趣味Web 小説 2005-09-15

引用の話題は野嵜さんにお任せ

こういう話は野嵜さんにお任せするのが一番いい……と思ったら、もう書いていらした(2005-09-15)。いい機会なので、転載します。轉載は轉載者の責任に於て行つて下さい。野嵜の記事を轉載する際、その責任者として野嵜の名前を無斷で用ゐる事を禁じます。とのことなので、転載した内容については私が文責を負います。異論・反論は私宛にどうぞ。

平成十七年九月十五日
横から口出し。名前が言及されてゐるから俺には口出しする權利がある。多分。
無為徒食日記 2005年9月
例によつて「引用論爭」。
AAぶろぐ:【2005-09-14】「馬鹿」はどっちやねん

……ていうか、そんな自分のエゴイズムのために他人の文章を勝手に改竄しないでください。

文章というものは、使用する漢字や仮名遣い等の表記によって、発音は同じでもニュアンスや受ける印象が変わるので、勝手に「漢字→かな」とか「かな→漢字」などの改竄をすれば、元の文章と比べて読者の印象等も変わってしまうからです。

「引用された」人が「引用した」人に文句を言ふ時は常に「改竄」と稱するのだけれども、どうして「引用された」人はエゴイズムを「引用した」人に押附けて良いのでせうね。「改竄」か何うかを決定する權利が「引用した」人に「ある」のでせうかね。
「改竄をすれば」と言つて、高橋雅奇氏は「改竄の效果」を説明してゐる。これは「既に許されない改竄がある」と云ふ前提での説明に過ぎない。しかし今、問題となつてゐるのは、「その改變は許されない改竄か」と云ふ事だ。高橋氏は「全ての表記の變更は改竄である」と云ふ事を、事前に證明してゐない。高橋氏は「證明するまでもなく全ての表記は改竄である」と信じ込んでゐる。かうした未證明の思ひ込みに基いた主張は、一方的なエゴの押附けにほかならず、全ての議論において無效だらうし、エゴイズムを否定する高橋氏の主張においても當然無效だらう。現時點での高橋氏の真名垣氏批判は、論理的に「正しい」ものとは言へない。或は「説得力を缺く」。

実際に、あなたのやった行為でAkky氏(無為徒食日記の管理人氏に文章を”引用”された方)が迷惑をこうむっているのです。

文意を歪曲されたとか、言つてゐない事を「言つた」事にされたとか、そんな事が「あつた」ならば「迷惑した」事になるでせうが(例:「義」が野嵜の文章を改竄してコピー&ペーストしてまはつた事)、たかだか「いわゆる」を「所謂」に改めたところで、文意は全く變らない。ただ「表記を變更されて氣分を害した」程度の事で「迷惑を蒙つた」と言つたとしたら、それは主張として「妥當だ」と言へない。「或人が『自分は迷惑を蒙つたと主張した』」と、「事實として『或人が迷惑を蒙つた』」とは、區別して考察される必要がある。また、本人の申告は、必ずしも信用出來ないもので、客觀的な檢證・傍證を必要とする。裁判でも、自白は證據として決定的なものとされない。誰かが「迷惑と感じた」と言つたとしても、それで即座に「迷惑行爲があつた」事の證明にはならないし、その事を事實と斷定してはならない。例へば、竹下義朗やアレクセイが野嵜を「掲示板荒しだ」と言つたからと言つて、實際に野嵜が「掲示板荒しだ」とは斷定出來ない。野嵜の竹下批判・アレクセイ批判が妥當なもので、その批判を封殺する爲に竹下・アレクセイが風説を流してゐる可能性も「ある」からである。氣に入らない人物の引用行爲を妨碍する爲に、引用された人が「改竄だ」と風説を流す可能性もあり得る。或は、引用された本人でない人間が「誰某はお前の所爲で迷惑を蒙つてゐるんだぞ」と根據なく極附ける事も許されない。
平成十七年九月十五日
あと。

