技術系サラリーマンの交差点の記事はいつも楽しみにしているのですが(先日の数学の問題は頑張ったけど解けませんでした)、記事本文もさることながら、酔うぞさんのコメントがまた一服の清涼剤というか、これがないとはじまらないというか。新聞でも紙面批評コーナが好きだったりするんですけれども、2度おいしいというか、お得でいい感じ。
津村さんは身分を明かして情報発信することを前提に、その利点と欠点を追究されています。けっこう続いてきたので、今ではかなり考察が書き溜まっています。
ただ、今のところ私の印象としては、やはり利点が欠点に比べて弱いという結論になるのかな、と。「匿名の發言は疑つてかかる」「匿名の發言は先づ否定する」と云ふ習慣が世間で定着しないうちは、「職業を明かすリスク」はなくならない
という野嵜さんの発言の趣旨にある通り、現状では匿名あるいは仮名の人物(例えば私)の発言を容易に信じる人が少なくありません。こんな現状では、職業を明かす意義は小さい。
現在の WWW は、それ以外の場所では大きなリスクなしに発信できなかった情報を容易に発信でき、しかも簡単に人の信頼を得られるという妙な状況にあります。そのため、従来は表に出てこなかったいろいろな業界のしょうもない実態が、あちこちでボロボロ出てきてしまっています。内輪の世間話が検索すれば誰でも発見できる場所でなされている状況で、いいのかこれで、と私は疑問に思っているわけです。
2月末から3月初旬にかけていっぱい書いたように、たいていの人は、指摘を受けると「やばいことを書いちゃった」と気付いて記事を引っ込めます。でもすぐにまた気が緩む。かなり痛い目に遭えばそれなりに歯止めも効くようになるけれど、こうした気の緩みが何に起因しているのかということを考えずにはいられない。そして私が予想する最大の要因は、発信者が匿名または仮名だということです。失うものがないような錯覚に陥っているから、羽目を外すのだろう、と。
実際には匿名でも仮名でも失うものがあります。例えば、自称専門家が適当なことを書けば、専門家全体の信用が落ちます。一人の警察官の不祥事が警察全体への不信につながるように、です。そのことの是非と関係なく、事実としてそういうことがある。で、そんなことは自分の知ったことではない、と断言できる人は、じつはそれほど多くない。こうしたケースまで含めて考えるなら、匿名だろうと仮名だろうと、守りたいものは山ほどあるはずなんです。
だったら、いろいろ気をつけて発言しようとするのが当然だし、そうすべきだと思う。逆に、自由に発言する道を選択するならば、あれもこれも守れないことを覚悟するしかないのではないか。そういう現実を批判するのは構わないけれど、現実問題として自由な発言は何かを失うこととセットでしか得られない権利なのです。
「匿名の發言は疑つてかかる」「匿名の發言は先づ否定する」と云ふ習慣
は世間で定着
しているように私は思いますが、WWW の日本語世界ではおそらくそうはならないでしょう。初心者向けの情報はみな匿名または仮名での発言を勧めていて、「匿名の發言は疑つてかかる」「匿名の發言は先づ否定する」
となると、多くの人が発言を信用されなくなります。つまり抵抗勢力が多数派となるので、当面 WWW の日本語世界で幅を利かせるのは、匿名・仮名の発言も信用するという考え方です。
初心者に匿名や仮名を勧める人が多いのは、「ネットは怖い」という都市伝説が広まっているからです。また、匿名や仮名の発言者としてローリスクで好き勝手書いてきた人々が先達となって後進を導いているので、匿名・仮名の拡大再生産が続いているということでしょう。
この流れはしばらく変わりそうもないので、これもまた無理な望みかもしれませんけれども、私は匿名や仮名で情報を発信している人に自制を求めていくのが現実的じゃないかと考えています。自由な発言のためなら何でも捨てる覚悟で突っ走る人はごく少数のはず。ほとんどの人は、匿名・仮名なりに守りたいものがあります。それらが危うい状態にある現実を認識すれば、無体な発言を自粛するのではないでしょうか。
けれども、大勢がリスクを忘れて気軽に何でも書いている現状を肯定する人は、おそらくかなり多いでしょう。ローリスクハイリターンの夢を捨てたくないからです。本当はローリスクではないし、ハイリターンも半ば幻想だと思いますが、積極的に自粛したい人なんて滅多にいない。例外はどこにでもあるさ、ほとんどがうまくいっているならそれでいい、という発想なのかなあ。