あれから2年、いまだに訪問者が絶えず、ときどきご意見などもいただきます。しかしいやはや、今になってこれほど長文の感想メールをいただくことになるとは……。それだけインパクトのある内容だったということでしょうか。
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改めて、はじめまして。通りすがりで「華麗にたろまにあ」を拝読した一web作家です。お返事有り難うございました。昨日のメールは出来るだけ短くしようとしてしまい、用件だけの無礼なメールになってしまったことをまずはお詫び致します。
時事列を見ると騒動からもう一年(引用者注:正しくは2年)が経過しており、徳保様がまだ本件に携わっていらっしゃるかどうかはわかりませんが、追補1にあった「私には、このロジックがよくわからない。」の一文を読んで、このメールを書きたい欲求に駆られました。大変長いメールになってしまいましたので、この分量を見た上で、読むも読まないも徳保様のご判断でお願い致します。単なる私見であり、読まねばならないメールではありません。また、もし読んで頂けるならば、一意見として読み捨て下さいませ。
全体を通して、徳保様の考察には非常に納得いきました。この騒動の何が一番罪だったのかという点に関して特にそう感じます。しかしながらその中で不明瞭なのが、上記に引用した一文、プリシラさんがこのような暴挙に出てしまった心理と、そもそもゆきさんがなぜ相手を明確にせずに「パクリ…?」という独り言を書いてしまったのかという心理、この2点かと思います。不明瞭というか、徳保様が思い当たれない、ですね。ここから先は私の推察でしかありませんが、以下に「こうだったのだろう」と思い当たったことを書いていきたいと思います。
- 1)そもそもゆきさんはなぜあのような日記をupしたのか
彼女は『桃』が、自作『夏の日に』のパクリではないか? と疑っていたわけではありません。そして自作の方こそパクリではないかとの疑いをかけられるかも、と案じていたわけでもないでしょう。どちらの懸念も微塵もなかっただろうと推測します。
ではなぜ、彼女の口から似ていることに対する不満ととれる言葉が出てきたのか。
彼女は『桃』を読んだ際に、彼女にしかわからない不快感を持ったのだと思います。
まず彼女は、『桃』を読んである疑いを感じます。それは「パクリ?」という疑念ではなく「間宮さんは私の『夏の日に』を読んだ上で『桃』を書きたくなり、書いたのではないか。なぜ間宮さんが『桃』書きたいと思ったのか、その動機は、自分なら同一の要素(猫など)を使って、もっと面白い作品が書けるという自負心を持ったから、ではないだろうか。つまり、私の作品は、私という一人の作家は、間宮さんに侮られているのでは?」という疑念です。
自分好みのモチーフやシチュエーションを使った「駄作」と感じる作品を読むことが、創作に向かう上の発憤材料になり得ることは、多くの作家さんが認められることかと思います(誉められた感情ではなく、そう公言するのは人として恥ずかしいことですが)。だから逆に、間宮さんがそういう動機で『桃』を書いたのでは? と、まさしく疑心暗鬼になった。少し自意識過剰気味の作家なら、そう思い当たるかと(私も含めてですが…)。それは作者にとって非常にシャクなことです。
そしてゆきさんは、『桃』を読んで面白いと思ったのでしょう。もしかしたら、自作よりも面白いと認めざるを得なかったのかもしれません(もちろん、彼女の頭の中のみで)。当時の事情がわからないので次も推測ですが、自分の作品より『桃』の方が、多くの称賛を浴びていたということも考えられます。それは更にシャクなことです。そして、この不快感を昇華したいと考えるでしょう。そこで取ってしまった行動が、あの日記のupなのです。
あの日記は、ゆきさんのでっちあげの疑惑です。彼女は『桃』がパクリであるなどと微塵も思っていないのに、ああ書いたのです。
なぜでっち上げの疑惑を書いたのか。それは、現実に敵に回したら絶対に勝てない相手を、想像の世界で倒すことでひとときの爽快感を得る、という心理に起因する行動だと思います。私のアイデアが優れていたから使ったのねと、パクッた? との疑惑を持っているとも取れる侮辱することが、ゆきさんにとっての想像上の勝利だったわけです。人間心理の暗部ですね。非常に暗く後ろ向きで、かつささやかな発想です。
