趣味Web 小説 2004-02-08

没稿

僕の基本的な考えは「あまりモノを言うのにビクビクしながら生きる世の中は嫌だなあ」ということだ。だから、何となく訴えられた方に心情的には肩入れしている。

「善と悪」、「緩さと厳しさ」、「オープンとクローズ」、「公開と囲い込み」、今起きているいろいろなことがこれらをキーワードに語れるような気がする。今、時代の流れは「クローズ」なのである。その源流がどこにあるか、僕は知りたい。

少し違う方面から話を始めたい。

最近になってまた儀礼的無関心の話題が再燃している。ひっそりとサイトを運営していきたい、という方は少なくない。「アクセスは多い方がいい」と思っている方であっても、客層や訪問者の増えた理由を問わないケースは珍しい。意想外のリンクによる訪問者増を望まない人は、けっこう多い。

意想外の訪問者増に対し、多くの方は何もしない。そしてしばらくすると、訪問者数はいつも通りになる。やれやれ、というわけで、何もかも元通りになる。しかし時には、当該コンテンツを消す方がいらっしゃる。それは予定通りの行動かもしれないし、あるいは気が動転してのことかもしれない。いずれにせよ、コンテンツが消えて悲しむ方がいて、儀礼的無関心ということを言い出した。

WWW に無制限で記事を公開したら、意想外のリンクというリスクは避けられない。だから、何らかの技術的な方法によって、適当な制限を試みようという意見がある。ここしばらく、技術的障壁を低くしようという方向で検討が進んでいる。リスクの存在を認識しつつ、適当な対処法がないために困っていた方には朗報となろう。だが、これは根本的な解決策にならない。そもそもリスクの存在を失念している方が多いからだ。失念の理由は3通り考えられる。

  1. そもそも「意想外のリンクによる訪問者増」という状況がありうることを知らない
  2. 「意想外のリンクによる訪問者増」という状況がありうると知ってはいるが、自分がそうなる可能性を、はなっから否定している
  3. 「無断リンクお断り」などと注意書きして、これで安心だと思っている

意想外のリンクによる(驚くほどの)訪問者増を経験するのはレアケースだ。その最大の理由は、たいていの人は(意図しない)大きな需要を喚起する記事を書くことができないことだ。8割方の個人サイトは、徹頭徹尾、零細であり続けるし、大半の個人サイトは意図しない訪問客を得ることがない。こうしてみると、ふつうの人はリスクを失念しても何ら問題ない。それどころか、余計な悩みを持たずに済むのだから、むしろ賢い生き方かもしれない。

未完


私は12月4日にこう書いた。(ひとつの価値観に基づく)ノーリスクの追求は、大きな利益の逸失につながる、と。「大人なんだから、人の嫌がることはやめようよ」なんて子供騙しはもう、うんざりだ。それはお互い様ではないのか。

未完


WWW に無制限でコンテンツを公開すれば、その後、そのコンテンツがどのように閲覧されるかについてコントロールすることはできない。しかし多くの場合、コンテンツの閲覧のされ方は概ね作者の予想の範囲内におさまる。これが錯覚の元凶で、多くの人が、ありうるリスクが顕在化したときに慌てる。そのとき初めてリスクの存在に気付く。さらに、怒ったりもする。公開したコンテンツが誰でも閲覧できる状態にあること、誰でもどのコンテンツにもリンクできることについては、けっこう多くの方が認識しているようで、だから「リンクフリー」とか「リンクはトップにしてください」といった「リンクポリシー」を謳っているサイトがたくさんある。

未完



思いつくままにいろいろ書いてみたけれど、なんか、まとまりそうもないので、放り出します。(うわー)

関連記事一覧
2004年の特集記事「株式会社ウェディング問題」

Information

注意書き