備忘録

平成19年9月26日

25日、安倍晋三さんが総理大臣を辞任した。政治家を引退するとの憶測もあったが、当面は国会議員を続けるという。

問題は、その先。仮に、ずっと国会議員を続ける場合、総理経験者の多くは、その後、評論家的な立ち位置をとるようになる。ただ、安倍さんはまだ53歳。別の道もありそうだが、さて……。

国会議員は、みなどこかの委員会のメンバーとなっている。

森喜朗/小泉純一郎→懲罰委員会

福田康夫(総理就任前)/安倍晋三(総理辞任後)→外交委員会

平成19年9月25日

コメント欄にて、本題と関係ないことで econ-econome さんと衝突。小さな話題ながら、これはこれで(私にとっては)面白いテーマなので、メモ。

econ-econome

私のエントリを紹介いただいてありがとうございます。ただ、masterに言いたいのですが、ご自身で批判的な論考を書かれるのであればせめて中身ぐらいはきちんと読んで(紹介して)かつご自身でまとめてから論評してください。

勿論ネットに上げている段階でどなたでも引用ないしは紹介の上で記事を書かれるのは結構ですし、それについて云々しても仕方ありませんが批判の対象になっている方々に対しても失礼です。

松尾先生の論文についてはそのような見方もあるのかなと思いますし、別にそのこと自体否定はしません。しかし、他の二点の論文については誤解されているのでは?と思います。そもそも本全体を論評されているのか、各論文を論評されているのかわかりません。

私自身に対しての批判でないからこそ余計に不愉快です。

徳保隆夫

私は econ-econome さんの「失礼」という主張には賛成しません。礼儀なんぞのために何度も車輪の再発明するのは労力の無駄。よくできている要約があるなら、みんなが自由に使えるほうがいいと思いますね。「不愉快」なのは事実そうなのでしょうが、所詮は感情の問題ともいえます。工業と同様、言論の世界もドンドン効率化していくべきですよ。

私も以前はこういうことを「失礼」と感じ、「不愉快」に思っていましたが、数年の努力の結果、持論と感情を同調させることに成功しました。econ-econome さんも挑戦されてはいかがです? 創造性のある仕事だけに注力できる世界、素晴らしいと思いません? イマの価値観に固執して非効率を擁護するのは不経済です。

econ-econome

>徳保さん

要約マンで恐縮ですが、こういったご発言を聞くと悲しいですね。内容を誤解?した上で引用されて愉快ですか?私はそうは思いません。あと人間は機械ではありません。

どのようにお感じになっても自由ですが、このような利用のされ方をすること自体、非効率な所業だと思います。

econ-econome

もうこれ以上ここに書き込みはしません(かつあなたに対して発言している訳ではありませんのでご容赦下さい)が、煽り耐性がない人間でしてこれだけは言わせてください。

>創造性のある仕事

これは要約マンは非創造的な話、bewaadさんのエントリは創造的な話ということでしょうか?

このように本当に思われているのでしょうか?だとすると、経済学に限らず世の中のサーベイと呼ばれているものに対して全く価値がない・非創造的な話になってしまいますが。私はそうは思いませんよ。

徳保隆夫

bewaad さんは econ-econome さんの要約には異論がないようですから、誤解があるとすればその解釈に限定されます。要約の引用という手法によって、ここまで問題は絞り込まれている。これのどこが非効率ですか。感情的反発に対応する手間を考えてさえ、効率的といっていいくらいです。感情面の問題がなければ、圧倒的な高効率ですよ。人間、そう簡単に変わるものではありませんが、少しずつ言論の効率化に資する方向へ価値観をシフトしていった方がいい、私はそういうことをいっているんです。

徳保隆夫

レスを書いている間にまたレスがあったので、もうひとつ書きますが、同意できる要約が既にあるのに、なぜ自分で作り直さにゃならないのですか。それを非創造的な仕事だといっているんです。ただし、文章には様々な解釈がありうる。だから同じ文章に同意しながら、言ってることが全然違う二人、というのはありえるわけ。こういう場合、長い原文より同意の取れている短い要約を元に議論した方が、ずっと「誤解」のポイントを抽出するのは簡単なのです。

econ-econome

別に私は徳保さんにコメントしているわけではないのですが・・。ここで要約の引用について講釈いただかなくても結構です。

bewaadさんのエントリを読んでいただきたいのですが、このエントリは私が要約した記事をリンクしていただかなくても成立する話です。

文章中で私の記事が引用されている箇所は2箇所ですが、浜田先生の箇所については私の要約もほぼ原文どおりです。もう一箇所は浅田先生の論文の箇所ですが、これは私以上に一言で要約されていますので別に私の要約は必要ないでしょう(笑)。少なくとも私にはこのように読めてしまうわけです。

