつもりです。だから拒絶という言われ様にはたいへん不愉快なのです。黒と白の間に灰色はないのか、と。もう少しましな言い方がありそうなものだと思う。

「徳保氏は自分に都合の良いやうに理論やリソースを使つてゐる」と徳保氏が見られても、仕方のない事だと思ふ。徳保氏、「壓縮ファイルを解凍する手間を惜しむ自分の怠惰を糊塗する爲に、世のため人のため等と言つてゐる」と批判されても、當然だと思ふ。

見られてもというか、事実その通りですよ。自分の都合のいいようにやっているんです。ただ、壓縮ファイルを解凍する手間を惜しむというだけの話ではないですよ。解凍して転載したのは、検索エンジンに引っかかるようにするためでもあるのです。Tipsの情報は、多勢に利用されるべきだと思っています。

徳保氏、こんな事を書いてゐる。

内容の転載・改変等を行う際、当サイトの名称、URI、管理人の名前等、一切書添えないでください。またご利用の報告も無用です。なぜなら私は転載に加えて改変まで認めています。権利とともに責任も放棄したいわけです

こんな事を言ふ人が、自分の意見を主張したり、他人を批判したりするのである。困つた事だと思ふ。「責任を抛棄したい」のならば、責任を問はれるやうな事は一切口にしたり文章にしたりしてはならない。もし一言でも、責任を取らなければならないやうな事を口にしたり文章で公表したりしようと思ふのならば、こんな事を自分のウェブサイトに書いておいたりしてはならない。

閲覽者が一々「この文章で徳保氏は責任を取らうと思つてゐる」「この文章について徳保氏は責任を取る氣がない」と的確に判斷すべきである、と徳保氏は思つてゐるのかも知れないが、サイトの「ご利用上の注意」に一概に上のやうな「宣言」を書きながら、一々の文章について閲覽者に判斷を強ひるのは、矛盾してゐる。

或は、どの文章が責任を取る氣のない文章で、どの文章が責任を取る積りの文章かを明記しないまま、全體として「責任を抛棄したい」と宣言をしつつ、「とっぷぺーじ」の「備忘録」で責任を取るべき自己の主張を書きつらねてゐるのだから、徳保氏は「自分は他人から批判される事を豫め囘避しておきながら、自分は他人を批判しようとしてゐる」と思はれても反論出來ない筈だ。

私の書き方が悪いのでしょうか。全然、それは私の考えと違うのですけれども。私が書いているのは、転載する場合には責任も持っていってほしいという話。具体的には例えば、サイト批評サイトリンク集を転載したら、無断リンクを咎められたとしましょう。そのときに、私の名前を出して、「いや、無断リンクしたのはコイツが最初です」とかいうのはやめてね、ということ。けれども、当サイトのリソースは私が責任を持ちますよ。当サイトのオリジナルのサイト批評サイトリンク集に同様の問い合わせがあれば、私が対応します。そして無断リンクは私に認められた権利である、と主張して追い返すことになるでしょう。

野嵜さんに質問なのですが、意地悪で誤読しているのですか。それとも私の文章が下手で、本当に真意が伝わっていないのですか。

平成15年1月21日

利用者に装飾の決定権を本気で委ねるつもりなら、全て代替スタイルシート指定にすべきだと思うのですが、どうなんでしょう。

おっしゃる通りだと思います。ただ、私はいちおう、あらゆる環境で一定以上の不具合の生じるCSSを推奨することで、「CSSを切る」ことを啓蒙する機会を意図的に作り出しています。IE6などの利用者からも、(1回以上クリックするまで)ホイールによるスクロールが効かない、といったことでクレームがきました。Opera利用者からはかなり叩かれました。いずれも私にとっては「待ってました」であります。

私はある方面では一番尖った位置に立っています。最初から閲覧者にスタイルを選択させようとしても、何も知らない状態の閲覧者は戸惑うばかりでしょう。ですから、まずは機会をうかがうわけです。罠は仕掛けてあります。食いついてきたら、CSSは切ることができる、閲覧者に選択権が与えられている、といったことを解説するわけです。

もうひとつ、別のいいわけも用意しています。いちおう製作者としてお勧めのCSSというのはあるわけで、それを明示するには優先順位不明の代替スタイルしか記述しないのではちと話が違うという感じがするわけです。たとえひとつしか代替スタイルを用意しないとしても、いちおう私としてはUAのデフォルトスタイルよりは(メディアタイプがscreenとtvの場合に限って)優先したいスタイルがあるわけで。

とはいうものの、全て代替スタイルシート指定というのは十分検討に値すると思います。

平成15年1月20日

カナかな団の躁鬱でご意見をいただきました。

制作者の CSS を OFF に出来るということは、制作者の CSS に UA 依存のバグが利用されていようが box-sizing を使われようが、利用者にとって全くお構いなしということになります。なぜなら、HTML のマークアップを OFF にして、利用性を高めるために妥当なマークアップに改修することは難しいけれど、ヘタレな CSS を OFF にすることは簡単な訳だし、そうなれば CSS が仕様準拠していようが、それこそ自由な制約の CSS だろうが関係ないわけで、そのへんが論理構造と装飾を分離するメリットでもあると思うのです。

なるほど。CSSはOFFにできるのだから、仕様に準拠していなくとも実際には問題にならない、と。心情的にはという私の逃げは無意識に入れたわけですが、こう説明されてみると、テーブルレイアウトと(例え仕様に準拠していなかろうと)CSSレイアウトには実質的には大きな差があるとわかりますね。

ただまあ、リソースが正しいマークアップを施されていれば、ですがとも述べられているように、MacIEのoverflowプロパティー周りのバグに対応するためだけに、body要素の内容すべてをdiv要素とするといったマークアップをしているサイトなどがある実情は、にんともかんとも、という感じがします。

CSS振り分けの現状というのは、各UAが共通で対応している部分以外は、基本的にバグに頼っています。たまたま「AするとBになる」といった経験的知識を駆使している。NN4は@importを読み込まないから……とか。私はやはりバグ頼りは気持ち悪いと思います。

私も極端なことを書いてはいますが、落としどころとしてどのあたりを狙っているかといいますと、「NN4はCSSの解釈が糞なのでさっさと捨ててください」のような思い上がったCSSレイアウトのサイトには少し反省してほしいということなんです。あるいは、「早くCSS2に完全準拠したUAが登場しないかな」という発言を、あたかもユーザの視点に立っているかのような文脈で口にするのはやめてほしいということなんです。

中途半端なUAばかりですから、誰もがUAのCSSの解釈の不備で困る場面がありえます。けれども、そんなときはCSSを切ればよいわけです。ただそれだけ。そのとき、ああ困ったと思うのは製作者だけでしょう。CSSの解釈が不十分なUAばっかりであっても、本来、閲覧者は困らないわけです。その重大な一点を忘れている方が多すぎると思うのです。

CSSをある程度勉強している方は、究極的にはUA間で見た目を統一できないことには諦めがついているだろうと思うのです。そして多くの場合、自分が使っているUAで思ったような見た目を実現できれば、まずまず満足できるはずです。しかしそのCSSを公開すると、ときどき「私の環境では表示がひどいんですけど」といったメールが届いて動揺させられます。従来の対応は、CSS振り分けだったりしたわけです。けれども、私はここで「CSSを切ってほしい。あなたにはそれが可能だ」と返答することを勧めたいのです。

実際にやってみると、案外精神的負担は重くありません。自分の環境ではちゃんと見えるわけですし、CSSとして正当な記述だということさえ確認しておけば、W3Cの勧告という権威の裏づけが勇気を与えてくれます。この一歩を踏み出すことで、圧倒的にCSSを書くのが楽になります。いくつもの、自分が使ってさえいないUAのバグをいちいち考えるひつようがありません。CSSの仕様に従った記述さえ心がければ、表示の確認は自分の環境だけで行えばよいのです。

CSSを使ってアクセシビリティーの高いサイトを! という掛け声は、現状、一般人には今ひとつわかりにくいものとなっています。なぜなら、CSSへの対応に不備があるUAには、CSSの解説書によれば最新のIE6さえ含まれているのです。構造とスタイルを分離しておけば、スタイルを殺すことが可能になる。よってアクセシビリティーが高くなる。この製作者の用意したスタイルを殺すという概念の普及なくして、アクセシビリティー向上にCSSの付け入る隙はありません。大企業のアクセシビリティーガイドラインからテーブルレイアウトの排除が巧妙に削除され続けている所以です。

