(小説のあらすじ)
「つきあってください」という言葉は面白い。
何か、したいことがあって、それは一人ではできないことで、だから「つきあってほしい」のでしょう。とすると、「好き」と「つきあってほしい」は別問題なのだ。その人が好きで、何か喜ばせたくて、だから「(相手がしたいと思っていることに)つきあいたい」というならわかるけど。
「なー徳保的には誰が好き?」さっさと帰ればよかった、と後悔する瞬間。けれどもここで態度を豹変させて場を盛り下げるのも無責任かもしれない。嫌いな人の方が少ないので、適当に一人選んで「**さん」とか答えると、「じゃあさー、告っちゃおうよー、ねえー?」あああああ、面倒くさい! 悪気はないのだろう、この場へ私を呼んだのも、今けしかけているのも、親切心からに違いない。
「好きです、でも、とくに付き合ってほしいこととか一切ないんで、よろしく」
いったい何がどう、「よろしく」なんだろう、と自分でも思う。「嘘つくなよ~」とか頭をはたかれるけど、実際、もらった電話番号は帰り道の屑籠に捨ててしまうし、名前も翌朝には忘れてる。理解されたいとまでは思ってない。何かの冗談だとでも思ってもらえたら、それでいい。
切り捨てきれない人間関係の付き合いで私がここにいて、気苦労するのはいい。ただ、そこに他人を巻き込むのは、最小限にしたいんだ。
(小説のあらすじ)
メールをもらってもたいてい返事を書かないが、理由はひとつしかない。面倒だからだ。
電話が嫌いなのも、同じこと。勝手にかけてきたんなら、一方的に話したいことを話せばいいだろうに、こちらがわざわざ相槌を打ったりしなきゃ嫌だというのだから、電話は困るんだ。だからいつも留守電にしている。
他人様に「つきあう」のは、面倒くさ過ぎる。
私は毎日のように「寂しい」とかいってる人とはアタマの作りが違う。
「あなたさえいれば何とかかんとか」という歌詞は多いが、その「あなた」を必要としていないのが私なのだ。自分がしたいことと、相手がしたいことは違う。相手がどんな人か、全然理解していないのに、その人とつきあおうとするのは、不幸の元だと思う。
私は何も求めないのに、相手は面倒なことばかり要求する。私は、それなりに説明しているつもりなんだ。自分は面倒くさがりで、何もしたくないんだ、と。なのに、わかってくれないんだなあ。
「嫌いなら、そういえばいいのに!」
価値観の奴隷には、「嫌い」という解釈しかできないのか。
メールも電話も部屋に上がりこまれるのも、全部、うざったい。他人と関わるのは、面倒くさい。
電話の相手がほしければ、電話の相手をするのが好きな人に電話すればいい。メールに返事がほしいなら、返事を書いてくれる人にメールを出せばいい。休みの日に会いたいなら、会ってくれる人に声をかければいい。傍にいてほしいなら、いてくれる人を探せよ。
私に全部、自分の願望をぶつけてくれるな。
好きだった人が、そうしてあっという間に嫌いな人へ変わっていくのは悲しい。
もともと、眺めているだけで幸せだったなら、どうしてそのままでいてくれないのか。以前のあなたとなら、お互い幸せにやっていけたのに。
(小説のあらすじ)
「私は何でも話してる。だからあなたも隠し事はしないで」といいながら、こそこそと浮気。堂々とやっても私は怒らないのに。なぜ、できもしない約束をしたがるのだろう。
君は嘘をつくし、他に気になる人もいる。そんなことはわかっていて、それは単なる勢いだったかもしれないけれど「つきあうよ」といった。何かしてほしいことがあれば、私の心身が許す範囲内で協力する。できないことはできない。放っておいてほしいというなら願ったり叶ったりで、ずっと放っておく。何も問題ない。
ところが「あなたは私のことを愛していないから、そんなこと、平気でいえるのよ」だって。ドラマの台詞じゃないんだからさ、とげんなりする。
子どもはどれだけ親に嘘をつき、裏切り、悲しませるだろう。それでも親は子どもを見放さない。子どもは子どもで、ひどいことを散々してきたくせに、ぬけぬけと「お父さん、お母さん、大好き!」という。血のつながりなんてなくても、そうした親子愛は成立する。違うかい。男女関係は違うって? あ、そう。
いいよ、同意してくれなくても。わかってほしいともいわないよ。君の理想を演じることは、私にはできなかった。そうだね、最初にできもしないことを「する」といったのは私だった。
(小説のあらすじ)
メールが届いた。「**です。今度、東京へ行くので、ぜひお会いしたいです!」
返事を書く。たった一言「私は会いたくありません」……いくら「私に期待しないで」と書いていても、これはさすがに相手が怒った。
「都合が悪いので」とか適当なことを書いておくべきだったが、後の祭り。謝って、許されて、でも傷跡は残る。