この時点ではかなりおっかなびっくりというか、万が一の場合にいくらでも保身に回れる内容にしていますね。自分こそが疑われたらいやだな、というのは、まさしくその保身かと思います。私は証拠もなく決めつけたり、ましてや相手を一方的に疑うばかりではないですよ、というアピールです。本当は過激な内容を書いた方が爽快感はあるけれど、その爽快感は嘘がばれた場合、自らを破滅に追いやる諸刃の刃だと、この時点のゆきさんはよく承知しています。
ところが、その空想の産物であるパクリ疑惑に、素直にねぎらいの言葉をかける人が出てきました。ゆきさんはそのせいで、自分の作りだした想像に自家中毒を起こし、さも本当にあったこと(それはパクリの事実ではなく、ゆきさんがパクリを疑った、ということです)のように錯覚してしまったのではないでしょうか。もしくは、この程度ならばれないだろうと気を緩めてしまった。いずれにせよ該当作品のヒントを公言してしまうのは軽率な行動でした。
「もしね、どこかで私のを読んでらしたとしても。心の中に残ったから、それが出てくる・・・ってこともあると思うし。うんうん。フィクション・・・もなにかきっかけがあって書くものなのでしょうからね~。」私にはこのレスが全てを語っているように思います。事実を知る術がないからこそ、せめて間宮さんの心に自分の作品が良い形で残ったと思わなければ、やりきれなかったのでしょう。これは強がりというか、相手に対して負けを認めたくない、自分が優位だと信じたいという叫びに聞こえます。しかしゆきさんは一方で、現実の勝利は不可能だと痛感しています。だから相手が誰であるかを濁すのです。非常に虚しく、歪んでいる心理だと思います。
間宮さんに対する表には出せない作家ならではの不快感、不快な相手に敗北したと認めざるを得ない不満と絶望、しかしそれを昇華して心のバランスを得たいと願う気持ち。この三点なくして、あの日記のupは有り得ないと、私は考えます。女性によく見られる暗い発想だと、同じ女性として申し上げておきます。
- 2)プリシラさんが暴挙に出た心理
まずは動機について論じていきたいと思います。
プリシラさんは、ゆきさんが自サイトへリンクを貼っていることを知っており、なおかつそれを知ってからゆきさんの作品も読んでいました。その上で、ゆきさんという一人の作家を見下していたことは間違いないでしょう。リンクを貼り返さなかったのは、プリシラさんがゆきさんを取るに足らない存在だと判断したからでしょうし、随所にあるゆきさんへの侮蔑からもそう感じます。
一方、間宮さんのことは認めており、『桃』も非常にいい作品だと感じていました。
そこで偶然、ゆきさんが自作品のパクリかもしれないと疑っている作品があり、それがかなりの確率で『桃』だと言えることを知ります。
『なに、パクリ前提に所感述べてんすか?つーか「ココロの中に残る」て!ありえない。アタシさっぱり忘れてた。つまりアレですか。深層意識に刻まれるほどスンバラシイ出来であるといいたいわけですね?』ハジメテのオフィシャルネットバトルの中の文章です。プリシラさんが暴挙に出た動機は、まさしくこれなのです。
プリシラさんは、格下の作家(ゆきさん)が格上の作家(間宮さん)の作品を読み、「私のパクリだわ」と思った図々しさに腹が立ち、制裁を加えたかったのです。もっと言うなら、思い上がっている(プリシラさんの目にはそう見える)ゆきさんに、身の程をわからせたかったのでしょう。
また、ゆきさんが『桃』をパクリだと感じる理由や根拠も、プリシラさんには全く理解出来ません。私は1)で書いた理由が真相だろうと思いましたが、プリシラさんにはその可能性を思い付けなかったことでしょう。だから余計にゆきさんの心理が不可解で、パクリ要素が見当たらないということは、ゆきさんの間宮さんに対する悪意の侮蔑、そしてその侮蔑は自意識過剰からくる感情に違いないと固く信じることになったのだと思います。
プリシラさんが暴走した動機は一見、「パクられたと根拠のない疑いを口にしたことを謝罪しろ」という要求に見えますが、実は違うわけです。「パクられたという根拠のない自信を持っている人間を叩きのめし、身の程をわからせたい」、これが真実の動機であった(そして、もしかしたらプリシラさん本人も明確に意識していなかったかもしれない)のだと、私は考えます。