CSSレイアウトが普及しないのは、建て前が建て前でしかないことに原因があると思うのです。建て前を行動と一体化することで、CSSは本当に簡単で強力なツールとなります。しかしそのためには、正しいHTMLの導入と同様の精神的な壁を乗り越える必要がある。その壁とは、UAの実装状況を無視することです。問題のある環境の方にはCSSを切ってもらうということです。

私はやはり、HTMLと同様にCSSも純化するべきだと思います。でなきゃいつまでたってもCSSは難しいままです。本道から外れた使い途をされ続けます。そして新たな誤解さえ生み出していくのです。

平成15年1月21日

……と、いったそばから更新するという。

平成15年1月20日

数日間、更新が滞るかもしれません。

平成15年1月20日

横山秀夫「半落ち」が直木賞を取り損ねた。選考委員の誰かが「受刑者はドナーになれないことを忘れている」などという愚にもつかない批判をして、なぜかそれが支持を得てしまったからだ。受刑者がドナーになれなくたって、物語に破綻が生じないのは明々白々。宮部みゆき「火車」が「主人公の姿が見えない」として、天童荒太「永遠の仔」が「長すぎる」として落とされた以上のバカバカしい落選。ふざけるな、と。

真保裕一が落選を繰り返しているのは百歩譲って認めてもいい。宮部みゆきも「理由」まで待たされたとはいえ、最終的に直木賞作家になったことは喜ばしい。けれども福井晴敏「亡国のイージス」や東野圭吾「秘密」「白夜行」などの落選は、どうにもなんというか「空気を読め」と。ミステリーにばっかり賞を与えていられないのでしょうけれどもね。まあミステリーファンの贔屓目で見ると、直木賞の選考委員の顔ぶれは不満です、ということ。

最初から直木賞なんか望みのないジャンルのファンなら、逆に気楽なんだろうな。ミステリーは、なまじっか直木賞を取りやすいジャンルだけに……。というか、直木賞は影響力大き過ぎ。

平成15年1月19日

というか、閲覧者がどんどん賢くなれば、素人による趣味のWebサイトのデザインも、もうちっと平均レベルが上がるんじゃないのか。

サイトの製作者は閲覧者でもあるわけだから、エンターページが皆に無視されるとわかっていればそんなものふつうは作らないでしょう。MIDIだって聞いてもらえないのかと思えば付録につけたりするのはやめますよ。文字サイズ固定だって、みんなが無視するとわかっててやるバカもいないでしょう。

閲覧者を教育せずに、製作者だけ教育しようとしてうまくいくはずがない。もういい加減、みんなこれまでの教育政策の根本的な失敗に気付いてもいい頃なんじゃないの。

不勉強な閲覧者たちが一掃されない限り、おバカなWebサイト製作者の暴走は止まらないのです。閲覧者はぶつぶつ文句をいいつつも、結局は製作者のいいなりです。口先だけの批判じゃダメなのです。実力行使で、製作者のおバカをどんどん無効化していかないと。そしてそのためには、ちょっとしたお勉強が必要になる、という話。

平成15年1月19日

CSSで文字サイズを固定されて怒ってる人もいる。ユーザスタイルシートでお好みの設定値にしてみてはどうか。

平成15年1月19日

Welcomeページとかエンターページとかいわれるサイトの表紙というのはつくづくくだらない、ということはよくいわれる。たしかにその通り。

けれども、これだって別にやりたきゃやればいいじゃないかと思う。賢い閲覧者はエンターページを通過した後の目次ページにブックマークするだろう。現状、そういった知恵のある閲覧者があまりにも少なく、多くの人は律儀に表紙を通過しては、いつもいつも面倒で困るよ、なんて低能なことをいっている。そんなに面倒なら通らなきゃいいじゃないか、と私は思う。こういったいいがかりのような文句をつけられる製作者も哀れというべきか。

平成15年1月19日

MIDIの自動演奏は止めよう、というよくある意見。みんなどうして疑問を持たないの? MIDIなんて、UAのメニューから簡単に「演奏しない」設定をできるじゃないですか。

会社からお遊びのWWW閲覧をしているような連中が、なぜ自分の不勉強を棚に上げて偉そうにMIDIの自動演奏はよくないね、だってお仕事中に遊んでいることがばれちゃうじゃないか、だなんてWebサイトの製作者にお説教を垂れるのだかさっぱりわからない。それはお前がバカなだけだろう、と。MIDIを聞きたくないなら聞かなきゃいいじゃないか。選択の自由は自分の側にあるというのに、勝手に聞かせやがってといっている阿呆はどうしようもない。

これもCSS振り分けと問題は同根。閲覧者を教育すれば問題解決だというのに、そんなのは無理だから、といって道理を曲げている連中ばっかりだからこうなる。閲覧者は後々の製作者なのだから、アホなWebサイト作りをさせないためには閲覧者の内からちゃんと教育しなきゃいけないはずなんだけど、みんな自分のところのお客さんに説教して人気を落とすのを嫌がってるようだ。

そんなことでは、いつまでたっても大切なことが世間の常識にならない。

平成15年1月19日

NN4はCSSの解釈がタコ。だからNN4ではCSSが適用されないようにしています、なんていうサイトがあまりにも多いのでポカーン。

閲覧者様にはとにかく頭が上がらなくて、少しでも閲覧者様が勉強することが少なくてすむように、と考えているらしい。頭を使わせるのは申し訳ない、と。

今時NN4を利用するからには、CSSを切るくらいは常識だろう。その程度のことも勉強する気のない連中は放っておけばいい。仕事でサイトを作っているわけじゃあない。趣味でやっているんだから、お客様にぺこぺこすることはないよ。NN4だと表示が崩れるんですけど? といった問い合わせには、「CSS切ってください」と答えればいい。「そんな面倒なことやってられっか」というならそれでもいいや……って思いません?

平成15年1月19日

カナかな団の躁鬱への連続言及もこれでおしまい。

と、ここまで書いてて、ふと気がつく。じゃあ、95% に合わせて、他を切り捨てる CSS にすりゃいいじゃん。いやいや、その 95% の CSS 解釈がお粗末だから困ってしまうのか? そーなのか?

おかしなことをいうなあ。CSSのUA振り分けには、じつはこれまで書いていないもうひとつの疑念があるのです。

多くの場合、CSS振り分けってのは異なるUAにおいて同様の見た目を実現することを目的としているわけでしょう。少なくとも、なぜCSSの振り分けをするのか、という問いに、ついついそう答えてしまう人は多い。だとすれば、本来ならば、対処を考えているUAすべてが準拠している仕様のみを使ってCSSを書けばいい、ということになりますよね。とすると、CSSファイルはひとつ書けばすむので、CSSの振り分けは不要だということになります。

ところが実際には、そうしている方は少ない。Mozilla向けCSSでは角を丸めてみるとか、IE向けではスクロールバーの色を変更したり半透明を使ってみるとか、「えーと、一体なにやってるの?」と疑問に思うことが多い。UAによる見た目の違いをわざわざ作り出しているのだから。

しかしもっとわからないのは、box-sizingというプロパティーの使用。そんなもの、仕様にないというのに、自称仕様準拠推進派の連中がこぞってこんなものに飛びついている(いた)。馬鹿じゃないの。HTMLの独自拡張は唾棄するくせに、CSSの偽者プロパティーは大好きなのだから笑える。CSS3で検討されているbox-sizingだけど、破棄の方向で検討が進んでいるそうですよね。そりゃそうですよ、IE5はほぼ消えてしまい、IE5.5もどんどんシェアが落ちていて、CSS3が勧告される頃にはbox-sizingの使命は終わっているというわけ。

box-sizingを使うというのは、つまりUAのバグを認めてしまって特定の見た目を実現しようという発想です。それはやばいんじゃないのかな? 要するに、仕様準拠なんて知ったことか、ということじゃないですか。結果としての見た目が同じになればそれでいいんだよ、と。そんなことなら、どうせやりもしないHTML文書の再利用なんて御託を並べずにテーブルレイアウトでもやっているか、あるいはそれこそテーブルレイアウト派への批判でよくいっているように、PDF形式にでもしてはどうか。

