趣味Web 小説 2008-05-07

何を「検証すべき」なのだろうか

簡潔に書いたのですぐに読めると思いますが、さらに要約すれば、桓武天皇陵がどこにあるのかは諸説があるんだけれど、有力な説に豊臣秀吉の伏見城築城の際に削平されてしまったというのがある。その桓武天皇陵があったと考えられる場所と、

① 桓武天皇の祖父である春日宮天皇(志貴皇子)陵墓と、祖母の春日宮天皇妃陵の三点は一つの直線で結ぶことができる。

② 桓武天皇の曽祖父(春日宮天皇の父)である天智天皇陵と、桓武により国家鎮護の道場とされた比叡山延暦寺根本中堂の三点は一つの直線で結ぶことができる。

というものです。

私は歴史には詳しくない。ただ、この手の地図に線を引いて場所を特定する方法論には疑問を感じる。

建物の場所やお墓の場所を決める際に、地図に線を引いて決定するという風習が、日本にあるようには思えないからだ。

あるいはせめて「伏見城から先祖の墓を一望できる」なら心理的に納得もできる。しかし伏見城からは志貴皇子の墓は山の向こうで見えない。春日宮天皇妃陵はなおさらだ。そしてじつは、近所にある天智天皇陵も、見えない。となると、素人の直感レベルの話で申し訳ないけど、ピンとこない。

仮に伏見城建設時に破壊されたとする桃山説が「正解」だったとしても、「偶然」では? と思う。祖父母といっても母方、父方があるし、両親のお墓はどうでもいいのか、というのも疑問。

桓武天皇の墓だけが、こういう特別な場所にあるのか。他の人の墓についても、こうした説明が可能なのか。桓武天皇が何かを建設する際、精神的に関連する事跡との地理的な相対関係に意を払う人物だったという傍証があるのか。

頓馬な鮟鱇さんは「検証する価値がある」と仰る。私もそう思う。だが、何を検証すべきなのか。それは、伏見城を掘り返して埋葬品を探すようなことではなくて、地図に線を引いて建設予定地を決定するという発想が桓武天皇の時代にあったのかどうか、ではないか。

現在のように地図技術が発達した時代であっても、「レイライン」で場所を決めたりはしない。諸事情を鑑みて場所を決定してから、後付けで地図に線を引いてみたりするだけ。違うだろうか?

天皇の権力を持ってすれば多少のことは問題ではなくなるから、呪術的な建設地決定プロセスは十分に正当化されたはずである、とするなら、天皇の権力がそれほどまでに強かったことの証明が必要だろう。そもそも伏見城の近辺って、当時は誰の所有地で、どんな利用・管理がなされていたのか。

私はやっぱり、人々を納得させられない提案は天皇でも通せなかったと思うから、仮に「レイライン」云々も位置決定の一要因としてあったにせよ、所詮は二の次、三の次の条件でしかなかったろう、と考える。したがって、「レイライン」から所在不明の墓の位置を突き止めようとする試みには期待できない。

頓馬な鮟鱇さんの引いた線と、既存の桃山説とは、少しズレているそうだ。桃山説では、自然の丘陵を少し整えて墳墓とした、と推定しているらしい。とすると、ピッタリ線上にある山の形がイマイチだったので、桃山説の丘に決めた、のかもしれない。そんなものじゃないのか、と思うのだがどうか。

追記

今のところ、文書史料にレイラインがずばり登場し、A地点とB地点の延長上にCを建造した、と記されている事例はない、と。その上で、できる限り、議論に耐えうる形でレイライン存在の「確からしさ」を高めていきたい、というお話なんですね。

個人的にはやっぱり、直感的に「どうなんだろう」と思ってしまうのだけれど、かといって「ありえない」とも思ってはいません。今後も頓馬な鮟鱇さんの仮説を興味深く読ませていただきたいです。

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