付け加えるなら、プリシラさんはパクリ問題について興味があって常日頃から色々調べており、自作品を妄想激しく「パクられた!」と騒ぐ作家の姿を苦々しく思っていて、それでゆきさんに対し過剰に反応してしまったのかもしれません。実際私もそういう人(根拠なく、著作権をろくに理解せず、どんな作品を見ても俺様の作品をパクっていると騒ぐ自意識過剰な人間)が世の中にいることは知っています。
プリシラさんの言動は事情をよく飲み込まずに一読しただけだとただの言いがかり、弱い者虐めに見えて胸が悪くなるのですが、自意識過剰な人間を叩きのめしたいという彼女の気持ちを考えると、ちょっと理解できてしまいます。ちょっと、ですがね。思い上がった人間が好きだなんて人はいないでしょう、ということです。
動機はわかりました。しかし、なぜプリシラさんがあそこまでの行動に出たかということは、常人には理解しがたいでしょう。自意識過剰な人間が誰にとっても好ましくないのは事実ですが、そんな人間を見かけても多くの人はあそこまで攻撃的になれないので、プリシラさんの取った行動は不可解です。
そこで焦点を当てたいのが、彼女の最大の不幸である、彼女の人間性です。
プリシラさんは、ゆきさんの言動から読み取った答え(ゆきさんは自意識過剰で思い上がっている)を、ゆきさんに対する誤解である可能性があると、ちらりとも考えませんでした(事実、誤解でした)。プリシラさんは自分の考えやスタンスに絶対の自信を持っている人なのでしょう。そして、それから外れたことをする人間を悪と見なし、悪を見つけたら制裁を与えることが自分の役割であると自負しています(むろん勘違いも甚だしいですが、彼女にとってはそうではありません)。更に、誰かを裁くことに快感を覚える人間なのでしょう。これらの人間性と動機が相乗効果で高まり、本件最大の過ちである「釣り」を嬉々として行わせました。
プリシラさんは考えます。この駄作しか書けないくせに妙にプライドが高い(プリシラさんの目にはそう見える)ゆきという作家に制裁を加え、
【思い上がっていて申し訳ありませんでした】
と謝罪させるにはどうしたらいいのか。
それにはまず、ゆきさんが疑っている作品が『桃』であることを明らかにする必要があると考えます。
果たしてそれは実現しましたので、次のステップです。『夏の日に』より『桃』が優れた作品で、パクリを疑われる余地など微塵もないことを認めさせるべきです。それをゆきさんに納得させるには、一対一で闘うより、世論を集めた方がより効果があるように感じたのでしょうね。また、世論を味方に付けて大勢でゆきさんを叩いた方が、より制裁の効果も大きくなります。そして、プリシラさんには世論を集められる自信がありました。誰の目にも『夏の日に』より『桃』の方が優れた作品だと認められるだろうと確信していたと思います。その確信と、ゆきさんの思い上がりへの不快感が、そして悪を叩くことの快感が、あんなに過激でかつ攻撃的なレスや文章、果ては検証を書かせたのだと思います。
また、あの異常なまでに楽しそうな誹謗中傷の数々は、ただプリシラさんの悪意から出た文章ではないと考えます。彼女は自分を強く見せたかったのでしょう。私はこの程度の悪人が相手であれば、真剣に立ち向かわずとも勝利を収められる大きな人間だと、アピールしたかったのでしょう。逆に言えば、そうアピールすることで自分の中にある「恐れ」の感情を外から見えないようにしたかったのかと。要は、強がりの一種です。方向の間違った見栄っ張りですね。歪んでいますし、真の人間の強さをわかっていません。しかし、こういう人は世の中にたくさんおり、珍しいケースではないと思います。
そしてゆきさんは、「パクリ」の呟きを漏らしたのが1)で書いたような動機であったゆえに、まずはヤバイと青くなって躱そうと思ったのでしょう。なかったことにしよう、から始まります。プリシラさんへのリンクを切ったことがそれですね。しかしプリシラさんが乗り込んで来て、躱せないことがわかると、ただただ謝り、逃げ腰になっていきます。想像を表に出すことで心の均衡を図っていた自分の姿が世間に露顕してしまうことを恐れ、自分の愚かさを恥じ入り、そしてプリシラさんの予想以上に攻撃的な態度に恐れをなし、ひたすら逃げたいと思うばかりだったのでしょう。