UAのバグに依拠してレイアウトしてしまう愚について、ああだこうだと偉そうにいっている人が、なんでCSSではUAのバグに甘いのか。

その理由は簡単で、みんな「CSS外してOK」とはいいたくないんだよね。自分の考えた視覚デザインとやらに絶対の自信があるらしい。だからPC用視覚系UAを利用する人には必ず自分の考えた視覚デザインをちゃんと適用してもらわないと不満なんだな。そうやって結局、PC用視覚系UAの利用者の方ばっかり向いたWebサイト作りをしているわけだよ、CSSの振り分けだなんていっている皆さんは。

「やらない善よりやる偽善」なんていうけどね、やっても価値のない偽善までやることはないですよ。本当に世の中の役に立つやり方というのは、CSSは外すことができる、という啓蒙じゃないの? CSSでやってる視覚デザインなんてのはHTML文書のおまけに過ぎない、ということを実感をもって主張していくことじゃないの? 今みたいに、UAのバグまで使ってCSSによる視覚デザインを閲覧者に予告抜きで押し付けていくというのは、バカをいつまでもバカのままにしておくということだし、それでは結局、「ほーむぺーじは見た目が大事」という誤解がじつは誤解じゃなくて真実ですよと主張するようなものです。

HTMLは論理構造だけを記述し、CSSでスタイルを指定するという発想は、何が革命的だったか。それはHTML文書の最終的なデザインは、製作者ではなく閲覧者が決定する、ということです。

製作者のCSSが下手くそで読みにくい。じゃあどうする? ユーザスタイルシートで潰してしまえ! そんな閲覧者の自由を保障するのがCSSデザインですよ。HTMLで視覚デザインなどされている場合には絶対にできなかったことができるわけです。この一点さえ押さえておけば、くだらないCSS振り分けなんかさっさとおさらばできます。

あのー、私の環境からだと表示が崩れるんですけど? じゃあCSS切るか、ユーザスタイルシートでも使えばいいじゃないですか。そんなこといちいち作者に質問しないでください。300人もの閲覧者全員にメールを出している暇はないんです。……とまあ、そういうわけ。

自分の考えた視覚デザインって、そんなに大層なものなのかな? 趣味のサイトなんだから、とりあえず推奨スタイルシートなんかにするのは自由だと思う。お勧めですよ、というだけだからね。でも、「うちのパソパソじゃきれいに見れないんですー」だなんてバカUAユーザの閲覧者からの訴えに耳を貸して、仕様準拠を放り出してまで自分の考えた視覚デザインを見せたがる神経はどうなっているんだろう?

えせ仕様準拠主義者の心情はお察ししますけれども、共感はできませんね。少なくとも、仕様準拠を都合のいいときばっかり口にしていることに、もうちっと後ろめたさを感じてみてはどうかといいたい。

そーなのか? への私の回答。95%に合わせるってどういう意味? 95%のUAのバグを利用して自分の理想のスタイルを指定しちゃうぞ、ということなら大反対ですね。95%のUAで問題が起きない範囲で仕様に準拠したCSSを書くんだ、ということならどうぞご自由に。95%のCSS解釈がお粗末だというけれど、今までだってそのお粗末の範囲内であれこれやってきたんでしょ。何の問題があるのかな? それから、別に95%にあわせる必要は全くなくて、そもそもどんなUAにもあわせる必要はありません。UAの実装なんか気にしているからダメなんだ、といってもいい。肝腎なことは、CSSなしで問題なく利用できるHTML文書を作成すること、それだけです。

平成15年1月19日

CSS 使いにとって、現実的な問題ってのは、UA ごとの CSS の解釈の違いなわけで、色々苦労して UA 毎に CSS を振り分けたり補正したりしてるわけ。CSS 書くこと自体はたいしたことじゃないのだけれど、これを数ある UA でほぼ同じような見栄えを提供しようとすると、面倒なことになっちゃう。実際のところ、全ての UA で同じ見栄えは、絶対不可能なわけで、一番簡単なやり方は、仕様準拠した CSS を書いて、後は知らん、閲覧者側で自由にやってくれってとこなんだけど、そうズバッと踏ん切りもつかない。

なぜ踏ん切りがつかないのか。それは結局、なぜ構造とスタイルを分離すべきなのかを云々する建て前が、所詮は建て前に過ぎないからでしょう。

携帯電話の小さな画面でも、読み上げ式のUAによる音声表現でも問題なく情報を伝達できるようにHTMLを適切に書いてみると、文書の見た目を製作者が自由に指定することは不可能だと気付かされます。そこで、CSS対応のUAのみに対象を限定しつつ、CSSによる閲覧者へのスタイル押付を可能とする仕組みを導入しよう、ということになるわけです。

さて、現状ではCSS2に完全対応したUAはひとつもありません。したがって、それら程度の差こそあれ中途半端なCSS実装のUAはすべからくCSSをOFFにできるようにするべきです。またそれらUAの利用者は、あえてCSSの実装が中途半端なUAを使っている以上、UAがうまく処理できない(しかし仕様上正しい)CSSが用意されたHTML文書などを閲覧する際には、戸惑うことなくCSSをOFFにできる程度のスキルを持つべきです。よくわからずにたいそうな道具を振り回していてはいけません。

CSSにちゃんと対応していないUAに意図通りの表示を期待するのがそもそもの誤りです。CSSを使うなら、仕様に準拠したCSSを書けばそれでいいのであって、それ以上を求めるのはどうかしています。それは所詮、本末転倒な努力なのです。

そもそも、CSSに対応していないUAは無数にあります。CSSをOFFにできるUAも無数にあります。ブラウザ振り分けだなんてやっている方々には、製作者の用意したCSSは絶対に適用されるべきだというような思い違いがあるような気がしてなりません。それでは所詮、一部の視覚系ブラウザからのアクセスしか考えていないという意味で、心情的にはテーブルレイアウトをやっている不勉強な人々と何ら変わらないではありませんか。情けないことです。

平成15年1月19日

計算機ならぬ人間にとって、 W3C 勧告の HTML から自由な制約の HTML への変換は容易であり、自由な制約の HTML から W3C 勧告の HTML への変換は難しいと思うからです。 さらに言えば、W3C 勧告の HTML の教育を受けた人にとってさえ、 自由な制約の HTML の表記の方がマークアップの間違いが少ないのではないかと 思います。もしこれが正しいなら、「自由な制約の HTML は W3C 勧告の HTML より 平易である」という論拠になるでしょう。

などという人が現れると困るので、やっぱり正しくないと思います。

そういう方が現れても困らないのではないでしょうか。本当に困るのは、簡単でわかりやすいということに重大な価値を見出す考え方の蔓延でしょう。そうして、人にモノを考えさせないことを重視する考え方が広まってしまったから、こんな現状になっているのではありませんか。

自由な制約のHTMLというのは、たしかに説明も理解も容易です。少なくとも、物事を深く考えない人にとっては。いわゆるタグ屋があれほど人気があるのも、自由な制約のHTMLとやらの性質ゆえでしょう。「Aしたい場合にはBします」という説明だけで事足りるのは、なかなかすごいことだと思います。

何でAするの? 何でBするとAが実現できるの? という問いがキャンセルされている、という問題が問題にならない、その空気こそが批判されるべきです。そうでなければ、いつまでたっても「難しいこといわないでよ」という「ほーむぺーじ」製作者の方々は、認識を改める必要性を微塵も感じません。それどころか「うるさいこというなよ」という逆ギレさえ、平気でし続けることでしょう。

いずれにせよ、理屈としてはともかく、大多数の方々の実感としては、自由な制約の HTML は W3C 勧告の HTML より 平易であるという意見は正鵠を突いています。そしてたしかに、まさにそれ故に、W3Cの勧告するHTMLはいつまでたっても多くの人々に十分に理解されずにいるのです。

平成15年1月18日

日付けが変わってからの帰宅。同期の新年会。とても楽しかった。何を話したものだか、もうわからない。けっこう饒舌だったような記憶があるのだが。

平成15年1月17日

Yahoo! JAPAN のカスケーディングスタイルシートカテゴリにはoutsider reflexが紹介されているわけですが、CSSによるページデザインのテクニック紹介等という説明文は先日当サイトに転載したTipsについてのものなんですよね。

本家のTipsは圧縮ファイルのダウンロードという非常にわかりにくい形式に限定して公開されているわけですが、Yahooはそのあたり、全然チェックしていないんだろうなあ。いったん登録されたら滅多なことでは解除されないのがYahooですが、事実上CSSの解説がなくなったサイトをいつまでもリンクし続けるというのはどうなのでしょうか。たった12サイトしか登録されていないわけですがー。