私はこれらの論文を好意的に紹介しています。その紹介が違うと言われるのであれば結構ですが、bewaadさんはそういう話を書いていないと思います。これはエントリの題名からも明らかです。

本を読まれていない方のためにリンクしていると仰ると思いますが、好意的に紹介している要約をご覧になった上でbewaadさんのエントリをご覧になった方はどう思うのでしょうか。このエントリでは私が作成した要約を使わずして成立すると思われる話を書かれているにも関わらずです。だから失礼だと言っているのですよ。

余談

1.

私だって別に econ-econome さん一人に読ませたくて書いてるわけじゃないので、econ-econome さんが「結構です」といったって、econ-econome さんの主張への対抗言論を、同じくらい目立つ大きさで書きたいわけですよ。コメント欄の読者を対象とした洗脳合戦と私は認識してますので。

econ-econome さんが徳保説に納得してくれたらそれは嬉しいわけだけど、そこまでは望んでいない。他の読者の幾人かが「なるほどね」と思ってくれたなら、講釈を書いた価値はあると思う。

こういうのって、何となく最後に書いた側に優勢感が漂うことが多い。単に同じ主張の繰り返しであっても、「相手はあれこれいったが、それでもなお」という文脈上の意味を持ってくるしね。まあ現状、私の主張は少数派でしょうし、どうせ負け戦、退却することに。

2.

もうこれ以上ここに書き込みはしませんと書いた後で、何か書きたくなるのは、よくあること。かつて私も、この自縄自縛に何度も苦しめられました。だからなるべくそういうことはいわないようにしようと心がけてはいますが、ついつい書いてしまいます。

どうしてでしょうね。「背水の陣」みたいなものか。自分に活を入れるためのフレーズ。

3.

大勢が同意する要約を作るという仕事は非常に多くの価値を創造する。ところが、要約した人と異なる解釈する人に対して、「あなたは私といってることが違う。私の要約を使うな」というのは、せっかくの高い価値を自ら削ることになる。異解釈の持ち主と対話するたび、長大で(議論の内容に比して)抽象度の低過ぎる原文をベースにするなんて、無駄もいいところ。相手が自分の作った要約文に同意しているなら、その要約文をベースに議論した方が楽に決まっている。相手も自分も得をする。それが要約文が生み出した価値(の少なからぬ部分)なんだ。

こんな文章も、書いていた。こういう、あちこちのコメント欄に投稿しようと思って投稿しなかった文章というのは、たくさんあります。そのほとんどはすぐに消してしまいますが、一度はエディタに下書きしたもの。ときどき、消すのが惜しくなって備忘録で再利用することも。

4.

今回の話題について、仮に私のレベルで考えてみると。

econ-econome さんは原文の中に要約に相当する箇所があるので、それを引用すればいいじゃないか、という。でも、コピペと比べてそれは面倒だ。私が bewaad さんが今回お書きになったような記事を書くなら、まずそういった理由で、econ-econome さんの要約を使いたいな、と考えます。

これだって立派な省力化。無駄を省いて言論の効率を向上させる考え方でしょう。現状では、なかなかここまでは許容されないような感じはしますが。(注:転載自由を謳う私の文章なら当然OK)

5.

econ-econome さんは結局、当初の失礼説を単に繰り返していて、私の主張はスルーされている。でも文脈上は、私の説を否定したということになるでしょうね。

私は現に econ-econome さんが「不愉快」に感じていることは否定しないが、頑張れば「不愉快」に思わなくなることが可能であって、そのような世界の方が素晴らしいのだから、今そこにある「不愉快」を肯定し温存するのは間違いだと主張している。それは克服すべき感情だ、と。

割とこういう、快不快にまつわる心の動きは「変えられない」と思い込んでいる人が多い。そうして選択肢の幅を狭めちゃうう。もったいない。

6.