 ∩( -_-)∩  ←馬鹿認定

大體かう云ふ問題で他人に絡む人つて、かう云ふ事をやるんですよねー。何なのでせうねー。と言ふか、認定だけが問題なのではないですか。人は主觀的に「認定」するものだ、と、かう云ふ人は信じてゐる。客觀的な檢證によつて認定が可能である、とは信じてゐない。けれども、さう云ふ主觀主義の立場に據つてゐては、客觀的な議論は出來ないよ。と言ふか、「改竄」だの「迷惑」だのと云ふ既に價値判斷が含まれた用語を用ゐて議論してゐる時點で「レッテル貼り」をやらかしてゐる事は明か。
平成十七年九月十五日
「行爲Xは『許されない改變』か何うか」を議論して、根據に基いて「行爲Xは許されない改變である」と云ふ確定的な結論が出た時、初めて「誰某は改竄をした」と言へる。議論の最初から「お前は改竄をしてゐるんだよ」と極附けるのは、「レッテル貼り」であり、許されない。
「引用における表記の變更論爭」において、「表記の變更は許されない」と主張する人は例外ナシに「改竄」と云ふ用語で話を進めようとする。固定觀念に基き、教條主義で物事の價値を極附けてゐるだけであるやうに思はれる。
平成十七年九月十五日
以下は一般論。「全ての表記の變更が『許されない變更=改竄』であるとは極附けられない」「場合によつて、表記の變更は、改竄とは看做されず、妥當な行爲と看做される」「被引用者は、引用者が『表記の變更』を行つてゐる場合、それが『許されない表記の變更』であると決定的に證明出來る場合を除いて、引用者の行爲を『改竄』と極附けられない」「被引用者は、引用文で表記に變更があつたからと言つて、即座に『改竄だ』『私は迷惑してゐる』『私は被害を蒙つた』と主張する事が許されない」「引用者は、引用文において表記を變更する場合、變更すべき妥當な理由を持たなければならない」。
また。「引用者は、被引用者に引用の許可を求める必要がない」「引用は無斷でして良い」「被引用者は不當な理由で引用を禁止してはならない」「妥當な表記の變更は、被引用者に無斷で行つて良い」。
平成十七年九月十五日
海外で、誰かが野嵜の文章を引用する時、「活字が無い」「マルチリンガル環境下のDTPが使へない」等の技術的な理由で、ローマ字表記に改めたら、それは著作權法に照らして「正當な表記の變更だ」と言へる。
一方、國内で、ローマ字主義者が野嵜の文章を引用する時、ローマ字主義者だからと言つて野嵜の文章をローマ字表記に改めて引用したら、それは著作權法に照らして「違法」と言へるだらうか、野嵜はそのローマ字主義者を訴へられるだらうか。どうも、裁判をやつても、野嵜はそのローマ字主義者氏から賠償金はふんだくれないやうな氣がする。
では、世間一般の人が野嵜の文章を引用する時、「現代仮名遣」に改めて引用したら、それは何うだらうか。野嵜は「迷惑を蒙つた」とか言つて訴へる事が出來るだらうか。無理だと思ふ。
表記の變更と、「義」がしたやうな文意の歪曲を目的にする文章の改竄とは、話が違ふと思ふ。「表記の變更も改竄だ」と言ふ人は、「義」がやつた野嵜の文章の改竄と各地の掲示板へのコピペを側面から支援してゐるやうにすら俺には思はれる。
平成14年12月13日

きょうの にっきは よみにくくて ごめんなさい。ひらがなで かいてみたく なったのです。よみにくいでしょう。これとおなじく きゅうぶんごたいで かかれているさいとも よみにくいことこのうえなし。ゆーざーの あくせしびりてぃというのは まったくかんがえないのでしょうか。ぼくは いちおうかんがえているつもりで、いつもびくびくして ぶんしょうをかいています。それもひくつかな。

これとおなじく、つて、何が同じなんだよ笑ひ。

私の場合、てにをはと、それ以外の語とで、假名と漢字を遣ひ分けたり、讀點で區切つたりして、讀者が意味を取り易くなるやうに心掛けてゐます。全文平假名で書くとか、無闇に漢字を平假名に「開く」とか、さう云ふ事をしても、日本語の文章と云ふ奴は讀み易くなるものではないですからね。