Yahooに登録されることには一生懸命になる人は多いけれど、登録されたらもう知らぬふり。ずるい人ばっかし。Yahoo側も登録済みサイトは内容をチェックしないわけで、共犯関係になってる。Yahooはもうディレクトリサービスを投げてかかっているのかもしれないけれど、こうしたメンテナンスの悪さ、登録希望者のモラルのなさがますますディレクトリ離れに拍車をかけています。

平成15年1月17日

1月4日にアドバイスのお申込をされたshin様、先ほどチェックしたところサイトを一時閉鎖中とのこと。申し訳ございませんが、18日までにアドバイスするという2週間の期限ですが、ちょいと間に合いそうにありません。私はサイトを見てすぐにアドバイスすることもございますが、多くの場合、最初見て気になったことを頭の中で数日寝かせて、考えのまとまったところでアドバイスさせていただいております。期限前日の17日の時点で一時閉鎖中となりますと、18日中にアドバイスを書くのはいささか難しいかと。どうぞご理解いただきたく。

なお、アドバイスできない事情はshinさまの側に主にありますので、当方といたしましては、まことに勝手ながらお申込の取り下げと判断させていただきます。18日をもってご依頼は失効し、その後にアドバイスを希望される場合には、あらためて意思を表明していただきたく、よろしくお願い申し上げます。

平成15年1月16日

やっぱり私はよその掲示板ではROMやってる方がいいな、と。「今度のレポートどう?」「全然ダメー。やばいよー」みたいな話題にはいちいちカチンとくるんですよね。最低限の努力をしてから泣き言をいえ、と。低いレベルで連帯して何を安心しているのか、と。

関係ないけど、最後に豆知識というか。私みたいなタイプの人間に、「頭いいですね」というとすごく不機嫌な反応を返される場合があります。そうやって才能の問題にして、自分の努力不足に目をつぶって眠たいことをいってるんじゃないよ、というわけです。

ほめたりしない(あるいはそもそも関わらない)のが正解で、次善の手が「やっぱり勉強している方は違いますね」などと努力を評価すること。人を不機嫌にさせることを病的に恐れる方は、頭の片隅にでも置いておくとよいのではないでしょうか。

平成15年1月16日

はぁぁー、誰か私にクローンに関する 情報をください。真面目に困窮しております。

ぶち切れ第2段。我ながら、よくぞこの程度のことで怒れるものだと思う。


クローンに関する情報がほしければ、5000円くらい持って大きな書店に行くことです。私がつくづく感じるのは、結局、ほとんどの分野について、ネット上にある無料情報よりも書籍になっている情報の方が質も量も圧倒的に上である、ということです。クローンも例外ではありません。

クローンと哲学、などは重大なテーマであり、書籍ではちょいと探すだけで1000ページ単位で文献が手に入ります。ネットではどうでしょう? 原稿用紙数枚分程度の小論ばかり無数に見つかります。いくつか読んでみると、さしてバリエーションがないことにがっかりさせられます。

クローン技術そのものの解説だってそうです。ネット上にある解説はたかがしれています。本なら、300ページからの本がまるごとクローン技術の解説にあてられていることは珍しくもありません。

適当にレポートを仕上げるだけならどうでもいいんですけど、せっかくだからちゃんとクローンについて一家言持ってみたい、ということであれば、それなりのお金と時間を投資すべきだと思います。クローンは大きなテーマです。いくらでも情報が提供されています。ただし無料で手に入る情報は限られている、ただそれだけのことでしょう。

クローンのようなメジャーな情報を集めるという程度でまじめに困ってしまう大学生というのはレベルが低すぎると思いますが、ひとつだけアドバイスできることがあるとすれば、毎日新聞社は過去2年間分の新聞記事を検索できるようにしていますから、クローンというキーワードでひいてみてはいかがですか。106件のニュースがひっかかります。あるいは、Yahooで検索するとヤフー登録サイトだけで65件も引っかかります。クローン病のサイトばっかりですけど。いずれにせよ、レポートを書くには十分な情報収集の起点となるでしょう。

なお、新聞記事の検索は、ちゃんと有料サービスに加入して行うべきだと思います。対象年数が段違いで、当然、検索結果の質も段違いになります。過去の重要なニュースを総浚いできますし、あるニュースのその後数年間の軌跡も追うことができます。

平成15年1月16日

DBの先生が授業中こんなこと言ってました。Perlはヤバいと。ネット上でDLしたものは、結構ハッカーとかに攻撃されるみたいよ。自分の研究室の学生にはDLしたものと同じものをC++で作らせたって話してた。そうすりゃログも取れるし、攻撃されることはないからって。

ログ取るといやぁ、検索エンジンexciteもヤバいらしいね。エキサイトで検索かけていくと、全部ログが残ってどっかから個人情報が漏れることがあるって。受け売りで悪いんだけど、もしエキサイトを使ってるようなら即刻やめた方がいいと思われます。

これを読んだ人も是非参考にして下さい。かく言う自分は情報を専門にしている人間ですので。

いつもはROMの知人のサイトの掲示板。今日は虫の居所が悪かったので、珍しく反応してみた次第。和気あいあいの掲示板で異質な書き込みをしてしまったわけで、おいおい消す羽目になるかも。そんなわけで、備忘録にもその内容を転載しておこうかと思います。


Perl だからヤバイというのは短絡的過ぎますよ。なぜヤバイのか、そこを考えないのはどうかと。実際、Perl は重要なCGI にも使われてきた実績があります。Perl の弱点というのは、簡単にいえば、コンパイル不要なのでプログラムファイルを読むことができる、ということなんです。プログラムの仕組みがばれると、多くの場合、セキュリティーが破壊されます。しかし逆にいえば、読まれても破られないセキュリティーを構築するか、あるいは絶対にプログラムファイルを読まれないよう工夫するか、そのいずれかの対策をすることでPerl でも安全なDBを構築できるわけです。先生がこういった、だからそうなんだろう、というのでは、大学で勉強している甲斐がないような気がします。

ところで、DB屋になるならないとは関係なく、今後の仕事では文理を問わずDBをあつかうことになりますよ。Word で社内文書を作成するだけの仕事だって、DBをわかっている人なら自動で作成したファイルを分類管理(DBに保存するだけでなく、あらかじめその書類が必要をわかっている相手に自動でメールによる一括送信を行うことなどもふくむ)するシステムを構築できます。そこまでやるのがこれからの事務屋です。といってもそこまでできない人が多いのでしょうが、それでは一生涯、給料には文句をいい続けることになるでしょう。

あるいはWord はスタイルから書式を決めていく、そしてそれをテンプレート化して使い回す、というのが本来の使い方ですが、それを知らない人があまりにも多いですよね。で、このスタイルという考え方を知っているかいないかで文書作成の効率は数倍違います。当然、仕事のできが全く異なってきます。スタイルはDBの考え方の非常に平易な形での応用形です。

学生の内だけですよ、古書店に回らないような本を安く買えるのって。それに何といってもソフトがバカみたいに安いですよね。ある種の3DCADソフトなんて95%引きですよ。よほど特殊な仕事をするつもりでもなければパソコンとは少なくとも縁が切れないわけですから、コンピュータの、とくに応用(実用)分野については勉強しておくに越したことはないと思います。

最後にexciteから個人情報が漏れる、という話について。ふつうは、接続するたびにプロバイダから異なるIPが与えられるというダイナミックIPアドレスを使ってWWWまたは広くインターネット一般を利用しているはずです。したがって、Cookieで何かを調査しているのでもなければ、サービス業者が個人を特定することは不可能です。また、Cookieなんてのは要するに定期的に削除するか、あるいはexciteが怪しいと思うならexciteからのCookieだけ受け入れを拒否すればよいわけです。

念のため。Cookieは各パソコンに保存されるものですから、同じ人がいくつものパソコンからアクセスする場合(例えば学校の情報処理室とか)には、Cookieでも個人を特定できません。さらにいえば、Cookieというのは、ある人があるサイト内で何をしたかは調べられますが、それ以上のことは調べられません。したがって、固定IPアドレスのように、その情報単独でアクセスしてきた地域などを特定することなどは不可能で、一般に想定されるような「個人の特定」は不可能です。