単に bewaad さんの引用を止めたいなら、「著作権法の引用の要件を満たしていませんよ」といえば一発。

econ-econome さんがそういうことをいいたいんじゃないのはわかりますがね、仮に「失礼」や「不愉快」が重大問題なら、いろいろ対処法はあるわけです。

7.

ていうか、econ-econome さん、私の主張自体はスルー(それはもちろん自由)。結局、失礼だからダメ、と繰り返してる。

私が

平成19年9月5日

7月、母方の祖母が癌の手術をした。右まぶたの皮膚癌で、眼球も一緒に取ってしまうという。左にも転移していた場合、もはや手術はできず、先は長くない、とのことだった。

祖母は私が産まれたとき、先生や看護婦さんを除けば、最初に私を抱き上げてくれた人だ。難産で疲労困憊した母は、半日くらい私を抱くことができなかった。いてもたってもいられず、7年ぶりに祖母に会いに行った。

なんだかんだで転移も見つからず、手術も成功し……となった。

久々に伯父や伯母と話をする中で、収入の話題になった。驚いたことには、なんと一族の稼ぎ頭は祖母なのだった。何とか年金と軍人恩給の遺族分と、あと何だったかの扶養家族分とやらで、月収35万円。引退した伯父らはともかく、もうすぐ定年の父より多いとは。(注:ボーナス込みなら30代の従兄弟が一番の高給取り)

で、「おばあちゃんの収入がなくなっちゃったら、家計はどうなるんだろう」とか話してた。おいおいおいおいおい。面白いなあ。

平成19年9月5日

はてなダイアリーで羅列型ニュースサイトを運営すると、はてなブックマークの「このエントリーを含む日記」にサイト名がよく載ることになる。

この備忘録の読者にははてなダイアリーの利用者が多いらしくて、はてなダイアリーのシェアから考えると異様なくらい、はてなダイアリーからの言及は多い。……というのは錯覚かもしれない。アクセス解析のリンク元一覧で「端数」として非表示になっている日記を、「含む日記」経由で知ることがよくあるから。

じつはゴリラブーツも、その「端数」のひとつ。たいてい「端数」になっちゃうところって、年1回未満の言及頻度なんですが、ゴリラブーツさんはもうちょっと高頻度でリンクしてくれるので、印象に残っています。

先日、ゴリラブーツさんは SPAM かどうか、というテーマが一部で盛り上がっていました。私が思うに、もうちょっと人気があれば、SPAM だなんていわれないのではないか。私の個人的な感覚なんですが、リンクだけされてもあまり面白くないんだけど、人がたくさん来るなら話は別、だったりするのです。

なので、「あ、含む日記が増えてる!」と思ってよく見たらゴリラブーツ、というときに、正直ガッカリ感があるのは否めません。SPAM という言葉の主な使われ方からすると、ゴリラブーツさんは SPAM じゃないんだろうけど、このガッカリ感を表現するうまい言葉がないので、SPAM といいたくなる人の感覚はわかります。

ちなみに、年1回未満のリンク頻度なら、リンクだけ+零細でも気になりません。「読者層の広がり」感が得られるからだと思う。

あまりこういうことは書かないのですが、ゴリラブーツさんは強そうなので、甘えさせていただきました。

平成19年9月4日

こういうことをいう人にお節介の自覚があるなら、こちらも聞き流せばいい。

そうじゃないと厄介なんだよな……。

この分類でいうと、私の行動規範のベースにある心性は「ネガティブ闘わない系」だと思う。ただ、世の中は闘いに勝つことで客観的条件がよくなっていくようにできてるみたいなので、得意分野を見定め一撃離脱で最小限の闘いを行い、生活環境を整えていく、という感じかな。

で今は、得意分野の見当たらない職場で何年も待ちの態勢。ずるずる沈んでいってるけど、勝負には出ないよ。

平成19年9月4日

どうしてこういう、転載されて怒るような人の文章を持っていくのかね。ま、気に入った文章の作者が転載OKといってるなんてレアケースだから仕方ないんだろうけど。

当サイトの文章は「盗用」OKなんで、どしどしご利用ください。

ていうか、下手に「転載」されるより、著作者名を詐称して「盗用」してくれた方がいい。とくに、一部でも改変した場合はね。

それにしても、何年間も盗用大歓迎と言い続けてるのに、見知らぬ誰かがそっと盗用してくれてたという事例をひとつも知らない。「盗用された!」って怒ってる人を見ると、もう羨ましくって仕方がない。私の文章、そんなに属人的ですかね。面白いとは思っても、共感はしないってか?

