「無断リンク禁止」という主張をことさらに批判し、あるいは嘲笑するような記事は世の中に少なくないのだが、私が少し奇妙に感じるのは、「リンクは自由にしてよい」と主張する側が、あまりにも「当然にこの主張は正しく、法的にも理がある」と自信満々であることだ。いや、彼らの主張自体が全くの誤りであるとは、私も思わない。なるほど、リンクする権利は広く認められ、法的にも保障されているのであろう。しかしそれならば、粛々とリンクすればよいのではないだろうか。
たまたま現在、法律で認められている行為について、「禁止すべきだ」と発言し、その意図を実現するべく行動を起こすことは、自由主義国である日本において、基本的には認められる。よって「リンク禁止」を掲げることは自由だし、「無断リンク」を糾弾することもまた自由である。
もちろん、当人がどういおうと、何を考えていようと、法は無断でのリンクを認めるのだから、リンクしたい側には何ら制限は存在しない。好きなように好きなだけリンクすればよい。「無断リンク禁止」に対する批判は、多くの場合、禁止したい側の主張が感情に根ざしたものであることを難詰する。「リンクできてしまう」世界で「リンクされて怒る」のはナンセンスである、などという。何だか、おかしい。どうおかしいか。それは、その批判が無意味だからだ。そもそも議論の余地などないのだから、ひたすらリンクしまくればよい。
議論などするから、議論の余地があるかのような話になり、紛糾してしまう。無用に人を傷つけることにもなろう。言葉でやり込めるのではなく、単に事実としてのリンクによって、現実を知らしめればよい。恥をかかされなければ、時間は少しかかるかもしれないが、静かに世界を受け入れていく人が多いのではないか。
リンクの自由を掲げる人々が、しなくていい議論を起こし、無断リンク禁止派を攻撃し、追い詰めようとする動機は何か? それは多くの場合、私の見るところ、無断リンク禁止派と変わらぬ感情的なものでしかないように思われる。すなわち、無断リンク禁止派が無断リンクを嫌がることが、彼らにとって不満なのである。無断リンクを禁止したいと思う人々の価値観、心のありようを、彼らは許せないと思い、「消えてなくなればいいのに」などと思っているのだ。
当然認められるべきリンクの権利が何者かによって抑圧されているならば、彼らの戦いを私は支持する。私も、リンクは自由にできて然るべきだと考えるからだ。しかし現在、リンクの自由は認められている。ただ、リンクを嫌がる人がいるだけだ。これ以上、どのような勝利を求めるのか。
「リンクの自由」とは、リンクについてのみ考えれば自由、という仮想的なものだ。現実には、リンクが単独で存在するわけもない。リンクの周辺事情が問題なのに、「無断リンク」に反応した相手の勘違いを利用する狡猾な戦略が目立つ。絶対に勝てる「リンクの自由」を楯に価値観闘争の勝利を狙うわけだ。
もし純粋に「リンクの自由」を啓蒙したいなら、最大の成功例・検索エンジンを見習えばよい。検索エンジンは当たり前のように無断リンクし、許される。そしてリンクを拒否したい一部の人々に、お勉強を強いる。議論は要らない。人々は淡々と検索エンジンのある世界を受け入れている。