何度でも同じことを書きますが……。
たとえ話は、共通点に着目して読み解くもの。AとBが違うのは当たり前であり、なぜAをBで例えたか、話者が何を共通項と捉え、両者に同様の判断を下しているのかを、素直に受け止めるべき。賛成でも反対でもいい。だけど、まず話を聞こうよ。
たとえ話Bの例であれば、話者に賛成。でも本題Aには反対。それはいい。だけど、「だから、そのたとえ話はおかしい」と続けるから、「おかしくないよっ!」ということになる。
AとBは違うもの。違うのだから、相違点をあげつらうことは簡単。でも、AとBは別物なので、BがこうだからといってAも同様とはいえない、という理屈を押し通すと、たとえ話はどんな場面でも使えないことになってしまう。
さらにいえば、AとかBといったグループ名自体、使えなくなってしまう。ひとつひとつ個別具体的な事情があるのに、まとめて扱うのはおかしいとか何とか。ちょくちょく見かけますよね、そういう意見。
これをいうとブーメランになるからアレなんだけど、「おかしい」というから無用の軋轢を生む。一方が正しく、他方が間違っている、という構図を描くから、望まぬ衝突を招く(いや、望んでいる人もいるのかもしれないが、多くの人は他者と意見がぶつかったときイライラ・不愉快な思いをするだろう)。
そうじゃなくて、価値観・世界観の違いゆえに意見が異なっている、と。「間違い」や「悪」なら正すべきだが、「違い」なら理解して適切な距離の取り方を考えていけばいい。
繰り返しますけど、AとBは違うものだ、なんてことはお互いに分かりきっていること。AとBが同じものなら、たとえ話じゃなくて事例そのものでしょう。たとえ話だといっている相手にAとBの違いを滔々と講釈するのは「間違い」を正す行為ではなく、AとBの違いを俺は重視している、というあなたの主張に他ならない。
これは読む側だけじゃなくて書く側についてもいえること。「説得」を目指さない。自説への「理解を求める」のみ、とする。
とはいえ、やっぱり特定個人の理解を得ることは難しい。自分を説得しようと頑張ってる人に自説を理解してもらえることは、まずない。だからコメント欄などで消耗するのは非効率。不特定多数に向けてブログの記事を書く方がいい。
コメント欄より記事本文の方が読者数は多いので、どうしても応答したいならコメントを引用して本文で返事するのがいいと思う。同じ労力で、より多くの人に自分の意見を理解してもらいたいと考えるなら。(効率なんかどうでもいい、というなら、まあご自由に……)
このところ、具体例を何も示さずに意見を書くことが増えてます。これはこれで誤解を生むのだけれど、リンク先について何か書くと、リンク先の人を説得したいと企図している、と勘違いされる方がリスク×コストの値が大きいかな、と。
かつてはたしかに、かなり説得の意図があったりした。でも、思うようにはいかない。逆もまた然りで、私もまた、ほとんど説得されなかったんだよね。お互いに「何だアイツは」「わからず屋」「バカじゃないのか」くらいに思って不愉快にやり取りは終息(息切れ)する。
そんなこんなで、不特定多数に向けた情報発信という意図が、いつの間にか文章を書く理由の大きな割合になっていた。こうなってくると、誰かの意見に反論を書いて、当人からレスポンスがあっても「面倒くさい」だけ。無視するのだって精神的なコストがかかりますから。
こちらが誤解している、というなら話を聞きますよ。だけど、誤解がなければ私の意見に賛成するはずだ、というギラギラがオマケにくっついてることが多い。自分が反論を書くときを思い出してもそう。お互い様なんだけど、こういうのに取り込まれていっても、利益になることは少ない。
だけど、面倒くさい、面倒くさいと思っていても、いざ面と向かうと、抗いがたい誘惑を覚える。危ないから、そういうシチュエーションがなるべく生じにくい形で、しかし書きたいことは書いて……というあたりのせめぎあいがあるわけ。
いいや、もう書くのやめた。となると、更新が止まる。ずーっと止まってればいいのに、と思ってる人もいるでしょうね。