ところで、きゅうぶんごたいつて何ですか。


きたちょうせんの おかれているじょうきょうは かなりきびしいものが あります。それを ことじち に にほんの しゅちょうを のませるのも なんだか もんだいが あるような きもします。

「言質」は「げんち」と讀みます。「げんしつ」と讀むのは誤。「ことじち」は論外。2ちゃんねるで使つたら大流行しさうです。

平成14年12月14日

自分が何を書いてゐるのか、僕は分かつてゐる。「ほーむぺーじ」の多くの制作者は、僕が何を書いてゐるのか知らない。もし僕のサイトの文書がISO/IEC 15445:2000だつたとして、誰かが僕のサイトをほーむぺーじだと言つたとしたら、僕は、いやこの文書は本當はISO/IEC 15445:2000なんだよと思ふだらう。


慥に意味不明かも知れないです。


平成14年12月14日

かう云ふ批判がくるから、「闇黒式引用」はやめられない。

ぼうあんこくにっきへんせい14ねん12がつ13にちでは、りんく させずに(っていうのは、ずいぶん しつれいで、ぼくも かるく みられたことだなあ)あげつらわれて しまったのだけれど、それは だとうなこと(りんりてきに ただしいこと)なのですかねえ。ぼくの ぶんしょうに ちょさっけんは ないですか。そんな かち ないってことですかねえ。

HTML文書のソースを見ていただければすぐにわかる事ですが、私はblockquote要素のcite屬性に、引用元をはつきり明示してをります。これはW3Cが定めた正式な引用の書式です。單に引用文のそばに關係があるのかないのか良くわからないアンカーを置く「一般的」な方式よりも、當方の書式の方が、引用文と出典との關聯を明示する方式としては良いものです。

大體、引用文のすぐ近くにアンカーがあつたとして、それがその引用文と必然的な關係がある、と、どうして證明するのですか。「ほら、すぐそばにあるだらう」と引用者が辯明しても、引用された側に「すぐそばとは何だ。引用文と離れたところにアンカーを置いてごまかしてゐるだらう」と言つて非難されたら、どう反論しますか。

Mozilla/Netscape 6/7でこの書式はきちんと認識されます。Internet Explorerはこの書式を無視します(不具合です)が、コンテクストメニュー追加セットを利用すれば、出典URIを利用出來るやうになります。


てにをはと、それ以外の語とで、假名と漢字を遣ひ分けたり、讀點で區切つたりして、讀者が意味を取り易くなるやうに心掛けてゐます。

と いったからといって、よみやすい とは かぎらないんじゃあないですかねえ。「これとおなじく」よみにくいことは おなじだと おもいますよ。「きゅうじ」が なぜ よみにくいのかと いうと、つかわれている かんじが よみなれて いないからですよ。「きゅうかな」は まだ よめるとは おもうのですけど。まちがって いるのなら してきして ください。

私は「讀み易い」とは言つてゐませんよ。讀者が意味を取り易くなるやうに、と言つてゐるぢやないですか。これは、

ゆーざーの あくせしびりてぃというのは まったくかんがえないのでしょうか。

と云ふ指摘に應へたものです。

まあ、でも「きゅうじひょうき」というのは ひらがなひょうきに くらべても よみにくいこと このうえ ないんじゃあないかなあ、ひらがなだと すくなくとも おとだけは わかるしねえ。

讀み易い讀み難いのレヴェルが違ふのです。單に、「おとだけは わかる」と、「意味を取り易い」とでは、話が全然違ひます。

フランス語の文章を、私は音讀しろと言はれたら、多分、大抵のものは音讀出來ます。さう云ふ風に、フランス語の表記は出來てゐるからです。しかし、譯せ、と言はれたら、多分、かなり易しい文章でもしくじります。

意味の話と、發音の話とは、レヴェルが違ふのです。そして、音がわかる、と云ふ事は、意味がわかる、と云ふ事とは違ひます。そして、ユーザビリティ・アクセシビリティの話は、「音がわかる」レヴェルの話ではないでせう。


