趣味Web 小説 2008-04-30

北野武さんでも自分のキャラクターを周知徹底できない

「お前がいうな」が散見される。擁護派も、「たしかに矛盾してるけど」の但し書きつき。

違うと思うんだよね。だって北野武さんは、いろいろなインタビューや著書の中で、自分はもうお笑い芸人としてはダメだ、っていってるんだもの。

余生

この「余生」という自伝がいちばんわかりやすいと思うんだけど、北野さんは「おれたちひょうきん族」の時点で、既にお笑い芸人として半分降りている。そんなことは番組を見てればわかっただろう、といっている。それでいて「テレビ特捜部」とかで脈略のないかぶりものをしちゃう現状を自嘲気味に語ってもいる。

ビートたけしがつまらないことは百も承知で、だから別の方向性を探って頑張って生き残りを図っていて、しかし嫌なことはするつもりがなく、好きなことを我慢もしない。ようするに身勝手なんだけど、それもまた自覚はありますよ、という。

北野さんにとって「お前がいうな」は折込済み。本で何を書いても、読まれない。何万人かは読むのだろうけど、1億人が読むことはない。だから、説明済みのことを何回でも批判される。「余生」は、そんな諦観も伺える本だった。ていうか、北野さんの映画や本には、いつも「伝わらなさ」への諦めがある。

……と、私は思う。

いやね、説明を聞いてもやっぱり「お前がいうな」かもしれない。だけど、こうした文脈を踏まえているかどうかで、違ってくるものがあるはず。

もっとも、逆に萩本欽一さんにだって言い分はあるに違いない。しかし私は何も知らない。

北野武、萩本欽一ほどの有名人であっても、自分が「お笑い芸人」であることを生き方の優先順位リストのどのあたりに置いているのか、という程度のことさえ周知徹底できない、という事実は重い。みんな自分のことなんか何も知らないのにイメージで好き勝手に批判する。そういうものなんだ。

補記

人生が楽しくなる気持ちのいい日本語 (ゴマ文庫) 人生にはチャンスが三度ある―成功する人の演出力 快話術―誰とでも心が通う日本語のしゃべり方

こうして萩本さんの著書を並べてみると、北野さんとはお笑い観がかなり違うみたい。他にも「欽ちゃんの愛の世界45―一日一語で幸せづくり」なんて著書もあります。

萩本さん的には、お笑いは愛と幸せを実現する手段だから、マラソンや野球監督でも代替できる、ということかな。人を笑顔にするものは何でも「お笑い」と定義するなら、欽ちゃんのタレント活動は全て「お笑い」の範疇、インチキではない。

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