不幸にもその姿勢がプリシラさんと間宮さんの怒りをいっそう煽ることになります。正義である自分たちの望む決定的な一言(思い上がりに対する謝罪)がいつまで経っても聞けないばかりか、逃げ腰になるばかりで誠意がない(二人にはそう見えたのでしょう)ゆきさんを、どうにか自分たちの思う通りに動かすためには、まだまだ追いつめなければと更に過激になっていった……という流れだと推測します。
二人の望む一言がゆきさんから出てこなかったのは、当然なのですがね。ゆきさんが思い上がっているというのは完全に誤解ですから、ゆきさんは二人に何を要求されているのかさっぱりわからないのです。思い上がりに取れるような言動をしてしまった(日記だけでなく、その後の行動も含め)ゆきさんにも落ち度はありますが、それをはっきり指摘せずに「謝れ」と迫っても、双方意味のないことでした。指摘をするのでなくただ怒りをぶつけることは、イジメです。まさに、制裁です。取り返しのつかない落ち度ではなかったのに、この二人に目を付けられてしまって不運だったとしか言いようがありません。
そして、事件は最終段階へ進みます。どんなに攻撃してもピントの外れた(プリシラさんと間宮さんにとっては)謝罪ばかりを繰り返すゆきさんへ不快感が募りに募り、当初望んでいた謝罪だけでは満足できないレベルに感情が沸騰し、ついにはゆきさん、並びにゆきさんのサイトを潰したいとまで思うようになってしまったのでは、と私は考えます。
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私はプリシラさんと間宮さんに対し、不幸な人だなと同情の念を抱いています。産まれ持った根本の性質を、人間は変えられません。理性で抑えることは出来るでしょうが、所詮それは「抑える、堪える」という行為であり、核になる感情には少しの変化も期待できないのです。そして徳保様が仰る通り、彼女ら自身がこの根本である自分の性質を理解しないことには、彼女らはまた同じ過ちを絶対に繰り返します。全く不幸なことです。
本件を知った大勢の人も、漠然と同じ見解を持ったことでしょう。だからこそ、プリシラさんと間宮さんの存在は多くの人にとって脅威に映ったのでしょうね。自分を疑わず、自分の正義を絶対と信じ、反対意見には全く耳を貸さず、独自の考えだけで他人に危害を加えようとする、しかもその性質が更正される可能性が薄い人間。誰もが思うでしょう、この人らに万が一関わってしまったら、自分の命が危ないと。立場的にはオウムの麻原と何ら変わりないのです。
対するゆきさんは、快い存在だと言い切ることは出来ませんが、プリシラさんが持っている危険性は持ち合わせていません。従って世間に脅威とも映らなく、危険人物にターゲットにされてしまった不幸な人(もしかしたら、閲覧者にとって未来の自分の姿)として、多くの人の同情と擁護を集める結果になったのだと思います。
プリシラさんと間宮さんは、気付いたのでしょうか? 自分に潜む危険性に。その危険性は誰もが持っているわけではなく、かなり特殊な性質だということに。
前述の通り、これに気付かなければ、どれだけ彼女らが自身の行動を反省しても意味がありませんので、騒動直後は思い当たらなくても、今は気付いていることを願わずにはいられません。彼女ら自身のために。
全てざっと貴サイトを見た私の推論でしかありませんが、私はこう考えることにより、あの三人が取った行動が無理なく理解出来ました。
徳保様は考察されています。プリシラさんがもっと上手くやれば、世間の評価は逆転したのに、と。しかし私は、それは本当に虚しい「if」であると申し上げたい。彼女らは、悪と判断した対象を見つけたとき、公然と制裁を与えることにしか、自らの感情を鎮める術を見出せない質の人間なのです。その性質からいって、ゆきさんという存在を見つけたときに取る行動は、あの道しか有り得なかったのです。
人間は学習する動物なので、今回これだけ問題になったからには、次回はもっと賢くやることが可能です。ただ、それは「賢くなった」というだけで、彼女らの本質に変化があったわけではありません。騒動が外に見えないだけです。要は公然と殺人を犯すか、隠れて殺人を犯すか、その違いでしか有りません。プリシラさんと間宮さんが、自身から湧き上がる殺人衝動を顧みない限り。
長々書いてしまいましたが、ここまで読んで下さり有り難うございました。私自身web作家としてサイトを持って活動をしているゆえ、非常に興味深い事件でした。