かく言う自分は情報を専門にしている人間ですので。などというならば、それなりに勉強してください。私は日本の情報技術の未来を悲観してしまいましたよ。

平成15年1月15日

残業がきつくて寮の夕飯にとうとう間に合わなかった。午後10時まで食べられるんだけどなあ。こんなことは初めて。泣きたい。

仕方ないので、西部池袋駅名物、おいもさんのお店「らぽっぽ」看板商品の「スイートポテトアップルパイ」を食べる。少し高そうなお店の680円だから軽いだろうと思ったのだけれど、サツマイモをたっぷり使っているだけあって意想外のボリュームが……。おいしかったので良しとする。

平成15年1月15日

昨晩は9時過ぎに寝たのに、遅刻するギリギリまで寝ていた。何時間寝ていたら気がすむのか。

平成15年1月14日

実験がうまくいかない。時間が無駄に過ぎてゆく。帰宅が無駄に遅くなる。メールチェックする気力もなかった。

平成15年1月13日

outsider reflexTipsを転載しました。有用な情報は転載した方が世のため人のためになるはず。私自身も出先で読めるようになりますし(そういうことです)。ただし、配布されているデータがリンク切れの嵐。ちょっと正式公開するには手直しが多々必要そう。というわけで、私にとって重要なファイルのみちゃんと手直しして、あらためて転載記事一覧からリンクしなおします。配布されているファイルの単純な転載は、この備忘録からだけ辿れるようにしておきます。

リニューアル講座が全然書けないので、かの名作スタイルシート移行の手引きを加筆するという方向性も検討中。そういったことも考えつつの転載です。

平成15年1月13日

それはそうと、昨日私が何気なく書いた疑問にたくさんの方が反応して下さって、かなりびっくりしてます。頭の中で大体のレイアウトを考えつつ CSS を書き始めるという方が多い感じでしょうか。行き当たりばったりという方も中にはおられるようですが、私もまずデザイン案を作るとは言っても、細かいところは結構行き当たりばったりな感じです。実際に CSS 書いてブラウザで見てから唐突に色変えてみたりとかもしてますし(苦笑)。

Leinwand 発のCSS作成手順の話題、おそらくleinwand さんが一番多くの情報をもっているのでしょうから、ぜひ反応リンク集を作っていただきたいな、と。反応していそうなサイト(さとみかんなど)を回るのは効率が悪いので……。

ところで私の場合、紙に鉛筆でいろいろなアイデアを書いて概要を決定、それからCSSの書き方をしばし苦吟。いずれにしても考えるのはレイアウトだけで、各要素のスタイルは旧作を少し改訂するだけです。画像はあってもなくてもいい、というCSSしか書かないので、 Fireworks でデザイン案を作ってみたいなことは一切やりません。いわゆる「新作」のCSSは、もう長いこと書いていませんね。

平成15年1月12日

表紙を表紙らしくしようと思って少しリニューアルしてみたのですが……。すぐに元に戻しそう。

平成15年1月12日

2ch派生サイトは多々ありますが、こちらはかなりおすすめ。サイト製作者版、「泣ける2ちゃんねる」といったところか。ところで、もし「泣ける2ちゃんねる」をご存知ない方がいらしたら、ぜひこの機会に一度ご覧になることをお勧めします。2ちゃんねる大嫌いな方もこのサイトだけは見る価値があるかと……。

平成15年1月12日

CSSに中途半端に対応した視覚系WWWブラウザとしてNN4ばかりが槍玉に挙げられがちですが、中途半端なのはMozilla1.2もIE6もみんな同じです。どのブラウザも何らかの中途半端さがあります。仕様が策定されて4年以上になるというのに、いまだに対応しきれないとは何事でしょうか。

それはともかく、NN4はダメすぎるからさすがにCSSを適用させざるをえないけれども、他のブラウザ間ではなるべく同じような見た目にしよう、だなんてくだらない努力をする人が多すぎますね。どうだっていいんですよ、ブラウザ間での見た目の違いなんてのは。みんな実装が中途半端なんだから、見た目が違うのが当然なんです。見た目が違いすぎて問題がある場合には、そのダメなブラウザを利用している閲覧者が自分でCSSを外せばいいだけのこと。

現状の問題点は3つ。

  1. 不勉強な閲覧者がほとんどで、自分にサイトのデザインの調整権があることを知らない。あるいは面倒くさがりの閲覧者が多く、調整権の行使を放棄している。
  2. サイトの製作者はどういうわけか閲覧者に媚びるような連中ばかりで、閲覧者様のお手を煩わせては申し訳ない、といった発想に取り憑かれている。そんなにバカな閲覧者を逃がすのが嫌なのか?
  3. そういうわけだから、ブラウザの製作者もこうした現状に対応した商品を世に問うことになる。CSSを切るボタンを目立つところに用意しているブラウザは存在しない。

CSSコミュニティーの方々には、正直いって猛省を促したい。なぜブラウザ振り分けなんてのに血道を上げるのか? **以外のブラウザではちゃんと見えないかもしれませんとか、そんなことで申し訳なさそうにしているのか? みんな揃って、くだらないったらありゃしないですよ。

平成15年1月12日

閲覧者はサイトの文書や画像を見るだけではなく、そのサイトの雰囲気も同時に味わうのですから、視覚系ブラウザ間でちゃんと製作者の意図したデザインが拝めないというのはユーザビリティが欠如していると私は考えます。

Web!Web!Web!@2chに反論が出ていますが、これは根本的な見解の相違ですね。私は、CSSによって表現されるデザインなど、デザインの上っ面に過ぎない、ごく一部に過ぎないと考えています。どうでもいい部分です。私の意図したデザインは、CSSを外した状態で完全に表現されています。したがって、CSSの実装に不具合のあるブラウザを利用しているために当サイトを見にくい、使いづらいと感じる方は、CSSをどうぞ遠慮なく外してくださいよ、と申し上げているのです。

だったら最初からCSSなんか用意しなくてもいいじゃないかと思われるでしょう。たしかにその通り。私はまず私自身を第一の読者と考えています。あくまでも私が見ていて気持ちのよいデザインを推奨スタイルシートとして用意しているのは、ようするに自己満足です。けれども、ティム・バーナーズ・リーもいっていますよね。不完全な情報でも公開しないよりはましだって。自己満足のCSSでも、公開しないよりはましかもしれません。私のCSSをみて、勉強になりましたというメールをいただいたことは1度や2度ではありませんから。(当サイトのようなひどいCSSでさえそうなのです)

サイトの雰囲気などは、HTMLで十分に表現できます。CSSがやっているのは、所詮は屋上屋を架すようなものです。そんなものはあってもなくてもたいした問題ではない、と。だから私は、仕様に準拠さえしておけばCSSを外したHTML文書について、視覚系に限らずたいていのユーザエージェント間で製作者の意図したデザインをちゃんと共有できるのだから、それ以上を求めようとするのはくだらないと申し上げる他ないのです。

平成15年1月12日

世間一般の人の反應。Webデザイン関係者は「ブラウザが統一された方が良い」と考へてゐるらしい。

それはそうでしょう。野嵜さんのように、Opera7ではおたくのサイトのCSSはうまく解釈できない、どうにかしろ、みたいなことをいう方が絶えないのですから。CSSを切ればいいのに、たったそれだけのことさえ面倒くさがる人が多いのですから。野嵜さんでさえ私があくまでも推奨スタイルシートしか提供していない事実をあえて無視する。ましてや一般の方は……。

標準仕様がいかに便利か。それは、仕様にしたがってさえいれば、生じた不具合はすべて自分以外の誰かさんの責任に帰することができるからです。だから私は、野嵜さんが当サイトの推奨スタイルシートに文句をつけるのはお門違いだとくり返し申し上げています。仕様に準拠すべきといいながら、ユーザエージェントの不具合にも対応せよ、というのは馬鹿げていますよ。そんなことだから仕様がUAの実装に屈服するのです。世間の認識がいつまでも変わらないのです。

仕様は統一された。UAの実装はちっとも統一されない。仕様にしたがえばすむのなら、すでにWebデザインは非常に楽になっているはずです。けれども実際には、野嵜さんでさえUAの実装にあわせた記述をせよという。であれば、ブラウザが統一された方がいいと、みな思うのが当然ではないですか。

平成15年1月12日

「永遠の仔」を読了。天童荒太、やってくれたな。1999年にベストセラーになってからというもの、いつか読もうと思っていた。大学の教養科目で児童相談所で仕事をされている方からも薦められたことがあった。

たしかにその方のおっしゃる通り、「永遠の仔」は汚い物語である。ミステリー小説という娯楽作品として面白くなるように、派手で残酷な犯罪が描かれる。だが、それは本を広く売るためには仕方のないことである。天童はそうした小説を書くのが得意だから、自分のフィールドで勝負したに過ぎない。このミス2000年度版で「白夜行」「亡国のイージス」を押さえて1位になったのも納得の傑作。

