これは、そういう話じゃないだろう、と思う。
妻 「赤ワインだと、私はメルロー(Merlot)が好きなんです。苦味が少なくて。」
自称ワイン通 「メルローはブレンドワインですよ。」
妻 「え、メルローって、ブドウの種類だとばかり思っていました。」
自称ワイン通 「違います。メルローはフランス語では『ブレンドしたワイン』という意味なんですよ。」この会話がどうも腑に落ちなかった私としては、そのパーティの後、近所のワイン専門店に行って真偽のほどを確かめずにはいられなかった。すると、やはりメルローはブドウの種類で、実際にフランス産のメルローワインも何本も置いてある。店の人によると、フランスではメルローは他のブドウから作ったワインとブレンドされることが多いらしいが、「メルローはブドウの種類」という私達の理解は正しいらしい(参照)。
その次の回のホームパーティの時、たまたま我が家がホストだったので、そのワイン専門店で買った「フランス産のメルロー」を含めた何本かのワインを出して皆で飲み比べをした。すると、「やはりメルローは苦味が少ない」、「僕はカベルネ・ソービニヨンの方が好きだな」などと、皆当然のように「メルローはブドウの種類」を前提として会話をしているではないか。と言う事は、その前のパーティにおける「自称ワイン通」氏の発言が誤りだと言う事は皆が気が付いていたのに、誰も指摘しなかったのである。
情報の正しさは、多くの場合、簡単にはわからない。もちろん、相手の肩書きから、その言葉を信用することはある(そうしないと、面倒くさすぎて生きづらい)。今回のケースでは、妙な主張をしたのが「自称」ワイン通だったから、誰も信じなかった。だが反論するだけの根拠をその場で提出できる人も、いなかった。
「信じるかどうか」と「反論するかどうか」のラインは、一致していない。信じないが、反論もしない、という領域がある。その領域の広さは、信じることと反論することとのリスクとコストによって決まる。今回の文脈においては、「信じる=同意する」「反論する=疑問を提起する」と読み替えてもよい。
子どもは不躾な指摘をガンガンするし、逆に「たぶん」程度の根拠で「間違い」を指摘されることも多い。これは大人の世界と異なっている。satoshi さんが提起された問題は、指摘される側の人格ではなく、指摘する側の文化をキーとして構造を考えると、見通しが開ける。
「間違いを指摘してもらえる大人」にならなければいけないとつくづく思う。
と satoshi さんはいう。「謙虚な大人になりたい」ということだろうか。
なるほど、自称ワイン通が、「私はワインについては初心者なんですけど、以前、メルローってのはフランス語でブレンドという意味だと聞いたんですよ。本当なんですかね~」と話していたら、「いや、それは間違いだと思いますよ」と指摘しやすかった可能性はある。かといって、本当は割と自信を持っていることについてまで、そのように腰の低い態度で主張していくのは、骨の折れることだ。現実的には限界がある。
逆に、自信満々で語っている人に対して、間違いを指摘する勇気を持つことも、単純には奨励できない。かつて「先生にも間違いがある。疑問・反論は大歓迎」と、多くの先生が語ってきた。真に受けた私は、本当に納得するまで一歩も引かずに戦うことを繰り返してきた。8割以上、私の負けである。おかげで先生方には可愛がられたが、他の生徒からは「授業妨害は放課後にやれよ」と冷笑されることが多かった。
目下の者、自分が御せる相手の生意気は、可愛い。対等の相手の生意気は、ムカつく。本来は目下の相手が制御不能の生意気ぶりを発揮すると、ぶっ殺したくなる。
自分の正しさが確実で、説得の材料も十分なら、よい。しかし確実な根拠を持たなかった satoshi さんが、疑問を口に出さなかったのは、少なくとも日本に生きる大人として当然の知恵だった。「たぶん違うと思う」程度の理由で、いちいち疑問を提出するような人は、嫌われる。謙虚さを欠くからだ。自称であれ、ワイン通はワイン通である。当人に、その自負がある。生意気なことは、控えた方が安全だ。
……そして、大人になると誰も間違いを指摘してくれなくなる
と satoshi さんは書いた。子どもの頃は、そうではなかったわけだ。それは何故か? と考えねばならない。
子どもの頃、私は大人が嫌いだった。ただ大人であるというだけで、よく勉強している私の主張を一笑に付すのだ。私はいちいち根拠を示して、大人をやっつけることを楽しみとした。先生方は、さすがに専門分野については、私より強かった。私の示す根拠は、どんどん粉砕された。そうして、私は先生方を尊敬するようにもなった。もちろん、その場の結論に反して先生方が間違っていたこともあり、私が周囲の大人たちに納得させた内容が大間違いだったこともある。真実の発見は難しい。
子どもは尊敬されない。だから、ただ歩くだけで拍手される。子どもは尊敬されない。だから、九九をいえるようになっただけでみんなが誉める。子どもは尊敬されない。だから、その発言は簡単には信用されない。これらは全て、つながっている。子どもが、大人からも子どもからも気軽に「間違い」を指摘されるのは、誰からも尊敬されていないからだ。
大人は大人同士を尊敬しあっている。だから、ある種の場面においては、「たぶん」では反論しないし、反論されない。この文化が消えたら、多くの人々は尊厳を傷つけられ、悲しい思いをすることになる。一昔前のお役所仕事を思い出したらよい。役人は市民をガキ扱いした。提出書類には当然、誤りがあるに違いない、という態度で接した。それで市民は感謝したか。
再会したワイン通が、また誤りを述べたなら、satoshi さんはその誤認識を指摘するだろう。だが、ワイン通の機先を制して「先日のあなたの説明は誤りでしたよ」などと話しかけることはない。それはトラブル回避策ではない。数日の間に相手が誤りに気付いた可能性の尊重であり、相手の知性に敬意を表することなのだ。
安心して「間違い」を指摘してもらえるよう、謙虚な人柄を志向すれば、自身はますます他人に指摘しづらくなる。塾や学校で子どもに接すれば、彼らの強情と生意気に驚くはずだ。彼らは素直さを摩滅させていくのではない。人格の成熟が彼らを謙虚にし、お互いを尊重する心を育てていくのだ。
「知ってたなら教えてよ」と思う場面は、たしかにある。だが、教師が生徒の誤字をいちいち指摘する熱心さがどこから生まれるか、想像するべきだ。大人は忘れているのかもしれないが、「間違い」の指摘ひとつひとつが幼心を傷つける。「間違えることは恥ではありません」その言葉は、無意味ではないが、無力に等しい。ましてや、教師の指摘の方が誤っていたら、どうなるか。それをよくわかっていながら、教師は生徒に蛮勇を奮う。どんどん「間違い」を指摘する。相手が子どもだから、許されている。
物事のよい面ばかりをつまみ食いしようとしても、うまくはいかないものである。都合のいい場面でばかり、間違いを指摘されることは難しい。(2005-12-08 改訂)
その他、補足記事がありますので、興味のある方はどうぞ。