趣味Web 小説 2008-04-28

長野の聖火リレーが大過なく終って一安心

思想によって行動を制限されるのは、しばしばあること。

高校野球の応援に行くのはいいけど、相手側のスタンドで母校の団扇をパタパタしつつ、チームカラーのメガホンを叩いていたら係員に移動を指示されたことがある。父兄・一般席で、周囲がおとなしかったので、鈍感な私が勘違いに気付かなかったというだけの話なんで、「や、どうもすみません」と場所を移った。

サッカーの試合なんかでも、そういうことあるよね。

あと、主張の正しさは手段を(ごくごく抑制されたレベルまでしか)正当化しない、リスクの所在を批判の相手に転化し得ない、と思う。長野聖火リレーの例でいえば、世間が注視する場を絶好のアピール機会と捉えたチベット応援側に聖火リレー妨害のリスクが偏在していたので、彼らを遠ざけたのは自然な判断。

以前も書いたことだが、朝日新聞の批判を朝日の紙面上でやりたいと思っても、まず許可されない。それを言論の自由が侵害されたと難詰するのは偏狭というべきで、WWWとかチラシとか街頭演説とか、他のいろいろな手段が制限されていないのだから、いいじゃないか、と。

中国バンザイも Free Tibet! も、警察の誘導の結果、それぞれの場所で好きなだけ声を張り上げることができた。民主国家日本の面目躍如だったと思うのだが、どうか。

この記事に示されているような状況認識に(かなり)共感。「正しい」主張は無条件で最高の発表場所が与えられるべきだ、といった主張には与しない

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