趣味Web 小説 2006-12-07

徳保隆夫、いよいよ死に体か

たまに例外もあるけれど、たいていリンクやブックマークが集まるのは最初の問題提起。以降、異論・反論に応えていっても、どうも今ひとつ反応がない。それも当然か。主張の核心をひっくり返す場合を除けば、ようするに言葉足らずを補っているだけなのだから。

私の場合、立ち位置が決まるときにはスパッと収まることが多い。しばらくAさんとBさんの対話を眺めていて「どちらの主張にももやもや感があるなあ」と思っていたものが、Cさんのコメントを読んだ途端に「これだ!」と天啓を受ける。面白いのは、そうして定まった主張は必ずしもCさんに賛同するものではないこと。

このところ、私は異論・反論を黙殺することが多くなっている。自分の経験に照らし合わせてみても、いったんスタンスが明確になってしまうと、ちょっとやそっとのことでは動かない。安定してしまうのだ。過去の対話を思い出すに、これは私一人の傾向ではなさそうだ。

対話のパターンはだいたい決まっていて、お互いの意見の相違をまず確認し合い、続いて双方が相手に疑問をぶつけていく。分からず屋同士だと、回答がまた新たな疑問を生む循環が止まらないが、少なくとも一方が自分とは異なる価値観を理解する能力に長じていれば、双方が疲弊する前に対話は終る。滅多に結論は出ない。妥協にメリットがないのだから、当然であろう。相互理解の促進に成功したなら御の字と考えねばならない。

賛同者の大半は、核心の主張を提示した段階で味方になってくれる。政治ニュースなどに関心のある方なら、よくご承知のことと思う。反対の立場を明確にした政党の質問にどれほどていねいに答えても、法案への賛成票は増えない。態度保留とか態度未定の政党が相手なら、見込みがあるが。では国会の論戦とは何なのか。端的には、妥協ラインをめぐる攻防なのである。

で、私が対話をあまりしなくなった理由。

一言で書けば、対話そのものが面白い、という感覚が薄れてきてしまった。説得に成功する確率があまりに低いことは早々に気付いたが、その後は他人の意見を理解する楽しさがあった。ところが最近は頭が老人化して、すぐに全てを理解した気になってしまう。結論を必要としていない以上、これでは対話のコストを支払うスポンサーがいない。

他人の考えがスイスイ読める、という全能感は心地よい。錯覚なのはわかっているけど、具体的にどのように現実と異なっているのかを知るのは、あまり楽しい作業ではない。このままではいかんなあ、と思ってはいるのだが、努力の動機付けがなかなか難しい。

今の私を怠惰の泥沼から引きずり出せるのは怒りの感情だけか。くだらない(と思ってる)相手に罵倒されて「貴様なんかに!」とか。でも優越感は大いなる勘違いで返り討ちに遭う……と、そこまで予想して逃げ続ける先読み貧乏。いよいよ死に体か。

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