ところで。

というか、ぼくの げんせつの せいひを どがいしして かんがえると げんごの もんだいでなくて しゃかいがくてきな もんだいのような きがします。

これ、「正否」ですか、「成否」ですか。全く判斷出來ないのですが。小學生はおろか、學者にだつて、判別出來ませんよ。何としても意味が通じないのは、コミュニケーションをとる上で、致命的ではないですか。

かう云ふ意味の判別が出來ないやうな語を含む文章の記法は、ユーザビリティだかアクセシビリティだかが高いんですか。書く側は都合が良いかも知れませんが。

私の表記の場合、辭書をひけば、意味は解る譯ですから、「最低限のアクセシビリティ」は確保されてゐると言つて良いでせう。


基本的に、個人の好みだけで他人樣を非難するのは、場合によつては中傷と取られ兼ねません。だから私は、好みに從つて何かを言ふにしても、一應、根據には客觀的であると思はれるものを持つて來るのであります。それでも私の批判を「中傷である」と極附ける人も多いのですが、根據を擧げて批判するのも許されないとなると、人は世間で一般的である事を言ふしか文句を言はれないやうにする手段が無くなるのではないですか。さうなると、事實上の言論統制ですよ。

平成14年12月15日

ところで、どう考へてもHTMLの事を良く知らない胡桃の中の航海日誌のいずしさん、htmlと書いてゐるんですね。

私が以前、粹がつて小文字で書いて、何人かの人に惡影響を與へてゐたのですが、それとは全く關係のない處で素人さんがhtmlと書いてゐる。これはどこかに元凶が存在すると推測すべきかと思ふのですが、何なのでせうねえ。

平成14年12月15日

良くわからないのですが、取敢ず目立つ處にアンカーを置いておけば納得して貰へるみたいなので、大々的に書いておきます。胡桃の中の航海日誌胡桃の中の航海日誌胡桃の中の航海日誌

さあ胡桃の中の航海日誌へれっつごー。


「闇黒式引用」というのが正しいのか、W3Cなんてそもそも知らないし、知らなくてもhtmlは一応書けてるわけで。正式な引用の書式であろうが、出典との関係を明示する方式として良かろうが、使えないものは使われないのです。それは日本語であってもhtmlであっても言語であれば同じこと。

「闇黒式引用」と言ふのは、當「闇黒日記」常連さんならおなじみの用語と云ふ事で使つたローカルな用語です。いずしさんには通じないし、世間一般でも通じない「スラング」ですが、うちの常連さん相手にならばとても良く通じる用語です。特に某方面。

殘念ながら、いずしさんが使われないとおつしやつても、私が既に使つてゐますし、某方面でも一部で使はれてゐます。そして、實際に、HTMLの仕様書を見ればちやんと載つてゐる正式な規格ですから、文句を言はれる筋合ひではありません。

僕は、引用方式の正当性を主張しているのではなくて、貴方の引用方式だとこちらが引用されていることを知ることが出来ないと云っているのです。そういう意味でフェアーじゃあないと云われたらどう反論しますか。

引用された事に被引用者が氣附かなかつたからといつて、問題はありません。フェアではない――そんな事は知りません。引用は、引用なんだから、いずしさんに氣附かれなくたつて、全然問題ないものです。こちらは、こちらの都合で引用しただけですから。

實際のところ、「俺の氣に入らない事をするな」と凄まれて相手が引つ込まなければならないとしたら、言論の自由と云ふものは消滅するのではないでせうか。

今回はたまたま僕が見ていたからわかったものの、自分が書いている文章がどこか知らないところで論われているのはちょっといただけない。

私だつて、自分の事を蔭で批評されれば嫌ですが、公開の場に文章を晒してゐるのだから、どこで何を言はれようが、仕方のない事でせう。他人の口に戸は立てられません。決つてゐるぢやないですか。嫌なら、他人に讀まれる處に文章を公開しなければ良いのです。