「白夜行」「亡国のイージス」は文庫になったが、「永遠の仔」はまだだ。天童荒太は文庫化にあたって加筆訂正するのが好きである。だから遅れているのだろう。ハードカバーが高いと思われる方は、古書店を探すといい。やたらと売れた本なので、ちょっと探せば見つかるはずだ。

ついでに、最近読んだ本など。

床下仙人
原宏一/祥伝社文庫/16行×40字/281頁/軽いユーモア短編集。140円の古本だから、私は満足できました。
ちゆ12歳公式ファンブック
松文館/212頁/正直、私程度のライトなファンがファンブックにまで付き合うことはなかったと思った。全部読む気になれない。
永遠の仔 上
天童荒太/幻冬舎/21行×25字×2段/422頁/400字詰め原稿用紙で2385枚……直木賞を取れなかったのは長すぎるという批判があったからだそうな。本作は確かにもっと刈り込むことができそうですけど、果たしてそれが作品をよくすることにつながるかどうかは疑問。
永遠の仔 下
天童荒太/幻冬舎/21行×25字×2段/493頁/いちおうミステリー小説に分類されていますけれども、推理とかそういった要素はありません。あまりミステリーを読まない方って、けっこうその辺を勘違いされていることが多いんですよね。
オタクの歩き方 国内編
岡田斗司夫/ロケット野郎/28行×14字×3段/96頁/この連載を読むためだけに雑誌を買う気にもなれなかっただけに、本にまとまったことを素直に喜びたい。
オタクの歩き方 海外編
岡田斗司夫/ロケット野郎/28行×14字×3段/96頁/このシリーズは要するにおもちゃ屋めぐり紀行なんですが、おもちゃを買わないのに読んでいる人が大半なんじゃないかな。岡田斗司夫の著作は、大抵そうだと思う。本のテーマ自体には無関心な人が、岡田斗司夫の文章は面白いからという、ただそれだけの理由で買って読む。それで満足している、という。
HTMLとスタイルシートによる最新Webサイト作成術
今村勇輔/エクスナレッジ/286頁/CSSデザイン入門としてはエビスコムの著作がかなりよかったのだけれども、文書型宣言やフレームの取り扱いなどに非常に不満がありました。本書に出会ったときには嬉しかったですね。ああ、ようやくこういう本が出てきたか、と。「ひとりでつくれるホームページ HTML入門」は本書を読んだ後で、実際に自分のサイトを作っていく際に初級者向けの辞書的参考書として読み返すのに最適。本書とセットでお勧めしておきます。

この他にもダ・カーポ506号とか公権力横領捜査官中坊林太郎なんてのも読んだのだけれど、あんまりにもどうでもよさげなのは記録するまでもないような。昔の読書記録が続かなかったのは、何でもかんでも記録しようとしたからだった。

平成15年1月11日

Do As Infinity は伴 都美子と大渡 亮による2人組のロックバンドだと勘違いしている人がいる。あるいは、D.A.I に欠かせないのは伴都美子だと錯覚している人さえいる。D.A.I という名前は、あまりにあからさまだ。D.A.I は作曲家、長尾大のために作られたロックバンドなのだ。

長尾大は既に30歳を越えているが、作曲家デビューは意外にも99年と遅い。そのきっかけとなったのは、エイベックスに送った30曲入りのデモテープだった。浜崎あゆみのためにバラードを書いてくれと発注がきたのは、わずか3日後だったという。そして2000年、オリコンセールス第9位の作曲家として頭角を現す。

曲のセールスに最も大きく影響する要素はなんだろうか。小室哲哉、つんくらが90年代以降示し続けてきたことは、誰が歌うかは2の次、第1に重要なのは曲である、ということだった。浜崎あゆみはエイベックスが総力をあげた企画商品だ。才気あふれる作曲家、編曲家を惜しげもなく投入している。これまで多勢の作曲家が仕事に挑み、敗れ去っていった。勝ち残ったのが長尾大であり、菊池一仁だった。

しかし2001年、長尾大は苦汁をなめることになる。D.A.I の作曲家として活躍したものの、浜崎あゆみプロジェクトには地殻変動が起きていた。浜崎自身が作曲をはじめたのだ。

浜崎は完璧主義者で、しかも他人の才能を信用しない自信過剰なキャラクターを持つ。だから浜崎は、曲作りに常に自分の意向を最大限盛り込ませようと努力してきた。作曲家や編曲家が仕事をしていると、必ずそばについて指示を出したがった。とくに編曲家への指示は細かく多岐にわたった。浜崎はこうして、必死に日本の歌姫の地位に這い上がり、そして死守してきた。

自信に裏づけを得た浜崎が次に考えること……それは素人にも容易に想像がつく。なぜ他人の力を借りなければならないのか、と思うはずだ。だから、自分で作曲もすべてやりたくなる。浜崎はセルフプロデュースに踏み出した。2001年、作曲家ランキング2位はCREA、すなわち浜崎あゆみだった。その集大成というべき4thアルバムのタイトルが「I am …」なのは偶然ではない。

2002年、日本ゴールドディスク大賞は浜崎あゆみ「Voyage」に与えられた。浜崎の年度代表曲は「Voyage」だった。最も売れたのは「Η」だったが、浜崎は全ての年末特番で、そして紅白でも「Voyage」を歌った。この「Voyage」の作曲家が長尾大だ。セルフプロデュースで頂点を極め虚脱感に陥った浜崎は、米国中枢テロ事件に衝撃を受けた。そして他人に仕事を任せられる強さを、手にれたのだという。

長尾大は3年で300曲を書いてきた。そのほとんどはモノにならなかった。一流の才能が、超一流の努力をしている。それでも2001年は苦労した。2002年は再び栄光を手にした。たゆまぬ努力があってなお、道は平坦ではない。こうして、ヒット曲が生まれている。

逆リンク!

平成15年1月11日

浜崎が歌えばどんな曲でもヒットすると思っている人がいる。宇多田ヒカルだって日本人の95%がCDを買わなかった。誰もが価値を認める曲なんて、誰にだって書けない。浜崎の歌う曲をちっともいいと思わない人は多いだろう。そうした人の方が多いだろう。だが、それは他のどの歌手の歌う歌についても同様だ、ということに注意すべきだ。なぜあんな曲が? と問うても意味がない。

人気ゲームだというのでやってみたらつまらなかった、なんてことは珍しくもない。だがそれだって当然のことだ。売れても300万本、最高のゲームでさえ、日本人の98%が買う価値を見出さない。300万という数字は、その程度に過ぎない。

ベストセラーなのに面白くない小説、人気ドラマのはずなのに退屈、それはちっともおかしなことじゃない。むしろ当然のことなのだ。

浜崎あゆみは、ただ浜崎あゆみであるだけで売れているわけではない。200万人の心を捉える曲がそこにある。だから売れている。ただしその曲は、他の1億2000万人にとっては雑音かもしれない。それでも浜崎は日本一CDの売れる歌手の座を守ることができる。

……私は今、人気サイトを作ろうとする際の基本的な考え方について述べているのだが、おわかりだろうか?

