趣味Web 小説 2006-04-25

議会制民主主義のいいところ

泉あいさん、これだけテープ起こしするのはたいへんだったろうな。

松永さんはゲームのルールをよくご存知で、どうすれば「上がり」になるかもわかっていらっしゃる。そして、それが物理的に難しいことでないことも認識されている。大勢の人がいろいろなことをいっているのだけれども、何も全員のあらゆる要求に応える必要はない。そのことは、既に「上がり」となった人のたどった道を見れば明らかなのですね。

にもかかわらず、松永さんはこうおっしゃる。

松永 :全て否定しろということでしょ?「マインドコントロールされていました。アイツらに騙されてました。だから出てきました」と、私はそういう言い方ができないから。それは嘘だからね、流石にね。自分で好き好んで入って、でもそういう事件を起こすなんてことは予想してなくて、多少評判悪いってのは確かにあったけども、いろいろ言われるものだしなみたいな。

結局、自分に嘘をつく方が、いじめられるよりつらいのだ、と。思い悩んで死のうと思った話なども出てくる。嘘をついていじめを終らせるより死ぬ方が楽なら、これはもう仕方のないことなのだろう。

私はパナウェーブいじめもオウム信者いじめも「よくない」と主張してきました(「気持ち悪い」「不安だ」というだけで様々なレベルの攻撃をするべきではない)が、それで世の中がどう変わるものでもない。その意味で、「仕方ない」と。

私は R30 さんの主張に共感します。BigBang さんは、何でも個別に考えて、それぞれに全然違う結論を与えることを是とされるようですね。その非常に恣意的な判断の根拠は、素朴な「常識」即ち「場を支配する多数派の価値観」。直接民主主義が社会の理想像というわけか。

私は個別の事象に対する大衆の判断を信じていない。「常識」側に立つ連中は、すぐに「非常識」を脅迫するのだもの。「社会的に抹殺されるか、こちらの価値観を受け入れるか、二者択一だ」というわけ。議会制民主主義のいいところは、少数派も「国民に選ばれた存在」として尊重されることだと思う。

民主主義社会で、多数派の決めたルールに従うことと、自説を護持することは矛盾しない。採決は暫定的な結論を出しますが、意見対立はその後も続く。元日銀審議委員の中原伸之さんが委員会で何度1対8で自説を否定されても、粘り強く金融緩和を主張し続けたように。世界はあまりに複雑なので、直接民主主義では事実上、多数派の横暴・少数派の排撃という形でしか意見を集約できない、と私は認識しています。間接民主主義は、選挙といった「飛躍」により状況を整理し、その先の議論をいくらかでも理想的なものとする知恵です。

「議会制民主主義」とは、紛れもなく「多数をもって正義とする」政治制度なのである。とのご意見には、賛同しません。法治主義の民主主義社会は、多数派の主張をルールとして(当面)選択していく仕組みであり、多数派を「正義」とする仕組みではない、と私は認識しています。だからこそ現時点の少数派の主張にも(相対的な)「正義」はあることは否定されないし、今日の少数派は明日の多数派かもしれず、ルールは常に改定されうる。

……けれども、議会などと異なり、井戸端会議では「場を支配する多数派」の主張を(唯一無二の)「正義」と同一視する人が少なくない。なかなか民主主義の前提とする世界観は広まらないものだな、と。学級会で文化祭の出し物がお化け屋敷に決まったとする。反対者は、嫌々参加することになるが、役割分担をこなす段階まではルールだから守る他ない。ところが多数派はすぐに「不機嫌な表情をするのはやめろよ。もう決まったことなんだからさ」なんていいだす。そんなことまで、ルールにあるのか。ないだろう、と。ルールと価値観を混同しているから、多数決の勝利をどんどん拡大解釈してしまうのです。

少なくともこの数年、この人物をアルファブロガーとして奉じなければならなかった、この国のブロゴスフィアの悲劇を今心より嘆く。なんて BigBang さんはおっしゃるわけですが、例えばここに私のような R30 さんの主張に賛同する者がいるわけで、少数派にだって代表がいていいと私は思うわけです。非常識な主張をする人間がわずか数万人の支持を得るだけでこの国のブロゴスフィアの悲劇なんていいだす BigBang さんの感覚にはついていけない。

またことのは問題を「常識の圧制」として論じないとすれば、何を議論の基準にしたら良いのか。とのことですが、私なりの落としどころは、「多数派といえどもルール抜きの圧制は許されない。だってあなたも法治主義を是とされているのでしょう?」といったあたり。そしてルールの制定に一定のハードルが設けられているところに、この社会システムの妙味があると思う。

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