趣味Web 小説 2006-01-14

お蔵だし:本田由紀さんとハイパー・メリトクラシー化

東大助教授である本田由紀さんの名前を初めて見たのは、はてなブックマークの人気上位に登場したインタビュー記事でした。通常であれば、そのまま忘却の彼方へ消えていくところですが、今度は加野瀬さんの記事と bewaad さんの記事に登場。短期間にこう立て続けに視界に入ってくると、さすがに気になる。

本田さんって何者なんだろ? と思って検索してみると、2ch のブログ論壇スレで話題になっていました。あと Amazon で著書が4冊出てくる。内、3冊が今年刊行。なるほど、本業でも今年ブレイクされたんですね。値段が高いので、いずれも業績欄に書けるような学術書なのでしょうね。

若者と仕事―「学校経由の就職」を超えて 女性の就業と親子関係―母親たちの階層戦略 多元化する「能力」と日本社会―ハイパー・メリトクラシー化のなかで

30代で著書4冊とは偉い先生だなーと思ったら、64年生まれとのこと。あれれ。業績も年齢も吉村作治さんがその昔にテレビ番組で吹聴なさっていた「教授になる条件」をクリアされているのですね。来年あたり、肩書きが教授に変わるのかも。

私の卒研指導教官(助教授)は、教授と年齢が近かったので他大学へ移って教授になりました。私にとって未踏の地である北陸へ行かれたので卒業と同時に疎遠になってしまったのですが、お名前で検索してみると、お元気にされているようで安心しました。

……という記事を昨年12月に書きました。追記したいことがあって、公開を見合わせていたのですが、とうとう一ヶ月経ってしまいました。相変わらず書けない。なので、予定と違う内容を追記して一区切りとします。

その間に頑張って「女性の就業と親子関係―母親たちの階層戦略」「多元化する「能力」と日本社会―ハイパー・メリトクラシー化のなかで」を読みましたが、問題意識を共有できない私には「データは面白い」としかいいようがなく……。とくに後者の提示するデータは、むしろ「本田さんがいかに小さな問題に拘泥しているか」を明らかにしているようにしか読めず、困惑しました。

あと、これはいっても詮無いことですが、「社会」を切り取るデータとその解釈は豊富なのに、「人」をきちんと追いかけるデータと視点が乏しい。80年代の小学生に取材したデータの解釈で本田さんは「昔はこうだった」という話をし、90年代の高校生に取材したデータを示して「最近はこうなっている」という。80年代の小学生=90年代の高校生なのだから、「社会」の変化だけでなく「人」の変化にも注目していいと思う。とはいえ、ひとつの研究を数十年にわたって引き継いでいく体制はなかなか作れないし、今、必要とされる過去のデータはもう手に入らない。であればせめて、データを分析する視点として、「人」に注目してほしい。

80年生まれの私は、幼少時よりずっと(外では)「お勉強ができる子よりも友達の多い子の方が立派なのよ」という教育を受け続け、いつも悲しく思っていたのでした。けれども、「友達が多い」ことは進学でも就職でもオマケに過ぎず、学力・能力がなければオマケだけ豪華でも希望は通らない。「誰にも誉められなくても、お勉強はしておきなさい」といった母は正しかった。本田さんは大学にいるので、「近代型能力」の存在を前提として、その先に思いが向かうのでしょうが、庶民にとって「ポスト近代型能力」とは「建前」の世界ではないか、というのが私の実感です。現状に不満を持つ者が、成功者を批判し、ガス抜きしたり、より低い境遇の者を攻撃して精神の安定を得るためのジョーカーカード、それが「ポスト近代型能力」なのであって、ハイパー・メリトクラシー化の実態なのではないかな……。

学者さんはいつも「世の中、変わった!」みたいなことをいう。そうだろうか。東野圭吾「白夜行」がテレビドラマになって再び注目されていますが、90年代の空気を捉えて絶賛された物語を牽引する2人の主人公は、1973年に小学生、つまり1960年代に生まれています。80年代に小学生で、90年代に高校生だった私が違和感を持ったのは、ハイパー・メリトクラシー化の「事例」がすべて、幼少時より目にしてきた日本の風景だったからです。「社会の関心」が移動しているだけで、私たちの生活実態はさして変化していないのではないか。言論空間が作り出すバーチャル社会の激しい変貌とは裏腹に、現実の社会を形作る人々の変化は乏しいのではないか。そして、本田さんの提示される様々なデータは、私の皮膚感覚を補強するものと思われたのでした。

先日、「2005年は非正規雇用者が約4%減少し、正規雇用者が約4%増加した」というニュースが流れました。産経新聞の報道では、失業者に対する教育支援制度などが失業対策が功を奏したということになっていましたが、多分、景気が回復し続ける限りは、基本的に雇用環境は改善されていくでしょう。失業者の「ポスト近代型能力」向上と当面の雇用回復にいったん因果関係が証明されたとしても、将来、再び失業率が上がったときに本田説は否定されると私は予想します。

……いや、そのときには「要求水準の上昇に能力が追いつかなくなっている」などと主張されるのかも。で、ウルトラ・ハイパー・メトリクラシー化なんて言葉を作ったりなんかして。現実がどう転んでも否定されない(しかも一定の支持を受け続ける)主張は、世の中に少なくない。空気を読んだ者勝ちなのか。

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