平成15年1月11日

BBSログを拡充しました。にゃごろう村時代の掲示板も今はまだ残っているので、データのある限り拾いました。懐かしい。本当に懐かしい。

バラ職人時代の私を知らない方には、HTMLやCSSの勉強を始めたばかりの私の発言にひっくり返るかもしれません。たった2年前なんですね、それが。私はまだ就職活動中で、自動車の免許も取っていなかった……。当時からのお客様なら、一見の価値があるかもしれません。

平成15年1月10日

「インディペンデンス・デイ」はこれで何度目のテレビ放送だろう? 映画館で見た映画だけに、懐かしくてついつい見てしまう。アメリカ万歳の単純な映画なのかもしれないけれど、それでもやっぱりSF超大作というにまさにふさわしい直球勝負の映画作りにはすがすがしいものを感じる。

というわけで、サイト批評サイトリンク集を更新した。約1ヶ月ぶりになる。このところ新規開拓をしていないために、またまた減りに減ってしまった。最盛期と比較して4割減。それにしても、お勧めサイトの閉鎖、更新終了、休止が続くのは実に残念でならない。

平成15年1月9日

Amazonが古書仲介業をはじめていたとは知らなかった。私はずぼらで2営業日以内の発送に対応できないのでとても参加できないけれども、みなさんかなり強気の値段設定なので笑う。HTMLの古い解説書などでも半額程度だったりして、微妙な感じ。1冊づつしか注文がこないわけだから手間が多いので300円とか100円とかは無理っぽい。まあそれだと送料の方が高いというあたりがアレなんで、もともとお話にならないのでしょが。

平成15年1月8日

「UNIX USER 2003.2」を買ってきた。インストールなしでCD-ROMからデスクトップ環境を立ち上げることが可能な高機能Linux、KNOPPIX3.1日本語版がほしかったのだ。ううむ、AirH"でダウンロードした貧弱なcygwin(もっといろいろファイルをダウンロードすれば使えそうなんですけど)よりずっといい感じ。まあ、私は全然cygwinを使いこなしていないのでアレなんですがー。

研究室時代は仲間がお世話になった産総研が日本語化を担当しているから、という贔屓目を抜きにしても、WindowsユーザがときどきawkやPerlをシェルスクリプトを組んで使いたくなった場合(いや、あるんですよ、そういうことが)などには非常にいいような気がします。加工したCSVファイルなどをOpenOfficeですぐにチェックできるのも嬉しい。

というわけで、マルチブートログイン環境を構築するほどLinuxを使わない、パソコンを2台用意してLANを構築するのも大げさすぎる、ライトなライトなユーザならKNOPPIX3.1日本語版はお勧め。実用になりそう。もし実用にならないとしても、少なくとも気軽にLinux体験ができるので、社内教育程度には役立つのではありませんか。

平成15年1月8日

1月2日付でいろいろとサイトの構成をいじるなどしたが、やっつけ仕事なので不具合がいろいろとある。これを直そう直そうと思いつつ、とうとう8日にまでなってしまった。実家に帰っているときは、とにかくのんびりと何もせずに過ごしたいと思った。横浜へいったらサイトの更新どころではない。仕事が始まれば、なんだかんだいって当然ながらも休暇中より俄然忙しくなる。

いろいろ理由を考えてはいるけれども、つまりは更新意欲が減退しているということ。でもこういうときって、仕事や体調も思わしくないことが多いんですよね。今回もそうなんですがー。強引に趣味の時間をとって突破口にしたい(とかいっていると寝不足で遅刻するのがオチ)。

平成15年1月7日

新しいパソコン……まあ、それはいいんだけど、大学2年の春から使っている現在のパソコンはどうしようか。

これといって不満のないパソコンで、現在でも特別なこと以外では何ら問題のない機種だからなかなかいい買い物をしたのだろうけれども、ひとつだけ思うこともある。CD-Rを焼けるドライブが内蔵されていればなあ、と。ハードディスクが吹っ飛ぶのが怖くて、結局外付けのを買い足したのだった。

外付けのなんとやらというのは、どうしてああも大きいのだろう? 当時、近所のお店で売っていた予算に見合う数種類の中では一番コンパクトなのを買ってきたつもりだったけれども、どうもこれを使うのは億劫で、結局は年に数回しかバックアップをとっていない。何となくよさそうな気がして買ってきたCD−RWのメディアも、何となく不安であまり使わず、確実なCD-Rばかり焼いてきた。そうであればもっとコンパクトなのもあったような気がする。

結果的に今日までハードディスクは無事ですべては杞憂だったわけだけれども、無駄に悩まされたことは忘れられない。

平成15年1月7日

しばらく前から考えていたのだけれど、そろそろパソコンを買うことにする。というわけで会社帰りに池袋のビックカメラへ。ポイントカードキャンペーンをやっているのでパソコンは表示価格よりさらに15%もお得だということはチェック済みである。

仕事に使えるよう、1024MB以上メモリを積みたい。A4ノートを希望するが、持ち運べるサイズ、重さでなくてはいけない。したがって画面が14型程度、最大でも15型程度で重量3kgを上限としたい。バッテリーは2時間以上持ってほしい。FDは案外よく使うので内蔵型がいい。DVDで提供されるソフトが増えてきているので、DVDを読めなくてはならない。トラックポイントは嫌い、パッドがいい。パッドの感度は非常に重要。CPUはメーカを問わない。速度はPentiumの1.4GHz相当あれば満足だが、もっと遅くともよい。OSはXPで構わない。MS Officeは不要(といってもついてくるんだけど)。USBは1.1を望む。グラフィックボードはどうでもいい。ハードディスクは15GBもあれば解析の膨大な中間ファイルにも十分に対応できる。予算はメモリ代込みで23万円以内。

……などと相談してみると、NECの妙にかわいいデザインのパソコンになった。プラスチックを金属に見せかける表面処理をしていないのだ。すぐに傷が目立ちそうだが、そこはあきらめることにする。雰囲気は気に入ったのだ。ところで、メモリを大量に追加する場合、やはり半導体メーカ(NECや東芝など)のパソコンがお買い得になるようだ。丈夫さならIBM、液晶にこだわるならシャープだそうで、やはり各メーカの個性は相変わらず明快だ。

ポイントが溜まったついでにコンパクトフラッシュのアルミケースを買う。1万円以上もするくせに、ケースのひとつも付属していないのにはあきれたものだったが、アルミケースがカッコいいのでよしとする。

平成15年1月6日

皮膚病の症状がひどいので医者に頼み込んでようやくステロイド剤をもらった。ステロイドの副作用を恐れるのはいいけれど、患者がこれほどひどい状況になるまで漢方薬を処方し続ける医者は相当なものだと思う。会社帰りに気軽に寄れる位置にあるのは現在の医院だけなので、なおも我慢して様子を見るわけだけれど。

次回の処方に注目したい。すぐに漢方薬一辺倒に復帰するようなら医者を変えることを考えなければならない。面倒な話だが、ひどい炎症は生活にも仕事にも支障があるだから仕方がない。

平成15年1月6日

古書店に寄る。15冊を700円分で売った。そして3000円分くらいあれこれ購入。「永遠の仔」が今回の目玉。それにしても古書は安い。

平成15年1月6日

コンパクトフラッシュを購入した。SDメモリーカード、メモリースティック、スマートメディアなど同様の製品と比較して値段が安いのだ。

余談だが、私は図版多数の卒論をFD1枚に収まるように作成した。FDでデータを持ち運んでいたので、自然とそうなった。お陰でいろいろ勉強になった。大容量のハードディスクとMS Officeの普及により、つまらない文書が数MBもの大きなサイズになっても気にしない連中が増えた。そんな彼らも、データを持ち運ぶ段になって途端に困ったものだった。初期のメモリースティックなどは容量も不十分で、値段ばかりバカ高かった。CDを焼くのは、例え内蔵ドライブであっても面倒だ。しかし結局は、その手になった。私はCDを焼けるドライブが外付け、別電源だったこともあって、その面倒を嫌がった。そして同じクオリティーの文書を小さなサイズで実現することをめざした。

ちゃんとデータを小さくする方法を身につけてから256MB(512MBのコンパクトフラッシュはさすがに値段が……)を持ち歩ける環境を手に入れる、というのはまさに王道パターン。悪くないのではないかと思う。ただ、これで慢心してはいけない。初心忘るべからず、無駄に馬鹿でかいファイルに仕立ててしまうことのないよう、注意していきたい。

平成15年1月6日

仕事始めは本社屋上での社長挨拶。前座の国家斉唱は問題ないが、社歌斉唱には困り果てた。歌詞なんか覚えていないよ。

とにかく寒い。凍えた。

平成15年1月5日

とうとうフロント前の喫茶店を使ってしまった。

平成15年1月4日

久々に浜離宮へいった。ちょうど鷹匠の実演があり、多勢で賑わっていた。

浜離宮は新橋(潮留といってもいいけれど)のビル街の袂にあり、雄大な日本庭園と高層ビル群のコントラストが印象的だ。

団子がうまかった。

平成15年1月4日

ふだんの川崎大師は駅からすぐ近くにあり、境内も狭く、正月3日間の人出が全国第3位の寺社だからそぞかし……と期待していくと見事に裏切られる。7分の1の人出しかないディズニーランドと比較して、あまりにも……と思わされる。(ちなみに第2位の成田山新勝寺は参道もひどく長く、階段も長く、大本堂の奥に広がる境内は広く、空港が作れるほどの田舎にあるだけに立派なものだ。第1位の明治神宮は、ふだんに訪問すれば静寂な森に敬虔なものを感じずにはいられないが、正月はあまりの人出のためにむしろその意外な狭さが強調されて風情がない)

