趣味Web 小説 2006-03-11

自戒の仕方

私の「連想」をメモっとく。

自省はいくらでもすればいいのだけれど、他人に向かって「われわれはよく反省して、自制に努めています」と表明するべきではないかもしれない。例えば元受刑者が、自ら進んで「私はかつて、悪いことをしました。今は反省しています。だから信用してください」と表明できるか? 少なくとも現代の日本社会では、それは難しい。内省は心に秘めておいた方が、安全だといえる。

「自分が加害者になる危険」と同様に、「自分が被害者になる危険」にも敏感であるべきだ。それが「虐殺」を減らすことにもつながる。

しかし実際のところ、安全のためと称していちいち発言を自粛するわけにもいかないので、ひとつの考え方として留意しておけばいいのではないかな。とりあえず、自戒を民族の反省にすりかえないことを心がけたい。「私は危険人物でしたが、今は反省しているので信用してください」と自己紹介するのは当人の勝手だとしても、「私たちは」といえば周囲に迷惑がかかる。

とはいうものの、これがまた、難しい注文なのではありますが。

私が思うに、日本人がほんとうに「自分が加害者になる危険」を意識しなければならないのは平常時ではなくて有事の際だ。アメリカにとっての9.11のように、大きな被害を受けたときなんだ。だから私たち(と敢えて書くよ!)は1995年を思い出さなければいけない。そして今、「麻原彰晃なんかさっさと死刑にしてしまえ!」と考えていないかどうか、自分の胸に聞かねばならない。

私たちが想像すべきことは、自分がどこまで傷つけられても冷静さを保つことができるか、なんだ。オウムに東京のど真ん中でサリンをまかれたからといって、元教祖の子どもの人権を否定して何になるだろう。そんなことで次のサリン事件を防げるのか。元信者の社会復帰も難題で、多くは経歴を隠して暮らしているという。直接には何のかかわりもなかった信者だって、厳しい差別の中で身を潜めて生きていかねばならない。命までは取らないからいいって?

そういうわけだから、私たちはまず、被害者になってはいけない。そして、被害に耐えて冷静さを保つ力を養う必要がある(しかし過去の数多の事例が、その困難を傍証している)。加害者になることをほんとうに恐れるならば、そういうことを、考えねばならない。

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