反喫煙論者は喫煙者の「タバコ正当化」に対して,「自分の父親はタバコを吸ってたけど長生きした等の個人的エピソードを持ち出して」云々という批判をすることがある.こうした批判とこのエントリーが受け入れられることをあわせて考えれば,個人的エピソードを根拠にした反喫煙の主張は許される一方で,喫煙正当化は許されないという非対称が喫煙をめぐる議論には存在することがわかる.このような非対称が許される理由はいったい何だ?教えて欲しい.
多数派の共感する言説(が依拠する価値観)は、その「場」における「正義」となります。
もともと大多数の人にとって、「正義」とはそういうもの。
それでいて多くの人が「少数派が正しいこともある」という留保を持っているのは、経験的事実によります。多数派と少数派が状況の変化により逆転する現象を何度も見てきたこと、自分の正しさを確信していながら少数派ゆえに意見が通らなかった経験があること、など。
ただ、逆転現象がよく起きる事柄と、滅多に起きない事柄があり、後者についてはとくに多数派勢力が少数派の撃滅を希求しがち。「タバコは健康に悪い(に決まっている)」という意見は一貫して日本の多数派であり続けています。似たような問題としては、例えば「自殺はよくない」など。先鋭的な事例としては、オウム真理教排撃、パナウェーブ排撃など、ヘンな宗教団体に対する社会的制裁が挙げられます。
その「場」における正義
と断ったのは、ある「場」にアクセスする人々には偏りがあるから。2ch の常識がウェブの常識ではないのと同様、ブログ界隈の常識もまたウェブ利用者全体の常識とは異なっているし、まして社会全体の常識とは必ずズレがあると考えるべき。人権擁護法案もウェブでは推進論が非常に少なく、反対論が圧倒的な多数派でした。実際にはもっと賛否は拮抗しています。先の選挙で自民と民主の得票比は1.3対1でしたが、さてブログ界隈はどうでした? もちろんマスコミの論調にも大いに偏りがあります。
そして日本人全員の主張を集約すればそれでいいのかといえば、もちろん違いますよね。日本の人口は世界人口の2%未満です。日本の常識、世界の非常識。でも、日本で行われている議論において、その「場」を支配する多数派は日本人なので、日本の常識が「正義」となって議論の前提に組み込まれがち。
以下、余談。
「受動喫煙」だとか「周りの迷惑」云々と言っている人は,生きてる時代や場所が違っていたら,ハンセン病患者やユダヤ人に向かって「周りの迷惑を考えて生きているのか」と言っていそうだ.ハンセン病患者隔離もユダヤ人排斥も当時の「科学」を根拠にしていたのだから.
この主張はキャッチーに響きそう。(参考:ハンセン病, ユダヤ人)
ただ、「例え話は異なる事象の共通点に着目して使うレトリック」という前提を忘れて、「タバコは嗜好品。病気や民族と一緒くたに論じるとは何事か!」といった反論は出るでしょうね。異論を潰すためなら、多少の無理は押し通す……という乱暴な方は少なくありません(と他人事のように書いてみる)。