さて、正月の川崎大師である。本日は土曜日、昨日が寒い雪の日だったこともあり、三箇日並みの人出。しかし驚いたのはそのにぎやかさではなく、境内までが遠いことだった。

いつもの近道は通れなくなっている。順路こちら、と案内表示の掲示されたロープに従って進むと、すぐそこに見えている川崎大師にいつまでもたどり着かないのである。なるほど、商店街はこうして儲けるのか、と思い知らされた。

散々遠回りさせられてようやくたどり着いた境内は人でいっぱいで、門やお堂には警官が何人も群がり、よじ登り、拡声器まで使って声を張り上げ、人でぎっしりになった渋滞の状況をどうにかしようと闘っていた。お疲れ様。

帰途に寄った蕎麦屋はなかなかよかった。

平成15年1月3日

弟と友人の通う大学へ顔を出す。雪化粧をした人気のないキャンパスは美しかった。

足を伸ばして正月休みの本社前にもいってみた。さすがに電気のついている建物はないかと思ったら、見慣れた守衛さんがちゃんと番をしていたので恐縮した。

平成15年1月3日

新横浜プリンスホテルは庶民にはいささか高級すぎて困る。ユニットバスなのに浴槽が実家のものより大きいのはいいとして、浴槽の脇にビデまでちゃんと用意されているのはさすがにやり過ぎだと思った。

ツインに泊まったのだけれども、同室者が「これは何か?」としつこく問う。「ビデ」という名前を教えたのだが、ピンとこないらしい。ウォッシュレットの機能という認識しかないようだ。実演するのもあれなので、簡単に説明してお茶を濁した。

妹尾河童「河童の覗いたヨーロッパ」にはビデがよく登場する。ヨーロッパなどでは必ずしも浴槽につかることができない宿は少なくないが、その場合はしばしばビデが代わりに用意されている。浴槽とビデの両方がある宿も意外に多い。新横浜プリンスホテルは、こうしたヨーロッパの風習を真似ている。

横に並ぶ便器と輪郭のそっくりなビデを見ながら、日本人と西洋人の入浴についての認識の違いをあらためて感じた。日本人の考える、一日の疲れを癒すといった視点はそこにはない。あるのは、汚れた部分を洗い清めるという機能だけなのである。

平成15年1月3日

新横浜プリンスホテルそこそこ高級で素晴らしいホテルだけれども、ひとつ残念なことにはロビーがない。ロビーのあるべきフロアは、喫茶店に占拠されている。フロントの前で立ち続けるのが嫌なら600円のコーヒー代を払え、ということのようだ。

平成15年1月3日

早朝に飛び起きて朝食をとり、バタバタと身支度。実家でのんびりしていられるのは今日まで。快速電車に2時間近く揺られて横浜へ。さらに横浜線に乗り換えて新横浜へ。新横浜に到着すると、雪が降り出した。郵便局も銀行もATMがまだ動いていない。懐が寒い。致し方なくクレジットカードで2万円を融資してもらう。金貸しだけは正月から商売をしているらしい。

お金ができたので、特集が目に付いた「ダ・カーポ506号」を買う。人待ちの間にざっと目を通したのだが、「からくり民主主義」が2002年刊のお勧め書籍第3位にランクインしていてとても嬉しかった読んでいる人は読んでいるものだなあ。絶対のお勧め本。

ところで第1位の「ドキュメント 戦争広告代理店」は岡田斗司夫が1995年に「ぼくたちの洗脳社会」(これも絶対のお勧め本)で述べていた内容の焼き直し。物は書きよう次第で売れたり売れなかったりするということか。具体例の迫力は高木徹の方が勝るのかもしれないが、内容の深みは岡田斗司夫の比ではないだけに、残念な思いがする。いつまでも世間の認識は岡田斗司夫に追いつかないのか。(その岡田氏も数年に1冊ペースの傑作以外は趣味のオタク話ばかりしている人なので、そういった意味でもまじめな評論家としては永遠にメジャーになりきれないのかもしれない)

平成15年1月2日

CSSデザインによるWebサイト作成入門。CSSの解説に力むことなく、ごく自然にCSSによるデザインを紹介。幅広くサイト作成時の留意点を押さえ、「なぜ?」を起点にていねいな解説が行われている第3世代の好著。

ちなみに第1世代とはCSSという技術を従来技術に対置して紹介している本。第2世代とは、CSSによる新しいサイト作成法を紹介するぞ、という意気込みにあふれた本。第3世代とは、CSSデザインを当たり前のものとし、ごく自然に扱う本。入門書は第3世代本が望ましい、と常々思っていたので、こうした好著の登場には勇気づけられる。

平成15年1月2日

サイトの構成を変更しました。掲示板を新しくしました。古い掲示板のログも公開。興味のある方はどうぞ。リンク集は近く更新します。

平成15年1月2日

「h1とtitleが一致するのは惡い事だ」と云ふ迷信は、何處で生まれたもので誰が布教してゐるのだらう。何の根據もない筈なのに、HTMLに詳しい筈の人でさへも、この迷信を信じてしまつてゐる。

根拠はあるわけですがー。音声読み上げブラウザを利用する場合、h1とtitleが一致すると同じ文言が2度続けて読まれます。これは冗長なのではないか、という意見があるのです。h1は文書の大見出し、titleは文書の題名です。たしかにHTML文書以外では、大見出しと題名をそれぞれ設定する必要があるという場面は、そう多くないように思われます。

しかしながらHTML文書は、長い長い文章を複数の文書に小分けにするなどといった使われ方をよくするわけでありまして、この場合にtitleは「***について(その3)」としつつも、h1は「***について」で統一するといった、それぞれの筋の通し方があったりします。あるいは当サイトの場合、不徹底ながらも見出しの階層はサイト全体である程度統一しようとしておりまして、titleは各文書の題名ですが、h1は常に「趣味のWebデザイン」としています。

私はh1とtitleがたまたま一致するのは何ら問題ないと思いますが、一致しなくとも不思議ではない、と考えています。いずれにしても、これは迷信とか、信じるとかそういったレベルの問題ではないのではないですか。

平成15年1月1日

新春かくし芸大会は、今年もマチャアキが50点、中山秀征は49点で終った。毎年これで納得させられてしまうのは演出の問題だろうと思うのだけれど、うまく騙してくれているのでまあいいのか。視聴者はマチャアキと中山秀征がほぼ同格の芸を見せてくれていることに気付いてはいるのだろうし……。

ふと気付いたことをメモメモ。

雨上がり決死隊らの局部を隠す「かくし」芸、つぶやきシローの最近テレビに出ていない(テレビ界から隠されている)ことをネタにした「かくし」芸、石塚英彦の太っていて小さなテレビから出てこれない貞子という「かくし」芸あたりは、非常にわかりやすい形でネタの構造が示されている。けれども、40周年記念特別オープニング演目と題されたモーニング娘。の40回連続長縄跳びは、いったいどこがどうかくし芸だったのか気付かない視聴者が3割程度はいたのではなかろうか。

モーニング娘。はちっとも芸に成功せず、とうとう番組の最後(マチャアキの50点が出て、当軍の勝利が報じられた後!!)になって特設会場から本会場へと姿を現す。そして最後にビシッとなどといいつつ、いとも簡単に40回連続の長縄跳びに成功してみせる。かくしてようやく、かくし芸大会が始まるよ! ということで爆竹が弾け、お祝いの飾りがババーンと登場する。一見、3時間かけた大掛かりなコントと思われる。しかし、そう単純に捉えるのは少しばかり甘いのではなかろうか。

東野圭吾「名探偵の掟」を読まれた方ならピンとくるだろう。警察が名探偵に先んじて真犯人を検挙してはならないのが探偵小説のセオリーだ。間違っても警察は真犯人を検挙してはならないのである。この役割を守るため、警察はどうしたらよいか。そう、探偵に先んじて事件の真相を突き止めねばならないのである。でなければ、おちおち適当な犯人をでっち上げてなぞいられない。まさか真犯人ではあるまいな、と恐れおののくことになろう。そして遠からず、不安は現実のものとなってしまうのだ。

モーニング娘。の演目とはつまり、本当は簡単にできる40回連続長縄跳びをいかに隠すか、という「かくし」芸だったのである。

平成15年1月1日

新春を迎え平素のご厚情に深謝し皆様のご健康とご多幸を心からお祈り申し上げます。