以前もどこかで書いたことだけど

「これってまさに俺がいいたかったことだよ!」という文章があるなら、いちいち自分の下手な言葉で書き直す必要のない世界がいい。今日の気分を iPod に入れる曲目で表現するように、あるいは服装をコーディネートするように、日記だって心に響く言葉の取り合わせで十分なんじゃないか。

他人が作曲して作詞して歌っている音楽で、私たちは満足している。他人がデザインして縫製した服で、私たちは満足している。選択で個性は表現できる。日記だって、いちいち自分で文章を書くなんて、重くない? リンクだけじゃ嫌だよね。原作者が勝手に消したり、書き換えたりする。それに全部じゃなくて一部だけほしい、ってことも多い。やっぱり、転載したいよね。

くたばれ著作権! いやまあ、くたばらなくてもいいけど、ブロガーたちは1記事1円くらいで盗用を許諾したらいいと思う。iTunes が1曲99セントでしたっけ? 素人のブログは1記事1円くらいが相場でしょ。

待て待て、音楽や服は「盗用」してないだろ、って? まあそうなんだけど、人に会うたびいちいち「この服、俺がデザインしたんじゃないよ」とかいわないよね。日記だって、盗用が当たり前になれば、いちいち「この文章、俺が書いたんじゃないよ」とかいわなくて済むようになると思う。

逆リンク!

平成19年9月4日

なるべく、そういうことはしないようにしているつもり。

ただ、その逆の方は意識的にやってます。「先生」を「さん」付けで呼ぶ、という。

大人気ないですね。

平成19年9月4日

「理想のブログ」に思う(2007-07-18)の後日談、みたいな。

8月初め、日暮里駅を利用する機会があったので、噂の修悦体を見てきました。そのとき、アレッ!? と思うことがありました。

日暮里駅01

日暮里駅02

日暮里駅03

日暮里駅04

修悦体をフィーチャーする様々な写真と、何かが違うような感じがしませんか? そうなんです、佐藤修悦さんのテープ文字は、たくさんある案内標識の一部でしかない。日暮里駅の修悦体は、プリンター出力の文字に埋もれた形で存在しています。

君は修悦体を知っているか(Yasuhiro Tsuchiya さん)では暫定的に、必要にかられて、テープをつかって、まさにブリコラージュによってつくられたタイポグラフィと紹介されているのですが、テープを使う必然性はなさそう。もちろん、修悦体のパッと目に飛び込んでくるキャッチーさ、面白さは格別です。けれども、修悦体がなければないで、日暮里駅の利用者は困りそうにない。

佐藤さんのインタビューによると、当初は案内標識が不出来または数量・大きさが不十分で、音声による案内を行っていたが、埒が明かない。それで自ら案内標識を作った、と。テープを使ったのは、それが佐藤さんの自由になる道具だったから。プリンターを自在に使える立場・状況なら、修悦体は誕生しなかったろう。

テープ文字はサイズ自在、床面利用も簡単、といった利点がある一方、複製・移動・交換・修正が困難で、大量のマンパワーを消費する欠点も持つ。総合するに、プリンター出力が時代の趨勢ではあると思う。

修悦体は、テープ文字の利点に美しさ、面白さをプラスした。しかし(今後はわからないが)これまで修悦体はカネにならなかった。それは日本がまだ、使い捨ての案内標識の美観に人件費を注ぎ込めるほど豊かではないためなのか、それとも……?

とまれ、実用の道具という修悦体の出自から、これを「日本のものづくりの底力」などと持ち上げるのは、少し違うような感じはしました。

私自身、何度も佐藤さんのフォントは新宿駅で目撃し、その美しさに心を惹かれながらも制作者が誰であるかとか、作品がどのような背景を持っているのかとかを考えたことはなかった。

今回の佐藤さんの作品をアートたらしめたのは、トリオフォーという集団の発見力でありプロデュース力であるのは間違いない。

言葉の定義の問題に過ぎないといえばその通りですが、アートは誰も発見しなくたってアートなのかもしれない。ただ少なくとも、修悦体がこれだけ話題になって、イベントに人が押しかけるという小さな現象が生じたのは、トリオフォーの快挙だと思う。

オマケ

日暮里経由で行ったところの写真。人影は両親。

茨城の風車01

茨城の風車02

路傍の花

青いどーもくん