引用文とアンカーに必然的な関係はないってのは、どう考えても屁理屈としか思えません。

思えません、つて、そんなあなたの個人的な意見を押附けられても困ります。

記述の正しさの為なら読者が辞書片手に読まなければならないという不便さは意に介さないということですか。

その通りです。

不便だらうが何だらうが、より正確である事の方が大事です。出來るだけ正確な言ひ方をしておけば、あとで言ひ譯出來ますから。好い加減な事を言つたら、通じる時は良いが、通じなかつた場合、面倒な事になりますからねー。

私の表記の場合、辭書をひけば、意味は解る譯ですから、「最低限のアクセシビリティ」は確保されてゐると言つて良いでせう。

そんなの屁理屈でしょう。ウェブを読むとき片手で辞書を持っている人など、多分あまりいないでしょう。それでアクセシビリティが確保されていると思われているのなら、ちょっと僕にはわからないなあ。

困りましたねえ。私が「最低限のアクセシビリティ」と書いたのに、最低限のと、大事な鉤括弧を削られてしまひましたよ。「最低限のアクセシビリティ」とアクセシビリティの一般的な意味とは、違ふんですが、いずしさんには混同されてしまひました。

そして、仮に同音多義語は必然的に意味を判別できないよ、というのであれば、よほど想像力が貧困なのか神経質なのかどちらかでしょう。普通は自動的に、文脈に沿ったり自分の理解しやすいほうに解釈するはずですから。

しかし、例のせいひの場合、解釋で決定出來ないんですよねー。せいぜい、「ダブルミーニング」である、としか解釋出來ません。

と言ふか、自分の理解しやすいほうに解釈されたら、やばくないですか。それつて、「誤解されてもOK」と云ふ事になりますよ。その「誤解」を論據に攻撃されたら、困つた事になり兼ねません。書き手が「それはあなたの誤解です」と言つても、讀者にして批判者の人から「俺はかう解釋したのだ」と言張られたら、「解釋して下さい」と言つた書き手はその批判を受容れざるを得ません。


その僕の「文化」というものは現在進行形で不定形な有機的な系をなしているものだと思っています。

私の場合、文化と云ふものは現在進行形で、過去から現在まで途切れる事なく全部繋がつてゐる筈のものだと思つてゐます。ですから、既に日本に文化は殆どありません。昭和20年の時點で、最後の殘滓は日本語だけだつたと言つても良いくらゐでしたが、國語改革の所爲で日本語の連續も消滅してしまひました。ですから、現在の日本に、博物館の陳列物的な文化の遺産はあれど、文化自體は殆どありません。

平成14年12月17日
ISO/IEC 15445:2000(E) ISO-HTML
HTMLの仕樣はISOも定めてゐて、うちの場合、それに從つてゐるんですが、ISOも知りませんか、さうですか。嚴密に言ふと、ISOとIECによる協同作業で策定された仕樣ですが。
日本工業規格JIS X 4156:2000 ハイパテキストマーク付け言語(HTML)
JISにもなつてゐます。JISも知りませんか。
平成14年12月17日

僕は、リンク方式の正当性を主張しているのではなくて、貴方のリンク方式だとこちらがどのスレからリンクされているかを知ることが出来ないと云っているのです。そういう意味でフェアーじゃあないと云われたらどう反論しますか

とか書いてみるテスト

フェアかどうかは知りませんが、自分の知らないところで誰かが自分の事をどうかう批評するのは、どうしやうもない事です。それは當り前の事でせう。

ウェブ上だらうが何だらうが、知らないところで批評されてゐるならば、氣附かなければ、無いも同然で、氣にしやうがありません。もし自分でさう云ふ批評の存在する事に氣附いたなら、批判者に報告されなくても問題はない譯で、「何で報告しないんだ」と怒つても仕方がありません。


大體、ウェブ外の現實世界で噂されたら、對處のしやうがありません。私の場合、特にウェブ外での噂のある事が豫想されるくらゐで、ウェブ上での噂を殊更氣にする氣にもなりません。

