趣味Web 小説 2005-11-04

勝てる議論、勝てない議論

今後、「安直に“こどものしあわせ”を人質に取ってディベートに勝とうとするの禁止」ルールの導入を要求する!

勇ましく宣言できるのは自分のブログの記事だからであって。いや、そのためのブログなのだろうし、そのこと自体について、どうこういいたいわけではない。ただ、勝ちたい人はどんな手だって使うのだし、そもそも大抵の議論は前提とする事実と、その事実を解釈する価値観を武器に争うものなのだから、「こどもがかわいそう」という価値観が説得の材料に持ち出されるのは当然なんだよね。

ちなみに、純粋に論理だけで正誤が決まるのは前提が共有されている場合に限られます。一方が他方を「論理的に間違っている!」と難詰する事例は数限りなくありますが、そのほとんどは一方的な前提条件の押付に基づくもの。「だってAはBに決まっていて、だからCという主張とDという主張は矛盾しているじゃないですか!」いや、AはBと決まっているとは思いませんけど……みたいな感じ。

今、現実問題として「こどもがかわいそう」を持ち出すと「まあ、たしかに可哀想といえば可哀想かもね」と思う人がたくさんいるような展開があるとして、相手がそれを持ち出すことを推し留めようとするのはおかしい。飛車角落ちを要求するようなもので、その時点で負けなんです。

余興ならハンデ戦でもいいけれど、面倒くさがりの人々がわざわざ起こす議論というのは、傍目にはくだらないことをやっているように見えても、当人たちはそれなりに真剣なことが多い。人間存在を賭けちゃってる面があったりする。そこでハンデ戦を申し入れるのって、試合放棄と変わらないんだなあ。

……と書いてみたけれども、まあ釈迦に説法でしょうな。

それにしても、「こどもがかわいそう」という大義名分のもとに繰り出される攻撃的な物言いは、えてして言った側は絶対的な「正義」にひかり輝き、言われた側は即座に「邪悪」の淵にたたき込まれる(ヘタに反撃しようものならさらに立場悪化)だけに、その破壊力はまさに戦慄もの。

このあたりの状況認識はお見事。「かわいそうじゃないっ!」と少数派がいったって、多数派には勝てないのであります。「親失格」とか「非情」とか「人間として大切な何かが欠けている」とか、そういうことになってしまうのがオチ。

結論として、少数派は大手小町のような不特定多数が集まる掲示板で価値観対立に基づくディベートを仕掛けるべきではない。価値観が共有されているなら、事実を出した者が勝つ。最初は100対1の劣勢だとしても。でも事実が共有されていて、価値観が対立している場合、最初からやるだけ無駄、というケースが多いと思う。なので、私が大手小町に書くなら、「こういう少数意見もありますよ」という事実の提示に留めます。「ある」のは事実なので、それだけを争点とすれば勝てる。

しかしながら、みんな勝つことに必死になっているように見えて、じつはそうじゃない。意外と、正義とかそういったものを信じて戦ってる。だから負け戦を回避できない。それも人生、って大げさですか?

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