実行可能なことは、当然、実行される可能性があると考えねばならない。されて困ることは、なるべくされないよう対策を練るべきだ、とはいえる。もっとも、費用対効果の問題はある。
リンクは自由にできてしまう、だからウェブに無制限で情報を公開するとき、リンクされる可能性を考慮すべきだ、という主張は理解できる。が、できることは全てやってよい、となると、おかしい。人が人を殺すことは可能だが、殺人を許さない人々が(少なくとも現代の日本においては)社会の多数派なので、殺人者は制裁される。
現状、リンクを制限する法がないので、法的にはリンクの自由が保障されている。無論、保障されているのは「リンク」そのものであって、「リンクと表現のパッケージ」が無条件に保護されているわけではない。たいていリンクは表現に従属しているので、例えばH17.10. 6 知財高裁 平成17(ネ)10049 著作権 民事訴訟事件という判決により有限会社デジタルアライアンスが提供していたサービスは潰され、同サービスから新聞社へのリンクもまた消えてしまった。
将来的には「リンクの自由」だって一定の法規制を受ける可能性はある。リンクとセットになった表現ではなく、リンクそのものが場合によっては問題視されるかもしれないのだ。
「リンクの自由」を謳いつつ、「一定の配慮」を行う人々が多い理由のひとつとして、「配慮を欠く無断リンクをゴリ押しすると法規制へつながる可能性」も視野に入っているのではないか。常識がどうのこうのといいつつ、やはり不安があるのだと思う。
原則として殺人はダメだといいつつ、様々な例外を受け入れるのが多数派の考え方であった。リンクも同様に、原則として自由を謳いつつ、様々な例外規定を設けて規制していくのが多数派の感覚であるように思う。今のところ、それほど大きな被害事例がないので、法整備+法運用のコストに見合わないために放置されているだけなのではなかろうか。
「リンクの自由派」が戦略的に勇ましい発言を繰り返すことは理解できるが、危ない橋を渡っている可能性はあると思う。所詮、究極的に法に依拠して自由を訴えるような言説は、多数派によって法律を改正されたら窮地に追い込まれる他ない。
「無断リンク論争」を啓蒙活動と捉えている人々は、ときに暢気に過ぎる。寝た子を起こしてどうする、とハラハラさせられることもしばしばだ。「無断リンク論争」は価値観闘争の面が強い。事実を争うだけなら、「俺はリンクする。止められるものなら止めてみろ」これでオシマイなのだ。
僕は「リンクはしないで欲しい」という全ての意見を非難するわけではない。前述したように「言うのは勝手」だからです。その理由に同調できれば、リンクしない場合もあります。ただ、全ての人間に、自分の意見が支持されるわけではない、これはブログに限らず社会生活の基本だと思いますよ。「守られる前提で無断リンク禁止を叫ぶ人」というのは、一言で言えば「単なる世間知らず」です。
「無断リンク論争」が価値観闘争だと気付かず、単に事実として可能か不可能かを争点にしていていいのか。
「リンクの自由派」の泰斗、後藤斉先生の著名な解説だが、主要な結論が「べき論」から導かれている。したがって、後藤先生の価値観に共鳴しない人々が多数派になれば、リンクの自由の先行きは暗い。
でもね、この「自由」というものすら、徐々に失われていくような気がする。「学校」という組織が「子供」を洗脳しにかかっているから。
義務と権利云々は的外れだと思うので省略するが、「お友達とは仲良くしましょうね」といった洗脳、「授業中にメシを食うな」といった自由の抑圧は、既に大量に行われている。圧倒的な多数派が賛同するなら、洗脳も抑圧も有無をいわさず実行される。「自由を守るための制約」とは欺瞞に満ちた言葉であって、例えば平和な日常生活における「殺人の禁止」とは「殺人の自由」と「生きる自由」を比較して前者を軽視する価値観から導かれた制約に過ぎない。「殺人の自由」の方が大切だ、という価値観はありうるのだが、賛同者が少ないので多数派に抑圧されるわけである。
無断リンク問題は価値観闘争だ。事実を争う戦いではない以上、「客観的に正しい」答えはない。たまたま現在、法は無断リンクを許している。だがルールは「場」を支配する多数派が作るものだ。日本の法律は日本人が決める。日本の多数派が「無断リンクする奴は死刑!」というなら、そうなってしまうということだ。