趣味Web 小説 2006-05-15

夢物語を実現しようとする mixi

物言うユーザの多数派にしたがってルールを恣意的に運用する mixi を批判する記事。

個人的には、mixi の運営方針は面白い、と思っている。自分にとって mixi は重要な場ではないので、ひとつの実験として、行き着くところまで突き進んでほしい。

たいていの組織はルールをある程度まで曖昧に運用していくのだけれど、問題が顕在化したときにはルールの厳格な適用を選択せざるをえないのがふつうである。それは痛みを伴うことなのだけれど、そうしなければ、決定的に重要な場面でルールを押し付けることができなくなるのではないか、との不安があるからだ。安全装置としての建前の世界、その権威を守りたいからだ。

しかしながら、こうした考え方は庶民の素朴な感覚として「本当にそうする他ないのかな?」と疑われてもきた。小説を見よ。映画を見よ。テレビドラマを見よ。そこでは、安全装置としてのルールを杓子定規に適用する人々が繰り返し悪役として描かれている。直感的に正解を見抜く力を持つ主人公は、不便なルールによって要らざる苦労を背負うことになる。観客は体制に怒り、主人公を応援する。

最近、驚いたのはテレビドラマ「奇跡の動物園」でペンギンの水槽の中を通る透明なアクリル製の通路を設計するシーンの描写。旭川は寒暖の差の激しい場所であり、アクリル製では強度に不安があると建設会社は説明する。「そこを何とか」「責任、取ってもらえますか?」「園長と相談します」「わかりました」こんな感じの会話があって、ゴーサインが出てしまう。ゴムでアクリルの伸縮を吸収するのだ、という説明はあったけれど、安全性をきちんと確保できたのかどうか、説明はなかった。

ペンギンが飛ぶ姿をみせたい、という夢は素晴らしい。無理だ、といわれたことを実現できたという話も、多くの人に希望を与えるものだとはいえる。でも、数年後、通路が壊れて死者でも出たらどうなるだろう。安直に賞賛した人々は、アッサリ手のひらを返すに決まっている。

とはいえ、mixi の運営は、基本的には命に関わるような話ではない。「失敗」が決定的なバッシングにはつながりにくい。大勢に嫌われる bot は排除し、そうでない bot は特例で認める、しかもそれを公式見解として打ち出してしまう、そんな運営でもうまくいくのかもしれない。

今後、同じように複数アカウントを持っているユーザーや、自動巡回ツールを用いているユーザーに対して、どのような姿勢でのぞめばよいのか。明かな規約違反者に対し、運営側がなんらかの対応を行うのは当然の権利だ。にもかかわらず、今回の特例によって、それができなくなる。仮に行ったとしても、警告を受けたものが今回の事件を知っていれば、「なぜ自分だけ?」と思うだろうし、仮にそのように抗議された場合、どのような理由が説明できるのか。

「あなたの排除を喜ぶ人が多く、悲しむ人が少ないからです」と断言するくらい、突き抜けてほしいと私は思う。杓子定規のルール適用にムカついてきた人々の理想を実現してゆく mixi の未来が明るいならば、所詮は夢物語とされてきた社会設計のありように現実味があることを示す、重要な事例となるはずだ。

……とまで書くのは大げさで、おばあちゃんが店番をしている下町の駄菓子屋みたいな緩さで日本最大の SNS が運営されている面白さ、のようなものか、実際は。

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