趣味Web 小説 2006-06-07

「フラット化」を自分に都合よく解釈する人々

責任を問うた者は、いずれみずからの責任も問われる。結局のところ、だれもアウトサイドに出ることはできない。アウトサイドに出ることができるのは、発言しない人たちだけなのだ。

インターネットのフラット化の果てには、まだ広大な地平が広がっているように思える。

私も意図的に韜晦に書くことがあるので人のことはいえないが、これ、意味不明。

「誰もアウトサイドに出ることができない」はぁ?

佐々木俊尚さんの発言を引用して finalvent さんが意味不明と感想を述べた、という状況。

私の解釈は、「発言」は何らかの価値体系を背景に持つため、あらゆる「発言」は価値体系の外側から簡単に攻撃されうる。ただしその批判もまた言語化された時点で拠って立つ価値体系が限定されてしまい、包括的な批判とはなりえない。したがって、「外側」で安閑としていられるのは「まだ言葉を発していない大勢の人々」という漠然とした存在だけなのではないか。……といったところ。

また責任を問うためには特定の価値観を奉じる必要がある。単に「こんな考え方もあるよ」と紹介するだけでなく、責任まで追及していくなら、発言者は特定の価値観と一蓮托生になります。

佐々木さんや、あるいは(もう少し素朴な感覚として)花岡信昭さんが疑問を感じているのは、どんな言説も価値体系の外側から批判されてしまうような世界ではあっても、しばしば大勢がひとつの方向でワッと糾合する話題があるということを、どう考えたらいいのか、という問題だと思う。炎上の現場を見て私が感じる違和感は、参加者の大半が自分の正義を確信していること。たまたまその「場」において自分たちが多数派となったのではなくて、自分たちがその「場」で多数派となっているのは当然だ、と考えている様子なのです。

世の中にどれほどたくさんの価値観があるにせよ、特定の問題について対処の選択肢は多くない。もっと書けば、価値観の多様性はパチワークのような仕組みによるものであって、特定の問題をどう考えるかについて、無限のバリエーションはない。ここに「場」を支配する多数派が登場する理由があります。しかしそもそもなぜ、自分の主張を相対化しない(できない)人が多いのか。

私がウェブを知ってから「そうだったのか!?」と驚いたのは、日本人にも頑固な人が多いこと。そうか、自分の考える正しさを貫いても失うものがないならば、ここまで突っ張るのか、と。

ふだん話し合いで自説をすぐに引っ込めてしまう人も、きっと心の中では「バカなくせに声ばかり大きいあいつにまたやられたっ! ムカつくっ!」とか思っているのだろうな。そして、何度そういった経験を積み重ねても、人は自説の相対化をしない。「私の(正しい)主張が通らないのは、おかしな連中が権益を牛耳っているからだ」と思い、会社員は上司の悪口を語り合い、高校生は親への不満を友人にこぼす。

インターネットのフラット化は「同じ土俵に上がることができる」という意味で歓迎されており、自分の「正しさ」がフラットな世界でもやっぱり否定されてしまう可能性を直視していない人が多い(ように見えます)。

ただ、自分が正しいと信じることをウェブで他人にガンガンぶつけ続けて3年余、ようやく私も少し丸くなったというか、他人を説得できるなんて思ってた自分は傲慢でした御免なさいという気持ちになってきました。ここまでやらなきゃ気付かないか、という感じ(私は特別にバカだったのかもしれませんが)。しかも「悟った」ところで個人としては何の利益もない。消極的に現状維持も「あり」なのかな、と思うときもあります。

正直なところ、私は finalvent さんの問いに回答するには力不足です。以下は背伸びを自覚しながら書きます。

私はこの備忘録でいつも浮ついた話をしています。価値を相対化しているお利口さんはオウム的なものから市民社会をどう守るのだろうか?という質問に強いて答えるなら、「法治主義に賛同する私としては、法の枠内でしか守れない、が答えです」となります。本気で言ってるの? と問い質されたら、「言葉遊びです」という他ない。けれども。

多数派によるルールの恣意的な運用が少数派にもたらす不幸を、私はこの備忘録で何度も書いてきました。なのに数年前、私はイラクに大量破壊兵器があると聞いて「怖いな」と思い、イラク戦争にあっさり賛成しています。かつては、成田で暗躍する左翼過激派をなぜ警察が叩き潰してくれないのか、と憤ってもいました。

私はぶっちゃけフラット化とかお利口さんみたいなことを言うのは、私たちの市民社会に関係ないポストモダンだったか無害なフィールドされれば関心ももたない。

いま私は、逆の感覚を強く持っているのです。痛みの感覚を黙殺し、生活から遊離した言葉を操る方が世界は良くなる、と。暴論と断って書きますが、仮に法の限界があの時、国家が機能していなかった原因だとしても、それは地に足の着いた信頼をベースとする社会が行き着くであろう悲劇と比較して、まだしもマシだったのではないか。そんなバカな! と怒る人、呆れる人は、当然いると思う。

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