平成14年12月19日

えーと、下の項目のソースは、或意味とても面白い事になつてゐるので、いずしさんは御覽になると良いかも知れません。


ちなみに、御批判は甘んじて受けますが、謝罪する氣は毛頭ありません。と言ふか、中傷され捲つて被害を受けたのは明らかにこちらですから、加害者であるいずしさんが全面的に敗北を認めなければ、こちらとしては斷乎として戰ふだけです。

と言ふか「W3Cは知りません」つて、こちらはISO-HTMLなのですから、あなたこそ當方の事を理解する以前に讀んでもゐない、と云ふ事は明かです。相手の文章を讀んでもゐない人間が貴方は僕の意見をどれだけ理解したのでしょうも糞もないでせう。

事実無根な的外な誹謗中傷をされるとは思いませんでした。といずしさんはおつしやいますが、當方はただ、引用すべき箇所を間違へただけであり、正しく引用してゐれば根據のある批判となつてゐた事は、あなた自身がと、これが「きゅうじげんりしゅぎ」に対する批判でなくて、「きゅうぶんごたい」は「よみにくい」と云うところにに対する不快感の表明であれば、形勢逆転です。甘んじてそのご批判を受けましょう。闇黒日記に対する直接的な批判では無かったものの、そう受け止められてもおかしくない不適切なことを書き、真に申し訳ございませんでした。と認めてゐるでせう。

單に、どこが間違つてゐるのかを間違つて指摘しただけなのですから、もともと間違つた事をしたのはいずしさんであり、それを「間違いの指摘が間違っているから、お前が悪い」と威張つて言ふのは、的外ではなくて、論外です。あなたが誤つた認識を最初にして、誤つた非難をしたから、問題がこぢれたのであつて、全ての責任はいずしさん、あなたにあります。いずしさん、あなたが惡いのです。


と言ふか。

と、難癖つけられたら、「きゅうぶんごたいのさいと」と「闇黒日記」の関連性を示す論理的整合性は無い。かつ、「きゅうぶんごたい」などという単語は存在しないと先方も仰っているとでも云おうか。

もしさうやつて逃げようと言ふのなら、逃げればよろしいが、さう云ふ態度こそ、他人の文章を非難する態度として禮を缺くものであり、批判されるべきである、と云ふ事を、いずしさんは認めなければならないでせう。

客觀的に、いずしさんの主張が全て、いずしさんの獨斷に基いた主觀的なものであり、全ての人間が認めなければならないやうな眞理である譯ではない、と云ふ事は、事實です。そして、さう云ふ獨斷的な餘りに獨斷的な意見を根據に他人を非難すると云ふのは、ただ單に、誹謗中傷である、と云ふ事を、いずしさんには是非とも認識していただきたいものです。


そもそも、いずしさんは、一般的な論文や書籍で、引用文のすぐそばに出典が明記されてゐないものの存在する事を、御存じないのではないですか。ものによつては、引用文の後、或は近くに「註」があつて、文章の末尾或は卷末に纏めて出典が列擧されてゐる事もあります。これでも正當な引用です。

私のHTML文書の場合、Internet Explorerなどでは、URLがレンダリングされなかつたり、マウスやキーボードの操作で即座にURLを利用出來なかつたりたりするかも知れません。しかし、ソースを見る事で、誰でもURLを見出す事が出來ます。ですから、引用のそばにある註の番號から辿つて卷末の註を參照するのと同樣、blockquote要素のcite屬性に出典を明記するのは、手間こそかかれ、出典を誰でも知る事が出來ると云ふ點で正當な出典の示し方であると言へるのではないでせうか。

と言ふか、私の引用が氣に入らないと本氣で思ふのならいずしさん、うちを訴へますか。どつちみち、出典がどうのかうの以前に、著作權法の定める引用の要件に適つてゐない「引用」が、當方にもそちらにも大量にある以上、裁判も糞も無いと思ひますが。


それから、そもそもいずしさんが他人の事を、失禮であるだの何だのと、道徳的に説教出來る權原を教へていただけますか。或は、あなたは、自分の個人的な感情を根據に他人を失禮であると極附けるならば、自分も個人的な感情を根據に非難されても當然だと認めなければならないのではないですが、いかがですか。

