なぜわざわざ「ヤクザ」と云ふ看板で賣られてゐる本から「學ばなければならない」と徳保氏が考へてゐるのか、全然理解出來ない。また、どうして「あるかもしれない」と云ふ可能性の論を言ふのかが理解出來ない。
まず前段、そんな主張はしていません。私はじっぽさん自身がヤクザに学ぼうと考えないことについては、是非を述べていません。しかし、他人がヤクザに学ぶことを反吐が出る
とまで公言されたから、医者のような社会的地位の高い人間として危なっかしい
といっているのです。職業差別的な発言は、一般にステータスが高いと判断されている職業の人間が口にすると洒落になりません。それを知りつつ敢えてやっているなら、どうぞご勝手に、となります。
(追記:私がいっているのは、じっぽさんが本心でどう考えているかはどうでもいいということ。ただし公言する範囲では、実態と関係なく「とりあえず、読んでみる」という姿勢を示すべきだ、と主張したわけです)
後段ですが、じっぽさんは實學的な知識しか與へない本を讀むのは全くの無駄
という見地からヤクザ交渉本を否定されたわけではありません。じっぽさんは職業差別の見地から否定したのであり、たまたま今回は結論が野嵜さんと一致したに過ぎません。過去の発言から、じっぽさんは実際に当該書籍を読んだ途端に「この本は素晴らしく役に立つ!」と言い出しかねないと私は予想します。だから、可能性の論を言ふ
のです。
じつのところ、食わず嫌いは重要視していません。何でもかんでも読む暇はないので、実際問題として、読まずに本を取捨選択する必要があります。判断の基準が職業差別だって、それ自体は構わない。ただ、それを口にすれば怒る人がいる。差別された当人だけでなく、関係ない人も不愉快になるんです。とくにじっぽさんのような立場の人の場合は。
人を怒らせても、自分のいいたいことをいう方が大事だと考えるなら、私のいう「謙虚」なんて気にしなくていい。野嵜さんの仰る通り、徳保氏が言つてゐるのは、世渡りの爲に示すべき「謙虚な姿勢」の事に過ぎません
から。けれども、私が職業差別という言葉を出し、ちょっと不快感を表明したら、じっぽさんは途端に腰が引けてしまう。不特定の誰かさんを対象にしているからといって安心し、何の覚悟もなしに呑気に罵言を書き連ねているから、こういう内容をWEB上で「公言」してしまったことは、確かに僕のエラーです。
なんて謝ることになるのです。
なんだ、やっぱり謝ってしまうのか。私は、そう思いました。
私は野嵜さんとは対極に位置するような人間だから、私がじっぽさんを「傲慢だ」と決め付けてはみても、それはひとつの物の見方に過ぎないとも思っています。それでもとにかく、そこにそれなりの理屈をつけることは可能です。そして実際、私が我が身をさておいてじっぽさんを傲慢だと思った気持ちは現実のものだったわけで、そういうことを避けたいのなら、じっぽさんは発言に気をつけるしかない。
徳保のような傲慢な人間に「傲慢だ」なんて批判されても屁でもない、と思うなら、別に何も気にする必要はないわけです。でもじっぽさんは、野嵜さんと違って、そうはお考えにならない。だからじっぽさんは、私の発言への対応が野嵜さんと異なってきます。
以前、野嵜さんは一貫した事を言はないやうにする、と云ふ點で一貫してゐる徳保氏。
と評されていますが、これは正しいと思う。だいたい私が他人を批判するパターンは決まっていて、一貫性を重んじる相手には「矛盾していますね」といい、優しい人間になりたいと考えている相手には「冷たいですね」といい、賢くありたいと願う相手には「バカですね」という。私自身は別に、一貫しているのがいいとか、優しいのがいいとか、賢いのがいいとか、思っているわけではない。
だから私は、自分が矛盾していても、冷たくても、バカでもいいと思っています。部分的には合理的だが、全體として筋が通つてゐない、と云ふのは、氣狂ひじみてゐる。
と野嵜さんはかつて仰いましたが、それがどうした、と私は答えたように思う。
野嵜さんと私とでは、他者を批判する際の意図が違います。私は、人間は結局、黒にも白にもならない、グレーだと思っています。何らかの価値観に基づけば、進むべき方向性は見えてきますけれども、なかなかひとつの価値観だけで人は生きられない。だから結局、部分的にしか合理的たりえない。私はいい加減だから、もうほとんど諦めているのに、野嵜さんのいうように「正しい」ものがあるんじゃないかという希望も捨てられない。
一貫性のない奴はダメだ、とかいっている人が矛盾をさらけ出すと、「そら見たことか」と思う一方で、悲しくもなります。
なかなか野嵜さんにはご理解いただけないので、今回は思い切りわかりやすく露悪的に書きましょうか。
自分ではそもそも守る積りもない事を、他人には「守れ」と言つて強要する、と云ふ事は許されない。その許されない事を徳保氏はやらかしてゐる。
私はじっぽさんの価値観を逆手にとって批判しました。そしてじっぽさんは、敢えていうならば、信念のために謝る道を選ばれた。逆に私は、私なりの挫折を通じて白も黒も諦め、信用を失う代わりに気ままな生き方を得ました。
