基本線としては「ごもっとも」。ただ、いろいろ留保はあります。
自分が好きなものを他人にも好きになってもらいたい、という欲求が(多くの)人には備わっていると思う。「つまらない」という人の話をよく聞いてみると、自分が「おもしろい」と思っている部分がうまく伝わっていない、あるいは食わず嫌いだったり。「考えが変わる可能性」を見出せるケースは、けっこうあります。
こうした体験の積み重ねがあるから、逆に自分が「つまらない」としか思えないのは、何かを知らないからではなかろうか、という予測も成り立つ。
私が評論を読んでから映画を見ることが多いのは、このため。初見ではつまらなかった映画が、評論を読んでから再見したら面白かった、という体験があるのです。少しひねって、貶し系の評論を読んだら、その筆者とは異なる観点から映画を見ようと心がけてみる。すると存外、楽しめることが多い。
そんなわけで、大勢が「楽しい」「おもしろい」といっているものについては、自分のファースト・インプレッションをあまり重視しないほうがいいかも。
モツ鍋がいくら流行ってたって、嫌いな人は嫌いでしょ。「モツ鍋嫌いな俺っておかしいのかな?」とか不安になる?そこまでいくと病気かもしれない。
単に自分が美味しいモツ鍋を知らないだけ、という可能性。料理の好き嫌いって、意外と乏しい体験に依拠していることが多い気がします。
子どもの食べ物の好き嫌いが減っていくのって、成長による変化が一番大きいのだろうけど、「家庭の外で食べてみたら美味しかった」というのもあるんじゃないかな。(自分自身を含め)家族の誰もがその料理をうまく作れなかったから、嫌いになっていたのです、という。