とたづねても、いずしさんは議論の終了を宣言なさつてゐるので、(http://mas0721.tdiary.net/20021218.html#p08)御應へにならないのではないですか。或は、自分の處の「つつこみ機能」は荒れると嫌と云ふ事で停止しながら、當方の掲示板が荒れるのはどうでも良い事だとでも思つて、こつちに書き込みますか。

平成14年12月19日

「アンカーを設置すれば、リファラが相手のところに殘るから、自分の書いた文書に相手は氣附ける」と云ふ説は、一見もつともらしいのですが、根本的なところでごまかしを含んでゐます。

まづ、リファラが相手のところに殘るのは、何故でせうか。サイトの閲覽者がそのアンカーをクリックするなり何なりして、先方の文書にジャンプしたからです。しかし、「アンカーをクリックするなり何なり」しなくても、或ハイパーテキストから別のハイパーテキストにジャンプすれば、リファラは殘ります。そして、誰かがジャンプすれば、リファラは殘るのであり、そのジャンプが、アンカーによつて惹起こされるか、例へばblockquote要素のcite屬性によつて惹起こされるかは、關係ありません。事實として、「闇黒式引用」しかなかつた時點で、胡桃の中の航海日誌に當方からのリファラが30殘つてゐました。いずしさんは、これによつて當方が胡桃の中の航海日誌の文書に言及してゐた事實に氣附き得た筈で、ならば、アンカーを設置してゐる事と、「闇黒式引用」をしてゐた事とで、結果は同じ事になつてゐた、と言ふ事が出來るでせう。と言ふか、リファラさへ殘つてゐれば良いのなら、アンカーが設置されてゐようが、「闇黒式引用」であらうが、關係ないでせう。

しかし、問題がもう一つあります。「閲覽者がアンカーなり何なりを利用してジャンプする事で、リファラが先方に殘る」と云ふ事は、「言及した事實を相手に通知した」と云ふ事と同義か、と云ふ事です。どう考へても、言及者自身が相手に直接メールを送るなり相手のサイトの掲示板に報告するなりしない限り、相手に通知した事にはならないですから、「アンカーを置いた結果、閲覽者がジャンプして、それで相手が言及に氣附く可能性がある」と云ふ事は、報告でも何でもない、と云ふ結論を出さざるを得ないのであります。

さらに言ふならば、假にアンカーを閲覽者がアクティヴにして先方にリファラが殘つたとして、先方がアクセス解析をしてゐなかつたとしたら、どうでせうか。事實として、當「言葉 言葉 言葉」の關聯サイト(含「闇黒日記」)は、アクセス解析をしてゐません。ですから、いずしさんが胡桃の中の航海日誌から當サイトにリンクを張らうが張るまいが、當方はそれによつて胡桃の中の航海日誌に言及があつた事を知る事は出來ないのであります。そして、アクセス解析は、サイト制作者の義務でも何でもないのですから、「どうしてアクセス解析しないんだ」と私が責められる理由はありません。

結局、アンカーを置く置かないだの、リファラがどうだの、といつた事を論つて、それで「言及したのに氣附けないからフェアでない」だの何だのと結論を出すのは、全く無意味なのであります。


と言ふか、言及したのにアンカーを置かないのは失禮だと言つてゐますが、いずしさん、アンカーを置いただけでこちらに何の報告もしなかつたあんただつてそれぢや失禮だらう、と言返したい。閲覽者まかせリファラまかせで、失禮も糞も無いだらう。いずしさん、あんた自身は何もしてゐないんだから。と言ふか、「アンカーが無い」と言ひたいだけだつたと違ふか? 小一時間問詰めたい。

1億人の著作権―ケータイ・ネット時代すべての人に関係する インターネット音楽著作権Q&A コモンズ

著作権について心配のある方は、これらの本を参照されてもよいでしょう。まあ趣味レベルでは楽しく学ぼう著作権で十分なような気もします。

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