趣味Web 小説 2005-08-20

消えたプロバイダ:GLOCOM forum 2005 参加報告・2

1.

出席者は東浩紀さん、白田秀彰さん、北田暁大さん、高木浩光さん、辻大介さん、加野瀬未友さん、小倉秀夫さん、崎山伸夫さん、以上8名。

今回の講演者は高木さん。それは残念ながら所用のため聴講できず、午後の共同討議から話を聞きました。

2.

まず崎山さんからの長いコメントがあり、コメントに対する高木さんの回答を足がかりに討議が進められました。

討議参加者はコの字型に机を組んでいるわけですが、ラフな会議や、プレゼン後の自由発言形式とは異なりまして、事実上のパネルディスカッション形式だったのは意外でした。なるほど、過去の議事録で東さんの発言が目立つわけです。なんでいちいちまとめに入るのか不思議だったんですね。けれども現場を見て、なるほどと思いました。

ised の共同討議は、ゴール地点どころが、現在地点さえ不明瞭なのです。プロセスだけあって出発点も到達点もない。もちろん、何も無しでは話にならないから、いろいろ枠組みが用意されてはいるのだけれども、懇親会で話を聞いても参加者の方々はいまだに明確に全体像を把握されていないらしい。全7回の予定で5回まで終了した段階でこれだから、人文系アカデミズムの世界以外では失敗ですよね、これは。

東さんは設計研の方で人文系ではプロセスが言論、ゴールも言論だから難しいと発言されました。だったら具体的なゴールを設定すればいいじゃないですか、というのが工学部卒の私の考え方。いや、それはアカデミズムのやることじゃない? でも実際、官公庁では審議会という形で昔からやっていることですよね。学内同人誌(=紀要)では個々人が好きなことを書けばいいから、書くこと自体が目的化して内実が問われない。それでも目的が無いよりは有った方がいいと東さんは仰った。誰も反論しなかったので、少なくとも設計研では全員が同意されたのでしょう。そして結局「議事録を作ることが目的」と話を収束させて現状維持路線に……。

パネルディスカッション形式なら、少なくとも最初は各参加者に好き勝手なことをいう自由があるので、足場の不明瞭を気にする必要がない。各言論の相対的な位置関係を見抜き、見取り図を作成していくのが司会者の役割。東さんはさすがに上手で、関係のなさそうな発言をうまくつないでいくので感心しました。あとで議事録を読むと、あたかも事前に打ち合わせがあったかのような流れになっているのでしょうね。

3.

倫理研の議事録は追って公開されますので、ここでは私がとくに関心を持ったポイントのみ記します。

共同討議の中核となったテーマは2つ。

  1. Kusakabe さんが mixi を強制的に大会させられた事件から、文化・価値観の異なる人々が住み分ける手段について考えさせられる。営利目的の私企業としては当然の判断で、法的な問題はない。しかし100万人が集うサービスは公共インフラとみなすことも可能ではないか。一部の人が不快を訴えているからといって、場から存在自体を抹消してしまうことの是非は? 従来は分離していた行為・表現・存在が一体化して捉えられる今後の高度情報化社会を裁く倫理とはどのようなものか?
  2. 多種多様な無数の情報にアクセスできる状況下において、「私」に最適化された情報にたどりつくことはどんどん難しくなっている。「私」にとって最も快適な情報空間を実現するためには、あらゆる個人情報を公開していく必要があるのではないか? 近代国家は国民として個人情報を登録することと引き換えに行政サービスを提供するが、中世世界にはそのようなことは考えられなかった。個人情報に対する考え方は今後、変容していくべきなのではないか?

2つのテーマは、「文化・価値観による最適な住み分けを実現することで、誰もが参加できる情報空間と、多用な主張の共生を両立させたい」という考え方に貫かれています。倫理研の参加者にとって、「インターネット自体からは誰一人として排除されないが、文化・コミュニティの差異による大きな摩擦も起こさない(起こらない)世界」が望ましい方向性の共通認識なのでしょうね。

私は話の方向性には不満なかったのだけれど、東さんが討議の中盤で、文化圏の住み分けは技術的なアクセスコントロールによって何とかなりそうだ、という方向性で強引にまとめてしまったことが引っかかりました。

そもそも何故 mixi からの強制退会事件なんかに衝撃を受け、時代が変わったなあ、なんて感慨を漏らしているのかが理解できない。これまで倫理研の過去ログを読んでいて、じつはひとつ重大な見落としがあるように思っていたのですが、この日の討議を聞いていて、とうとう不満が臨界点を超えました。

なぜ、プロバイダの存在が透明になっているのか?

4.

2ch は過去に何度もサーバへの攻撃を受けています。その対処法が興味深い。(基本的に)警察へ被害届を出すのではなく、攻撃者の利用しているプロバイダに対して接続をシャットダウンすることで対応しているのです。すると、攻撃者以外の当該プロバイダユーザからプロバイダの管理者に対し、「攻撃者のウェブ接続を制限せよ」と苦情が出ます。その結果、仮に攻撃者が「これは表現である。表現の自由を守れ!」と訴えたとしても、退会させられてしまうのですね。

「それは犯罪? それとも表現?」と争う場を与えられることなく、多数派の空気によってネットから追放されてしまう。そういったことが、過去に何度も起きているわけです。mixi から追い出されたって、大した問題ではない。ウェブサイトで持論を展開したっていいわけです。そういった、低コストで「表現」できる場は用意されています。しかしプロバイダから追い出されたら、根本的に条件が変化します。もちろん、ウェブ以外の場所で「表現」することは可能ですが、それでいいのか。

ウェブにおける「表現の自由」とか「多様な価値観の共生」について語るなら、プロバイダからの強制退会こそ、重大な問題を孕んでいるはずなのです。

そして、中国におけるウェブ情報へのアクセス制限。インターネットは分散型のネットワークなので中央集権型の情報統制はできない、といった主張が幻想だったことを如実に表す事例です。例えばネームサーバを押え、特定の場所からのアクセスに対して「お探しの情報は存在しません」と嘘をつくよう設定すれば、HTTP プロトコルを介したウェブ情報のやりとりは根本的なレベルでアクセス制限できます。

海を渡るケーブルの本数は限られています。その出入り口に網を張れば、日本国内の情報統制は可能。物理的にもインターネットの自由なんて脆弱なものです。

5.

なぜ倫理研でプロバイダからの排除が問題視されないのか、懇親会への道すがら小倉秀夫さんに訊ねてみたのですが、「プロバイダもたくさんあるから、ひとつのところから排除されても、それでネットができなくなるというわけではないからでしょうね」とのご回答。うーん、そういうことをいいたいわけじゃないんだけどな、と思ったのだけれど、うまく考えがまとまらず撃沈。日を置いて考えをまとめ直した次第。

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