趣味Web 小説 2006-02-27

諦観をベースにささやかな希望を抱く

加野瀬さんのご意見への回答という形をとりつつ、麻草さんのご意見にも婉曲に反応します。

備忘録を書いて4年、普段どれだけ自分が他人の説得を諦めているかを、逆に実感させられることになりました。様々な意見交換に嘴を挟んでみて、自分の無力を散々思い知らされ、「なるほど、こういうわけだから、日頃たいていのことについて自分の意見を何も主張せずに暮らしているわけか」と。そう思って自分の行動を見つめなおすと、じつはウェブでも気になるテーマのほとんどについて何も語らず、ごく僅かな事例についてのみ意見を書いてきたことに気付かされます。

徳保さんの記事中の「映画」というのは、映像やら書籍やら音楽やら、人間の表現活動に置き換えられると考えられる。そうした表現活動が他人に与える影響はない、人は読みたいようにしか読まないんだという話だと読んだ。

徳保さんは岡田斗司夫氏の『ぼくたちの洗脳社会』を評価してる。だからこそ、自分が良いと思っている書籍のレビューをAmazonに投稿していると以前書いていた。しかし、今回の記事の主旨と、ちょっとした表現活動でも他人に影響を与えられる(書籍の中ではこれを「洗脳」と表現している」と主張している『ぼくたちの洗脳社会』は明らかに対立している。

徳保さんは、たまたま見かけた機会を使って「表現が他人に対して与える影響なんて微々たることを知っており、他人が変わることを期待していない俺は賢い」という優越感ゲームをやっているだけなんじゃ? ジャーゴンでいうと「猫知り顔」っぽい。

単純化すれば矛盾なのでしょうが、私はこう考えています。

私は表現が他者に全く影響を与えないとは主張していないし、逆に目覚しい影響があるとも主張していない。ウェブデザインにしたって、「きれいに見栄えを整えれば訪問者数が2倍、3倍、運がよければ10倍くらいにはなるかもしれない」と何度も解説しています。だから「見た目なんて全く無意味」という主張に出会えば「そんなことはない」というし、「見た目はすごく大事、とっても大事、何より大事」といった意見には「アクセスが10倍になっても大手サイトの足元にも及ばない。本当に大切なのは内容ですよ」と応える。

映画の力と馬鹿な大人(2006-02-26)でコメントアウトした内容と重なりますが、私の主張も所詮はグレーゾーンの中の線引きを問うているに過ぎません。

「映画」に全く他者への影響力がないという主張は確実に誤りですし、逆に例えば「ホテル・ルワンダ」を全世界の人が観賞しただけで争いがなくなるわけでもないことは明白。したがって両極端は否定されるわけですが、では「真ん中が正解ですか?」というと、そうカンタンじゃないよね、とはいえるでしょう。そして私は「映画の力」について、諦観をベースにささやかな希望を抱くのが望ましいスタンスだと主張したいわけです。

「諦観をベースにささやかな希望を抱く」という考え方は、徳保的世界観の基幹です。だから私は、「人間なんて、こんなものですよ。」といいつつよりよい生き方を希求するのですし、「HTML の思想なんて永遠に普及しないさ」といいつつ啓蒙活動をやめない。諦めていればこそ、少々のことでは挫けない。「想定内」といって歯を食いしばっていける。

世の中の主流は、大言壮語して、あるいは馬鹿でかい夢を見て、そこからエネルギーを取り出しささやかな結果を実現していくという生き方だと思います。大勢が、この思想に囚われて「小さな夢しか描けない自分」「夢のない自分」を卑下して、ダメだダメだと悩んで、可能性を見失っていると思う。

「人間なんて、こんなものですよ。」と認識する。それで、人生の全てに絶望できる? できない人が多いと思う。そうしてそこから一歩でも二歩でも前進できたなら、「やった! 一歩、私は前進した! できたんだ!」と希望を持てると思う。諦めることで、初めて見えてくるささやかな幸せがある。全身に湧いてくる力がある。打ち上げ花火は天才の生き方。大輪の花を咲かせれば大勢を幸せにするけれど、実際に打ち上げられる人はごく僅か。私はもっと多くの人々に、線香花火を勧めたい。

注:もちろん二者択一ではない。だからこれもまたバランスの問題。どちらを重視するかという話に過ぎない、とはいえます。

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