もう半年ほど前になりますが、規模は小さいながらも(あくまでも本件と比べてですが)知人サイト同士で似たような事件が起きており、当時のことを思い出したりもしました。何が似ているかというと、正しい主張をする側が、相手から望み通りの謝罪が得られないため冷静さを失い、相手サイトに乗り込んでエスカレートしていったという点です。既に解決しておりますが、その際にも思ったものです。この人は不幸な攻撃性を持っている人だな、と。本件までの大騒動にはならなかったので、正しい主張をしていた側が叩かれるまでには至りませんでしたが、それでも私のその人を見る目は変わり、楽しみにしていた作品も色褪せてしまいました。勿体ないことですね、その人にとって。
では最後に。ここまで詳細に経緯、問題点を論じるサイトを作られた苦労、そして維持していく大変さはいかほどかと感じ入りました。このサイトを訪れる一人でも多くの人が、自分の主張を通したいと熱望する余り冷静さを失い、通すためならなんでもしようと思い至ってしまうことの恐ろしさ、それによりどれほど取り返しのつかない災厄が自らに降りかかるかということを、彼女らを反面教師として学べるとよいですね。パクリという言葉が、創作者にとってどれほどの侮辱になるかということも。そしてその言葉が周囲へ大きく影響してしまうこと。身勝手な正義を振りかざして相手を断罪しようとすることの恐ろしさも。
何より一番は、自分が人に対して攻撃的な性質であるかどうかを、またそうであるならどうしたらよいかを、自分の胸に手を当ててじっくり考えて欲しいものです。
そして事件に関わった全ての人が、自らの罪を省み、反省し、また創作の場へ復帰できることを願ってやみません。
大変ためになるサイトでした。作って下さって、有り難うございました。乱文は何卒お許し下さい。
「なるほど、そういう説明もできるな」とは思いましたが、「これで疑問氷解、気分スッキリ!」となるほど、2年間は短くありませんでした。今、私が思い出すのは、間宮さんの主張を(一瞬であれ)理解したのに、うまく擁護できなかった無力感であり、信じていた「常識」に裏切られたマイノリティが叩き潰されていく様子を、結局のところ傍観することしかできなかった悲しさです。
誤解を恐れずに書けば、少なからぬ人が、ゆきさんにも間宮さんにもプリシラさんにもなりえます。それは図らずも間宮さんたちへのバッシングという形で証明されたのではないでしょうか。
私は2003年2月末に、「プリシラさんとはもうメールのやり取りをしたくない」と書きました。しかし実際には、わずかな日を置いて数回のやり取りがありました。長文のメールも一度いただきました。提言騒動備忘録6「手打ち案について」へのご意見でした。
要点をご紹介すれば、(少なくとも)プリシラさんが求めていたのは形式的な謝罪だった、というのです。心底からの反省なんて信じる少女じゃありません、と。そうかもしれない、と私は思いました。しかしゆきさんには間宮さんやプリシラさんの望むような謝罪の形は作れなかったのだし、間宮さんやプリシラさんだって、それは同じでした。当サイトの読者は、徳保だってそうだったじゃないか、といいたいでしょう。
その「場」を支配する多数派は、意地を張らずに謝ればいいのに、と思う。でも、違うんだな。そうじゃない。結局のところ、少数派の意見も物理的に封殺されはしない。「意地を張る」を「信念を貫く」と言い換えたら、どうでしょう。大勢の批判者が周囲に集まっているからといって、信じる正義を曲げることができるのか。この判断は、他人には不可能です。こういった経験は多くの方が何らかの形で通過してきたことなのに、なぜか他人事になると自分で線引きできるような気になってしまう。(参考記事)
もちろん、線引き案の提示が契機となってトラブルが解決する場合もあるのだけれど、そうならないことも少なくありません。しかしそれを仕方ないことと考えない提案者は、ときに問題をいっそうこじらせていくことになります。
かつて私が「最初の一歩が問題だ」と書いたのは、ひとつの推論が導いた結論を提示しただけのことです。この2年間に幾度も書いてきたように、第一歩を避けるなんて無理だと思っています。誰でもこうした問題は起こす。人それぞれスタイルこそ違えど、己の信じる正義のために激して人を傷つけることは、人生において避けられない。そしてみな、その正義に絶対的な普遍性があることを証明できない。砂漠に風が吹く2005年の春。肌寒い。