私は立派な信念を放り出しましたが、その選択は、個人の意思に任されています。じっぽさんがもし別の価値観に基づいて行動されることにしたのなら、謝る理由はなくなります。「職業には貴賤があって、私は賤職を尊敬しない」といっても平気になります。人を怒らせても、それがどうしたって話になる。でも、そのために失うものは相当大きいですよ。だから逆に、崇高な価値観を奉じるポーズを堅持しながら内実の崩れを放置する人はずるいと思う。
自分は自分、他人は他人だという意見があるかもしれません。しかし私は、それほどできた人間ではない。「努力しているつもり」で自分を正当化できてしまう人々はどうかと思う。実態はひどい有様なのに、善人面をして恥じない人々が憎い。多くの人が、ふとしたはずみにそうした一面を覗かせます。そのとき私は、踏み絵を突きつけたくなる。
徳保氏の發言を見てゐると、徳保氏は、自分の立場がふらふらしてゐるから、はつきりした物の言ひ方をしてゐる人間がゐれば、その足下を突崩して、その人も自分と同樣に立場がふらつくやうにしたい、さうして皆で不安になつて、それで皆が同じやうになつて、で、相對的に自分は安心を得よう、としてゐるやうにしか見えない。となると、徳保氏はただ單に他人の足を引つ張つてゐるだけである。
その通りだ、といっても構わない。
徳保氏は、最初、自分の「批判」は個人的なものではなく、世間に訴へかけるものである――公益性のあるものである、と主張した。ところが、野嵜の批判を受けて、徳保氏は自分の行爲が、實は個人的な動機に基くものである、と述べた。となると、嘘を吐いて徳保氏は自分の個人的な行爲を公益性のある批評に見せかけ、じっぽ氏に謝罪させた、と云ふ事になる。これでは、誰が何う見ても、じっぽ氏が被害者であり、徳保氏こそが加害者である。
私がじっぽさんの発言に見た問題は、じっぽさん特有の問題ではありませんでした。じっぽさんはきっかけであり、ひとつの具体例です。本旨は一般論だから、対象者は不特定多数。個人的動機から不特定多数に向けて情報発信することに矛盾はない。嘘を吐い
てはいません。
刺される
は本当に文字通りでない意味で使ったのだけれど。ヤクザが話に登場するからややこしくなったんだと思う。「いつか刺されるよ」という言葉自体がじっぽさんを「刺す」ものだったから、さらに混乱を招いた。銀座ママだけを話題にすればよかった。
どうも徳保氏は、「正しい」と云ふ事を變な風に勘違ひしてゐて、「絶對の探究」で主人公が探し求める「絶對」なる物質のやうなものを索めようとしてゐるのではないか、或は、「絶對の正義」を體現して見せる人物の出現を待望してゐるのではないか――私にはさう見える。そして、そのやうな嚴然たる存在が見出せないから、徳保氏は相對的な正義を、自分の追ひ求める「絶對の正義」の影や贋物のやうに看做して、輕侮してしまつてゐるのではないか。
だが、「正しい」事――正義なんて相對的なものだよ。相對的で十分な代物だ。正義の體系は、一つの絶對的な假説の上に成立つ虚構的な體系に過ぎない。そして、數學だの科學だのにしても、その程度の體系に過ぎない。が、その體系化をどの學問も徹底的に推進めようとしてゐる。それを無意味と徳保氏は看做すかも知れないが、私はさうは思はない。そもそもの現代の西歐學問は、デカルトの「我想ふ故に我あり」の一つの假説を「絶對の假説」とし、それを基盤にして成立してゐる。さう云ふ西歐の學問を受容れた我々日本人は、まづはその「絶對の假説」から眞似する必要がある。西歐の學問は既にデカルト的な宇宙觀をも克服しようとしてゐると言ふ人があるけれども、一足飛びに過程を飛ばす事が良い事であるとは思はれない。
また、完全な人間等と云ふものは存在しない。人間は人間である時點で不完全である。それは徳保氏自身が重々承知してゐる筈の事である。が、徳保氏は、正義を實踐する人間と、人間が實踐する正義とを區別出來ない。だから、人間の態度が自分の御眼鏡に適はない時には、その人間の實踐してゐた正義が崩れてしまつたかのやうに思ひ込んでしまふ。しかし、人間なんて不完全なものだし、人間が信ずる正義に基いて完璧に實踐をする事も常に可能である訣ではない。その程度の事實は認識しておいて良いだらう。そして、日本人にはその事實だけが目に見える事であり信頼に足る事であるが、西歐の連中は目に見えないイデアをも信ずるらしい、と云ふ事は氣に留めておいて良い。そして、さう云ふ彼我の違ひを意識してゐれば、彼(西歐)の連中が彼の立場で如何に振舞ふものかも想像出來るし、そこではじめて日本人の限界を越えて西歐人つぽい振舞ひも出來るやうになる。そして、日本人の持たない嚴密な思考も或程度まで眞似出來るやうになる――のだが、この邊の文章の理窟について少し考へると、鷄が先か卵が先かの問題と同樣の問題を抱へてゐる事がわかる。だから此處で一つの飛躍を必要とする事を野嵜が主張してゐる事は意識して貰つておいて構はない。
少なくとも私に関する部分について、その通りだ、といっても構わない。